Home > 【071029特別号】
JunkStageをご覧の皆様、今晩は。
最近午前2時から5時がコアタイムになりつつある、
JunkStageプロデューサーの須藤優でございます。
ちなみに、お酒が入っているからコアタイムなわけではありません。
ここまで、3回連続でスタッフ紹介をしてきましたので、
たまにはメディアとしてのJunkを語ってみます。
勝手にプロデューサーコラム vol.6
Junkの軌跡~「場作り」って、何ぞや
「ライブドアや楽天になる気はなかった」
いま思えばそうだったのだ、と思うことが、ある。
JunkStageが名前すらない頃、
実際にライブドアや楽天にお邪魔していた。
私は「金をくれ」とか言う気は全くなくて、
ただ、ブログやWEBのスペシャリティがどう思うのかが、聞きたかった。
いま思えばそれを受け入れてくれて、「金出せ」とか言わずに率直に意見をくれた方々は(しかもたいていコーヒーとかを出してくれた)、ほんとうに稀有だったとも、思う。
あの日があるからいまがある、と、よく思う。
始動前は応援されたが、サイト公開後には、よく言われたことがあった。
「書き手が1000人、いればね。」
「お金を生まなきゃ、価値はないんだ」
「メリットがなければ、人は離れていく」
私は21歳を境に、ひとの話を聞く、ということをひとつのポリシーのように大切にしてきたので、よくよくよくよく、考えはした。
しかし、書き手を1000人にして個人情報を取り、広告収入でお金を得ることがそんなに社会的に偉いことだとは、いろいろ考えてみたものの、思えなかった。
まして、そんな広告収入による小銭(←広告屋としては失言)を還元すればいいライターが残ってくれるなどとも、思えなかった。
そうして、そんな大人はかならず言うのだった。
「人を繋ぎとめるのは、大変なんだよ」
人を「繋ぎとめる」なんて言い方をする目の前の大人を、
あのときの私が「それが世の中」と割り切っていたら、どうなっていたのかはわからない。
無駄に喧嘩などしないことを覚えてはいたが、でもただ、無視した。
しかしその頃のわたしはやっぱりなんだかへんな反骨精神にまみれていたことも確かで、
じゃあそれが本心からの信念だったかと問われれば、かなり怪しい。
が、ここにきて、JunkStageはラジオだの雑誌だののマスメディアに露出し、
このサイトをフックに寄稿や仕事の依頼が来たりすることも増えた。
しかし私自身はそれは、JunkStageという媒体の力ではないと思っている。
(いや、私がこんなことを言ってはいけないのかもしれないが)
あくまで、ライターひとりひとりの力、魅力だ。
JunkStageが異常に長けていた点がもしあるのだとすれば、
それは「人を見る目」だったのだろう。
ほとんど例外なく、JunkStageのライターは前へと進んでいる。
その進化において、JunkStageという媒体の果たした役割は、相当小さい。
それでも、JunkStageのライターは、わたしが焦るよりも
ずっと長い目でこの媒体を見て、いっしょに歩んで行こうとしてくれている。
そしてわたしが何よりも衝撃的だったのは、
無名の人間が無名のメディアで発信活動をしていても、
見ている人は見ているもので、そのクオリティによって
コンテンツにも、パブリシティにさえなるということだった。
情報が氾濫するネット社会だからこそ、
本当にいいものが淘汰されていく。
そう信じた、というよりは願ったあの感覚が間違いではないと、
わたしたちはいま、教えられている気がする。
JunkStageは、良くも悪くも
「考えながら走る」よりも、「追いかけながら走る」。
それでもわたしは、
なにもできない自分とか、ただの箱でしかないメディアの存在が、
やっぱり不謹慎にもうれしいのだった。
奇跡に近い、この運や縁を思いながら。
女優・帯金ゆかり。
舞台に立つ彼女が教えてくれた、”一人旅”の意味。
*
9月某日。
藤原整(フジワラヒトシ:JunkStage裏方担当)は新宿歌舞伎町に居た。
怒号と歓声うずまくネオンの下で、束の間の腹ごしらえ。
「この芝居はお腹がすくから、なにか食べといた方がいいよ」
思えば、正常な思考回路であれば、上記のアドバイスはなにかおかしいことに気付いたはずだった。歌舞伎町という土地柄が、思考を鈍らせたのか。あるいは…
とにかく。
芝居の幕があがる。
芝居のタイトルは『彼のことを知る旅に出る』
主人公は、死んでしまった彼のことを知る旅に出た一人の女性。
観衆は、彼のことを知る旅に出た、彼女のことを知る旅に出る。
彼女は旅の途中、帯金ゆかり演じる”るみ”に出会う。
そう。これは、彼のことを知る旅に出た彼女が出会う、帯金ゆかりという女優を知る旅でもあった。少なくとも、フジワラヒトシにとっては。
芝居のパンフレットに目を落とす。
ゆかり嬢の自己紹介コメントにはこう書いてある。
「一人旅が趣味なのですが、いかんせん心臓が小さめなので行けて阿佐ヶ谷くらいまでです」
役者としてのゆかり嬢の演技の巧拙は、正直よくわからない。
天才的でもあり、ありのままでもあった。
素人目には、ありのままであることがとても素晴らしいことのように思えた。
ひとつひとつの構成や、ひとりひとりの演技に難癖をつけることにたいした意味はなくて。むしろ、ありのままをありのままに受け入れることで、彼女の旅の意味を、彼女が出会うゆかり嬢の存在を、自分の中で消化しようとしてみた。
ふいにフラッシュバック。
芝居のさなか。
あるとき自分が「彼女のことを忘れる旅に出た」ことを思い出す。
卒業旅行を兼ねた、南米一人旅。
なんとなくセンチメンタルで。それでいて半ばヤケクソで。
地球の裏側まで行けば、なにかわかる気がしていた。
一人旅に特別な意味を求めたい年頃だった。
結果。
マチュピチュ遺跡を前にして、4時間泣いた。
元カノのこと、フラれたあの娘のこと。忘れたい思い出が溢れてきた。
こんなとこまで来て何してんだと思って、また涙が出た。
で、iPodの電池が切れて、お腹がすいて、山を降りた。
忘れようとすることは、結局知ろうとすることだったと、後になって思った。
特別なことをすれば忘れられると思った自分が、ちょっと微笑ましく思えた。
翻って、今。
帯金ゆかりに出会って。
彼女のことを知る旅に出て。
ぶらりと中央線で阿佐ヶ谷まで行くことも、立派な一人旅だと知った。
そこに特別な意味なんかなくても。
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帯金ゆかりのことをさらに知るためには↓へどうぞ。
■ペテカン「彼のことを知る旅に出る」公式サイト
http://www.petekan.com/next/index.htm
■帯金ゆかり「ナマモノ一辺倒」
http://www.junkstage.com/art/yukari/
演奏家に逢った。
音を奏でられない私も、今、彼に逢って、遥かな昔の作曲家に逢えた。
*
『僕たち演奏家の仕事は、道を歩いている行きずりの人に
ただ一万円ください、と声をかけることに等しいんだ』
チェリスト、金子鈴太郎が語った言葉でもっとも印象的なものだ。
それは、そのまま彼の演奏スタイル、そして生き方そのものともいえるだろう。
桐朋学園ソリスト・ディプロマコースを経て単身、ハンガリー国立リスト音楽院へ。
コンセール・マロニエ、国際ブラームス・コンクール、カルロ・ソリヴァ室内楽コンクールなど、国内外の数々の国際コンクールで優勝、入賞。
1999年、2000年 イタリア・シエナのキジアーナ音楽祭にて、名誉ディプロマを受賞。
2004年、松方ホール音楽賞大賞受賞。
現在、大阪シンフォニカー交響楽団特別首席チェリスト。
華やかな経歴を歩む彼だが、実はまだ30歳。
舞台を降り、穏やかに数々の舞台経験を語る彼はそんな世界の大舞台を踏んだ演奏者とは思えない。
たまに、ふと「手品得意なんだよ」と、小さな手品を見せてくれる。
眼を白黒させる私に、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
そんなとき、彼は年齢以上に若く見えた。
おだやかな空気と、いたずらっ子のような空気が混じる。
どんな曲が得意なの、とありきたりな質問をすると
なんでも弾くよ。僕は、バロックからコンテンポラリーまでこなせる。苦手なもの、ないんだ。
モーツァルトは、ちょっと眠くなっちゃうけど。きれいすぎるじゃない?
”バッハの平均律が苦手、堅苦しいから。
現代音楽が苦手。よくわからないから”
『のだめカンタービレ』でおなじみになったクラシック音楽で、よく演奏家が雑誌などでも語っている台詞だが、彼はそんなこと関係ないという。
「俺の演奏、ぜひ聴いてみてね。
僕はお客さんを必ずひきこむよ。」
そういわれて向かった、10月2日 大泉学園「ゆめりあホール」。
普段、大阪で演奏活動を行う彼が、室内楽のコンサートのため上京したのだ。
ヴァイオリニスト 加藤えりな氏、ピアニスト菊池祐介氏との合奏。
3人それぞれのソロが終わった後、ピアノ三重奏曲。
曲目はチャイコフスキー作曲、ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」。
チャイコフスキーが友人のニコライ・ルービンシュタインへの追悼をこめて作曲した、という逸話もあるため、全体に重厚で悲壮感も漂う曲目でもある。
鈴太郎氏演奏するチェロのソロ部分は、低音の美しく悲しい旋律。
音の震えとともに、会場は静まり返っていく。
チャイコフスキーの曲のなかでも最も演奏が至難とされる名曲だが、この場へ居合わせた観客は、チャイコフスキーの友への思いと同調していた。
そして、アンコール。
曲目はうってかわり、あのフィギュアスケーター 浅田真央選手の名プログラムで一気に有名になった、モンティの「チャルダーシュ」。
もともとハンガリーの民族舞踊、「チャルダーシュ」を、舞台上で踊るようにコミカルに演奏する。
会場は笑いに包まれた。
まさに、笑いあり、涙あり。
そんな人間の感情を一瞬にして昇華させる演奏家、金子鈴太郎。
彼は、まさに作曲家の思いを観客に、音で伝えるエンターティナーなのだ。
“今撮りたい”
突然入る、ヒロトのスイッチ。並んで歩く、連れの胸のうち。
*
「じゃあ、月島に6時とかどうかな」
最初はただ、サシ飲みをするだけの予定だった。ヒロトが、オススメの月島の呑み屋に連れて行ってくれる、と。
6時半には飲み始めよう、大いに飲んで語ろう、そう言ったのはヒロトだった。
そして遅刻したのは俺。
「ゆっくりおいでー今日良い天気なので写真撮ってるわ」
ごめん微妙に間に合わない、という謝罪メールにはこんな返信が。
駅に着いて改札を抜けるなり電話。今どこ?
「うーんとね、橋の方にいるんだけど分かる?」
ヒロトに誘導されるままに歩いていく。導かれたのは相生橋。そこから川沿いに公園のように、遊歩道が延びている。すーっと延びる遊歩道につられて空を見上げる。
本当に良い天気で、今さらそんなことに気付く。
そのまま道に沿って歩いていくと、カメラを持ったヒロトが芝生に寝転がっている。「少年」という単語がぴったりの顔立ちは、やっぱり自分と同い年には見えない。
「天気が良いから、このまま東京タワー撮りに行ってもいい?」
こいつにそう言われると、普段なんとも思わない東京タワーが、たいそうな建造物に思えてくるから不思議だ。
ところどころでシャッターを切りながらも、どんどん歩いていく。
カメラを構えると急に違った顔が出てくる。もっと見てみたいと思った。
「めっちゃいいとこがあるんよ、ちょっと歩くけど」
わくわくする、という表現が一番しっくりくる、そんな散歩。
道々、空の表情にひとつひとつ声を上げるヒロトに、空ってこんなに表情豊かだったかと思い知らされる。
「あぁ、早くしないとあの雲が消えちゃう」
“めっちゃいいとこ”でヒロトはただひたすらに東京タワーを撮り続けた。
興奮しながら、でも観客の俺に気遣い、「ごめん、見てるだけだとつまんないでしょ」ときどき振り返ってそう言う。
ヒロトにとっての写真。撮り方。好きな場所。途絶えることなく色んな話を聞かせてくれる。
結局、本来の目的であるサシ飲みが始まったのは8時半だった。
くだらない話に始まり、ここは中世のサロンかと突っ込みたくなるくらいの真剣トークまで。
生ビール2,3杯でよくもまああんなに話せたもんだと思うくらい、喋りに喋った。
それで、綺麗でありながら感情の入り混じるヒロトの写真の要素を肌で感じられた気がした。
写真を撮っているところだけを見ても分からなかった。
サシ飲みをしただけでもきっと分からなかった。
好奇心を隠さないにこやかな瞳と、洞察力を持った鋭い視線。
そばにいる人を和ませる柔らかな笑顔と、突然ぞくっとさせられる硬質な笑み。
それらが同居しながら、互いに絶妙な棲み分けをしている。
だからどの顔もヒロトの素顔だし、何も作っていないのが自然と伝わってくる。
それが写真にも現れているんだ。
また晴れたら、今度はこっちからヒロトを飲みに誘おう。
(PHOTO:ヒロト)
車椅子バスケプレイヤー・安直樹と出会って、1年。
安はいつも淡々と語る。絶望の瞬間も、輝かしい過去も、自らが変える未来のことも。
*
体育館に充満する、硝煙の匂い。
これが、車椅子のタイヤが、動かす選手の手との摩擦熱によって溶けて生じる匂いだと知るとき、誰もがかならず衝撃を受ける。
片方の車輪を軸にして、180度のターンを瞬間的にこなす。
腕の力だけで、健常者バスケと同じ枠から、スリーポイントを入れる。
チェアスキルと呼ばれる基礎訓練では、2人も3人もの選手が乗った車椅子をひとりの力で引き、延々とした上り坂のスロープを猛スピードで上がる。
コートでボールを奪い合い、物凄い音を立てて車椅子と車椅子がクラッシュする。
思わず目を覆いたくなる激しさはまさに”想定外”。
私が圧倒され動揺していると、安は言った。
「こわごわ見るスポーツじゃないから」
可笑しそうに笑ったが、その目は「どうだ、見たか」と言わんばかりに、してやったりな表情をしていたことを、よく覚えている。
あのときわたしは、車椅子バスケをひとつのスポーツとして認識したのだった。
これは、「バスケットボールの車椅子版」ではない。
バスケとは、似ているようで程遠い、全く異質のひとつのスポーツだと。
バスケが好きか、嫌いか、と問われれば、1年前は少なくとも好きではなかったと思う。
1年前の初夏、半ば押し付けられるようにしてバスケのプロモーションの仕事をはじめてから、わたしはそれまで手に取ったこともなかった『スラムダンク』を毎朝5冊ずつカバンの中に詰めかえて、日本全国バスケを追って駆け巡っていた。
「車椅子バスケ」といわれるスポーツがあることも、井上雄彦先生の作品『リアル』を読んではじめて知った。
日本の車椅子バスケ界を牽引し、「イスバス」の名付け親でもある安直樹にも、そんな仕事のさなかで出会った。
体育館のあの独特なオレンジ色の光は、その頃にはもう好きになるというよりは日常になっていた。
「二度と普通に歩いたり、走ったりできません」
安がそう宣告されたのは、中学2年のときだったという。
しかしそれゆえ車椅子バスケと出会い、日本の名門千葉ホークスの代表選手、アメリカでのプレー、アテネパラリンピック日本代表と実績を積んでいった。
イスバスの障壁を取っ払うため、ストリートの大会やイベントにも出場し、多ジャンルを抱えるバスケ界の架け橋ともなってきた安は、素人のわたしが拙い知識で何を聞いても懇切丁寧に説明してくれた。
あれから、1年。
安と私が久々に再会したのは恵比寿のマクドナルドで、ふたりで100円の爽健美茶を飲んだ。
海外移籍のステップを果たした安は、2日後にオーストラリアへ飛ぶ予定だった。
家財道具を売り払い、椅子だけ積んでアメリカへ飛んだ時と同じように「もう今回もね、なんにもまだ用意してない。そろそろ焦る」と言いながらこの日も、荷造りではなく自らスポンサー獲得のための営業活動にあたっていた。
その記憶も新しいうちに、日本人初のヨーロッパリーグ移籍という、輝かしい快挙を遂げる。
「移籍が目的じゃない。結果を出さなきゃ意味がない」
ストイックな安はきっとそう言うと思ったから、わたしはいまだに彼にしっかりと「おめでとう」を言えていないままだ。
いつだったか、「イスバスって、ヤッさんにとって、なんなのかなあ」とぼやいたことがある。
安は急にまじめくさった表情になり、障害を負った直後荒れて引きこもりと非行に走ったという時代を思い出したのか、こう言った。
「俺は恩返しをね、しなきゃいけないんだよ。
イスバスがなかったら、今頃どうなってるかわからない。
死んでたかもしれない」
安のポリシーは、「退路を残すと妥協が生まれる」。
どこまで遠くの目標を追いかけているのかわからなくなるくらい常に走り続けている安の視線の先をいま、いつの間にかわたしも一緒に追っている。
お坊ちゃんのやる、高尚な音楽――そんなイメージをくつがえした出会い。
*
鷲見さんとわたしは、干支が一緒で誕生日が5日違い。そんなとことか、一本気な人柄とかに勝手に親近感を覚え、勝手にアニキと心の中でだけ呼んでいる。
そんなアニキ(本人にも他人にも一度たりともそう呼びかけたことはない)から、電話がかかってきた。「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど…」
あぁっ!! 出会って2年、初めてアニキの力になれる時が来たのね!?
「道で亀を拾ったんだけど、水につけていいのかなぁ?」
…… カ ・ メ ? 道で拾った? 何故???
アクアプラントや熱帯魚の飼育が趣味のわたしは、とりあえず一通り亀に関する知識を伝えながら、道を歩いていた手のひらより大きい亀を見つけて拾って飼うことにしたいきさつを聞いた。電話を切って思い出す。
コントラバス奏者・鷲見精一(アニキ)との出会ったのは、冬の空気がきれいな横浜の街だった。
ユウ(JunkStageWorld僻地旅行ライター)に、「Kバレエを観に行かない?」と誘われて、ひょいひょいと付いて行ったその日。
バレエを観ることは初めてで(バレエ習っていたけど)、とりあえずおめかしはして出かけた熊川哲也ファンの熱気あふれる会場。
公演が終わりユウに突然、「演奏してる人と会うから。仕事の取材なの」と言われ、その人を待ってネオン輝く横浜の街を眺める。
それまで、わたしの中のクラシックは「お嬢さんとお坊ちゃんが趣味でやってる、音楽をすごく聴いてる人じゃないとわからない高尚な音楽」というイメージ。
わたしは楽譜もろくに読めないし、知っているクラシックは「運命」くらいだったし。ジャジャジャジャーン、ってやつ。
だから、これから会う人も、なんとなく上質そうなジャケットとシャツなんか着て、さわやかなはにかみ王子な感じに違いない、と勝手に決めつけていた。
そして、鷲見精一が現れた。
普通くらいの身長で、普通にイケメン、でもサングラスでデニムに皮ジャケットの超ナイスなお兄さんだった。と、ここまではイメージ通り。
とりあえず、軽い夜食的に適当なイタリアンの店に落ち着いて、話が始まった。
結構しゃべくる彼の口から飛び出した衝撃の言葉。
「この前みんな(Kバレエのオーケストラ仲間)で、公演終わってからキャバクラ行ったんだ」
キ ・ ャ ・ バ ・ ク ・ ラ ! ! ? ?
驚愕のわたし。重ねる鷲見さん「いや、行くって。地方って呑むところないし」。
ジャジャジャジャーン―――と崩れ落ちる「クラシック奏者」イメージ。
ちなみにそれまでクラシック奏者ってものは、公演期間中はピリピリして集中力を高めるため、(高級な)ホテルでフレンチ食べてイメトレとかしてるもんだと思っていたけど。
「あぁ本当に”ただ音楽が好きな人”がやっている」、んだと思った。
わたしが当たり前に料理をするように、当たり前に音楽を好きな人が、ライブハウスで歌うロッカーと同じように音楽をやっているのだと、初めて知った。
サッカーが大好きで、ドイツワールドカップ観戦で連日寝不足になり「練習だりぃ」ってぼやくアニキ。
ウィニングイレブンをオールナイトでやり続けても、腱鞘炎や指が痛くなったことがない事を自慢するアニキ。
PRIDEの消滅を本気で嘆き悲しむアニキ。
でもかなりロマンチストなアニキ。
亀とアニキのその後が気になって、電話をかけてみた。
「あいつさぁ、すげー手がかかるんだけど」苦笑しながらも嬉しそうな顔が想像できる。水槽をすごく工夫してること、亀の健康のためにベランダで散歩をさせてることなどいろいろ聞いた。
「これから帰って水槽の水変えてやらなきゃ」ぼやくアニキとの電話を切った23時。
わたしはこれから彼を「アニキ」ではなく、「亀王子」と呼ぼう(心の中でのみ)と心に決めた。
乙女でオッサン、そんな先生。 国語教師foxydogを、元・生徒が語る。
*
彼は、私の母校の有名人だった。
卒業生の誰に聞いても、「あの声のでかい先生」といえば通じる。
村上春樹や夏目漱石などの情感込めて読まれるはずの文章を、
爆音ロックのごとく朗読する彼の声。
それは常に睡眠学習を試みる生徒たちの脳髄まで、
しっかりこびり付いていたのである。
不思議なことに元生徒から、彼について好悪の感情を聞くことはない。
強いて言えば、顔に見合わない乙女な思考もする彼のことを、
「微妙」とする声が一番多かったろうか。
それは彼が呆れるほど正直な感性を有しているせいかもしれない。
彼は時に「乙女」で、時に「馬鹿正直」だった。
見た目はまごうかたなきオッサンであるのに新作お菓子好き、漫画好き、
おまけにやおい漫画にも理解を示す。
そして問われれば嬉々としてそれらをあのパンチの効いた声で語る。
それは、時に生徒自身の抱える問題まで関わっていた。
わたしたちの言葉の端々、そこに滲むものを見つけると、
彼はそれを頼みもしないのに分析し、言葉にして現してしまう。
狼狽している間に、明確な答えを与えてしまう。
一応の答えが欲しいだけなのに、話している間に更に問題を見つけさせられる。
彼との対話はそんな感じだった。
大人のずるさや約束事の世界、かくあるべしという「先生」の枠からはみ出し、
正しいと思うことを正しいとはっきりと言う「大人」らしからぬ彼の声。
それは、高校生の考える「先生」像ではなかった。
高校生のころ、大人はいつも落ち着き払って真面目にしているものだと思っていた。でなければ、せめてそれを装うものだと。
しかし彼は、ひとりの人間、高校を出たあとの延長線、
自分があきらめつつ選ぶ「大人」ではなく、ただの人間だった。
田舎の純朴な高校生だったわたしたちには、それが衝撃だったのだ。
在学中、彼の脚本で、一緒にお芝居を創ったことがある。
わたしを含む演劇部員は毎日夜10時ごろまで練習し、役者は役者で
演出の無茶な駄目だしに耐えるのに必死だった。
地元は終電が7時で終わる田舎で、つまりわたしたちはまったくといって
いいほど「勉強」をしていなかった。
けれど教師のくせに彼は何も言わず、生徒たちの情熱を上回る、
暑苦しいほどの愛を舞台に注いだ。
一度、役者のテンションについていけず、体育館で彼に愚痴ったことがある。
「高校2年の秋なのにこんなんでいいのかな」とか、なんとか。
彼はきょとんとして、それから怒ったような真っ赤な顔で、大きな声で怒鳴った。
「しょうがないじゃん。やんなきゃ変わんないんだから。無駄でも何でも、やったほうが絶対にいいんだから。勉強よりもっと大事なものなんか、いくらでもある」
諦めるな、と彼は言った。
そうして、照れたようにちょっと笑った。
総評で「少女マンガみたいで重みが足りない」と言われた芝居の出来は、
正直言ってわからない。
でも、いいお芝居だったと思う。
彼の書く台詞はけっこう乙女モードが入っていて、
現役の女子高生にいちいち馬鹿にされていた。
例えば「~~かしら」とか「~~なのよ」といった語尾。
主人公の好きなものが「フォションの紅茶」だったりすること。
役者の皆は、「高校生なんて、そんなじゃないよ」って笑いながら、
彼の書いた台詞を覚えた。
それでも役者が舞台に立つと、なにか本当に彼の信じる高校生のリアルさが
漂ってきたように今でも思い出す。
わたしも卒業して何年もたち、彼はもう母校を去り別な高校でまだ「先生」を
やっている。
しかしなぜか縁は切れず、時折は酒をのんでいる。
今も「JunkStage」の編集担当としてしつこく電話をする日々だ。
原稿を落としたときは泣きそうになり、「無理無理だめ」などとわめきちらし、そのくせ書けば褒めてほしがるところはまさに「微妙」といえなくもないのだけれど、
わたしは、まだちょっとだけ、彼のことを「先生」と思っている。