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中編まで書いておいて三ヶ月近くも放置するという、まさかの大失態をやらかし、
読者のみなさまには、大変ご迷惑をおかけしております…。
さて。
前回は(といっても昔のことすぎて覚えていない方がほとんどだと思うが…)、
かなりお堅い話をしてしまった、というより、
正直、自分以外の誰にも得になりそうもない話をしてしまった、と猛省。
最終回となる今回は、もうちょっと柔らかい話、
東ブータンのおすすめ観光スポットをご紹介していこうと思う。
東は筆者にとっても初訪問ということで、当地の大学での用事を早々に片付けて、
あとは観光、と考えていたのだが、本当に思いの外早く、用事が片付いてしまった。
というか、日本に持ち帰らなければならない案件ができてしまい、
それ以上、ここにいても何も進まなくなってしまった、と言ったほうが正しい。
というわけで、割と本格的に、東ブータンの観光地巡りをすることと相成った。
そもそも。
読者の大半が、ブータン自体に足を踏み入れたことの無い方ばかりだと思うので、
いきなり、東ブータン、といっても何のこっちゃか分からないかもしれない。
少しばかり、ブータンの西と東と違いについてお話ししておきたい。
とはいえ、先にお断りしておくが、その筋の専門家ではないため、
ここを見ているブータン関係者で、「それは違う!」とお気付きの点があれば、
なるべくボロが出ないうちに、早めにご指摘をいただきたい。
西と東の違い、それは一言で言えば、文化の違い、ということになる。
が、それだけでは、身も蓋も無いので、もう少し説明すると、
西ブータンは、首都ティンプーや国際空港のあるパロを擁する、
ブータンの中では比較的早い段階から近代化が進んだエリアだ。
一方の東はというと、西ブータンから、山を越え、谷を越えて、
車で丸二日間かけてようやく辿り着く、ブータンの中でも比較的未開の地である。
そういった環境が文化に与える影響ももちろん大きいのだが、
一番の違いは、やはり、民族、そして、言語の違い、に象徴される。
東ブータンに住むのは、主にツァンラ(シャチョッパともいう)と呼ばれる民族で、
彼らは、ブータンが、チベット文化の影響を受ける以前から当地に住んでいた、
いわゆる先住民族である。
また、ツァンラ以外にも、多くの少数民族が住んでおり、
一つ峠を越えれば、違う民族が住み、違う言語を話す、という場所も珍しくない。
現在、ブータンで広く話されている言語は、ゾンカと呼ばれており、
チベット語に近い言葉。
一方、ツァンラの人々が話す言語は、ツァンラカ(シャチョップカ)と呼ばれ、
東ブータンでは、ほとんどの地域で、このツァンラカがゾンカよりも通じる。
学校では、英語とゾンカを学び、家庭ではツァンラカを話す、といったように、
この地域の子供たちは、齢10歳に満たないうちから3ヶ国語を使いこなしている。
さて、まずはそんな東ブータンで最も大きい街、タシガンから紹介していこう。
タシガンは、西ブータンの中心地である首都ティンプーから、
車でおよそ20時間(2泊3日)かけて、ようやく到着する。
(一応、国内線もあるにはあるのだが、運航が流動的なため要確認)
ちなみに、Google Mapsでは、ティンプーからタシガンまで、
9時間弱との計算になっているのだが、どう考えても無理なので、あしからず。
実は、南のインド国境の街、サムドゥプジョンカルから陸路入国したほうが、
距離的にはだいぶ近いので、もう西ブータンは見た、という方にはオススメ。
ただし、インドのグワハティ空港を利用するため、インドビザが必要となる。
そんなタシガンは、西から来た場合、まず、本当にここが東の中心地なのか、
と驚くぐらい、こじんまりとした、素朴な味わいのある街である。
観光客が訪れることも少ないためか、みな、好奇の眼差しで見つめてくる。
タシガンの街は、深い谷に沿った急斜面に作られており、
歩いて回るのはかなり辛いが、しかし、その高低差が織り成す街の風景は、
他のブータンのどの街とも異なる趣がある。
その中心に位置するタシガン・ゾン(城塞)も、大きさこそ小ぶりだが、
街からのゾンの眺め、そして、ゾンからの山々の眺め、ともに見事の一言である。
このタシガンから北上していくと、道中、ゴム・コラと呼ばれる寺院が見えてくる。
ここは、ブータン歴史上随一の高僧パドマサンババ所縁の聖地であり、
寺院裏手にある巨岩の下には、パドマサンババの手によって封じられた土着の神が
眠っているという言い伝えがある。
さらに川沿いを北上すると、やがて、周囲の景色が深い渓谷へと姿を変える。
その渓谷に沿って道なりに進むと、辿り着くのがタシヤンツェという街。
街の入り口まで来ると、視界は意外なほどに急激に開けて、
なだらかな斜面に広がる集落と棚田が一望できる。
タシヤンツェの街で、まず目に映るのが、チョルテン・コラと呼ばれる寺院だ。
これは、他のブータンの寺院とは異なり、ネパール式の仏塔を擁する寺院である。
春には、東ブータン中の人たちが集まる祭りが催され、大きな賑わいをみせるという。
さらに、タシガンからほど近い、ラディ谷にある農村では、見事な棚田と、
時期によっては、牛耕などの伝統的な農作業風景を目にすることができる。
また、ラディ谷への入り口にあたる、ランジュンという街には、
ウェセル・チョリンと呼ばれる壮麗な寺院がある。
また、その他にも、今回訪れることのできなかった場所がたくさんある。
例えば、メラ、サクテンと呼ばれる地域は、東の果てに位置し、
ブロクパと呼ばれる遊牧民族が住む、標高3,000mを超える高地である。
自動車道路の終点から徒歩で2日がかりでようやく辿り着く、
まさに秘境中の秘境と言えるだろう。
ともすれば、東ブータンは、西に比べて見るべきところの少ない場所に映る。
しかし、由緒ある寺院や、壮麗な城塞、そして、深い渓谷が織り成す美しい風景、
などなど、実際には、西にひけを取らないだけの観光資源を抱えた場所でもある。
観光客にとって、特に交通の面でかなりハードルが高いがゆえに、
かえって、昔ながらのブータンが色濃く残る場所にもなっている。
初ブータンで東まで制覇、となると、おそらく最低でも2週間近く必要だが、
もし時間がたっぷり取れるのであれば、そんな欲張りな旅も悪くない。
一度西を訪れたことがあるのであれば、東だけさくっと回るのであれば、
4-5日あれば要所は押さえられる。
その場合、一つでもテーマを持って、多少の予備知識を備えてから訪れることを、
個人的には強くオススメしたい。
(了)
今回の東ブータン訪問の最大の目的は、ブータンの大学へ来ることだった。
日本には馴染みが薄いシステムだが、ブータンの大学制度は、
ブータン王立大学という一つの大学の下に、いくつかのカレッジがぶらさがる、
というかたちを取っている。
今回訪問したのは、そのうちの2校。
ジグメ・ナムゲル工科学院(Jigme Namgyel Polytecnic)と、
シェラブツェカレッジ(Sherubtse College)。
前者はその名の通り、理工系の学科が揃う大学で、
後者は、数学、物理学、社会科学などの学部を擁する、
ブータンで最も歴史がある大学である。
両校を訪れた理由は、自分自身の研究(ブータンの情報化)について、
調査の際の身元受け入れ先となる学部、または、研究者を探すこと。
何らかのコラボレーションを実現させることで、
ブータンでの研究がぐっとはかどり易くなるからだ。
ブータンに一般の観光客として入国する場合、
1日当たり200〜250USドルの公定料金がかかる。
車からガイドから宿泊から食事まで、全て込みの料金なので、
純粋に観光目的で来る分には分かりやすいシステムなのだが、
こと長期滞在するとなると、カネがいくらあっても足りない。
そもそも、観光ビザの滞在日数は最大2週間までしか許されていないので、
長期滞在すること自体が不可能なのだが。
ごく有り体に言ってしまえば、現地大学に受け入れてもらって、
研究ビザ、または、学生ビザを取ることができなければ、
実質、ブータン研究を長く続けることは限りなく難しい。
もちろん、これは多分、ブータンに限らず、世界中の研究者が、
海外でフィールドワークをする際に必ずぶつかる関門だろう。
まず訪れたジグメ・ナムゲル工科学院は、
実は、昨夏、同校の学長が日本を訪れており、
その際、ご縁があって、自分がコーディネート役になって、
当大学の理工学部を視察していただく機会を持ったことがあった。
学長は、末席にいた若僧のことを覚えていていただいたようで、
訪問してお話を伺いたい旨を連絡したところ、快く招き入れてくれた。
しかも、学長直々に校内を案内していただき、夕食までごちそうになった。
すぐに具体的な話には繋がらなかったものの、今後も引き続き交流をしながら、
何らかの可能性を探っていこう、という形になった。
(写真:キャンパスからの眺め。遥か向こうの平原はインド)
次に訪れたシェラブツェカレッジでは、
以前から、自分の研究に多少なりとも関心を持っていただいており、
もう少し具体的に、何らかのコラボレーションの可能性を探るために、
時間をたっぷり取って打合せをしよう、ということになっていたのだが…
何故か、訪問していきなり学長室に通され、
学長から「さあ、君は何ができるんだ」と、割とド直球を投げられる事態に。
念のため用意していた研究計画のプレゼンを慌ててしたところ、
示されたオプションは二つ。
一つは、研究者の交流や交換留学等を含む、大学間または学部間協定を締結し、
協定校の交換留学生として訪問すること。
そうすれば、ほぼ大学持ちで、安価に、しかも、より長期の滞在が可能になる。
もう一つは、自費留学生として同校に籍を置くこと。
この場合、学費+滞在費で、観光ビザまではいかないものの、結構な額がかかる。
当然、可能であれば前者の選択肢を選びたいところなのだが、
さすがにしがない学生の身では、「じゃあやりましょう」と即答はできない。
持ち帰って検討してみます、と言ってみたのだが、
さて、そもそも、協定を結ぶために何をすればいいのか、皆目検討もつかない。
大学の交換留学制度とかを上手く使えば、
2週間くらいの短期の交換留学程度なら、意外とセッティングできそうな気もする。
というか、そのプログラムを考えるのは、なんだか結構面白そうだ。
自分の研究そっちのけで、普通に仕事として請け負ってもいいレベルで。
そういえば、最近は、気仙沼でのプロジェクトも、
直接のアドバイザー業務もさることながら、コーディネート業も増えてきた。
だんだんと、コーディネーター役のほうが性に合っている気さえしてきて、
完全に本末転倒になりかけているが。
今回のブータン訪問は、そもそもが、暗中模索からのスタートだった。
さらに、シェラブツェカレッジまでの道程が、文字通りの五里霧中。
学生の身分で、協定の締結なんて、それこそ雲を掴むような話だ。
大体、一学生の身分で、現地の大学の学長に立て続けに二人も会える、
なんてことは、日本ではちょっと起こり難い。
せいぜい、学部長と廊下ですれ違うくらいがいいところだ。
有難い機会をいただいたということで、しばし暗躍してみようと思う。
そういえば、高校の頃は、あやしいメキシコ人の校長と何故か仲が良かったので、
卒業後も連絡を取って会いに行ったりする間柄だったことを思い出した。
が、それはまた別のお話。
(続く)
これまで、気仙沼で復興支援と銘打ちつつも、
お世話しつつお世話されつつの、ほどよい関係を築いてきた。
中でも、お世話になっている箇所の一つが、
学部生のフィールドスタディツアーでたびたび訪れている、
リアスアーク美術館である。
http://www.riasark.com/
同館は、美術館でありながら、博物館色も混淆した、
さながら、地域の総合ミュージアム、といった趣をなしている。
震災以前から、郷土の民俗資料、特に「食」をテーマとした、
海と山にかかわる農耕・漁労文化について常設展示を行うなど、
地域に密着した文化活動の継承役を担ってきた。
東日本大震災後、しばらくの間、休館となっていたのだが、
2012年7月に一部再開、2013年4月に全面再開となった。
再開後、筆者自身が同館を訪れた最大の目的は、
新たな常設展『東日本大震災の記録と津波の災害史』を拝覧するためであった。
同展の主たるキーワードは、「記憶」である。
常設展の冒頭には、
「東日本大震災をいかに表現するか、地域の未来の為にどう活かしていくか」
という問いかけがある。
同展示の目的を、端的に表すとすれば、
震災の記録を残し、
その記録を、正しい表現を用いて伝達し、
それを以て、人々に記憶として定着させ、
来るべき未来の災害を防ぐ、
ということになるだろうか。
展示品は、写真203点、被災物155点、歴史資料等137点からなる。
震災後、被災者でもある学芸員自らが、約30,000点もの現場写真を撮影し、
250点もの被災物(中には数mに及ぶ巨大なものもある)を収集した。
それら膨大な一次資料を元に、同展示は構成されている。
写真には、それを撮影した瞬間の学芸員の生々しい言葉が付されている。
被災物には、その持ち主(あるいは関係者)のエピソードが、半分実話、
半分フィクション、という虚実入り交じる形で掲載されている。
一点一点を丁寧に見ていくと、長ければ丸半日程度の時間を要する、
非常に見る側の体力・精神力を求める展示、でもある。
併せて、震災を考えるためのキーワードと、想起すべき短い論考とが、
学芸係長(震災当時、学芸員)の山内氏によって書き起こされている。
被災した者に対して、あるいは、被災していない者に対して、
投げかけられる言葉は、あまりにも率直で、そして、強い。
例えば、以下のようなものである。
瓦礫(ガレキ)とは、瓦片と小石とを意味する。また価値のない物、つまらない物を意味する。
被災した私たちにとって「ガレキ」などというものはない。それらは破壊され、奪われた大切な家であり、家財であり、何よりも、大切な人生の記憶である。例えゴミのような姿になっていても、その価値が失われたわけではない。しかし世間ではそれを放射能まみれの有害物質、ガレキと呼ぶ。大切な誰かの遺体を死体、死骸とは表現しないだろう。ならば、あれをガレキと表現するべきではない。
個人的には、既に同美術館に4-5回訪れており、
その度に、同展示を拝覧させていただいている。
変わらぬ写真、被災物、キーワードの展示でありながら、
時が経つにつれて、その意味合いが少しずつ変化していく。
そんな経験をさせてもらっている。
驚くほどに、全く飽きることがない。
気仙沼市内各所で見聞を重ね、その都度、この展示に戻ってくると、
断片化した誰かの喋ったことや何処かで見たことが、頭の中で反芻される。
こうした脳内の反復作業を通して、脳内のHDDに記憶が焼き付いていく。
「記憶」の獲得の瞬間を、実感として認識することができる。
正直言って、この展示のためだけに気仙沼に行く価値がある、
それぐらいに、インパクトのある内容となっている。
なお、この展示について、
いくつか写真・映像付きのレポートやインタビューを見つけたので、
雰囲気を掴んでいただくためにも参照されたい。
後世に記録を伝える │ NHK東日本大震災アーカイブス
http://www9.nhk.or.jp/311shogen/map/#/evidence/detail/D0007010160_00000
リアス・アーク美術館常設展示「東日本大震災の記録と津波の災害史」、N.E.blood21 Vol. 46:千葉奈穂子 展、Vol. 47:石川深雪 展 │ artscape
http://artscape.jp/report/curator/10087541_1634.html
東北のいまvol.16 リアス・アーク美術館常設展 「東日本大震災の記録と津波の災害史」 残すこと、伝えること。 │ 東北復興新聞
http://www.rise-tohoku.jp/?p=4988
展示作品を収めた図録『東日本大震災の記録と津波の災害史』も出色である。
同書のあとがきの言葉を紹介して、本稿を締めたい。
当館が編集した「東日本大震災の記録と津波の災害史」常設展示には、震災以前からその地で暮らし、その地で被災者となり、これからもその地で生きていく者でなければ見えない事実、感じられない感覚を伝えるための表現を詰め込んだ。単なる資料の羅列ではなく、記憶を紡ぐための装置として資料を昇華し編集した。そしてその内容をこの図録に込めた。
我々の目的は風化を食い止めることでもなければ忘れさせないことでもない。知らなかったことに出会い、心を動かし、思考を巡らせ新たに記憶してもらうことである。
同一の経験がなくても、相似する経験を組み合わせ、想像力を働かせれば記憶は獲得できる。人間にはそういう力があると信じている。一人でも多くの人に、我われが経験したこと、我われが気付いてしまったことを共有してほしい。そして大切な人が暮らす未来を守ってほしい。
図録は、郵送でも購入可能だ。
あまり他人にモノを勧めることのない筆者だが、
これは、自信を持ってオススメしたい、珠玉の一冊である。
http://www.riasark.com/modules/news/article.php?storyid=133
一連のSTAP細胞論文問題に端を発する、科学界への猜疑の眼差し。
4月1日の理化学研究所の会見で、改竄、捏造の不正があったとの認識が示され、
歴史的な大発見は、一転、白紙に戻ることがほぼ確実になった。
自分も、異端であるという自覚はあるものの、
一応、アカデミック界隈の端くれに身を置く者として、
この問題について口を開くべき責任を感じ、筆をとっている。
前編では、論文の評価(査読)において、
現在の、「暗黙の作法」に頼った評価手法が限界を迎えつつあるのではないか、
という問題提起をした。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=559
今回は、研究の可否をどのように問うか、という問題について触れようと思う。
まず、前提として、ある一つの厳然たる「暗黙の了解」が存在する。
それは、他人の研究を、論理的な手段を用いずに否定しない、ということ。
研究者個人の人格や属性、あるいは、それに付随するあらゆる感情論は、
研究自体には何ら影響も及ぼすものではない。
つまり、何の根拠も無いダメ出しをしてはいけない、ということだ。
あいつは駆け出しのペーペーだから、とか、女癖が悪いから、とか、
そういう色眼鏡は、研究の真偽にとっては何の意味も持たない。
もちろん、あくまでも建前としては。
加えて、その「暗黙の了解」は、
さらにもう一つの「暗黙の了解」の上に成り立っている。
それは、研究者は等しく皆、「新たな知の探求」を目指している、ということ。
これは、前回触れた、研究者の最も根源的な姿勢を示している。
裏を返せば、知を求めない研究者は、研究者ではない、ということだ。
つまり、ごまかしたり、嘘をついたりするような研究者が存在するはずがない、
という、ある種、非常に楽観的な見方とも言える。
そのような、二つの「暗黙の了解」に基づいて、
提出された論文の可否を問う、とは、いったいどういうことだろう。
研究の手順に誤りは無いか、論理の飛躍は無いか、
集められたデータは適切な方法で処理されているか。
など、細かく挙げればキリが無いが、一言で言うならば、
「論理的であるかどうか」ということに尽きる。
論理の組み立てに問題が無ければ、論文は「可」とみなすことができる。
この場合、論文が「否」であるという意味は、
論理的ではない、証明が不十分である、ということを指す。
決して、「ニセモノ」だとか、「デタラメ」だと、全否定しているわけではない。
研究者はその結果を受けて、再トライをする権利を有している。
今回のSTAP細胞論文で疑われたのは、こうした「可否」以前の問題だ。
それは、「論文が不正によるものか」という、前提条件を根本から覆す問題。
研究の可否を問う問題ではなく、研究者の善悪を問う問題、とも言える。
カギとなるのは、そこに「悪意」が介在していたかどうか。
研究者が、故意に、あたかも真実であるかのような研究成果を発表した場合、
その研究が専門的な内容であればあるほど、それを見破ることは困難になる。
かつて、ゴッドハンドと呼ばれた考古学者が手を染めた捏造事件を、
記憶している方もいることだろう。
別の地層で発見された土器を、他の場所で発見したかのように見せかけ、
考古学史的な大発見をでっちあげた、あの事件。
万が一、その学問分野で最も優れた第一人者が、何らかの作為を行ったとしたら、
彼以上に優れた者がいない以上、誰もその真偽を確かめられないことになる。
「彼だからこそ、成功した」と言われてしまえば、それ以上追求できない。
それは、科学にとって、絶望的なほどに手の施しようが無い事態だ。
屋台骨であるはずの、
研究者はすべからく、共通の倫理に則って研究をしている、
という「暗黙の了解」が崩れてしまうと、
論文の論理性だけでは、その清濁を判断できなくなってしまう。
だからこそ、改竄、捏造、そして、剽窃は、研究界隈では、最も忌み嫌われる。
(ちなみに、それぞれ、大辞林によれば以下のような定義になる)
「改竄」=文書の字句などを書き直してしまうこと。普通、悪用する場合にいう。
「捏造」=実際にはありもしない事柄を、事実であるかのようにつくり上げること。
「剽窃」=他人の作品学説などを自分のものとして発表すること。
STAP論文には、改竄、捏造があった、との最終報告がまとめられた。
もう一つの問題である、STAP細胞は存在するのか否か、という点については、
時間はかかるだろうが、いずれ何らかの結論が出るだろう。
しかし、ここに至ってもなお、この問題が、
研究者としての資質が足りない者による過失なのか、
そこに何らかの「悪意」が介在したものなのかは、
依然として闇に包まれたままだ。
本人が「悪意」を否定しているだけに、泥沼化の様相も呈している。
何より、故意の不正であったかどうかは、当の本人以外に知りようが無い。
しかし、これだけ公然と、研究者としての資質が足りないことが明るみになった以上、
彼女の研究者としての再起は、極めて難しいと言わざるを得ない。
ただし、一つ間違えてはいけないのは、
彼女一人を「悪」と断定し、尻尾切りをして問題を片付けてはいけない、ということ。
このままでは、また第二第三の同じような問題が出てくるだろう。
いまの科学界には、それほど、自浄作用が期待できないところまで来ていると思う。
そもそも、「悪意」の無い「不正」とはいったいなんだろう。
もっと言えば、「悪意」の無い「不正」が生まれてくる背景とはなんだろう。
「知」の根幹が揺らいでいる、としか言いようが無い事態が、そこにはある。
「悪意」が無くても「不正」に相当するような稚拙な論文ができあがってしまう、
そして、そんな論文が、堂々と世界に冠たる科学誌に掲載されてしまう。
今回のケースは、まさに、
近代科学界そのものが陥っているジレンマが表出した、と言える。
学問の世界に横たわる暗い陰の、その一端を垣間見た、そんな気がしてならない。
火中の栗を拾うような真似をあえてしよう。
今回のお題は、博士課程在籍者が語る、STAP細胞論文問題について。
ただし、研究の中身については未解明の部分も多いため、
あくまでも、近年の科学界における、
「研究」と「論文」に対する取り組み姿勢に焦点を当てていく。
そもそも、研究者の目指すところは、
少々クサい言い方をするならば、「新たな知の探求」にある。
一般には有り得ないと考えられているものを、有ると証明する、
そのための全てのプロセスが「研究」と見なされる。
研究室で試験管片手に機材を操作することばかりが研究ではなく、
リンゴの木の前で寝そべっている時間も、ときに研究に繋がることもある。
一方、「論文」とは、その研究成果を発表する最も代表的な手法だ。
どんな素晴らしい発見をしても、それが世間に認められなければ、
その研究には何の価値も与えられない、ただの自己満足となる。
まれに、自身の好奇心を満たすためだけに取り組んでいる研究者もいるが、
それだって、研究で飯を食っていくとしたら、
ある程度は周囲に評価される成果物を残す必要がある。
必然的に、多くの研究者は、日頃から論文の執筆に追われることになる。
それは、営業マンにとってのノルマのようなものだ。
発見のための発想力や知識のほかに、
物書きとしての素養がなければ、おそらくこの職業は務まらない。
そういう意味では、このコラムの原稿を、落としに落とした自分は、
どうやら、若干、その素養を欠いている節もあるのだが…
さて。
近年、研究の世界は、生き馬の目を抜くような時代へと突入した。
どの学問分野でも、問われるのは、その「スピード」と「オリジナリティ」。
言い換えれば、「最も早く新しい発見をしたもの」が評価される時代。
有用性や汎用性は二の次、とまで言ってしまうとやや語弊があるが、
少なくとも、基礎研究と呼ばれる領域では、あまり重要視されることはない。
誰もが新しい発見を目指していくとどうなるか。
研究のテーマは、常に最先端の分野へと偏り、その先端をさらに伸ばしていく、
あるいは、先端を枝分かれさせていく、そのことに全神経が集中する。
その結果、学問分野は限りなく細分化してきている。
「学会」という括りで、ある程度似通った分野の研究者が寄り集まっているが、
実態としては、各研究者が独自の学派を形成している、とさえ言える。
問題となるのは、そのような状態で、
他の研究者を「評価」することなどできるのか、という点。
そのことに触れる前に、まず、一般的な論文の構成について言及しておこう。
通常、論文を執筆する場合、先行研究と呼ばれる、
関連する既存の研究について、ある程度ページを割かなければならない。
誰かが既に言及したこと、証明したことを記述することで、
自分の論文が依って立つ研究領域を明示するのが、その主な目的となる。
既知の事柄を自分の言葉で記述する、というのは、思いの外、骨の折れる作業だ。
コピペするのは論外だが、当然、自分の研究成果ではないので、
せいぜい文章表現を変えるくらいしかできることはない。
そんな二次創作のようなことをすることに果たして何の意味があるのか。
かといって、長々と数十ページに渡って誰かの文章を引用をするわけにもいかない。
それはそれで、引用ではなくパクりだ、との批判を浴びる種になる。
通常、引用はせいぜい数行程度まで、と言われている。
実は、この先行研究、本来は「誰々が何々と言っている」程度の触れ方をして、
詳細は参考文献そのものを参照してもらえば事足りるはずのものだ。
わざわざ参考文献でどのように書かれているか、事細かに説明する必要はない。
通常、論文の評価者(査読者)は、その学問分野に精通しており、
示される参考文献には一通り目を通していることが前提となるからだ。
しかしながら、先も述べたように、学問分野は細分化しており、
提出された論文が、その評価者(査読者)にとって未知の内容を含むこともままある。
そういった場合、論文を評価するにあたって、
参考文献まで全て目を通すとなると、その作業量は膨大になってしまう。
先行研究を丁寧に書くということは、こういった査読者の負担を軽減する目的もある。
というより、それは「暗黙の作法」と言ってしまっても差し支えないと思う。
もちろん、本質的には、そういった作業を含めて査読者の責務の範囲であり、
正当な評価を下すためには、そうした労力を惜しんではならない。
ただ、湯水のように次々と新しい論文が発表される昨今の科学界において、
それはあくまでも理想論でしかない、というのが実情だろう。
STAP細胞論文において、20ページに渡るコピペが見つかった背景には、
当然、研究者個人の倫理の欠如もさることながら、
上述のような、アカデミック論文における「暗黙の作法」が物語るような、
根深い闇が隠されているような気がしてならない。
(続く)
さて、前回まで2回に渡り、
「ブータン研究者が、なぜ東北でまちづくりをするのか」
というテーマについて連載した。
ブータンでは、情報化について研究し、
気仙沼では、まちづくりについて実践を交えて学んでいる最中である。
正直に言って、震災を機に気仙沼に関わりはじめ、
そしていま、まちづくりの現場にこれほど深く入り込んでいるのは、
様々な偶然が重なった結果、という以外に無い。
そうでなければ、それまでほぼまちづくりについて素人同然だった人間が、
したり顔で「まちづくりやります」などと言ったところで、相手にされなかっただろう。
そんなわけで、当然、ブータンの研究を気仙沼の現場で活かす、という気もなければ、
逆に、気仙沼の経験をブータン研究に応用する、なんて場面も全く想定していなかった。
が、しかし。
ここへきて、まさかのコラボレーションが実現することになった。
そう、まさかの、気仙沼における「ブータン講座」開講!
自分がブータンについて研究している、という話をちらっとしたところ、
地元の方の食いつきが思いの外良く、あれよあれよという間に、そういう運びになった。
いまのところ長期講座ではなく単発の予定だが、
もしかしたら、好評であれば引き続き…、なんてお声もかかるかもしれない。
さて、どんな話をしたら良いものか。
おそらく、気仙沼の人たちは、ブータンについての知識が、
「あの猪木に似た国王がいる国」
「王妃様が若くて美人だった!」
という程度の知識しかないわけで。
つまりは、2011年秋の国王訪日時のメディア報道のみがニュースソースなわけで。
やっぱり「幸せの国」について知りたがるんだろうなあ、と思うわけで。
難しいのは、このコラムでも昔書いた気がするが、
ブータンは、「幸せ」を目指す国であることは間違いないが、
いま現在「幸せ」な国かと言われると、ちょっと言葉に窮する。
少なくとも、日本でブータンに詳しい人達の前で、
「ブータン=幸せの国」という図式は、一種のタブーになりつつある。
一応、自分も、日本ブータン友好協会というところで、
縁あって幹事という立場にあるので、そう軽率な発言もできない。
ただ、一方で、真実をありのままに伝える、ことだけが重要というわけでもない。
気仙沼という地で、ブータンについて話をすることの意義はなにか。
気仙沼の人たちに、ブータンのどんな姿を伝えれば意味があるのか。
それ無しで、ただブータンについての知識をひけらかすような場にはしたくはない。
講座の開催は、3月16日(日)。
それまで、しばし悶々と悩んでみようと思う。
さて、どういう話をすることにしたのか、気になる人は、ぜひ気仙沼へ!
前回の記事から早一ヶ月半も経ってしまった。
その間、ほぼ毎週のように気仙沼へ入り、地元の住民さんたちとともに、
まちづくり計画の策定を進めてきた。
いま、ここ半年ほどかけて作業してきた計画案が、ようやく形になりつつある。
その間、ほぼ毎月の住民を交えたまちづくりのためのワークショップを開催し、
その合間を縫って、まちづくり協議会(地域のまちづくり団体)の役員会に出席した。
数えてみると、8月から12月までの5ヶ月で、計57日間、気仙沼に居たことになる。
もちろん、数時間程度の滞在の日もあるので、滞在時間に直すとそれほどでもないが、
ほぼ2ヶ月近い日数、あの地を踏んだことになる。
ただ、これが多いのか少ないのか、頻度が高いのか低いのか、
ここまで深くまちづくりに携わった経験が無いので、正直、よくわからない。
現地に腰を据えて取り組む方法もあっただろうが、
本音を言えば、あまりその手段は取りたくなかった。
その理由は、前回の記事で触れているので、もしよかったらご一読いただきたい。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=525
一方で、半年という時間は、おそらく、街の将来を決めるには短過ぎる時間だろう。
しかし、時間をかければ良い計画ができる、というものでもない。
当たり前のことだが、まちづくりそのものは、計画ができてゴールではない。
むしろ、そこがスタートラインで、これからもまちづくりは続いていくのだ。
できることなら、来年度も、まちづくりの行く末を見続けていたいとは思うが、
さて、こればかりはどうなることやら。
そろそろ前回の続きに入ろう。
なぜ、専門ではない分野の活動に参加しているのか、
という動機の問題に答えていきたいと思う。
つまり、そのモチベーションはどこから来るのか、という話。
大学院生という立場から話をするならば、
博士論文を書く上で、気仙沼での経験が直接的に生きることはまずない。
また、生活上の理由、ということであれば、
残念ながら、まちづくりのお手伝いで得られる報酬は微々たるものだ。
それでも、貰えるようになっただけ相当マシなほうで、
最初のころは、それこそ、手弁当で現地を訪れていた。
さて、それでは、自分はいったい、あの場所で何を成し遂げたいのか。
自分が「誰かを助けたい!」なんて善意で動く人間ではないことは百も承知なので、
少なくとも、綺麗なことは一切考えていなかったのは確かではあるが、
いざ、その理由を説明しようとすると、上手く言葉にならないことに気が付いた。
「楽しいから」では答えにならないので、
もう少し、その楽しさの源泉を掘り下げてみることにする。
誤解を恐れずに言えば、自分がまちづくりに携わっていて面白いと感じるのは、
すんなりと決まっていく物事よりも、むしろ、紛糾する話題のときだ。
地元の人々にとっては、過程は割とどうでもよくて、結論としてどうなるか、が全てだ。
どんなに苦労を重ねたところで、何も決まらなければ結局は徒労に終わる。
なので、当然のことながら、揉め事はできるだけ避けて通りたいのが人情というものだ。
もちろん、それで良いと思う。
一方で、自分の関心は、むしろ過程にあるようだ。
例えば、AとBという主張が、地域の中で激しく対立していたとする。
なるべく喧嘩別れをさせないように、
それでいて、地域としてまとまった結論へ導くためにはどうすればよいのか。
とにかくAかBか、という結論が出ることが重要、というわけでもない。
地域を分裂させないために、あえてどちらも選ばない、という選択肢があってもいい。
「このままいくと地域が分裂しますが、それでも押し通しますかどうしますか?」
という投げかけをしたとして、いったい、現実の場面で、それがどう転ぶのか。
それこそ、綺麗事では済まない、生の問題が、そこにはある。
分裂しない方がいい、というのは単なる机上の論理に過ぎない。
分裂してでもAを選ぶほうが、将来的には街に経済的な利益をもたらすかもしれない。
あるいは、Bを選ぶことで、貧しくとも平和な暮らしが保たれるかもしれない。
大事なのは、その街が「何を大事にしたいのか」。
大事にしたいのは、経済なのか、環境なのか、それともコミュニティの和なのか。
そこがはっきりしさえすれば、選ぶべき選択肢は、自ずと見えてくるはずなのだ。
そして、それこそが、その街のカラーであり、その街の文化と呼べるものなのだろう。
外からまちづくりに参画することで得られる最大のメリットは、
まさにその、街が「大事にしたい何か」を導き出していく過程そのものに、
深く関わることができること、だと思う。
そしてそれは、現地で求められている「調整役」という役回りにも合致する。
これは、大袈裟に言ってしまえば、その街の歴史をつくる作業だ。
そんな経験、滅多にできない。
その過程において、一翼を担うことができる。
自分にとって、動機はそれぐらいで十分過ぎるくらいだ。
もちろん、それを楽しめるのは、そもそも自分自身の行動原理が、
「結果よりも過程を楽しむ」タイプであることにも、大いに起因しそうではあるが。
(了)
脱サラして、大学院へ入り直したのが、かれこれ3年と9ヶ月前。
もう、サラリーマン時代より、院生時代のほうが長くなってしまった。
研究をはじめてほんの3年余りで、いっぱしの研究者になったつもりもないが、
一応、研究テーマに「ブータン」を選んでいる以上、
「ブータン研究者」を名乗ってもさほど不思議はあるまい。
「ブータン専門家」ではなく、研究者、なら、誰でも名乗れる気もする。
前置きはさておき、本日のお題は、
「ブータン研究者が、なぜ東北でまちづくりをするのか」である。
そんなてめえの事情になんぞ興味はねえ、と言わずにまあ聞いてほしい。
この場合の「なぜ」には二種類ある。
なぜ、専門ではない分野の活動に参加しているのか、という動機の問題。
なぜ、専門ではない分野の活動が可能なのか、という能力の問題。
特に、後者は最近よく尋ねられるので、ちょっと先に解説しておきたい。
そもそも、「まちづくり」とはなにか。
少しだけ触れておかなければなるまい。
Wikipediaを引くと、次のように記述されている。
まちづくりとは、文字通り「まちをつくる」ことであるが、一般的にこの言葉が使われる場合、「まち」は既存のもので、新たに「つくる」ことを指し示す例は少ない。また、建物や道路といったハード面や、歴史文化などのソフト面を、保護・改善する事によって、さらに住みやすいまちとする活動全般を示す。衰退した地域の復興を目指す再生活動は「地域おこし・まちおこし」であるが、明確な定義をせずに、都市開発あるいは地域社会の活性化など、論じる人によって、様々な文脈で使われているバズワードである。街づくり、町づくりなどとも表記されるが、ひらがな表記が多く使われる傾向にある。
一般的には、「さらに良い生活が送れるように、ハード・ソフト両面から改善を図ろうとするプロセス」と捉えられていることが多い。また、多くの場合、まちづくりは住民が主体となって、あるいは行政と住民とによる協働によるもの、といわれる。ただし、民間事業者が行う宅地開発なども「まちづくり」と称している場合がある。
実際に、いま、学内の復興支援プロジェクトの一環として、
宮城県気仙沼市で行っている「まちづくり」を上の語意に従って整理すると、
「東日本大震災からの復興を果たすための、そして、震災前よりも住みよい街をつくるための、住民主体の取り組み」
ということになるだろうか。
自分にとって、「まちづくり」にこれほど深く従事するのは初めてである。
以前、学部時代に都市研究として「汐留」を取り上げ、
その成り立ちや再開発の経緯や進め方について調査したことはあったが、
そのときは、あくまでも研究のまねごとに過ぎなかった。
—–
ところで、自分の所属する研究室の専門分野は、
情報科学、あるいは、政策情報論、と掲げてある。
キーワードは「情報」であり、「情報化社会」が研究のターゲットである。
そこだけ切り取ると、「まちづくり」とはおよそ縁がありそうに無い。
どのような「情報」にしたがって、人(集団)は意思決定をしているのか。
より良い決定を促すためには、どのような「情報」が手に入ればよいのか。
さらに進んで、「情報」が氾濫する社会とはどのような社会になるのか。
そういったテーマが、根底にある関心事、ということになる。
翻って、「まちづくり」とはなにか、改めて考えてみる。
「まちづくり」とは、言わば、「情報」の取捨選択と意思決定の連続である。
「どのように災害から人命や財産を守るのか」
「どのように産業を興し、地域の経済を活性化していくのか」
「どのように子どもを生み、育てるための環境整備をするのか」
などなど。
それら一つ一つについて、選択のための素材となる「情報」を集め、
価値判断をおこない、そして意思決定を下す、というプロセスそのものだ。
これが、自分だけの価値観で決めてもよい物事であれば、
わざわざ外から専門家が入ってあれこれ指南する必要など無いのだが、
街、という単位で決めるとなると、途端に難しくなる。
細かい説明は省くが、学問の世界では、
「集団が完全に合理的な意思決定を行うことができる方法は無い」
と言われている。
多数決や順位評点法など、世の中にはいろいろな決定手法があるが、
結局、そのどれもが、合理的ではない、つまり、誰もが納得できる方法は無い、
ということになる。
—–
つまり、「まちづくり」においては、そもそも合理的な決め方は無いけれど、
なんとかして「住民合意」なるものを導き出していく、ことが求められる。
一人一人が異なる主張を持っているわけだから、
全員を説得して回る、というわけにもいかず、
例えば、こちらの主張はこちらの案件で通し、もうひとつの案件ではあちらを立てる、
といったお互いの歩み寄りの部分がどうしても必要になってくる。
外部者が入る、というのは、そういった部分の調整役を担う、という側面も多分にある。
どうしても、街のなかの人が調整役になってしまうと、
その人は全く主義主張を持たないニュートラルな立場でなければならない。
どちらかに肩入れをしている、となっては調整役の意味を成さないからだ。
となれば当然、外部者に一番求められるのは「バランス感覚」だと個人的には思う。
当事者ではない者には、そもそも決定権は無い。
決定者や、ましてや、特定の主義主張へ扇動する者になってはならない。
個人的な主張を交えた瞬間に、外部者たる地位を捨てることになる。
その街を深く理解する努力をしつつ、ヨソモノでありつづけなければならない。
成すべきことは、混沌とする行政制度、メディア報道、他箇所の事例などを、
わかりやすく整理して「情報」として提示すること。
そして、それらを元に膨らんだ議論を如何に収束していくか道筋を示すこと。
人間である以上、データの取捨選択の過程で、主観がゼロということは有り得ない。
しかし、フラットな立場である人間である、と住民の方々に認識してもらわなければ、
常にその「情報」にバイアスがかかっていることを疑われることになる。
街が既に一つの固まった主張を持って、その方向へ突き進もうとしているのであれば、
そういった偏った情報も、あるいは有用であるのかもしれない。
ただ、もう既に進む方向が見えているのならば、もはや外部者は必要無いはずだ。
いま、気仙沼で「まちづくり」を支援する立場にある。
従前のまちづくりに関わる行政制度や事例などはまだまだ不勉強で、
非常に申し訳ないことに、そういう点ではほとんど役に立っていない。
事務的な作業を担いつつ、バランス役としてようやく少し認知されてきた、
という段階だと個人的には認識している。
「あいつがいたおかげで、少しは物事が円滑に進んだ」
と思ってもらえれば、まずは第一段階をクリア、といったところだろう。
(続く)
秋は学問の季節、かどうかはさておき、
10月に入ってから、学会発表をする機会が立て続けにあった。
前半には、日本南アジア学会、後半には、日本インド学会という、
それぞれ、特定の国・地域に関わる、いわゆる地域研究者を集めた学会であった。
こうした地域研究の学会に出る場合、あるいは、
先月スタッフとして関わった社会情報学会のような、情報系の学会に出る場合、
そのいずれの場合も、自分のような「ブータンの情報化」という、
ニッチな研究対象を選んでいる人は、どうしてもマイノリティになってしまう。
その結果、学会で発表するときには、
・ブータンとはどんな国か?
・情報化を研究するにあたって、なぜブータンを選んだのか?
という、基本的な部分をまず最初に説明しなければならない。
しかしながら、大体こうした場所で一人に与えられるのは、
せいぜい15分から長くて20分くらい。
基礎知識編を10分もやってしまっては、本論に到達すらできない。
必然的に、贅肉を削ぎ落とす作業に多くの準備時間を割くことになる。
ところで、アカデミックな世界では、パワーポイントの発表は、
「1枚1分」というのが、定説となっている節がある。
10分の発表なら10枚、20分なら20枚、程度におさめる、というのが、
暗黙の作法のようにもなっている。
しかし、これだって、スライドのほとんどが文章で書かれているのか、
あるいは、写真が1枚だけ掲げてあるのか、によって当然違ってくる。
ただし、アカデミック分野のパワーポイントというのは、
得てして、黒い文字で埋め尽くされていることが多いのだが…
—–
そういえば、会社員時代にもパワーポイントを作る機会は多々あった。
自分自身が発表するのではなく、会議で使うための資料として。
その資料作成に際しては、いくつかの決まり事めいたものがあった。
あまり細かいところまでは記憶が定かではないが、
概ね、このあたりだったような気がする。
・文字サイズは24pt以上
・文章ではなく箇条書き
・グラフやモデルを多用
つまり簡単に言うと、「読ませる」プレゼン資料を作るな、ということ。
短い会議の中で、端的に要点を伝えて相手に理解させる(納得させる)ことこそが、
プレゼンテーションの目的であるならば、
詳細はあえて説明せず、結論をまず述べて、その理由付けも簡潔明瞭にする。
そして、質問に備えて、仔細なデータをバックヤードで持っておく。
なるほど、理に叶っている、ような気もする。
とはいえ、当然、企業のプレゼンと、学会発表とは、その性質から大きく異なる。
学会発表で問われるのは、その研究の論理構成や研究手法の確かさであり、
どちらかというと、結論そのものよりも、そこへ至るプロセスが重要視される。
そうすると、細部を端折るとどうせ突っ込まれるので、
それなら最初から言いたいことは全部書いておこう、とこうなる。
結果、1分間で1スライド「読む」ことも危ぶまれるような、
大層立派なスライドショーが出来上がることになる。
——
ところで、日本人はプレゼン下手、とよく言われる。
『TED (http://www.ted.com)』で繰り広げられているような、
感情を込めて、ダイナミックな動きをつけながら発表をする、
という人にお目にかかることは滅多に無い。
一方、昨年、こんな記事を目にしたのを思い出した。
AMAZON STAFF MEETINGS: “NO POWERPOINT”
http://conorneill.com/2012/11/30/amazon-staff-meetings-no-powerpoint/
曰く、プレゼンテーションを使うのを止めて、
「6ページの文章化されたメモ」を事前に共有することで、
無駄な時間を省き、かつ、きちんと筋道の立ったアイデアを伝達できる。
当日の発表はごくシンプルなもので済む。
実はこの手法、むしろ、学会発表の形式に近いような気もする。
たしかに、学会の場では、手元の配布資料として、
パワーポイントをただ打ち出したものではなく、
発表する研究内容を記したA4で2〜4ページほどのサマリーを配る、
という習慣がある(ところもある)。
そもそも、そうした手元資料を配るのであれば、
その内容をわざわざパワーポイントに複写して投影する、
なんて必要自体無いのかもしれない。
“Think Complex, Speak Simple”
この言葉は、あらゆる世界のプレゼンテーションに通用しそうだ。
発表内容は十分に熟慮する必要がある。
しかし、発表そのものを複雑にしてしまっては、相手の理解が追いつかない。
逆に、発表をシンプルにしようとしすぎて、
話す内容まで中身が無くなってしまっては本末転倒だ。
結局のところ、学会発表だから、とか、競合プレゼンだから、とか、
そういったテンプレートに捕われた発表には何の意味も無い。
なるほど、派手なプレゼンテーションは目を引くが、
実際、発表者の自己満足で終わってしまうことも少なくない。
その背後に、どれだけ豊かなアイデアがあるか。
そして、あるのであれば、それを如何に聴衆に感じ取ってもらうのか。
プレゼンターは、まさに、そこの部分にこそ力を注ぐべきなのだろう。
フィールドワーカーの端くれとして、
「写真を撮る」というのは、必須スキルの一つである。
「証拠資料」を残す、という意味において。
アートな写真を撮る必要は無いので、
例えば、シャッタースピードだとか、絞りがどうとか、焦点距離がなんだとか、
そういうテクニックに精通している必要はあまり無い。
むしろ、重要なのは、どんなときにも躊躇い無くシャッターを切れること、
つまりは、度胸、みたいなものだと思う。
個人的には、この「写真を撮る」ことが、正直あまり得意ではない。
研究フィールドであるブータンで、
あるいは、復興支援で訪れている気仙沼で、被災地で、
写真を撮ることへの後ろめたさを感じたことが無い、と言えば嘘になる。
こちらが向けている好奇の眼差しを、全て見透かされているような、あの感覚。
それに加えて、カメラを通してフィールドを見つめることで、
生の目でなければ見えない何かを見落としてしまうのではないか、
という恐怖感、みたいなものも少なからずある。
これは、特にフィールドワークに限らず、旅先であっても、
シャッターチャンスを逃さないように常にカメラを構える、
みたいな姿勢には違和感を覚えることが多々あった。
必然的に、自分が撮る写真は、「人」が被写体になることが少なくなる。
インタビューの後で、こんな写真を撮ったことがあるのだが、
これだって、「ぜひ写真を撮ってほしい」と逆に頼まれて撮った一枚だったりする。
—–
ところで、先日まで、7月のブータンでの選挙取材の様子を、長きに渡り連載してきた。
少し複雑なのだが、その訪問時の自分の肩書きは、研究者ではなく、ライターだった。
メディアの人間として現地に入り、取材をし、その内容を記事に書いた。
そして、その過程で、何百枚という写真を撮った。
実はこのとき、ある変化に気が付いていた。
それは、
「メディアという肩書きは、こんなにも『写真を撮る』という行為を自由にするのか」
ということ。
自分はメディアの人間だ、という自己暗示をかけることによって、
上述のような後ろめたさを微塵も感じなくなる、という不思議な感覚。
カメラマンという人種は、こういうゾーンに入っているのか、
と、なんとなく分かってしまったような、そんなひと時の体験。
その後、日本に戻ってからは、相変わらず、カメラを向ける対象物は、
景色だったり、後ろ姿だったりする。
—–
そんな折、割と好んで訪れる恵比寿の写真美術館へ足を運んだ。
お目当ては、「世界報道写真展」、
そして、映画『ビル・カニンガム&ニューヨーク』の観賞。
彼らの撮る写真を、そして、写真を撮る姿を目の当たりにしながら、
ある思いが胸を去来していた。
例えば、「シリアの市街地で、銃弾に倒れた子どもの亡骸を抱えて泣き崩れる父親を目の当たりにして」、
あるいは、「ニューヨークのど真ん中で、素晴らしいファッションに身を包んだ女性を目の当たりにして」、
自分は、シャッターを切れるだろうか?
たぶん、切れない。
罵声を浴びるのが怖いからではなく、
きっと、そこに在るべき「ジャーナリズムの精神」が欠けているから。
自分が、そのシーンを切り取るに足る人間ではないから。
自分が「メディア」を背負った人間であれば、あるいは、
意志を持ったジャーナリストであれば、たぶん、躊躇い無くフィルムに収めるのだろう。
その写真を撮ること自体が、自分がその現場に立ち会う存在理由であるはずだ。
—–
翻って。
どうやら自分にとって、「研究者」という肩書きは、
「写真を撮る」という行為を内包するものではないらしい。
「研究者」である自分は、「写真を撮る」ことに酷く臆病だ。
むしろ、「旅行者」であるときのほうが、自由に写真を撮れている気さえする。
あるいは、そんなふうに頭の中で考え過ぎていること自体が、
フィールドに深く入り込めていない、ということに他ならないのかもしれない。
げに、フィールドワークの奥は深い、というお話。