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2016/04/05

皆さん、おはようございます。

今日よりちょうど1ヶ月前、
2016年3月5日、オーストリアにて、
20世紀から21世紀にかけて音楽界を牽引した偉大な指揮者、
ニコラウス・アーノンクール氏が逝去されました。

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私は昨年、盟友である水野昌代女史と共に、
音楽グループConceptusを立ち上げましたが、
私がぼんちオペラなるものの指揮、演出を行い、
バロックや古典派の音楽のみならず、
元々好むことのなかったヴェルディやプッチーニといった、
ロマン派後期の作品にまで、手を伸ばしている、
そのこと自体、アーノンクール氏の業績なくしては、
決して成立していないと確信しております。

思えば、1999年2月に、
神戸オペラ協会(現ニュー・オペラシアター神戸)の魔笛に、
僧侶役で出演したことが、決定打となりました。
この時、指揮者だったのが本名徹次氏で、
彼はオランダでアーノンクール氏の現場に立ち会い、
薫陶を受け、資料をひも解いて学んだ、
ピリオド・アプローチを日本でも実践されていました。

この古楽奏法とも言われるピリオド・アプローチ、
オペラをひたすら朗々と歌い上げる現代的な唱法を、
日々実践している人間にとっては、初めは不都合なものです。
繊細さが要求され、歌手の都合で歌うことができません。
愚かにも、その現場にいる間はそうとしか思えなかったのですが、
後日、日本人音楽家へのインタビュー書籍において、
本名徹次氏がとりあげられ、どのようにしてこの奏法に至り、
どのような資料で勉強したか、ということが書かれているのを見て、
検証した結果、これこそ私の中でモーツァルトを演奏する、
最適な方法論である、という結論に至り、
本名氏同様、レオポルト・モーツァルトのヴァイオリン教本など、
昔の教本や資料を漁り、研究しました。

この過程は、アーノンクール氏の存在なくしては、
決してたどることのできない過程でした。
この研究成果をもって、改めて歌唱法を見直すと、
ピリオド・アプローチとはなんと自由で楽な、都合の良い方法論なんだろう、
という評価に変わってしまったのです。
もちろんその興味は声楽のみならず、器楽にも及び、
小学校以来の指揮者としての欲が蘇り、
こうして今に至っております。

そんな2000年あたり以前のアーノンクール氏の録音に加え、
それ以降にも繰り出される演奏を映像や録音で聴き、
私なりの資料研究の結果も大胆に取り入れたものが、
現在の私の楽譜の読み方、演奏の仕方となっています。
私はオペラにおけるキャラクターテノール歌手としては、
それなりの仕事をしてきたつもりですし、
リート歌手としても、そこそこの能力はあると自負しています。
しかしながら、それらを支えているもの、
能力に加え、明確な方向性を与えてくれているのは、
紛れもなく、ピリオド・アプローチの概念です。
ぼんち独特の色を引き出すツール、
それはアーノンクール氏なくしてはあり得ません。

アーノンクール氏は間違いなく、私の「心の師」です。

その「心の師」の逝去にともない、
追悼の演奏会を開催しよう、という結論に達しました。
この人なくしてコンツェプトゥスはない、という人間の死に、
何もしないのは徳義に悖ることと思います。
ただし、準備期間がそれなりに必要です。
よって、一周忌に、という企画を立てました。
キリスト教式には一周年と呼びならわしていますので、
「アーノンクール一周年コンサート」とタイトルをつけ、
2017年3月5日(日)午後4時より、
大阪ミナミの島之内教会にて執り行うことに致しました。

プログラムは、「モーツァルトのレクイエム」です。
これには様々な版があります。
伝統的には、弟子であったジュスマイヤー補筆版、
現代になってジュスマイヤー版に修正を施したバイヤー補筆版、
ジュスマイヤーより先に、Dies illaeから Confutatisまでを補筆した、
モーツァルトが自分に次ぐ才能と称したアイブラー補筆と、
それ以降の部分をジュスマイヤー版で構成したランドン校訂版。
そして、20世紀半ばに発見された、アーメンフーガのスケッチを完成させ、
Lacrimosaの終結部を締めくくったのが以下の版です。
レヴィン版、モーンダー版、ドゥールース版、コールス版、鈴木優人版など。

アーノンクール氏自身は、バイヤー補筆版を用いていました。
追悼コンサートを通常の概念において開催する場合、
その遺徳を偲び、アーノンクール氏の用いたバイヤー版を選択するのが、
妥当であろうとは思われるのですが、
そこはそれ、何事も疑い、議論し、自ら考えて実践する、
という理念こそを受け継ぎたいと考えておりますので、
上記の補筆版の中から私が抜き出した、
梵智セレクションにて一周年の祈りを捧げたいと考えました。

梵智セレクションの概要は、
Confutatisまではランドン校訂版、それ以降はレヴィン版、
というものです。
まずレヴィン版の評価から申し上げますと、
多少学問の匂いはするものの、モーツァルト自身が完成していれば、
おそらくこの規模と内容であっただろうと思われるところに
最も肉迫した補筆版であると信じております。
特徴としては、ジュスマイヤーの仕事には一定の評価を与えるがゆえに、
残すべき要素は残し、直すべきところは直し、という姿勢の仕事、というところ。
つまり、歴史的事実に対しても、一定の敬意は払われているということです。

その意味では、積極的な補筆ではなく校訂ですが、
ランドンの仕事も、モーツァルトの同時代人の仕事、
つまり歴史的な経緯を評価した姿勢であります。
Confitatisまでのアイブラーの補筆は実に見事です。
少々モーツァルト本人の色から逸脱した要素もありますが、
モーツァルト本人から称揚された才能を駆使し、
ジュスマイヤーより高度な補筆が施されています。

私の評価としては、ランドンと似通ったところがあります。
基本的には同時代人の仕事を優先させたいこと、です。
しかし、ジュスマイヤーには足りないことも多く、
それを最も合理的に埋め合わせているのがレヴィンなのです。
よって、この2つを組み合わせることが、
モーツァルトが完成していたならば、という歴史上の「もし」を
納得できる形で実現出来ているのではないか、
というシミュレーションになるわけです。

さて、梵智セレクションにはおまけがついています。
全曲終了の後、簡単な解説を挟んで、
アーメンフーガのスケッチ、モーンダー版のLacrimosaとアーメンフーガ、
というものを演奏して終わります。
モーンダー版の特徴は、ジュスマイヤーの徹底排除にあります。
そして、初めてアーメンフーガの補筆をした人なのですが、
心情的に、モーツァルトの哀しい死に寄り添った、
情緒を満足させるアーメンフーガであり、
おまけとして演奏するのには良いと思っております。

そして、この演奏会ではレクイエムの全体演奏に入る前に、
実演で、モーツァルトの残した状態をご提示申し上げ、
いくらかのレクチャーをしたいと考えております。
これは、アーノンクール氏のやり方を私なりに踏襲するものです。

私はこれまで、幾度となく恐れていました。
アーノンクール氏の亡くなる日がいつ来るのか、と。
そんな中、昨年12月5日に引退表明をされました。
その時、3ヶ月後が危ないんじゃないか・・・
そんな考えが頭をよぎったのですが、
本当に、きっちり3ヶ月後にその日が来るとは、
何とも不思議なものです。

2016/04/05 03:21 | 演奏会情報, 音楽理論 | No Comments

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