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2008/05/18

勝手にプロデューサーコラム vol.10
食育を書く、栄養士志望ライター・クラモチとわたし

JunkStageをごらんの皆様、こんばんは。
JunkStageプロデューサーの須藤優でございます。
本日は、JunkStageの定例ミーティング。
その場にライター・クラモチさんも来てくれるということで、
わたしがしたことはなんとも「手作り弁当のおねだり」。

炊飯器を壊し、パックでチンするごはんをコンビニで買いだめして
店員さんに「最近、地震多いですもんねえ」と語りかけられ
今日の食事だとは言えなくなった須藤に同情してか、
快く受けてくれたクラモチさん。

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メニューはデミグラオムライスと、チキン&ほうれん草ソテー。
25分で味見もせずに作ったと知ったのは、完食した後でしたが。

そういえばわたしがまだ大学生の頃、食育の取材をしたことがあります。
当時はまだ食育なんてことばが、「何それ?」だった時代。
その頃、某誌の編集部でアルバイトしていたわたしは、
「おもしろ資格特集」の取材企画を、プロダクションの社長と練っていました。

社長「食育アドバイザーっていう資格があるらしいんだよ」
須藤「食欲アドバイザー?!そりゃなんかすごそうですね」

食育と食欲の聞き間違いをしたわたしは興味を示してしまい、
その資格のリサーチ担当に任命されます。
なんでも、(あくまで、その当時の定義ですね)
「今のこどもたちは、サカナが開きで泳いでると思ってる。
そういうものを教育していくアドバイザーの資格」だとのこと。

そういえばクラモチさんは、こんな話をしてくれたことがあります。
「食育」に苦心しながらも様々な工夫を凝らす、栄養士たちの話。いわく、
「割れる食器なら丁寧にも扱う。
使い捨てじゃなければ、洗い物にも立つ。
おんなじお弁当でも、青空の下で食べれば味も変わる。」
そんな工夫をしながら、「食」に対する姿勢をあらためる、という話。

気付けばわたしも、
中学校以来のお弁当包みをしばる堅結びをわくわくとほどき、
ひさしぶりにプラスチックでもわりばしでもないおはしとスプーンで、
ひとり無人の部屋で「いただきます」(←コンビニ弁当には、いわないでしょ)。
この歳になって、年下のクラモチさんに「食育」されている須藤でした。

2008/02/27

お久しぶりです、こんにちは。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

今日は大事なお知らせがあります。
JunkStageで舞台をやることになりました。
えっそれこのタイミングでこの場所で勝手に言っちゃうの? とうちのスタッフ(←うるさい)が怒りそうです。

ゆかりさん、イトウシンタロウさんが、演劇します。
安直樹さんが、イスバスパフォーマンスします。
鷲見さん率いる超豪華クラシックチームが、コンサートやります。

展示会なみに、Junkのライター大集合。ふれあえるチャンスです。
ベトナム青年海外協力隊のRudyさんに、現地のホントのとこを聞けます。
ヒロトくんの、どかーんな展示会も、あります。
詳細は後日アップします。

あなたの8月2日を、わたしにください。

ひるがえって、昨日。というか今朝。
とある縁で、スタッフ千恵さんと赤坂にいた。
ゲイとかなんだとか、そういう分類にわたしは詳しくないのだが、
きれいなお姉さん(男性)が、歌ったり弾いたりするところだった。

そこは、明るくて、ステージに段差がなかった。
手が届くところに、というよりは気をつけなければぶつかるくらい、
ステージに近い所に設置されたまるいテーブルが客席。
ちょっとした表情も見える、肌感も伝わる、その距離感。

目の前で全力で演じられて、わたしは久々に涙が止まらなくなった。
おとなりの千恵さんは、さぞかしおろおろして……なかったなあ。
「情熱」なんて言葉はくさいのだが、だれかの情熱に触れるとき、
傾倒ともいえるほどのその偽らざるまっすぐな意志が、体全体から発される。

オーラに満ち満ちていた。
人を凌駕するオーラはきっと、どこまでもは届かない。
オーラの発される半径のなかに、いたということなのだろう。
客席からステージを「見下げる」ことが、圧倒的に多かった。
だから、「同じ人間」がそこで何かをしている、と感じることが、あまりなかった。
「同じ人間」だと感じるとき、つまり昨日、わたしは彼女たちのことを
「すげーな」と思いこそすれ、嫉妬もしたし不甲斐無い無力な自分も思った。
それでいいのだと思った。

なにか、悪いものが洗われて、いま流行りの「デトックス」した気分になった。
いや、600CCくらい泣いたので(脳みその3倍だ)、実際デトックスしたのだが。

この距離感、この肌感。
ディズニーランドじゃない。劇団四季でもない。

こんな舞台を、つくりたいと思った。

よし、やるぞ。やるぞやるぞやるぞ。

2008/01/10

JunkStageをご覧のみなさま、今晩は。
JunkStageプロデューサーの須藤優でございます。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
まだ1周年にさえ程遠いJunkStageですが、今年もガッツリ頑張ります。
なんて言うと、スタッフに嫌われるかもしれませんので、程々に。

さて、JunkStageでは、20人が乱れ入る新年会を、去る6日に行いました。
場所は渋谷のとあるしっぽり炭火焼屋さん。
10人単位で1フロアを貸し切れる素敵なお店。
いやあ、なんでそんなに初対面で盛り上がれるのか、というほどに
あちこちでなにかを力説している人たちがたくさんいました。

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(そんな新年会での1コマ。鬼編集・桃生さんに説教される某ライター。)

JunkStageはいまのところ、ライターさんには相当な審査をかけています。
裏を返せば、いまいるライターさんはスタッフの「だれか」が惚れ込んだ人、ということです。
それを「クオリティ」という言葉にするのであれば、基準を問われることがよくあります。

「熱のある人たちが集まって、丁寧に表現することの素晴らしさを感じます」
かつて、読者だった方からこんな意見をいただいたことがありました。
Junkのライターさんには、偽らざる好きなものへの「情熱」がある。
そして、それを丁寧に、文章という目に見えるものに昇華させるのがJunkという場所です。
そのこだわりや愛情、情熱は、かならず書き手に伝わります。

書き手と読み手の間にはたったウィンドウ1枚ですが、それだけに読み手は書き手の「人間」に敏感で、「やらせ」「つまらん」「なんかいや」は、すぐばれます。
(広告業界にいたから、よくわかるのです。おいしくないものを「おいしい」と書くと、なぜか必ずばれるのです。)
うちのスタッフの「誰か」を魅了した、変わらぬ情熱のお手伝いを、今年もわたしたちはしていきます。

そして去年の今頃、Junkがまだ名前もないころやって散々こき下ろされたキックオフ飲み会。
あのときすでに、フィルコさんやヒロトさん、鷲見さんがいらっしゃいました。
あのときからJunkの可能性を信じ、その情熱の発散しどころのひとつにしてくれた方々の存在を肝に命じつつ。

JunkStage、今年は第二段階に入ります。

2007/12/17

JunkStageをご覧の皆様、こんばんは。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

年も瀬になりますと、いろいろと反省やら何やら、考えることが多いですね。
今日は、JunkStageで、プチ忘年会をしてきました。
久しぶりに会うメンバーあり、いつものメンバーあり、
日ごろ原稿を書かないとかよく音信普通になるだとか、
そんなこと関係ナシに盛り上がれるのがJunkのメンバーです。

さて、もう第7弾になりましたこのプロデューサーコラム。
今回は、JunkStageを支えてくれた人の話をしようと思います。

JunkStageを支えた人々~「200行のY氏」の場合

私が、Y氏に会ったのは、1年前だったか、2年前だったか・・・
それはなんだか不思議な縁で、その頃お世話になっていた広告代理店のつながりだった。
私はY氏と直接仕事をしたことはなかったし、つまり「飲みの席」でしか一緒にいた覚えは無い。

その頃私がいた広告代理店は非常に魅力的な会社で、
「長」がついても人々は死ぬほど働き、死んでもいいくらいに仕事が大好きで、
酒が入れば自らの仕事へのパッションや夢を大いに語る、そんなところだった。
そして、ひょんなことから繋がった部署の縁で、Y氏と私は同じ銀座の町で、
同じ白ワインのボトルを囲んでいた。それだけ、だった。
すれ違うだけの人なら、年間1000人の桁を踏むような業界だったし、
まさか私自身も、Y氏とそんな関係になるとは、思ってもいなかった。

それから約一年後、私はその会社を飛び出すことになる。
同じ頃立ち上げたのが、このJunkStageだった。
オープンのお知らせを、割と満身創痍でした私は、結構燃え尽き症候群の気もあった。
自信はある程度あったし、そのときできる範囲でベストなものを作れた、という自負もあった。

そのとき、信じられないくらい長文のメールを返してきたのが、Y氏だった。
文章だけ噛み砕けば、ただのダメ出しに過ぎない。
彼の意見は至極もっともで、またわたしも「それができたら苦労しないんだよ」と思いながらも
なんだかせっかくひとつの壁を越えたつもりが、まるでなにもできていなかったように感じてしまったのも、確かだ。

しかし、そのときのY氏のメールは、200行に及んでいた。
「マガジン」を名乗ることが、いかにブランディングを必要とするものか。
ウェブという、誰でも参入可能なメディアを使うことによる、甘えはないのか。
それを根幹として、今すぐにでも改善できる具体的な示唆ばかりを含んだものだった。
とかく大人というものは、語弊を恐れずに言うのであれば、私たちの年代がなにかを仕掛けようとしていることそれ自体だけで、応援してくれるものである。
その無償の愛情がまた、次へ繋がるモチベーションにもなったりもする。
Y氏の200行には、そんな愛情はなかった。(いや、5~6行はあったかもしれないが)
その代わり、私たちを「下の世代」と扱わない、対等である故の率直な意見だった。

それから私はその「200行」を編集部に持って帰り、総力をあげてリニューアルをした。
それが完了したのが、今年の9月のこと。
今回も、Y氏が「ホンキで」意見を述べてくるのはわかっていたから、私は相当構えていた。
Y氏からはやはり、すぐにメールが返ってきた。

「何も言うことはありません。・・・梁山泊でしょう。」

そのときの私は、なんか褒められたらしい、とは思いつつも、まだ噛み砕けずにいた。
それは、「梁山泊」というものが、精鋭が集まって中国の政府に反乱を起こした、くらいの知識しかなかったからなのかもしれない。

Y氏のことを、いまでも私は「センセイ」と呼んでいるが、本人が嫌がるのでいまは心の中でだけだ。
全19巻の「水滸伝」を8巻まで追いつつも、私はあのときY氏の口から出た「梁山泊」の言葉の意味を追っている。
それは私が思うよりもずっと深くて、ずっと荷の重い言葉だった。

それがほんとうに、思わず出た言葉だったのか、鼓舞するための褒め上手な(このへんに定評のあった人ではあったのだ、もとから職場では)言葉だったのかは、わからない。
しかしこうしてJunkStageは、初動でY氏が警鐘を鳴らした「メディアを名乗ることの重さ」「ブランディングの差別化」を、いまもずっと考えつづけている。

2007/11/29

JunkStageをご覧の皆様、今晩は。
最近午前2時から5時がコアタイムになりつつある、
JunkStageプロデューサーの須藤優でございます。
ちなみに、お酒が入っているからコアタイムなわけではありません。

ここまで、3回連続でスタッフ紹介をしてきましたので、
たまにはメディアとしてのJunkを語ってみます。

勝手にプロデューサーコラム vol.6
Junkの軌跡~「場作り」って、何ぞや

「ライブドアや楽天になる気はなかった」
いま思えばそうだったのだ、と思うことが、ある。

JunkStageが名前すらない頃、
実際にライブドアや楽天にお邪魔していた。
私は「金をくれ」とか言う気は全くなくて、
ただ、ブログやWEBのスペシャリティがどう思うのかが、聞きたかった。
いま思えばそれを受け入れてくれて、「金出せ」とか言わずに率直に意見をくれた方々は(しかもたいていコーヒーとかを出してくれた)、ほんとうに稀有だったとも、思う。
あの日があるからいまがある、と、よく思う。

始動前は応援されたが、サイト公開後には、よく言われたことがあった。
「書き手が1000人、いればね。」
「お金を生まなきゃ、価値はないんだ」
「メリットがなければ、人は離れていく」

私は21歳を境に、ひとの話を聞く、ということをひとつのポリシーのように大切にしてきたので、よくよくよくよく、考えはした。
しかし、書き手を1000人にして個人情報を取り、広告収入でお金を得ることがそんなに社会的に偉いことだとは、いろいろ考えてみたものの、思えなかった。
まして、そんな広告収入による小銭(←広告屋としては失言)を還元すればいいライターが残ってくれるなどとも、思えなかった。
そうして、そんな大人はかならず言うのだった。
「人を繋ぎとめるのは、大変なんだよ」

人を「繋ぎとめる」なんて言い方をする目の前の大人を、
あのときの私が「それが世の中」と割り切っていたら、どうなっていたのかはわからない。
無駄に喧嘩などしないことを覚えてはいたが、でもただ、無視した。

しかしその頃のわたしはやっぱりなんだかへんな反骨精神にまみれていたことも確かで、
じゃあそれが本心からの信念だったかと問われれば、かなり怪しい。

が、ここにきて、JunkStageはラジオだの雑誌だののマスメディアに露出し、
このサイトをフックに寄稿や仕事の依頼が来たりすることも増えた。

しかし私自身はそれは、JunkStageという媒体の力ではないと思っている。
(いや、私がこんなことを言ってはいけないのかもしれないが)
あくまで、ライターひとりひとりの力、魅力だ。
JunkStageが異常に長けていた点がもしあるのだとすれば、
それは「人を見る目」だったのだろう。
ほとんど例外なく、JunkStageのライターは前へと進んでいる。
その進化において、JunkStageという媒体の果たした役割は、相当小さい。

それでも、JunkStageのライターは、わたしが焦るよりも
ずっと長い目でこの媒体を見て、いっしょに歩んで行こうとしてくれている。

そしてわたしが何よりも衝撃的だったのは、
無名の人間が無名のメディアで発信活動をしていても、
見ている人は見ているもので、そのクオリティによって
コンテンツにも、パブリシティにさえなるということだった。

情報が氾濫するネット社会だからこそ、
本当にいいものが淘汰されていく。
そう信じた、というよりは願ったあの感覚が間違いではないと、
わたしたちはいま、教えられている気がする。

JunkStageは、良くも悪くも
「考えながら走る」よりも、「追いかけながら走る」。

それでもわたしは、
なにもできない自分とか、ただの箱でしかないメディアの存在が、
やっぱり不謹慎にもうれしいのだった。

奇跡に近い、この運や縁を思いながら。

2007/10/14

JunkStageをご覧の皆さま、こんばんは。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

さて、JunkStage代表のわたしが、JunkStageのメンバーに一方的に愛を語るこのコーナー。
誰にも告知せず、秘密で更新を続けておりますが、先日CSSをぐちゃぐちゃにしてしまい、システム担当のヒトシさんに泣きついたところ
「内緒でやろうとするからそういうことになるんですよ!」と怒られました。
今日は、ヒトシさんの話をします。

勝手にプロデューサーコラム vol.5
Junkな人々 ~フジワラヒトシの場合

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2006年3月、私は「ヒトシサン」に会った。
それまで3ヶ月以上、頭と心の中だけで悶々としていたプロジェクトを形にしてくれた、JunkStageのプログラマー兼エディトリアルデザイナー。
でも「ヒトシサン」は、それを頑なに否定する。
「俺はプログラマーじゃない」「俺はデザイナーじゃない」。
それでも、会って3日で「ヒトシサン」は、私の考えていたことをウェブサイトというメディアにしてくれた。
JunkStageの名付け親も、実は彼だったりする。

「ヒトシサン」は名前が出せないくらい超大手ゲームメーカーの経営企画室にいて、趣味はゲームと競馬。
ミーティングの合間に「あ、ちょっと待って」と競馬新聞片手に携帯から馬券を買う姿は、ラ・サールの影も東大の影も無い(まあ、スピンアウトしたわけだけども)。

加えて「ヒトシサン」は、私のお願いをまったく聞こうとしない。
「うんわかった」とすぐ言うくせに、自分が納得しないことは一切やらない。
「ここ、どうしたもんかな」と相談をもちかけてくるくせに、私の言うことなど一切聞いていない。
やらないかわりに、代案を「形」にしてくるし、聞かないかわりに、結局どうにかしてくれる。
それを見て、ああやっぱりこっちのほうがよかったな、と思うことは実際9割くらいあるし
JunkStageのメンバーは彼のことを「スーパーヒトシ君」とよぶ。

そんなわけで私は彼に絶対の信用を置いており、それゆえ彼に意見するときも「話半分で言う」ことにも、している。
最近の「ヒトシサン」はだんだん嘘は言わなくなって、「うんわかった」のかわりに「やってみます」と言うようになった。
どちらにしろ、私はそれも、話半分で聞いている。
「ヒトシサン」と私は、お互い話半分で話し、話半分で聞いているわけで、それは会話としては茶番に近いものさえあるのだが、とにもかくにもJunkStageはそうやってできている。

「ヒトシサン」は、よく言う。
「俺はプログラマーじゃない」「俺はデザイナーじゃない」。
実は私もそれには賛成で、本当は文章を書いてもらいたいと思っている。
彼の文章はずるいし姑息だが、涙なしには読めない哀愁と独特のテンポとリズムがあって、その天才的なセンスの私はファンなのだ。
あきらめの悪い私は、アル中の「ヒトシサン」が酒が入ってガードがゆるくなっていそうな頃を狙って、「そろそろ書いてよ」としつこく言う。
「ヒトシサン」は、かならずこう言う。「うん、そろそろね」
この「うん」を、だから私は一番信用していないのだ。

2007/10/10

JunkStageをご覧の皆様、今晩は。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

今日は皆様に朗報があります。
JunkStageの小説家、桃生苑子の作品が、「文学界」最終選考にノミネートされたのです。
今日は、桃生の話をしようと思います。

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勝手にプロデューサーコラム vol.4
Junkな人々~桃生苑子の場合

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私が桃生に会ったのは、これまた18歳のときだった。
しかしそれから2~3年、私と彼女は通りすがるだけの関係だった。
「名前は知っているけど、話したことはない」そんなどこにでもある関係だった。

が、桃生のことは、「名前」以上に知っていたと思う。
歌舞伎町の女王であったこと。
家がちょっとしたビルみたいな豪邸であること。
うーん、その先はちょっと18禁。

JunkStageの初動メンバー、チエの友人だったのが、桃生だった。
才能ある小説家がいるからJunkStageで書いて欲しいと思っている、そう言ってチエが一番最初に連れて来たのが、桃生だった。
小説って、どんな小説なのかな、私が何気なく聞くと、
チエのケータイに帰ってきた桃生の返信メールはこうだった。
「得意分野は、風俗、やおい、BL(筆者注、ボーイズラブ、わかる人だけわかればよろし)、性産業、バイセク、などです」
小心者なわたしは慌て、「まずは青少年も読めるものからはじめてください」と言い、スタッフには「優さんカタイからなあ」なんて疎まれたおぼえがある。
そうやって始まったのが、あのキレイな連載、「Flora World」だ。

JunkStageに参加をしたころ、桃生はちょうど転機にいた。
自身のホームページをネーミングからしてリニューアルしていたし、
桃生苑子の名前にペンネームを変更統一したのも、あの頃だった。

だからなんだか、桃生苑子とJunkStageがいっしょに生まれたような気がして、
わたしはそんな幸せな勘違いをいまでも奇跡のように信じている。
それはきっと、着物が趣味の桃生が下駄をぺたぺた言わせて「優さまー(はぁと)」とミーティングのたびにわたしに手を振ってくれる、そのときのわたしの「萌え」と同じ種類の勘違いで。

だから彼女は、ヒトを惑わす天才なのだ。

2007/09/25

JunkStageをご覧の皆様、今晩は。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

昨日、JunkStageのメンバーで、
舞台女優・帯金ゆかりの舞台を観に行ってきました。
今日は、ゆかりの話をしようと思います。


勝手にプロデューサーコラム vol.3
Junkな人々~帯金ゆかりの場合

私が始めて帯金ゆかりに会ったのは、18歳のとき。
演劇の聖地と言われている早稲田大学で私は演劇にはまった。
とはいっても、演るほうじゃなくて、見るほう。
そんな早稲田大学には老舗の劇団がいくつかあって、その中でも一際格違いな「早稲田大学演劇研究会」というものがある。
通称、「劇研(げきけん)」。
サークルでも同好会でもない。
まして、早稲田大学の人間なんて、半分くらいだ。
全国各地から劇研をねらって、人々は集まる。
鬼の稽古は、100人いたら2人くらいしか生き残れない。
新人稽古の期間は、アトリエ前に毎日救急車が来る。
稽古は毎日、午前中いっぱい。
つまり午前中の授業は自動的に出られないので、
そこに必修科目がぶつかった場合、留年するか良い友達を持つしかない。

で、私はその“良い友達”だった。
友人Aが劇研と知って、私は自分のレポートよりも彼女のレポートに命を賭けた。

その女優Aが所属したのが、「北京蝶々」という劇団だ。
私は毎回、北京蝶々の舞台を観に行った。取材もした。
主宰にして演出家の大塩さんは、話がわかりづらく脳内カオスな天才だ。
私は大塩さんのことも、物凄く物凄く大好きで、当時自分が作っていたフリーペーパーにも出演してもらった。
その「北京蝶々」に、とんでもない女優がいたのだ。

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叫ぶ。飛ぶ。いや、飛んでいる。すべてが。
言葉では言い表しようのない、台風のような女優がいた。
それが、帯金ゆかりだった。

ゆかりとは直接の知り合いではなかったが、お互いよく見たことはあったので知っていた。
私がキューバから帰ってきて久しぶりに大学へ行ったとき、
15メートルはあるスロープの下で、ビラ配りをしていたゆかりは私を見つけると、
ありえないオーバーリアクションで獰猛に走ってきて、
しかし私のそばまで来るとそこにきて若干の遠慮が生じたのだろうか、
「キュ、キューバっ! おかえりっ!」と、妙にしなを作って言った。

これが、私とゆかりの初めての、2人で交わした台詞である。
が、ゆかりはどう思ったか知らないが、私は「か、怪物!」と思ったことも、事実。
(ちなみにだがゆかりは可愛い。小動物キャラだ)

それから時を経て、私は人探しをしていた。
ジャンクステージで演劇を書いてくれそうな人間を探していた。
演劇をやっている人間は大抵面白いのが多い、と知っていたからだ。
そんなとき、ふとしたきっかけから、mixiでゆかりのページを見た。

一部抜粋して勝手に載せるが(たぶんゆるしてくれるだろう)。

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“山梨の盆地のど真ん中で産声をアレしました!

双葉中学で、えんげきへの思いを胸に秘めつつバスケ部で毎日死ぬほど走る。
試合中に顔がどんどん青ざめていく私に、真っ赤な顔をして汗だくの同級生は「ゆっかは頑張っていない!」とマジギレ。
頑張ってるのに…。顔色が悪いのは生まれつきなのに…。汗が出ないのは私のせいじゃない…。ああ、えんげきがやりたい。
小中あわせて都合5年くらいバスケに浸るも結局ドリブルすらマスター出来ず、トラベリングの女王という不名誉な称号だけをもらい、引退。

それから演劇部がまともに機能してるらしいという噂を耳にし、甲府西高校に入学。そりゃあもう演じる。駐輪場で狂ったように発声練習をし、訳の分からないエチュードを繰り広げる。
もう、他に興味があるのはモスバーガーのホットココアか、あとは演劇だ!

というわけで、おもに演劇をする人ですよ!!
おもじゃない時は、間違えたり早とちりしたりミスしたり、それはそれで忙しいです!

夜中はたいてい、高円寺の寿司屋のホールをうろうろしています。たいていうろうろしているだけなので、「この給料泥棒!」と板前から踏んづけられる日々です。

365日あったらねえ、150日くらい、舞台に立っていたい! ”

私はこの文章に、度肝を抜かれたのだ。
舞台に立つゆかり、オーバーリアクションで走ってくるゆかりにも度肝を抜かれたが、この文章には本気で度肝を抜かれた。
なんだ? この、正体不明な疾走感は。読了の、スカっと通る爽やかさは。

私は迷うことなく、ゆかりを口説いた。
本気で口説いた。
これ以上ないくらい本気だった。

そんなわけでゆかりは今ではジャンクステージになくてはならないキャラだ。
演じる演劇。観る演劇。
そしてジャンクでは、「読む演劇」。

ぶっ飛びつづけている、ゆかりであってほしい。
私はどこまででも、応援する。

2007/09/18

JunkStageをご覧の皆様、今晩は。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

広告業界にいるからか、「プロデューサー」って肩書きに胡散臭さを感じます。
「アカウントエグゼクティブ」って肩書きに、胡散臭さを感じるのとおなじです。

もともと私は編集長を名乗っていたのですが、
第3次リニューアルでJunkStageを週刊マガジン化した際に
「編集長はスタッフ4人が持ち回りで担当」となってしまったので
身の振り方に困っているわけです。

みんなも困っています。
困ったあげく、「ボス」と呼びます。いやな感じです。
だって、初対面の新規ライターさんに向かって、
「これがうちのボスです」ですよ。イヤでしょ、そりゃー。
どなたか、良い感じの肩書きがあったら教えてください。

勝手にプロデューサーコラム vol.2
「JunkStageをつくった人々」

JunkStageは、「ヒト」でもってるメディアにしたい。
情報を量でかき集めて氾濫させるだけのインターネットにしたくない。
しかし、人財というのは、とても難しいテーマだと痛感させられていた頃。

私は久しぶりに、旧知の友人で音楽家の、鷲見精一に会った。
鷲見精一は、言った。
「クラシックを変えたい。日本にベルリンフィルみたいな文化を根付かせたい」。

チエは、大学時代のほとんどの時間を共にした桃生に会った。
桃生は、言った。
「わたしは絶対、小説家になるから」。

マツは、ひろとに会った。
ハタチになったかならないかくらいのひろとは、言った。
「インターネットって、魔物でしょ。それを利用すりゃ、いいんですよ」。

…あ、整った。
ほぼ同時期に、3人は同じ事を感じていた。

私はまた企画書を書いた。
今度の企画書は、30枚だった。

そしてその後、思いをカタチにする出会いがあった。
ひとりは、整(ヒトシ)。
自分は素人だと連呼するが、頭のまわる賢いプログラマーだった。
加えて、エリートコースを途中でスピンアウトしたやつ。
「あ、5分ちょうだい」と言って競馬新聞と携帯に向かう姿は、ラサールの影も東大の影も無い。
整は3日で、3人の思いをWEBサイトのカタチにした。
JunkStageの名付け親も、整だ。

もうひとりは、メイプル。
「JunkStageは、ファミリーだから。ムラ社会だから。」
そう言って、初期のJunkStageのイラストデザインを描き起こした。
美大在籍、カメラマン、専攻は建築、JunkStageではデザイナー。

ふたりの共通点は、その口癖にある。
「優さん、俺はプログラマーじゃないっすから!」
「優さん、あたしはデザイナーじゃないっすから!」
頭の中で考えてたって、何も生まれない。
こうして形にしてくれるから、やっぱりクリエイターは偉いのだ。

JunkStageは、ヒトによって進化している。
そして、ヒトによってしか進化しない。
整が来て、3月にサイトを公 開した。
メイプルが来て、5月にリニューアルをした。

その上、書き手は増え続けている。
ちいさなメディアは月に2人のペースで叙々にライターを増やし続けている。
しかし数で勝負はしない。
「1000人いれば、ネットワークだけでビジネスができる」ある人は言う。
しかしそれで、ひとりひとりを輝かせるマネジメントが出来るだろうか?

読み物としてのクオリティを高めること。
ふと見えてしまった、その人の魅力を生かし、プロデュースすること。
そのためには、阿吽の呼吸で動くマネージャーが、絶対に必要なのだ。
そんなわけで第3次リニューアルから、ライター1人につき専属1人の編集者をつけた。

理由はわからないが、JunkStageのメンバーは、周りの人間に恵まれた者が多い。
私の代理店時代おなじ会社だったYさんは、JunkStage公開のご報告メールを送ったら、感想と改善点を200行にわたって送ってきた。
的を射たものばかりで、私はそれを噛み砕いて今回のリニューアルの叩き台にした。
ちなみに今度の企画書は12枚だった。

チエの同僚のKさんは、「ああ、もう見てらんないよ」と言って、JunkStageのスタッフになってしまった。今じゃ編集長である。
ふたりは職場でランチをしながら、原稿の校正をするそうだ。

私たちはまだ、未熟だ。
でも、これだけ錚々たる人間が集まってくれている。
彼らの魅力を、さらに引き出すこと。
世の中のより多くの方に、見せていくこと。

たとえそれがどんなに小さな波でも、波をつくることが大事なのだ。
JunkStageのライター、帯金ゆかりの所属する劇団「北京蝶々」の劇団名の由来が、「北京で蝶々がはばたくと、遠くアメリカでハリケーンが起こる」という、小さなことが遠くのどこかで大きな力を持つ「バタフライエフェクト」からきていることも、偶然ではない。

異世界が集まり、融合する場所。
いつまでも、人を大事にするJunkStageでありたい。
私たちは、切にそう願っている。

2007/09/18

JunkStageをご覧の皆様、今晩は。
JunkStageプロデューサーの須藤優です。

このコーナーは、私・須藤優が、酒を片手に
JunkStageの過去現在未来について、勝手にコラムを書く場所です。
いえ。そういう場所にいま、“しました”。

実はコレ、始動の2007年9月18日現在、メンバーも誰も知りません。
いつか誰か、気付くのでしょうか。
そもそもスタッフブログなんて、誰か読んでるのでしょうか。
いま、読んでるあなたは相当レアです。
レアなあなたに感謝をこめて、語ります。

勝手にプロデューサーコラム vol.1
「JunkStageが降ってきた瞬間」

JunkStageが、読み物ポータルサイトからWEBマガジンに進化を遂げて、とうとう4号目。
猛スピードでここまでやってきたわけだが、道は決して平坦なものではなかった。
今後、このコーナーで随時JunkStageの活動紹介をしてゆきたいと思う。
1回目の今回は、JunkStageの誕生秘話。
といっても、ひみつにすることは何もない。

JunkStageの発起人(私だ)がまだ、箱ばかりデカい広告代理店に勤めていた頃。
ゆっくり大事に育てられてゆく日常の中でふと、JunkStageの叩き台となるアイディアを思いついてしまった。
家のパソコンにはパワーポイントが入っていないので、3日3晩会社で徹夜して、92枚の企画書を書いた。
5時の始発で帰って着替えだけして、2時間後にはまた会社にいた。
なぜ上司相手にそんなアリバイ工作をしていたのかは、謎だ。

92枚の企画書は、創立メンバーの「チエ」と「マツ」に送られた。
学生時代に、一緒に大学生向け雑誌を刊行していたメンバーだ。
2人は、久しぶりの連絡かと思ったら、やけに重い添付ファイルがついているもんだから、ちょっとだけ嫌な予感がしたのだという(後日談)。
開いたが最後。次の日の晩には、3人は渋谷の穴蔵バーで会合をすることになっていた。
不倫とSMについて語り、「そう、世の中には水面にあがってこない『忸怩たる思い』がいっぱい埋まってる!」というところで意気投合。

プロジェクトの名前が「JunkStage」に決まるのは、もっとずっと先のこと。
仲間うちで「例のもの」と呼んでいるうちから、錚々たる大手IT企業に特攻アポ入れをしては、最先端の現場の担当者の方に会って頂き、ご意見を頂戴した。
あのときの「頑張って」は社交辞令だったのかもしれないが、大きな力になった。
そして錚々たる大企業の担当者は、必ず最後にこう言った。
「実現したら、おもしろいですね」。
実現したら、の前に、(もし万が一)、って単語が見え隠れしていたのは、気のせいだったのかもしれないが、逆境に火をつけられたことも、確かだ。

音楽家からアーティスト、カメラマン、小説家、果ては青年協力隊まで、JunkStageは面白い人間が集う場となった。
しかしそれは結果にすぎない。
創立メンバーである「ユウ」「チエ」「マツ」の3人は、私の掲げる「片手間天才集団」なんてタグラインをさらりと流しながら、仕事の合間を縫って鋭意スカウティングに赴いた。

その条件は、たったふたつ。
「ヒトとしておもしろいこと」「文章が書ける人」。

まずは学生時代、一緒に雑誌を作っていたメンバーから当たることにした。
が、現実は想像以上にキビシイ。
「そんな学生時代のサークルみたいなことしてられるか!」
「金くれるなら、やるよ」
世の中は、知らないうちに世知辛くなっている。

つづく
vol.2は「JunkStageをつくった人々」