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2016/04/19

皆さん、おはようございます。

昨今、問題視されている僧侶派遣について、
そろそろ私の見解を申し述べておきたいと思います。
結論から申し上げると、あらゆる形態の僧侶派遣が、
形としてはあって良いし、あってほしいと思います。

形としては、と申しているのはどういうことかというと、
僧侶派遣が民間俗人のビジネスであっても良いが、
お坊さんの品質くらいは一定ラインを保っていただきたい、
ということなのです。
少なくとも、得度すらしていない俗人の偽坊主だけは、
最低限の信用を保証するためにやめてほしいです。

それが言い切れるのはなぜかというと、
得度もせずに、という完全な偽坊主だけは、
宗教を食い物にする意識がなければ出来ない芸当だからです。
せめて得度だけでもしている未熟坊主なら、
志はあるけれど、諸事情でまだ先に進めていないだけ、
という可能性があります。
本当は葬儀を執行できる資格はないのですが、
完全な偽物でないことも確かです。
これは、いわゆるグレーゾーンになると思いますが、
そういうグレーゾーンはあえて否定しないでおきます。

その上で、お布施の問題が云々、となるわけですが、
もはや寺と檀家の間にさえ、
お布施の授受が行われることはほぼありません、
そのように申し上げておきます。
つまり、お布施という美化した言葉に置き換えた料金です。
私がそう言い切るだけの根拠を挙げたいと思います。

元来お布施というのは、布を施す、と書くように、
釈迦教団に袈裟を作るための布を寄付することでした。
基本的に僧侶や僧団に渡して良いのは物品だけで、
金銭を僧侶が触ることは禁じられていましたので、
袈裟や雑巾などの材料となる布を寄付するか、
托鉢に回ってきた僧侶に食べ物を施すか、
くらいしか俗人が僧侶に渡すものはなかったわけです。

そして、大乗仏教の六波羅蜜や南伝仏教の十波羅蜜など、
その冒頭に来る、「在家の修行内容」こそ布施でした。
つまり、その内容は金銭か、物品かなど、
時代や場所によって違いは出てくるでしょうが、
目的はただ一つ、在家信者の修行にあったのです。
つまり、修行として施していないものを、
お布施とは言えないわけです。

もちろん、それが中国に伝わり、日本に伝わって、
実際布施の行われるのが、法事や葬儀などの、
特別な時だけになってはしまいましたが、
それでも、その法事を施主一家の修行として捉え、
僧侶に金品を渡しても、
それは少し広い意味を許容した布施、
そう言えないことはありません。
施主が修行と考えて僧侶に渡すからこそ、
「お気持ちで」という言葉が現実的になるのです。

翻って現在の「お布施」状況はどうでしょうか?
まず、その地域での相場なるものが存在します。

本来、修行に相場もクソもありません。
確かに、修行になると思われる金額とならないであろう金額、
そういうものはあると思いますが、
それは個々人の経済状況や信仰の度合いなど、
他者が測ることのできない諸要素が複合して、
何となく線引きがされるものです。
例えば、手取り月収100万の人が法事のお布施と称して
1000円出してきても、たいてい修行とは言えますまい。
生活状況にもよりますが、その人の場合、
概ね3万より上、最低でも1万くらいは出さないことには、
修行をしたとは言えないだろうと思います。
篤信の仏教徒を自称するなら、
キリスト教徒などが行う10分の1献金、
つまり、10万くらいは出してからの話でしょう。

カネの話ばかりして!と思われるでしょうが、
これはあくまで、わかりやすく、
金銭だけで寺院や僧侶を相手に布施の修行をするなら、
という話です。
つまり、地域の相場があり、それを気にしている時点で、
そこから計算して包まれた金銭が、
布施の定義を満たすものになど、なるはずがない、
ということを申し上げています。

また、施主が自己の修行として渡す、
という意識がなく、法事をしてもらったから渡す、
というのでは、それは対価であり、
いわば、ワンステージのギャランティというものです。
つまり、料金。

施主側に内在するこの2つの要素だけでも、
そこに用意された金銭は料金でしかなく、
布施と称するべきものではない、と言えます。
そして、僧侶が持ち帰ったその金銭は、
扱われ方としては料金そのものです。
中間マージンを業者に送金するなど、
差し引かれて僧侶側の収入が確定するからです。

どこから見ても、料金でしかないこの金銭授受に対し、
お布施のあるべき姿とは云々、と批判したところで、
正しい牛丼の姿を鉄火丼屋に説教しているようなもので、
頓珍漢な説教と言わざるを得ません。
料金を料金と称して明示し、料金として処理しているのだから、
それで良いのです。

ここで、僧侶が料金をとるべきでない、
などと考えた人があるならば、
よく現実を考えてみていただきたいです。
料金をとらずに僧侶としてやっていける世の中ですか?
在家の人は、本来の意味のお布施が出来る人たちですか?
布施を布施として成立させるだけの知識と気構えがあると思いますか?
答えはノーです。

知識と気構えがあるか?との問いには、
中にはある在家の人もいる、との答えもあるでしょう。
それは私も認めるところです。
でもその人口は僧侶の生活を支えられる人数ですか?
そんなにいないでしょう?
つまり、大半の在家は、布施が修行だということすら、
おそらく知らないわけですから、
2番目の質問もノーなのです。
1番目の質問も、2番目までが崩れたことで不成立です。
料金をもらわなければ、生きてもいけず、
寺も維持できないのです。

こんな情けない状況になったのには理由があります。
まず明治以降、僧侶の妻帯が可能になったことです。
元々妻帯できた浄土真宗のお寺と合計して、
コンビニの数を超す軒数の「妻帯寺院」が出現しました。
その寺院の住職が死んでも家族が追い出されないためには、
息子を作って寺を継がせるか、その代替手段をとるか、
どちらかを選ばねばならなくなりました。
こうして、僧侶の「身分固定化」が始まりました。
僧侶の息子でもないのに僧侶になっても仕方がない例、
というのが相当数になってきました。
なぜなら、「身分固定」を目的に、
志もなしに家業としての僧侶にしがみつかねばならない、
という人が妻帯寺院の軒数だけいるわけですから。

まあ、その中でもいざ始めてみると、
仏教徒としての志を持つことができた、
という人もいるでしょうから、そういう人は除き、
仕方なくやっている人だけ還俗してもらって、
そこに志ある在家出身僧侶を住職に据えていけば、
それなりに僧侶分配は解決するのではないかと思いますが、
仕方なくやっている人が還俗してくれるかといえば、
これも難しいところではないかと思います。
なぜなら、仕方なくやってるかもしれないけど、
食いっぱぐれのない生活を何年もやってしまったら、
今更その地位は捨てられないし、息子にも継がせたいでしょう。

そして、もう一つの理由は、
日本の寺というのは、修行の場というよりは、
儀式のための場所として使われている、ということです。
元来、仏教の寺、つまり釈迦教団における「精舎」というのは、
修行生活のための場所でした。
それも、集団でしたから1人当たりのスペースは微々たるもの。
今、日本で同じ機能がある寺院といえば、
永平寺など、多数の集団修行をしている寺くらいのもので、
檀家寺は一家5人とかで明らかに広すぎる敷地を占有しています。
そして、儀式のための場所という性質上、
修行道場よりは豪華な調度品、仏具が置かれていて、
どう考えても、釈迦教団の「精舎」より維持費が嵩みます。
加えて、国は宗教には肩入れしてくれませんから、
維持費は檀家からの寄付もあてにせねばなりません。
しかも、本山へは宗費というものを上納せねばならず、
その宗派の代紋を使って檀家から吸い上げる、
という暴力団のような構造はこれからも続くでしょう。

つまり、お寺の大半というのは、
無駄の塊のようなものなのです。
伝統やら境内地内の墓地を口実にして、
無駄の部分も檀家に背負わせているという、
結構な悪徳商法なのです。
これが表だって非難されないのは、
宗教という、目に見えなくて当たり前のところが、
取扱品目である、という暗黙の了解によって
特例が認知されているだけのことであり、
同じことを宗教以外のところでやったら捕まります。

そして、日本の歴史の中におけるお坊さんの位置、
というのも、影響していると思われます。
だいたいは、日本でお坊さんというのは役人でした。
つまり、ひょっとしたら明日自分もなるかもしれないもの、
という存在ではなかったわけです。
そして釈迦教団が、出自不問だったのとは異なり、
日本の僧侶は、出自で階級がことなっていました。
早い話が、仏教としては、輸入された初期の段階から、
僧侶団体としてのあり方を間違えていたのです。

これでは民衆は坊さんの生命維持のため、
布施の修行として食物を施す、という意識にはなり得ません。
要するに私に言わせると、
日本仏教史の中において、
布施と呼ぶにふさわしい金品の授受は極めて稀な事例であり、
特に現代において布施と称して僧侶に渡しているものは、
イベントステージのギャラ、対価、料金でしかなく、
そうなってしまったのは、在家、僧侶、国家
いずれにも原因がある、ということです。

さて、お布施と称していても、実態は料金なのだから、
そこには俗人の業者が入り込む余地がある、ということです。
その業者が僧侶派遣をしても、まったく罪のないことです。
もちろん、宗門も僧侶派遣に参入しても構わないです。
しかし、宗門による派遣だけで良いとは到底思えません。
なぜなら、先ほども申し上げたように、
宗教界というのは基本構造がヤクザ的です。
メンツ第一という業界ですから、
宗門による派遣だけになってしまうと、
宗門にとって都合の良い人間しか仕事ができない、
ということになりかねません。
私のような反骨精神旺盛な僧侶を派遣する本山など、
どこにもありますまい。
また、宗門は寺出身の僧侶に厚く、在家出身に薄い、
という傾向がありますから、
本当に僧侶としての志を持つ在家出身者は
あまり派遣される見込みがあるとは思えません。

在家出身者に仕事を与えるのは、
業者が主になると思われます。
ゆえに、在家出身者から実践の場を奪わぬためにも、
業者の存在価値は十分に認められるべきなのです。

色んな状況が重なってこうなってしまった世の中、
そして出てきた僧侶派遣業者なのだから、
一概に反対だとか、こうあるべきだとか言っても、
仕方ないと思うのです。
なぜなら、理想が実現できるような前提すら、
実際に構築されていないからです。
今、僧侶派遣業者がなくなってしまったら、
在家出身者の僧侶としての道を断つことになるだけです。
悪質なところは論外として、
そうでない業者は許容されるべきでしょう。

そして最後に一言。
在家出身の僧侶の皆さまは、
仏教の何たるかを、広く宣べ伝えて下さい。
そして仕方なくやっている跡継ぎの皆様には、
真剣に布教活動をしていただくか、
その座を志ある在家出身者に明け渡していただくか、
そろそろ腹を括っていただきましょう。
お寺も檀家も、あなた個人や、ましていわんや、
あなたの家族のためにあるわけではない。
それでもみっともなく、徒に居座るのは、
仏教の面汚しでしかないのはおわかりでしょう?
志あれば、出自を問わず私の法友、
志なければ仏敵、死後の転生は保証しません。

かく言う私も、僧侶として、
寺というフィールドで布教することには、
適性の限界を感じ、
音楽家としての布教活動に軸足を置き、
僧侶としては主に密教行者としてやっていこう、
というスタンスで生きることにしました。
ですから、もう怖いものがありません。
僧籍簿を抹消されようが、どうぞご勝手に、です。
登録がなくなったところで、
私が僧分であることには何の違いもありません。
印信が取り上げられるわけでもありません。
授かった秘印明は、私の中にあります。
(行法中、常に結誦しますから・・・中院流ではなく三憲をw)
私に必要なのは本質であって、代紋ではありません。
私は単なる真言宗の僧侶です。

2016/04/19 03:14 | 坊さんからの話 | No Comments

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