Home > ブータン

2014/06/14

2014FIFAワールドカップ、ブラジル大会が開幕した。
開幕カードは、開催国ブラジルがクロアチアを3-1で破って幸先良いスタート。
これから、7月14日の決勝まで、1ヶ月に渡る熱戦が繰り広げられる。

今回のブラジルW杯、ちょっとだけ現地観戦を考えて、
念のためかかる費用を試算してみたのだが…
少なくとも50万円は下らない、という結果となり、あえなく断念した。
日本ブラジル間の往復航空券はそれほど高騰しているわけでもなかったが、
とにかく、ブラジル国内の国内線と宿泊が異常に値上がりしていた。
インフラ整備の遅れも指摘されており、交通・宿泊の面では、
おそらく、多くのトラブルが頻発することになるのではないかと思われる。

さて。
このコラムで、国別の戦力分析などをしてみたところで、
さほどニーズは無い、というか、場違いであることは承知しているので、
ここは少し目線を変えて、せっかくの機会なので、
ブータンのサッカー事情について紹介してみようと思う。


ブータンは…
現在、FIFAランキングで最下位(207位)タイ。
同率でサンマリノとタークス・カイコス諸島と並んでいる。
ちなみに、タークス・カイコス諸島なんて初めて聞いたが、
どうやら、西インド諸島に位置するイギリス領、らしい。

ランキングポイントは0ポイント。
これは、直近48ヶ月の間に、全敗(引き分けもなし)していることを意味する。
今回のワールドカップの予選には出場すらしていない。

以前のコラムでも触れたことがあるが、
ブータンは、かつて、2002年の日韓ワールドカップの裏で、
「The Other Final」を戦ってちょっとした話題になったことがあった。

ときは、W杯本大会決勝と同じ2002年6月30日。
場所は、ブータンの首都ティンプーのチャンリミタン・スタジアム。
当時のFIFAランキング202位のブータン代表が、
ランキング最下位(203位)のモントセラト代表を迎えて、
国際Aマッチとして、公式に「最下位決定戦」が行われたのだ。

ちなみに、Wikipediaでは、同試合の観客数が25,000人と記してある。
同スタジアムの公式な収容人数も25,000人となっている。
が、現地を訪れたことのある実感として、
どう考えてもこの数字は盛り過ぎではないかと思われてならない。
日本で、同規模のスタジアムを探したところ、等々力陸上競技場が該当した。

比べてみると…

Changlimithang_Stadium_03
チャンリミタン・スタジアム ©Osman Veldan

800px-Todoroki_100911
等々力陸上競技場 ©WAKA77

スタンド部分の収容人数は割といい勝負に見えるが、
等々力が四方スタンドで囲まれているのに対し、チャンリミタンは半分しかない。
多めに見積もっても、15,000人程度と思われるのだが…
真相は、今度渡航した際に、もし覚えていれば検証してみたいと思う。

試合結果は、ブータンが4-0でモントセラトを下して、最下位の汚名?は免れた。
ただ、モントセラトにとっては、完全アウェイに加えて、
スタジアムが標高2,000m超の高地に位置しており、
これがそのまま実力差か、と言われれば、やや疑問符の残る内容ではあった。

モントセラトは、現在、ランキング166位とジャンプアップを果たしており、
ブータンは大きく水をあけられているのだが…
もはや、ランキング150位以下は大した意味を持たないとも言われているので、
実際に再戦した場合には、どのような結果になるのかは未知数である。

この試合は、なぜか日本とオランダの合作で、ドキュメンタリー映画化されている。
もし関心のある方は、ご鑑賞いただきたい。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0000ABAOZ/

最後になるが、
実は、ブータン代表の歴代監督を日本人が務めていることを、
知っているという方は、果たしてどれだけいるだろうか。
行徳浩二氏(2008-2010)、松山博明氏(2010-2012)と引き継がれ、
現在は、小原一典氏(2012-)が指揮を執っている。

氏の略歴や活動概況が、日本サッカー協会のホームページに掲載されていたので、
こちらも、興味のある方は、ぜひご一読いただきたい。
http://www.jfa.or.jp/jfa/international/dispatch/report/ohara.html


ワールドカップ本大会において、強国同士がマッチアップする様は爽快であり、
今大会も、多くの記憶に残るスーパープレイが生まれることを期待したい。

と同時に、ブータンのような、サッカー弱小国においても、
日夜、ボールを蹴っているサッカー少年たちがいる。
今度、ブータンを訪れた際には、
ちょっと彼らに混じってボールを蹴ってみるのも悪くない。
そんな新たな楽しみに思いを馳せつつ、熱狂の1ヶ月を過ごそうと思う。

2014/03/20

2010年以来、4年振りに、東京で3月11日という日を迎えた。
震災以降、気仙沼で活動を続けているわけだが、
だからといって、その日を気仙沼で迎えたことも、また無い。

この日。
これまでに過ごした3.11を少しだけ振り返ってみることにした。


2011年3月11日
バングラデシュ

あの日、遠い異国の地で、日本の大災害の報を聞いた。
当時の詳しい状況は、以下の記事を開いてみていただきたい。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=176

海外のニュースが伝える惨状を、ただ呆然と、ホテルの一室で眺めていた。
日本人、と分かると、多くの現地人が慰めの言葉をかけてくれる。
でも、それが、どことなく自分に向けられているものでは無いように響く。

自分は被災していない。
その自分が、慰められる謂れはない。
むしろ、こんなところにいる場合ではない。
そんな気持ちを抱く。

東京の地でも、地震の影響で交通機関がマヒし、
多くの友人・知人が、「その日は帰宅できなかった」と話した。
その混乱すら共有できない自分。

とにかく感じたことは、今にして思えば、
「無力感」と呼ばれるものだったのだろう。


2012年3月11日
仙台

1年目の節目は、仙台の実家に居た。
その前後で気仙沼を訪れていたものの、震災の追悼式典が催される当日は、
手持ち無沙汰で、実家に引き揚げてきていた。

たぶん、現地に居ても、その深い哀しみを共有できない自分は、
また、言い知れない無力感を味わうことになっていただろう。

そういう意味では、1年が経っても、
その心のうちは、遠い異国の地に置き去りにしてきてしまったような、
そんな感覚で溢れていた。


2013年3月11日
マレーシア

奇しくも、再びアジアの地で迎えた、2度目の3.11。
あえて異国の地を目指した。
というつもりはなかったが、いま思えば、その気持ちはゼロでは無かったと思う。

奇しくも、あのときと同じく、長距離バスのなかで、その時間を迎えた。
賑わう車内で、一人、黙祷を捧げる。
もちろん、もう誰も慰めの言葉をかけてきたりしない。

もしかしたら、追悼を強要するような、そんな国内の雰囲気が嫌で、
一人静かにその日を過ごすために、逆に被災地から離れたのかもしれない。


2014年3月11日
東京

東京メトロ東西線に乗車中、アナウンスが入る。
「本日、14時46分。東日本大震災から3年を迎えます。
 東京メトロは、全線で一旦停車し、黙祷を捧げます。
 みなさまのご理解とご協力をお願いいたします…」

3月11日を前に、テレビでは震災関連のドキュメンタリーなどが急増。
ある番組は、3年目の復興の現状を伝え、
ある番組は、震災当時の状況を再検証していた。

それから一週間が過ぎた。
3月11日を境に、再び、震災を伝える報道は急速に減った。
それでいい、と個人的には思っている。

あの日、テレビのキャスターは、「忘れない」と声高に繰り返した。
誤解を恐れずに言えば、このフレーズに、実は凄く違和感がある。
そこには、裏を返せば、「忘れる」者を責める響きが混じっていた。
悲しまない者、黙祷を捧げない者を、非難する響きが混じっていた。

現地を訪れていれば、自ずと感じる。
身近な誰かを亡くした人達にとっては、
「忘れない」のではなく、「忘れられない」のだと。

毎年、この日は、国中が喪に服す、そんな雰囲気が、
しばらくの間は続いていくのだろう。
ただ、本来、喪に服すことと、被災地の復興を願うことは、
全く別の次元の話だ。
兎角、そこを混同した話が多過ぎる。

ときどき思い出したならば、
そのとき何かしたくなったのならば、
街角で募金でもすればいい。
それ以外は、普通に日常生活を送ればいい。

買い物に行けばいい。
誕生日を祝えばいい。
晩酌をするのもいい。
それが、東京で、普通に生きる者の務めだろう。

3年経って、改めてそんなことを思っていた。

12:00 | 雑記 | No Comments
2012/12/31

この4月に、大学院博士課程に進学して、早9ヶ月。
そして、会社員を辞め、大学へ戻ってから、もうすぐ3年。

いつも、3年というのが、一つの節目になってきたように思う。
悪く言えば、3年で飽きる。
その繰り返し。

博士課程まで進学したことで、「教授を目指すの?」と、
聞かれることが多くなった。
その度に、実は、ほんの少し、答えに詰まる。

結論から言えば、
教授に「なる」可能性はあると思うが、「目指す」ことは多分無い。
それは、似て非なるもの。

なのだが、自分の中のどこかに、
「三十路にもなって、まだ目指すものも無いのか」
という、引け目のようなものがあるのも確か。
それに、「目指し」てもいないヤツが「なれ」るほど、
大学教授という職は甘いものではないのも確か。

しかし、それでも、
アカデミックな世界で生きていく、と肚をくくるでもなく、
ビジネスの現場への未練を捨て去るわけでもなく。
たぶん、まだしばらくは、ふらふらとするのだろう。

あらゆる可能性に貪欲で居たい。
きっと、ただそれだけが、自分自身の行動原理。
2012年は、それを、再確認した一年でもあった。

—–

三十路にもなれば、もう少し、世の中が分かるようになる、
そんなふうに思っていた。
もう、いいオトナじゃないかと。

だが、実際になってみると、わからないことだらけだ。
わからないことをわからないままに諦めることが増えていくだけだ。
ということがわかった。

全く、人生ってやつは難解だ。

わからないことって、減らないもんなんだな
扉を開けたら、また、次の扉があるだけ

Go!Go!7188「ふたしかたしか」より

果てのない、そして、たいした意味もない禅問答を繰り返しながら、
まもなく、三十一歳の扉が開く。(元旦が誕生日なので)

あらゆる可能性を広げるための努力を惜しまない。
2013年は、そんな一年になりますように。

2012/03/29

3月25日。
世の中は、前田敦子の「卒業」の方に注目が集まっていたようだが、
当大学でも、晴れて卒業式が挙行された。

なお、大学院の場合は、卒業式、ではなく、学位授与式が正らしいが、
AKB48ですら「卒業」という言葉が成り立つのだから、
我々がちょっとぐらい誤用したところで大したデメリットはあるまい。

それにしても、来週には同じ場所で博士課程の入学式があるのだから、
こんなにもテンションの上がらない卒業式も無い。
せめて、同じ研究室の後輩達の巣立ちを見送ってやろうと、
ちょっと高いシャンパンを贈ってやることに…したのだが、
まさかの、全く同じシャンパンを彼らも用意していた、という奇跡に遭遇。

去りゆく者たちと酒を交わしながら、夜は更けた。

………………………………………………………………………

さて。
実のところ、博士課程に進む、という選択は、極めて悩ましいものだった。

以前にも書いたかもしれないが、会社を辞めたのも、
ビジネスの世界に嫌気がさしたとか、そういうことでは全く無い。
ただただ、一度触れてしまった「ブータン」というパンドラの箱の、
中身を覗かなければ気が済まなくなってしまったからだ。

修士を終え、再び見えたこの分かれ道は、
ある意味では、社会に戻ることができるかもしれない、最後の機会。

このまま大学に残るのか(もちろん入試はあったが)、
この経験を経て再びビジネスの道に戻ってみるか、
あるいは、全く新しい道を開拓するのか。

身体が二つあれば、または、一日が48時間、といわず36時間くらいあれば、
ビジネスとアカデミックの両立は、あるいは可能かもしれない。

裏を返せば、拘束時間は半分、報酬は半額、という働き方が可能なら、
半勤半学は成り立ちそうな気がする。
そして、それが、自分には一番向いていそうな気もする。

現代日本のパートタームワーク制度では、いかんせん、
拘束時間がコントロールできるが、報酬の額が微々たるもの。
これでは、「就職しない」という選択肢をそもそも選びようがない。

もちろん、大いに反論もあろう。
短い時間しか働かない人に責任ある仕事を任せられない、であるとか、
他の人と同じ時間帯で働いてくれないと困る、などなど。

ワークシェアリング、なんて、一時期流行ったりもしたが、
単純ルーチンワークでも無い限り、引継ぎだなんだと余計な手間ばかり増え、
結局、上手くいきそうにない。

無い物ねだり。
そんなに器用でもないし、そんなに体力もない。

………………………………………………………………………

ただ、あながち、夢物語だとも思っていない。

人生の岐路で、一つの道を選び、専門性をとことん追求するのではなく、
目の前の手札をできるだけ減らさずに、そのときどきで、最前手を打つ。
そんな、夢が無いようで、夢のような、生き方もあるように思う。

ひとかどの者になりたい、という気持ちは、不思議と雲散霧消した。
元々、楽観的な性分ではあるが、ブータンと関わるようになってから、
「自分が世の中によって必要な人間ならば、きっと生かされるはず」
という、なんだか、神頼みのような思いが強くなった。

そんなわけで、もうすぐ、春。

2012/01/10

2012年が明けて、早10日。
何を隠そう(や、全く隠してないが)、元旦生まれの私、
めでたく三十路を迎えました。

とはいえ、今更、大きな変化も無く、
淡々と、しかし緩やかに、日々、身体が衰えていく毎日。
時の流れに抗っても仕方無いとは思うものの、
さすがに弱り切った足腰を鍛え直そうかとも思いはじめている、
そんな初春。

さて。
この年末年始は、ほぼ修士論文の執筆に費やしてしまった。

〆切が年明け7日という設定自体が、そもそも、
「年末年始缶詰宣言」に等しい仕打ちだと思うのだが、
まあ、文句があるなら、しっかりと年内に終わらせて、
すっきりと年を越せばいいのだ。

勿論、そんな計画性のある人間ならば、
大学に7年も通ったり、会社を3年で辞めたりはしない。
バッチリと、確実に、年末年始進行に突入したのは言うまでもない。

年越し「ガキ使」を見ながら論文を書いている時などは、
ある意味、「笑ってはいけない修論執筆」を演じている気分に陥った。

しかも、元マネージャーの藤原が、事あるごとに、
「藤原、お前ええかげんにせえよー」と浜田や松本に言われるので、
その度に、ビクッとなってしまうのが、ややこしいことこの上ない。
まあ、見なければいい話なのだが。

………………………………………………………………………

閑話休題。

修論に関しては、無事に提出することもでき、いまは一段落。
まだ、これから口頭諮問、そして審査が控えているのだが、
大きな山は越えたと言っていいだろう。

この場を借りて、ご協力いただいたみなさまには、
深い感謝の意を表しておきたい。

思えば、ブータンに関して何の知識も人脈も無い状態で、
「ブータンの情報化」について研究すると大見得を切って、
挙句に、会社まで飛び出してしまったのが、2年前の春。

ただの馬鹿野郎でしかないにも関わらず、
会社の同僚には、幾多の温かい言葉をかけていただいた。

ブータンに関わったこの2年で、多くの方に出会うことができ、
昨秋には、ブータン国王来日のレセプションにまで参加するという、
有り得ない経験までさせていただいた。

………………………………………………………………………

まだ道半ばではあるが、
三十という自らの節目を迎えたこともあり、
少し、歩んで来た道を振り返る、そんなお正月でもあった。

年内最後のコラムで、「三十にして立つ」という孔子の言葉を引いた。
思えば、二十代は、十代の頃の貯金で乗り切ってきたようなものだ。

二十代後半は、独り、あてどなくふらふらしていた。
南米へ行き、中東へ行き、モロッコで九死に一生を得、
インドへ行き、バングラデシュへ行き、チェルノブイリにも行った。
白神山地へ行き、瀬戸内海へ行き、京都で漫画喫茶にも泊まった。

あてどなく、しかし、見識を広げようと努めてはきた。
ただ、あまりにも行き当たりばったりだったせいもあって、
結局、どこにも行き着けなかったような気もしている。

今年は、いや、三十代は、アウトプットの年に。
それを年頭に、日々過ごしていきたい。

12:00 | 雑記 | 1 Comment
2011/12/08

プリピャチは、かつて、地図に無い街だった。
軍事機密を抱えた秘密都市。
原子力、すなわち核は、冷戦下のソ連にとっては、
この上ない軍事機密であったことは間違いない。

ただ、プリピャチの街を歩き、
かつてそこに在ったであろう姿を想像してみても、
そういった後ろ暗さはほとんど感じられない。
むしろ、当時の最先端技術を支える街としての誇りすら伺える。

文化会館の2階ロビー、そして体育館は、全面ガラス張り。
大きな窓からは、穏やかな陽光が一杯に降り注いでいたことだろう。
しかし、それ故に、砕け散った無数のガラス片が、
より一層の物悲しさを増幅させる。

遊園地の話ひとつを取ってみても、涙無しには語れない。
1986年のメーデー、つまり5月1日に開園が予定されていた、
その、わずか5日前に、事故は起こった。
笑顔が溢れるはずだったその場所で、
誰にも乗られることなく、朽ちていった遊具。

果てしない絶望感。

市民プールにも、小学校にも、
その一つ一つに、たしかに、人間ドラマがあったはずだ。

プリピャチは、1986年4月26日、
忽然と地図上に姿を現し、そしてまた、地図上から失われたのだ。
すくなくとも、人々が行き交う「街」としては。

………………………………………………………………………

あの事故がもたらしたものは、絶望だけではなかった、
という声も、無いわけではない。

その一つが、ヒトが住まなくなったことで、
絶滅を危惧されている動物たちの楽園になった、というもの。

当然、放射線による弊害は、ヒトではない他の動物たちにも及んでいるはずだが、
それでも逞しく、かの地をねぐらにする生き物たちは、
たしかに年々、数も、種類も増えているという。

ヒトがいなくなることで、
ヒト以外への希望がそこに生まれた。

なんて、短絡的にはとても考えられないことは、現地を訪れてすぐにわかった。

少なくともそこは、野生動物の楽園、にはとても見えなかった。

残念ながら、短時間のツアーだったため、
生き物を目にする機会そのものが少なかったのは否めないが、それでも、
仮にそこに、多くの動物たちが息づいていれば、少なからずそれを感じるはずだ。

例えば、熱帯雨林の中では、直に目にせずとも、
動物の気配を、その痕跡を、どこかに見つけるものだ。

ヒトによって、住む場所を失った動物たちが、
高放射線量の過酷な環境に追いやられ、それでもなお生きている。

それを希望だ、などと言うのは、ヒトの傲慢以外の何物でもない。

………………………………………………………………………

チェルノブイリは、大きな事故ではあったが、時代は変わらなかった。
その後も、原子力発電所は次々と建設され、
多くの国で、発展を担う電力供給源としての役割を期待された。

そこへ起きた、もうひとつのレベル7。

にわかに高まった、自然エネルギーへの転換を叫ぶ声。

もう一度言うが、自分は、原子力推進派でも反対派でもない。
より正確に言えば、原子力が無い暮らしを求めていく必要性を強く感じているが、
だからといって、掌を返して「反対」というのは道理に反する、と考えている。

今まで散々、その恩恵にあずかってきたのだから、
「今まで有難う、お疲れ様」と見送るのが筋だろう。

東電を責める話と、原子力そのものを否定する話は、根本的に違う。
そして、いまの日本では、そこを一緒くたにした議論が多過ぎる。

政府との癒着が嫌なのか、偽物の安全神話が嫌なのか。
じゃあ、安全なら原子力を使ってもいいのか。

個人的には、東電のことは、正直どうでもいい。
どう転んでも、電力供給は国家事業には変わりないので、
民間がやろうが、国営に戻そうが、たぶん、あまり変わらないだろう。

では、原子力はもう使うべきではないのかどうか。

反対派は、簡単に「自然エネルギーへの転換」と言うが、
これは電力需要だとか経済的にどうだとか、そういう問題ではない。

自ら生み出したテクノロジーを飼い馴らすことすらできなかった人類は、
再び、自然という強大な力に頭を垂れる、という意味に他ならない。

太陽光だろうが、風力だろうが、その意味での違いは無い。
太陽が射さなければ、風が吹かなければ、ヒトの営みは成り立たない。
それは正に、かつて我々が歩んで来た道に重なる。

極論かもしれないが、
詰まるところは、それを受け入れる覚悟はあるのか、ということだ。
そこまで議論を尽くして、エネルギーの未来を考えなければいけない。

「技術的には、今後、現在の電力需要をまかなうことは十分可能だ」
なんて言っているうちは、いつまで経っても、
おそらく、人類は再び同じ過ちを繰り返すだろう。

………………………………………………………………………

遥か未来を想像してみる。

人類の終焉が訪れたときの、「終わりの風景」を。

そこにあるのは、果てしない荒野か。
それとも、ヒトではない新たな種の繁栄か。

そんな大それたことを考えながら、このレポートの締めくくりとしたい。

12:00 | 雑記 | No Comments
2011/11/26

誰かが、福島原発近隣の街を『死の街』と呼んだ。

それが、失言だったのか、あるいは真実だったのか。
それを問うつもりは全く無い。

しかし。
そんな議論が踊る日本の姿に、やりきれない忸怩たる思いを抱えながら、
チェルノブイリ原発からわずか4km、原発の街、プリピャチの街を訪ねる。

1986年、原発事故の発生時には人口5万人を数えたこの街に、
現在、住むヒトは誰もいない。

事故から36時間後、原発周辺30km以内の全ての住民の避難が指示され、
およそ10日間以内に、すみやかに街は「放棄」された。

それから25年。

深い樹々に覆われた、プリピャチの街に足を踏み入れる。

………………………………………………………………………

まず向かったのは、街の中心にあったホテル。
切な過ぎる壁画が、いきなり涙を誘う。

建物内部は耐久性が著しく低下しており、いつ倒壊してもおかしくない状態。
驚くことに、樹木が、コンクリートを浸食し、建物の中にまで根を張っている。
あるいは、鳥がくわえてきた木の実が落ちて、それが芽を出したのだろうか。

ホテルの屋上からは、360°、街の全景が見渡せる。
かつては、ここから、人々の賑わいを眺めたのだろうか。

いま、目の前に広がるのは、静かに森に呑み込まれようとしている街の姿。
もう、どこへも行くことがない、街の終わりの風景。
ただ、それだけだった。

………………………………………………………………………

誤解を恐れずに言うならば、『死の街』を訪れる覚悟をしていた。
ツアーガイドも、臆すること無く、かの地を “Ghost Town” と呼んだ。

ただ、その認識は、全く誤っていた、と今は思う。
『死の街』であるならば、そこに充満しているはずの、『死』の匂い。

その匂いが一切しない。
それが、かの地を歩いて感じた印象だ。

まるで、発掘された中世の遺跡を見ているかのような、そんな感覚。
25年という短期間で、あっという間に『遺跡』と化してしまった街、
とでも言うべきだろうか。

実際、25年放置されて『廃墟』になった場所は、日本国内にも腐るほどある。
そういう場所は、得てして幽霊話の舞台になっていたりする。

しかし、眼前の『遺跡』を、それらと同じ眼差しでは見ることができない。
プリピャチの街から感じるのは、街の残骸としての『廃墟』ではない。

強いて言うなら、マチュピチュ遺跡の前に立った時と同じ感覚。

そこには、
『廃墟』を徘徊する死者、ではなく、
『遺跡』にかつて生きた生者の面影を、たしかに見たように思う。

そもそも、件の事故によって、このプリピャチ市内で死者は出ていない。
避難先で、急性放射線中毒、あるいは、放射線に起因する甲状腺異常等によって、
プリピャチ市民にも犠牲者が出ているのは間違いない。

が、確かに、あの街の中では、人々がバタバタと倒れていったわけではない。

『死』の匂いがしないのは、そういうことだろうか。

………………………………………………………………………

プリピャチの街には、そして、確かに、ヒトの営みを感じさせる、
生活痕、とも呼ぶべきものが数多くあった。

25年間、風雨に晒されて、なお、原型を保つ人形。

いますぐにでも、履いて走り出せそうなスニーカー。

一つもゴンドラが欠けることなく、凛と立つ観覧車。

まるで休み時間に開きっぱなしになったままの教科書。

ヒトの営みの強さと脆さが同居した光景に、言葉を奪われる。
涙も出ない。

そして、気付く。

街は死なない。
ただ、歳月とともに、土に還るだけなのだ、と。

12:00 | 雑記 | No Comments
2011/11/05

前回記事
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=270

………………………………………………………………………

12時。
10kmチェックポイントに到達する。

これ以降は、完全に居住が禁止されている地区になる。
厳密には30km圏内も禁止だが、そこには、暗黙の了解が横たわっている。

やがて、バスの前方に、原子力発電所の建物群が姿を見せる。
その一角には、爆発した4号炉が鎮座している。

まだバスの中にいるにも関わらず、
あちこちで、けたたましくガイガーカウンターが鳴り響く。

怖さは無い。

どんなに眼を凝らしても、燃えさかる火柱も無い。
どんなに肌を晒しても、斬りつけるような痛みも無い。

頭ではわかる。
これは危険を知らせる音だ。

ただ、上手く脳の回路が繋がらない。
「ピーピー」という単調な機械音だけが発する危険の兆候を、
どうしても、『生命の危機』に変換できない。

一度唸りをあげはじめたガイガーカウンターは、
まるで壊れたおもちゃのように、いつまでもいつまでも鳴り止まない。
むしろ、小煩いその音に、恐怖ではなく、不快感すら覚えてしまう。

そして、怖いと思えないことが、堪らなく怖くなる。

………………………………………………………………………

「おい、ジャパニーズ。胸のトコになんかついてるぜ?」

バスを降りて辺りを少し歩いていると、ツアー客の男が歩み寄ってきた。

ふと見ると、いったいどこでどう出現したのか、
一匹のカマキリがしがみついている。

手で振り払おうとして、一瞬、躊躇する。
こいつも、やはり、直接手で触れない方がいいのだろうか。

咄嗟に、上着を脱いで、振り落とす。

地面に落ちたヤツを、じっくりと観察してみる。
特段、変わりない、普通のカマキリだ。

辺りを見渡すと、それはそれは静かな川辺だ。
時折、鳥のさえずりが聞こえる。

その静寂の中を、割と頻繁に、人や車が行き交う音が響く。
彼らは誰一人、防護服など着用していない。

ガイガーカウンターの鳴動と、目の前の光景とが、
なかなかリンクしてくれない。

目に見えない敵と、25年間、闘い続けるということの意味。
その歳月は、恐怖を、日常へと変えた、というのだろうか。

………………………………………………………………………

「フクシマケースは、いまどうなっているの?」

また違うツアー客の女性から、唐突に声をかけられる。
4号炉を覆う、通称『石棺』に近付いたときのことだ。

事故から半年という突貫工事で完成した、この建造物は、
25年の時を経て、その耐用年数を迎えつつあり、
さらにそれを覆う『鉄棺』の準備が、急ピッチで進んでいた。

既に、事故から半年が過ぎた福島第一原子力発電所においては、
未だ、原子炉の安定制御のための努力が続けられており、
それを乱暴に覆い隠してしまおう、という措置は取られていない。

という書き方は、少し肩入れし過ぎだろうか。
チェルノブイリケースに比べれば、あまりに楽観的な対応、とも言える。

もちろん、『レベル7』という段階が同じというだけで、
それ以外の、ありとあらゆる状況が、チェルノブイリと福島では異なる。

政治、経済、科学技術、社会インフラ、事故の原因、etc…

「じゃあ、同じなのはなんだろう…?」

そんなことを自問してみる。

………………………………………………………………………

「これから昼食を摂りましょう」

ガイドのその言葉に、ふと我に返る。
と同時に、「どこで?」という疑問が湧く。
当然、ゾーン内の屋外では、モノを食べるのは御法度だ。

そんな疑念をよそに、バスは、発電所地区から目と鼻の先にある、
2階建ての建物の前で止まる。

まさかとは思ったが、どうやらこれが、ゾーン内の食堂らしい。
入口に線量計があり、全員、異常が無いか調べられる。

中は、さながら給食センターのよう。
食料品は、厳重に線量がチェックされており、内部被曝の心配は無い、
とガイドは言うが、盲信するわけにもいかず、
かといって、食べない、という選択肢も正直無い。

これを食べない、という判断をするくらいなら、
たぶん自分は、わざわざここまで来てはいない。
ガイドを、というより、自分を信じて、一口、食べる。
もちろん、味では全く判断できない。
それでも、確かめるように、一口一口、丁寧に口に運ぶ。

他のツアー客も皆、当たり前のようにむしゃむしゃ食べる。
ここまで来ておいて、ガタガタ言うヤツは一人もいない。

食後。
ガイドが、「パン屑を持ってプリピャチ川へ行きましょう」
と声をかけてきた。

何のことだかわからずに、言われるままに後をついて行く。

川にかかる鉄橋の上から、まず、ガイドがお手本のように、
川面に向かってパン屑を放る。
あっという間に、デカい魚が大量に集まってきて、それを貪り食う。

「ここでは、誰も魚を捕らないので、増え放題なんです」

中には、体長1m50cmはあろうかという、大ナマズの姿も見える。
話によると、その倍はあろうかという巨大なヤツも居るという。

遺伝子レベルでの突然変異の結果なのか、
あるいは、ヒトという外敵が不在であることの影響なのか、
その真偽のほどは定かではない。

(続く)

12:00 | 雑記 | No Comments
2011/11/01

これから書こうとしているのは、
「チェルノブイリのいま」を切り取ったレポート。

事故から25年。
いまだに、現在進行形で事故処理が進むかの地を、たった1日踏んだだけで、
わかったように何かを語るつもりはないけれど。

ただ。
放射線に対しても、災害支援に対しても、ズブの素人が、いまできること。
それはたぶん、考えることを止めないこと。

このレポートが、誰かの考える種になってくれれば、と願って止まない。

………………………………………………………………………

2011年9月某日。
ウクライナの首都キエフ。
その中心地である独立広場から、そのツアーはスタートした。

日帰りチェルノブイリツアー。
料金、US$160。
高いのか、安いのか。

わざわざカネを払って危険に身を晒そうというのだから、
参加するのは相当な物好きだけだろう…と思っていたのだが、
ところがどっこい。

居るわ居るわ、その数、およそ30人。

地元客も混じっていたのか、直接確認したわけではないのでわからないが、
自分を除く全員がヨーロッパ系の白人。
ロシア語、フランス語、ドイツ語などなど、バス内はさながら国際会議場。

年齢層は自分と同世代かもっと若いくらいの層が多い。
もしかしたら、アフター・チェルノブイリ世代も居たかもしれない。

4人グループで参加している若者。
デカい望遠カメラを抱えたカップル。
奥さんに見送られ、一人バスに乗り込む壮年の男性。

皆、軽い気持ちでこのツアーに来ているわけではないのだろうが、
存外、和気あいあいとした雰囲気に包まれている。
そんな中、どことなく所在無さを感じながら、一番後方の座席に陣取る。

キエフを発ったバスは、真っ直ぐ北へ。
景色は一様に続く、森と草原。

北へ近付くほどに、走る車の数は目に見えて少なくなっていく。

………………………………………………………………………

出発から2時間。
ついに、30kmチェックポイントに到着。
全員のパスポートチェックが行われ、いよいよゾーン内に入る。

ほどなくして、政府関係者が滞在、勤務する地区へ。
ところどころ、打ち捨てられ廃墟になった家も見られる。

本来、居住は禁止されているのだが、
一般の住民も180人ほど居るらしい。
一度は避難したものの、住み慣れた土地で最期を迎えたい、
と、この地に戻ってきたお年寄りも多いという。

まずは、会議室のような場所に通され、
担当の若い女性ガイドから30分ほどの簡単なレクチャーを受ける。

…もちろん英語で。
原発関連の専門用語の英訳を予習しておいて良かった。

その後、「後で放射線障害とか出ても文句は言いません」
という主旨の書類に全員がサインをする。
当然、ここまで来ておいて駄々をこねるような輩は居ない。

遂に、チェルノブイリ域内のツアーがはじまる。

一見、何の変哲も無い街の中を走る。
ふと、街の至るところに、
パイプラインのようなものが張り巡らされていることに気付く。

「地中は放射線量が高いので、水道管は地表にあるんです」
涼しい顔をして、ガイドは答える。

少し、背筋が寒くなるのを感じながら、バスは前進を続ける。

(続く)

12:00 | 雑記 | 2 Comments
2011/10/16

さて、前回の記事から、あっという間に1ヵ月。
サボりまくっててすみません…。

謝罪(言い訳とも言う)を並べ立てることはいくらでもできるけれど、
そんなもの書いてみたところで、全く読者が嬉しくないコラムなので、
前置きはこれくらいでご勘弁いただくことにしよう。

3週間弱に渡る旅先から帰ってきたばかりということもあって、
できれば旅のレポートを書いていきたいところなのだが、
いかんせん、8月のブータン調査旅行の話もまだ書いてないし、
今度もまた、割と考えさせられる旅だったので、まだイマイチ消化不良。

というわけで、今回は繋ぎの小ネタを少々。
みなさんにはあまり馴染みがないかもしれない、
「国際学生証」の話をしてみることに。

まず、「国際学生証」とはなにか?
別名ISIC(International Student Identify Card)カードとも呼ばれ、
ユネスコ承認の世界共通の学生用身分証明書、らしい。
Cardとカードがダブってるじゃねーか、という話はこの際置いておいて、
割と世界中で通用する、それなりに権威のあるカードのようだ。

………………………………………………………………………

このカード、大学生協などで割と簡単に作れるので、
いままでも一応、持ってはいたのだが、
いかんせん、あまりそのメリットを享受したことはなかった。

というのも、
アジアの場合、このカードを提示したところで、
「なにそれ、おいしいの?」くらいの冷ややかな反応をされることが多々。
そんなのが積もってくると、だんだん、出すことすら躊躇いがちになり、
しまいには、海外に出る際に「コレ、ホントに持っていく必要あるのか?」
と、小一時間ほど悩んでしまう、という残念な結果が待っている。

今回、旅支度をしているときにも、正直、
「別にかさばらないし、とりあえず」くらいの軽い気持ちで荷物に忍ばせた。

ところがどっこい、
ヨーロッパの場合、効果てきめん。
至るところで入場料割引、場合によっては列車やバスの運賃すら割引になる、
素晴らしい魔法のカードに早変わりしたのだった。

例えば…

ロシアのクレムリン宮殿入場料
一般:350ルーブル(≒¥1200)→学生:100ルーブル(≒¥350)と1/3以下。

ラトヴィアのトゥライダ歴史保護区入場料
一般:3ラッツ(≒¥450)→学生:1ラッツ(≒¥150)と1/3。

などなど。
大概の博物館や美術館で、半額以下になるというお得感。
いままで邪険に扱ってきた彼をちょっと見直した。

………………………………………………………………………

もうひとつの効能、というか本来はこっちが主のはずなのだが、
旅先での身分証明書としても勿論使える。

旅行中、何かあった時のために、身分証明書を持ち歩くことは必須。
ただ、普通はパスポートくらいしか国際的に通用する身分証明書がないので、
結果、パスポートを肌身離さず持ち歩くことにならざるを得ない。
しかしながら、その行為は、スリなどに遭って紛失するリスクと隣り合わせ。
なんとか持ち歩かずに済む方法はないだろうか、と考えたことがある、
という方もいるのではないだろうか。

そんな旅のマストアイテム、パスポート代わりの身分証明書として、
この国際学生証はそれなりの威力を発揮する。
何もないことに越したことはないのだが、何かあったときのお供に、
財布に忍ばせておくだけでも、安心感がちょっと違う。

とはいえ、国によっては、全く通用しないことだってあるし、
万能ではないことを理解した上で、リスクとの天秤にかける必要がある。

なにより、安宿を転々とするような学生の場合は、
そもそも、パスポートを宿に置いていくほうが、万倍危険…
そして、まともな宿に泊まれるようになった頃には、
もうすでに学生ではない、と。

世の中ってヤツは、なかなかどうして上手くいかないようにできている。

とまあ、「国際学生証」について、つらつらと書き連ねてみたものの、
最後の最後まで来て、はたと気づく。

よく考えたら、このコラムの読者に、「学生」なんているのだろうか、と。

« Previous | Next »