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皆さん、おはようございます。
セヴィリアの理髪師ってどんなオペラだと思っておられますか?
少なくとも、悲劇だと思って観ていらっしゃる方はおられないと思いますが、
さりとて、吉本新喜劇も真っ青のドタバタ喜劇ではないことも明白です。
オペラ・ブッファというジャンルだという認識もあるかと思いますが、
ある源泉資料にはドランマ・ジョコーゾとも書いてあります。
これは、かのモーツァルトによる「ドン・ジョヴァンニ」も同じです。
言葉の解釈には様々あるものの、
少なくとも、バカバカしいお笑いを一席、というのでないことは確かです。
つまり、笑いをとるためのものではないということです。
言い換えると、お客に笑ってもらうことが目的の作品ではない、ということなのです。
このオペラが作曲されたのは1816年、
ちょうど200年前のことですが、
その時にはこの話の続編、モーツァルトの「フィガロの結婚」は
30年前に作曲されていたわけですし、
1790年代にはボーマルシェは「フィガロ」の続編となる、
「罪ある母」を書いていたわけですから、
ロッシーニにしろ、台本のステルビーニにしろ、
この時結婚した伯爵夫妻が、後々どんな夫婦関係を築くのか、
断片的知識であるとしても知ってはいたことと思います。
しつこいようですが、この2、3年後、
フィガロがスザンナと結婚する段になって、
伯爵夫妻にはその後20年余りに渡る亀裂が決定的となり、
数年の間にロジーナがケルビーノの子供を産むことで、
20年という長い長い冬の時代が夫妻に訪れるわけです。
その前日譚である「セヴィリアの理髪師」において、
ロッシーニが笑い追求の作品を作るとは到底思えません。
そしてロッシーニたちがなにを考えていたにせよ、
私はあくまでも「フィガロ」や「罪ある母」の前日譚として捉えます。
従って、笑いをとるための演出はしません。
しかし、稽古段階で発見できた、「あるある的な笑い」は、
人間の本質に迫ることができる現象なので、
大いに歓迎したいところです。
見た目に普通っぽいと思いますが、
このオペラをドタバタ喜劇と思っておられる方には、
そうでないことが斬新に映るかもしれません。
一番大事にしたいのは、あくまでも
アルマヴィーヴァ伯爵と、ロジーナとの純愛物語です。
その純愛のために、20年以上も夫妻が苦しむことになる、
まさにその序章がこの「セヴィリア」なのです。
ロジーナに与えられた追加アリアは、
作品内では最後の伯爵による大アリアと対になっていますが、
「フィガロ」の3幕のアリアDove sonoに繋がる作品だとも考えています。
これらを達成するために、
バルトロの扱いも、そうそうコミックにするわけにはいきません。
彼にはあくまでも、壁として立ちはだかっていただきたいのであって、
愚か者がみんなの笑いものにされるのではなく、
恐ろしい壁だったものが、最後には笑われる立場に追い込まれ、
その屈辱感が「フィガロ」での登場に現れねばなりません。
演者の皆さんには、お客様をして、
「フィガロも観てみたい」と思わしめる演唱を期待したいと思います。
皆さん、おはようございます。
この度、ぼんちオペラの中核メンバーにより
音楽グループの立ち上げを致します。
ただし、発足そのものはドン・ジョヴァンニの公演開始を以て
発足と致しますため、それまでは
発足準備の会、ということで準備を致します。
さて、名称は「Conceptus」と申します。
ラテン語で、読んで字の如くコンセプト、ということなのですが、
ラテン語には色々な読み方が存在します。
これをイタリア語読みしますと、「コンチェプトゥス」ですし、
ドイツ語読みなら「コンツェプトゥス」です。
フランス語なら「コンセプチュス」みたいなことになるんでしょうか。(笑)
「コンケプトゥス」もありなんでしょうか。
これを、どの読み方をしてもらっても構わない、
各自の読みやすいように読んでくれ、という
自主性に任せるスタンスをとりたいと思います。
・・・ただ、発起人たる私が英語嫌いのため、
英語読みの「コンセプタス」だけは厳禁しようかしら・・・。(笑)
ちなみに、私は「コンツェプトゥス」と読んでいます。
ともあれ、何のためにグループを発足させるかというと、
集いの責任の所在を明らかにしておきたいから、
ということが大きいです。
例えばですが、そもそも我々はほわっとオペラからの出発でした。
ほわっとオペラはマスターが支配人でしたし、
制作がマスターだったので、
根本的な責任の所在はマスターにありました。
ただ、マスターの体調がよろしくなくなるにつれ、
どこまで責任を持って制作していただけるか、
不安を感じてきたのが正直なところです。
マスターが一線を退こうものなら、
ほわっとオペラの一翼でしかなかったぼんちオペラは、
たとえ店が存続しようとも壊滅の危機に瀕します。
そこで、団体、あるいはグループの結成を
いずれはしなければならない、という話を、
水野さんにしていたのがほぼ1年前の状態でした。
それが年末になって、
マスターの引退より悪い知らせが届きました。
マスターの体調が原因の、完全閉店です。
もちろんマスターや家族の負担を考えると、
それが最善の道だったとは思いますが、
ライブの場所として関西で有名だったほわっとが
なくなってしまうというのは、
関西の楽壇にとっても大きな損失だと思いますし、
普通に考えて、ぼんちオペラの危機でもありました。
それが、さほどに最悪の事態ともならず、
ぼんちオペラにとっての危機ともならなかったのは、
昨年の「コジ・ファン・トゥッテ」と「トスカ」が
立ち上げを頼まれていたアヴェンヌオペラの助走として、
アヴェンヌで上演され、今年の「椿姫」から本格的に
アヴェンヌオペラを始動させることが決まっていたからでした。
だからといって、単純にアヴェンヌオペラへの乗り換えが、
今後のぼんちオペラにとって絶対の安泰材料となるわけではありません。
稽古場所の確保一つ考えても、
きちんと責任の所在が明確になる形が必要だと思われました。
つまり、特別な事情がない限り、
その名前で会場をとる、団体名が必要というわけです。
これが設立の背景事情なのですが、
普通であれば、仲間が集って何かやろうとして、
その集いに名称をつける、という手順であろうかと思われます。
我々はそれとは逆の順序で、実績に基づく集いがあり、
それにやっと今、名称をつけるに至ったわけです。
そして、同じグループを設立するのであれば、
誰もが自分のアイデアを形にする権利を有する、
開かれたグループにしたいという願いを持ちました。
こういう経験はありませんか?
何かの演奏会に出演していて、
独特のアイデアを提案した時に、
「それは自分の演奏会でやってちょうだい!」
と言われたことが・・。
自分の演奏会、と簡単に言いますが、
なかなか演奏会を開くことは簡単ではありませんし、
人数を要するものであればなおさらのことです。
しかも、その言葉を発した人は、
「自分の演奏会」を段取りしてあげる気も、
後援してあげる気も、
それどころか、その演奏会に出演してくれる気も、
おそらくはないでしょう。
こんな無責任な言葉で相手を失望させていることに、
きっと気づいてもいないでしょう。
つまり、その時の演奏会に限らず、
提案されたアイデアそのものに対する拒絶、
ということに事実上なってしまっています。
私がこだわるのは、
「自分の演奏会でやって!」とは決して言わず、
「じゃあそれ、うちの演奏会として企画してみて!」
そう言って、うちで段取りしてあげられる、ということです。
その意味で、私の悲願は、
ぼんち発信でない、他の人の企画で動く部門が
完全に機能してくれることです。
つまり、Conceptusは色んな人の企画が動き、
ぼんち企画があくまでもその中の一つとなることです。
そんな意味で、私がいなくなったら消滅する、
そのようなグループ、団体では困るのです。
私が発起人、という名称を使うのも、それが理由です。
発起人は発起した当人しか名乗り得ない名称です。
ですから、Conceptusについては私しかなりようがない。
これが「代表」ならば二代目、三代目がある話です。
でも、「二代目発起人」は理屈上あり得ません。
これは、私が権力者となる構造を回避するとともに、
跡目相続をめぐって争いが生じることを回避するためです。
一番ボスであるはずの私の権力を予め骨抜きして、
この団体に権力者はいない、という姿勢を
後々の為に明確にすることがねらいです。
一応、外部に求められたら
代表としての役割は当座私が果たしますが、
それは必要があってそういう顔をするだけのことで、
内部に対して行使しない、という手本を示しておきます。
長くなりましたが、以上のような背景で
新しい音楽グループの設立説明と致します。
では、以下に趣意書を記しておきます。
Conceptus発足準備の会設立趣意書
当会は梵智惇声を発起人として、
音楽グループConceptus発足の準備を目的とし、
これに賛同する音楽家をメンバーとして設立するものである。
なお、Conceptusの発足は2015年10月16日金曜房宿、
サロン・ドゥ・アヴェンヌにおける
オペラ公演「ドン・ジョヴァンニ」開演に時を同じくする。
発足日は、同日が宿曜占術による最大の吉祥日である
甘露日にあたることにより設定された。
なお、以下に記すConceptusの説明は、
そのまま同グループの設立趣意書として転用し得るものである。
音楽グループConceptus は、
器楽、声楽、コンサート、オペラを問わず、
音楽作品や舞台作品の持つメッセージを最重要視し、
企画発案者の明確なコンセプトを柱として
研究、上演を行うグループであり、
正式名称表記をラテン語で Conceptus とする。
なお、名称の発音については
ドイツ語読み、イタリア語読みなど、
話者各人の好みの発音を用いられることとし、
あえて発音統一への努力を放棄するものである。
「Conceptus 」設立の目的
老若男女を問わず、音楽作品や舞台作品について、
作品、及びその実施方法について考察し、
研究する者が積極的に企画発案者となり、
明確なコンセプトを打ち出して上演する場となることが、
当グループ第一の目的である。
その目的の実施によって、観客が真の芸術に触れ、
人間の真実に至ることを心より祈念するものである。
「Conceptus 」の柱
次の2部門によって構成される。
1:ぼんち発信による企画
2:ぼんち以外の発信による企画
1は梵智惇声による発信の企画であり、
コンサート、オペラなどの上演であり、
特にオペラについては「ぼんちオペラ」と称される。
2は梵智惇声の発信ではない企画であるが、
上演形態については1と同様、特に制限は設けない。
いずれも、器楽演奏家、声楽演奏家など
必要な人員をその都度メンバーとして招集し、
作品創造に必要最小限度の上下、主従関係のみ許容して
制作にあたるものである。
なお、1と2のいずれが主眼であるか、との問いには、
2こそが発起人の主眼であると、書き添えておきたい。
「Conceptus 」の構成員
当グループは発起人の梵智惇声と、
その規模に従って必要とされる役員の他に常の構成員を置かず、
上演作品の必要に応じて出演交渉の上、
その都度参加メンバーとして扱われ、
報酬の分配は極力公平を期すよう行われる。
但し、発足以前のぼんちオペラ参加者を含む参加経験者は、
特に拒否の意思表示がない限り優先的に候補者として
出演交渉される可能性を持つ。
いわば会友のような位置にあると思われたい。
「Conceptus 」の事務局
当グループの事務局は発足にあたって
その基本的な所在地を決定するが、
会場確保の為等の必要に応じ、
窓口となる参加メンバーの自宅など、
適宜臨時の事務局と称することを許容する。
皆さん、おはようございます。
ぼんちオペラの今後の上演計画について、
多少具体的に書いてみたいと思います。
まずは10月16日のモーツァルト作曲「ドン・ジョヴァンニ」
この日については、後ほど発表することもございます。
次回は4月1日にロッシーニ作曲「セヴィリアの理髪師」
そして、その続編であるモーツァルト作曲「フィガロの結婚」を
夏に上演致します。
これらはボーマルシェの戯曲を原作とする、
「フィガロ3部作」のうち、最初の2作品です。
いずれは第3部のミヨー作曲「罪ある母」とセットで
上演することが出来たら、と考えています。
12月あたりにプッチーニ作曲「ラ・ボエーム」が上演出来たら、
とも考えています。
さて、その次の年、2017年についても構想があります。
この年は歴史ものを上演したいな、と。
まずは尾上和彦作曲「藤戸」
源平合戦においてあったとされる悲劇が元ネタですが、
これを、ぼんち独自の視点でお届けしたいと考えています。
そしてモンテヴェルディ他の作曲「ポッペアの戴冠」
その15年後くらいの話になる、
モーツァルト作曲「皇帝ティートの慈悲」
尾上作品については、
いずれ「仏陀」も取り上げたいと考えています。
また、そろそろ「カルメン」も実現したいところです。
「コジ」や「トスカ」も再演したいところです。
「椿姫」に関しては、おそらくお蔵入りでしょう。
私の表現したいことは、ヴェルディ版では不可能な気がしています。
「こうもり」と「メリー・ウィドウ」についても、
取り上げたいと考えています。
私は一体、いつ死ねるんでしょう?(笑)
皆さん、おはようございます。
ドン・ジョヴァンニの稽古は進んでいっています。
もっとも、進度は速くありません。
というのも、今回の演出の仕方は、
これまでと少し違った進め方をしているからです。
今までさんざん書いてきましたように、
イスラムを例として演出していますが、
そういった大枠のイメージは持った上で、
細部に関しては、インスピレーション優位で
あえて事前に細かいことを決めずに、
現場に臨んでいます。
関係者には申し訳ないけれど、これではどうしても、
サクサクと進行するというわけにはいきません。
どうしてもこれは!というところは、
おおよそ荒立ちも進めました。
もちろん、指示不足の箇所もありますが。
そうした中で、人物のイメージが
明確になってくることもありました。
例えば松浦小夏さん演じるドンナ・アンナですが、
1ヶ月前にイメージを尋ねられても、
これから書くほどの説明は不可能でした。
まあ、書くだけでセクハラになりかねない内容ですが、
あくまでも作品の話だと思ってお付き合い下さい。
ドンナ・アンナについて、
私に確立しつつあるイメージは「お人形」です。
それも、フランス人形とかそういうイメージの良いものではなく、
「大人のおもちゃ」というか、「ダッチワイフ」というか、
そういう、男にいいように利用されるもの、という感じです。
もちろん、アンナに主体性がなくてそうなっているわけでも、
それがキャラクターなわけでもないと思っています。
でも、最終的にそういう存在でなければ生き延びられない、
という境遇に置かれている人だということです。
イスラム設定、それも原理主義過激派の支配地域、
という設定ですから、
男の決定に口を挟むことはもちろん、
ロクな教育も与えられてはいないでしょう。
ドン・ジョヴァンニにイスラム圏内から連れ出してはもらえない、
ということがわかった時点で、
オッターヴィオに殺されないように振る舞うしか、
生き延びる道はない、ということです。
こんな酷い状況を演出していること自体、
これじゃダメだ、という私のメッセージになります。
私は女性をそんな存在として扱い、
彼女たちが流す涙に目もくれない、
なんてことは到底できません。
私の女性に対する理想は、
まず、尊敬できる相手であること、です。
こんな女性はイヤだ、という見方も出来るでしょうけど、
それ以前に、女性をこんな生き物にしてしまうような、
極端な男性優位の社会がイヤです。
己の欲せざるところ、人に施すなかれ。
まさに、私の欲せざるところをやってくれているのが、
ドン・オッターヴィオの島袋羊太君です。
モラハラとセクハラのオンパレード。
最後はちょっとDVも入れてみようと思ってます。
皆さん、おはようございます。
今日は10月16日のアヴェンヌオペラ公演、
「ドン・ジョヴァンニ」の構想についてお話し致しましょう。
まず今回は、前回2013年2月のほわっと公演とは違い、
ウィーン版にて上演することをお断りしておきます。
よって、オッターヴィオの2幕アリアがなくなり、
1幕にアリアが追加されます。
加えて、ドンナ・エルヴィーラに2幕アリアが、
その前にゼッリーナとレポレッロのデュエットが追加になります。
その他、レチタティーヴォが差し替えられたり、
レポレッロのアリアがレチタティーヴォに変わったりします。
さて、今回のメインテーマは、
排他的集団への当てこすりです。
主にイメージしていただくのは、
イスラム国などの原理主義過激派です。
これは、何教か、ということが問題なのではありません。
どんな風に信仰実践しているのか、が問題となります。
問題視するのは、異教徒を敵視して殺戮しても良い、
という実践の仕方です。
これを、新天地に行ってやっていたのが、キリスト教です。
そんなわけで、1幕冒頭のドンナ・アンナ以外、
女性はヒジャブと言われるスカーフを
頭にかぶってもらいます。
同様に、そのコミュニティに属する男性、
ドン・オッターヴィオとマゼットには、
かなり男尊女卑傾向があり、
オッターヴィオにはモラハラ傾向が、
マゼットにはDV傾向があります。
中でもオッターヴィオにはかなりの野心があり、
機会が訪れれば、味方でさえも切り捨てる冷酷さがあります。
ドンナ・アンナの価値は、娘婿になっていれば
指導者の後継者になれる、というところにあります。
そして、騎士長が早く亡くなれば、
より早く指導者の地位が手に入るのです。
もちろん、一夫一婦主義などではないので、
他の女性にも手を出しています。
そこへドン・ジョヴァンニを追いかけてきたアンナの姿が。
そして、騎士長にドン・ジョヴァンニが重傷を負わせた。
これらの状況を判断するなり、手当すれば間に合う騎士長に
自らとどめを刺して殺し、
「ドン・ジョヴァンニによる」騎士長殺害事件を演出し、
アンナをがんじがらめにして服従させようとし、
ドン・ジョヴァンニを杭に縛り付けて刺し殺し、
自ら地位を確定させていく。
そんなオッターヴィオを作ります。
ちなみに、今回は騎士長とマゼットを、
二役でキャスティングしていますが、
マゼットは騎士長の隠し子として演出しています。
風貌がよく似ているため、
何かの時には騎士長の影武者にもなるのです。
最後のシーンで騎士長の亡霊として出てくるのは、
もちろんマゼットその人です。
さて、今回はナレーションを用いません。
字幕でカットしたレチタティーヴォを補いますが、
その内容は神、ヤハウェ、アッラーという目線で書きます。
一神教に対する冒涜と言われても仕方ないのですが、
いわば、預言書を私が創作しているような感じです。
読み方によっては、コーランのように見えるかも。
こうして書き出してみると、
ドン・ジョヴァンニってやっぱり幅広いというか、
懐の深いオペラですね。
どんなふうにでも出来る。(笑)
そして最後はピエタで〆ます。
なお、キャストはこんな感じです。
ドン・ジョヴァンニ 大西信太郎
レポレッロ 中野文哉
ドンナ・アンナ 松浦小夏
ドン・オッターヴィオ 島袋羊太
ドンナ・エルヴィーラ 水野昌代
ゼッリーナ 西田安希
マゼット&騎士長 米田良一郎
・・・とは、なかなか参りませんようで。
皆さん、おはようございます。
椿姫があり、その他諸々で1ヶ月半ばかりお休みをいただきました。
まずは椿姫、無事に終演致しました。
およそ及第点の内容だったとは思います。
色々難所や事故はありましたが、
そんなのはどのオペラでも同じことです。
とはいうものの、やっぱり手ごわかった。
それは、椿姫が、というよりは、
椿姫に対する自分自身の気持ちが、です。
簡単に言えば、夢の中にしかいない、
架空の異性と添い遂げようとしているようなもの、ですか。
私が愛しているのは、モデルとなったマリー・デュプレシーでも、
オペラ版のヴィオレッタでもありません。
あくまでも、椿姫原作小説のマルグリットです。
オペラをするにあたって、
原作小説に極力近づければ、
私の気持ちを形にすることができるのか、と思っていました。
残念ながら、そのアプローチではダメなようです。
通常のオペラ版よりも、事情説明は出来たと思いますが、
私のマルグリットに対する気持ちがわかってもらえそうか、
私の女の愛し方がわかってもらえたか、といえば、
おそらく否でしょう。
しかも、そのことに気付いて愕然としたのが、
オペラが終わって2、3日後のことです。
それもいきなり・・・。
この不満は、いずれボエームにぶつけたいと思っています。
さて、次は10月16日のドン・ジョヴァンニですが、
その前に超えねばならない山があります。
それが、7月3日です。
関西二期会の企画演奏会、「想い出のあの歌」です。
ひょんなことから出ることになりまして、
私が関わる演奏会としては珍しいものです。
私が歌うのは、
神田川、証城寺の狸囃子、犬のおまわりさん、
いつでも夢を、翼をください、アメージング・グレース
といったところ。
あとは、全体の合唱ですね。
親しみやすい歌をオペラ歌手が、という企画です。
チケットだけは売るほどありますので、
どうぞお越し下さい。
7月3日夜、場所は大阪ビジネスパーク駅、
あるいは大阪城公園駅のいずみホールです。
振り付きの歌もありますので、
見てる方は結構楽しめると思います。
やってる方は・・・結構必死だったりして、
隣の人の苦労を見るのが楽しかったりします。(笑)
次回は、ドン・ジョヴァンニのお話でも致しましょうかね。
相当変わったドン・ジョヴァンニになりますこと、
ご承知おき下さい。
ひょっとしたら私、殺されるかも!
皆さん、おはようございます。
私のホームグラウンドであった、
お好み工房ほわっとが、2月末で閉店となりました。
ほわっとでのぼんちオペラは「トスカ」が最後となりました。
2月22日にはさよならパーティ第1弾があり、(第2弾は3月1日)
多くの仲間が集まって最後の演奏を致しました。
計816回のライブのうち、オペラ公演が50回ありました。
それほど広大でもない飲食店で、これだけのライブがあり、
その1/16がオペラだったというのは、快挙だと思います。
そのうち、ぼんちオペラが以下の通り。
2010年6月26日 ポッペアの戴冠
9月18日 魔笛(ハイライト)
2011年2月26日 フィガロの結婚
9月25日 劇場支配人
11月26日 皇帝ティートの慈悲
2012年4月30日 カルメン
9月22日 魔笛
11月23日 カヴァレリア・ルスティカーナ
2013年2月11日 ドン・ジョヴァンニ(プラハ初演版)
4月29日 フィガロの結婚
10月5日 マダマ・バタフライ(初演版)
2014年1月13日 こうもり
4月12日 コジ・ファン・トゥッテ
9月20日 トスカ(初演版)
以上14本のうち、カルメンとカヴァレリアを除く12本が演出作品。
指揮は2010年の魔笛を除く13本、
ティートに至っては、指揮・演出・ティート役と重責でした。
この他に演奏会がありました。
2009年2月20日 冬の旅
3月20日 のとかなる春の響きコンサート
10月18日 通算500回記念コンサート
2010年2月13日 冬の旅
2011年1月10日 没後220年モーツァルトガラコンサート
12月5日 没後220年モーツァルト「レクイエム」(梵智セレクト版)
2012年8月4日 フィッシャー=ディースカウ追悼演奏会
2013年1月14日 ほわっとモーツァルト室内管弦楽団(指揮)
8月3日 愛の歌~シューマン
以上23のライブに出演致しましたが、
454回目のライブが初登場でしたから、
いわば後半の人間ですので、
後半16回に1回くらいの割では出演したことになります。
ほわっとオペラとしては、ポッペアが24回目でしたので、
これまた50回のオペラの後半の人間です。
そのため、マスターからは中興の祖と評価いただいております。(笑)
これが、ほわっとでの6年間の総決算です。
そして、昨年のコジ以来、
場所をサロン・ドゥ・アヴェンヌにも広げて、
8月8日のコジ・ファン・トゥッテ
11月14日のトスカ
以上2本をほわっと公演から引っ越し公演し、
この5月15日の「椿姫」を以て、
純粋なアヴェンヌオペラの幕開けとなります。
その後は「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン再演版)、
「セヴィリアの理髪師」、「フィガロの結婚」など
予定しております。
以上がぼんちオペラの系譜ですが、
今のところほわっと、アヴェンヌという、
飲食店オペラで展開しております。
こんな規模でも15人から20人の所帯となりますが、
ホールでのオペラともなると数倍以上の人間が動くことになるわけです。
それはそれで大変なこともありますが、
そうしたオペラにはない大変さが、飲食店オペラにはあります。
いわばプランナーとして、6年間14演目に渡って関わった経験から、
多少はものを言えるだけの状態になっていると思いますので、
ほわっとの閉店を機に、少し思うところを書いてみたいと思います。
関東関西を問わず、いくつも飲食店オペラは存在を耳にします。
ただ、聞き及ぶ限りにおいてそのコンセプトはほぼ同じ。
初めての人に、オペラという特殊ジャンルをわかりやすく紹介する、
という姿勢が、常に根底にあるようです。
確かに、私もあることは願っています。
初めてオペラを観た人が、オペラを好きになってほしい。
これは願っているのですが、だからといって、
上演内容を初心者向きに手加減する、というスタンスは取りません。
そもそも、「オペラという難しいものをわかりやすく」とは考えていません。
「オペラって別に難しくないですけど。」というのがポリシー。
よって、「字幕付き映画見るつもりで見てね」がスタンスです。
映画で手加減する監督なんかいません。
表現したいものを、表現したいように撮るものです。
ですから私はプレトークでも、オペラについての解説はしません。
あくまでも上演する内容について、見るべき角度とか、
時代背景とか、前史とか、そういう説明しかしません。
そして、カットも出来る限りしていません。
なぜなら、名曲・名場面紹介のための上演ではないからです。
作品はノーカットでこそわかることも多いわけで、
そっくりそのまま提供するのが親切というものです。
もちろんそれを作り上げるのに平均20回くらいの稽古は必要です。
その作業のために、必要なものといえば・・・当然決まっています。
1に人、2に人、3、4がなくて5に人です。
それも、人材が必要というよりはむしろ、
仲間としての意識を共有できる人間関係こそ人です。
これは、出演者だけの問題ではありません。
それも大事ですが、まずは場所の提供者との関係、
そして、場所提供者自身の意識のあり方が最重要事項です。
まず、場所を与えているだけで、自分は大して関わらない癖に、
若手を育ててやっている、という意識を滲み出させている人、
というのは、私の思う飲食店オペラには最悪の提供者です。
上演する作品を味わい、一緒に作る意識があってこそ、
演奏者は気持ちよく上演出来ることを知るべきです。
この点、ほわっとのマスターは、
少なくとも日本一の場所提供者であったことは間違いありません。
その傾向が行き過ぎてトラブルになったとしても、
それは巡り会わせの悪い事故だとしか言えません。
その意識がないよりは数万倍マシな話です。
その意味で、主催、制作統括は、
この場所提供者がするのが理想的だと考えます。
出来れば、字幕操作など、実際の上演にも携わるのがベストです。
出演の打診も、基本的にこの人からが良いでしょう。
この点も、ほわっとマスターは申し分ない場所提供者です。
下手すると、自分も出演してますから。(笑)
また、上演台本を自ら書き、演出しますから。(笑)
そして、必ずスケジュール調整係を出演者サイドに置くこと。
場所提供者が制作をしていて、スケジュールもやることがありますが、
これはいらぬ負担から事故も起こりやすいのでお勧めしません。
出来たら主役クラスで1人、スケジュール調整係を置きたいものです。
そして仕事のポイントは、本番約半年前に、
おおまかな稽古スケジュールは出してしまうこと。
そこを過ぎると、稽古場に人が揃わない状況を作ってしまいます。
また、誰かが場所提供者と二人三脚をすることも大事です。
ぼんちオペラの場合、私がそれを担当しています。
主な仕事は、誰に何をしてもらうか、決めて打診することです。
指揮者・演出家として作品の全体像を最初に把握する人ですから、
今のところこれ以上の適任者はいないはずです。
私の打診は同時に指揮者・演出家としての発言、オーダーでもあるので、
道具に関する出演者への相談は、
案外スピーディに答えが出たりもします。
ここに必要なのは、会社組織と同じく、報連相です。
こうしたことは、ほわっとオペラの中で学びました。
現在は、その方式をアヴェンヌオペラで確定させつつある、
という状況です。
ここまでに書いたのは、場所提供者とスケジュール係、そして私、という
たった3人の役割なのですが、飲食店オペラでは
これ以上役員の数を増やす必要もない一方で、
この3人には大劇場オペラではあり得ない一人何役、
そしてそれらを総合的に考える智慧が必要になるのです。
これがベースになって、
初めて出演者達との楽しい交流があるのです。
このベースなくしては、出演者を大事にしようにも、
大事にするだけの土壌が整いません。
ここまでのことが出来れば、
公演の一応の成功は、集客の問題以外、
ほぼ間違いないところまでこぎつけています。
後は、個々人が奮闘努力すればいいだけのこと。
大きなプロダクションにおいても当たり前のことばかりですが、
小劇場だからこそさらに心しなければ、
空中分解を招く致命的な失敗が待っています。
これが、飲食店オペラの作り方の奥義だと私は考えます。
皆さん、おはようございます。
椿姫がそうであったように、
ラ・ボエームも私の嫌いなオペラの一つ・・・でした。
過去形です。(笑)
この2年ほどで、私の扱えるオペラになった・・・
いや、私自身が取扱い可能な状態になったようです。
そして、コジ・ファン・トゥッテ、椿姫と並んで、
私の中で、「俺の恋愛オペラ」というものになりつつあります。
この3作品を通じて、私の愛し方というものを追求する、
というコンセプトが組まれているように感じます。
ボエームについて、あらすじはどこかで読んでいただくとして、
断片的かもしれませんが、
基本的なプランを書いておきたいと思います。
まず、このオペラ全体を、ある誰かの夢、
という設定にしたいと思います。
私が思考している限りでは私の夢のようなものですが、
他者がこれを見る時、その人の夢かもしれないし、
誰か他の人の夢と見るかもしれません。
ともあれ大事なことは、現実とは捉えないということです。
衣装プランから申しましょう。
安い、例えばユニクロなどのTシャツとか、
それも、グレーや黒の、なるべく地味なものを、
キャストはお揃いで着ることにしたいと思います。
それがベースになり、あとは必要なものを羽織ればよいと。
これは何を表しているかというと、
夢であることを表しています。
夢なんて、特徴的なところを除けば、
たいてい白黒グレーのような、色のないものですし、
そこに登場する人たちはたいていが自分の分身であり、
異性がいたところで、せいぜい自分の願望の象徴でしかありません。
つまるところ、登場人物の全員が、
その夢を見ている人物本人でしかない、ということです。
それゆえオペラを見ている誰もが、
誰の視点で感情移入してくれてもいいのです。
これはどういう夢かというと、
恋が始まり、紆余曲折あった結果、
恋人が死んでしまう、という悲しい夢。
その夢から覚めた時の何とも言えない感覚を、
観客には味わっていただきたいと考えています。
キャッチコピーは、およそこのような趣旨でと考えています。
「こんな夢をごらんになったことがおありでしょう」
これを実際の恋の追憶、夢と思っていただいてもいいし、
オリジナルの夢、と思っていただいてもいい。
それは各自の感性によるものだと思います。
これら恋愛オペラにサブタイトルをつけると、
およそこんな感じになるでしょうか。
コジ・ファン・トゥッテ・・・「ラブレター」
椿姫・・・「容赦なき現実」
ラ・ボエーム・・・「追憶と夢」
もちろん、これは私の作品観の話です。
ラ・ボエームの最後の場面は明確な構想があります。
ミミが横たわる台に光を集め、その他は薄暗くします。
ミミは死ぬ代わりに、静かに退場。
その他の人物も適宜退場。
最後はマルチェッロ、そしてロドルフォが去り、
観客は後奏を、スポットライトを浴びている台を見ながら
聴くことになります。
皆さん、おはようございます。
そして、あけましておめでとうございます。
今年もバンバン書いていきますので、
よろしくお付き合いのほどをお願い致します。
今回は、椿姫の原作と小説との差を考えてみたい、
という風に考えていますが、
たいていの方はここで、引っかかるでしょう。
椿姫の原作って、小説のことと違うんかい?と。
もちろんそうなんです。
普通に考えれば椿姫は、デュマ・フィスの小説が
それ以降の作品の原作なんです。
しかし、源流そのものは、歴史的事実にあります。
それは、高級娼婦マリー・デュプレシーの生涯です。
マリー・デュプレシーがマルグリット・ゴーチエのモデルです。
しかし、モデルという領域に収まっている話かといえば、
そうとは言い切れないところがあります。
マルグリットの生い立ちに関する言及は、
デュマ・フィスが知るマリーの生い立ちから成立していますし、
マリーもマルグリットも肺病で、香りのない椿を好んでおり、
トレードマークになっている、ということも共通です。
何より、デュマ・フィスとマリーが交わした会話や手紙が、
小説に引用されているわけですから、
モデル、などというほど薄い話ではありません。
となると、小説、戯曲、そしてオペラ「ラ・トラヴィアータ」の原作は、
実在するマリー、デュマ・フィス他マリーを取り巻く人々、
ということになるでしょう。
しかしながら、マリーがマルグリットそのものだったかといえば、
根本のところで大いに違っています。
マルグリットの人格というのは、デュマ・フィスが
「マリーがこんな人であってくれたら」という理想の女性であり、
マリーの人格は別物、ぶっちゃけて言えば、
デュマ・フィスにとっては劣悪なものだったということです。
マリーはマルグリットのように、
放蕩せずにいられるならそうしたい、と思う人物ではなく、
田舎暮らしにはさっさと飽き飽きする人で、
マルグリットがアルマンを愛するようには、
デュマ・フィスを愛するわけではありませんでした。
つまり、マリーがデュマ・フィスに、
マルグリットがアルマンに言うのと同じセリフを言ったとしても、
背景にある心の状態は全く異なっていると考えてよいでしょう。
そもそも、マリーは名誉に対する執着が半端ではありませんでしたから、
貴族でないデュマ・フィスは最終的な伴侶対象にはなり得ません。
もしジョルジョ・ジェルモン的な父親でも表れて同じ依頼をされたら、
涙一つ本気で流すことはなく、別れに応じたでしょう。
結局、晩年にペレゴー伯爵と、ロンドンでかりそめの結婚をし、
形ばかりの結婚証書と、伯爵夫人としての紋章使用許可をもらい、
伯爵夫人として生涯を閉じることを画策しました。
最後に墓に刻まれたのは、アルフォンシーヌ・プレシー・・・
つまり本名であり、平民としての埋葬だったわけです。
この上昇志向、のしあがり願望の強いマリー・デュプレシーを、
純愛に目覚めてしまうマルグリットと混同するわけにはいかないのです。
つまり、椿姫作品の源流はマリーにあるとしても、
椿姫という物語の原作、基点はあくまでも小説にあるのです。
この史実と小説との間にある残酷な差を、
戯曲であれオペラであれ、この作品に関わる人たちには、
きっちり認識した上で臨んでいただきたいものです。
そして、私が取り上げたいのも、あくまでマルグリット、
つまり小説段階でのヒロインなのだ、ということを申し上げておきます。
マリーのような人物は、現代音楽のオペラでしか扱えないのです。
皆さん、おはようございます。
私が指揮する公演の大半は、私が演出もしています。
その理由を、具体的な作品を使ってご説明しましょう。
題材はロッシーニの「セヴィリアの理髪師」ですが、
出来ましたら皆様も、メトロノームと楽譜をご準備の上、
お付き合いしていただきました方が、
より正確に理解していただけるかと思います。
取り上げますのは、リコルディ版スコア152ページから始まる、
バルトロのアリアです。
まずはテンポ指示をごらん下さい。
Andante maestoso 4/4という指定があります。
おそらく大半の演奏は、四分音符=90くらいで
始めているのではないでしょうか。
しかし、そのまま行くと、3段目の1小節目のフェルマータの後、
たちまち困ってしまうことになります。
そこで、例えば四分音符=60~65くらいのテンポに落とし、
改めて仕切り直して別の音楽を展開している、
というのがほとんどの演奏現場であると思います。
こういう演奏の仕方は、
何となくナチュラルな印象の演奏にするための、
楽譜の不適切な扱い、悪く言えば改竄にあたると思います。
言うまでもなく、Andante maestosoというのは、
Andanteよりも遅いテンポを指します。
当時のAndanteが今ほど遅くないことを考えても、
それより遅いAndante maestosoで90は速すぎます。
演劇的な状況を考えてみましょう。
ここは、バルトロが異常なテンションで怒りを表し、
ロジーナを脅しつけるアリアです。
maestosoの指示が、威厳をもって、というものであり、
それまでのレチタティーヴォ・セッコで彼が示したキャラからして、
どう考えても威厳のある人物ではないにも関わらず、
無理から権威をみせつけるような音楽を呈して、
オペラ開始後、初めてのナンバー、それもアリアを開始するのですから、
その威厳が自然な威厳である必要は全くありません。
それよりはむしろ、本人は威厳のつもりが、
不気味な押し付けと映る点こそ、
このオペラがブッファたる所以であると思います。
ということで、まずは開始のテンポを、
四分音符=70~75に設定することをお勧めします。
この設定の正当性ですが、
クヴァンツのフルート教本でのAndante4/4の設定が、
四分音符=80ですから、それより少し遅いテンポ、
ということで、当時の教育方針とも一致します。
ロッシーニがバロックオペラ最後の作曲家であることから、
少し前の時代人であるクヴァンツの考えを応用することは、
妥当な範囲内であると思います。
ベートーヴェンが第9の4楽章で、歓喜の主題を、
Allegro assai4/4 の設定を二分音符=80にしていることからも、
その半分のテンポと言われるAndanteを四分音符を80とするのは、
それほどズレのない話でしょう。
このテンポで始めて、前半をそのまま突っ切ればどうなるか・・・
3段目以降も、ちょっと早めの滑稽なテンポになりますが、
演奏が不可能なテンポではありません。
むしろ、バルトロがせっかく演出したはずの恐怖も、
いきなり器の小さい、肝っ玉の小さい、
セカセカした歌になって、ブッフォバスの本領発揮となります。
そして155ページの3段目からの2段が、異常に遅いテンポとなり、
しかも歌のパートにつけられたアーティキュレーションから、
歯を剥き出して異常な詰問をしている光景が展開されます。
さて、その後は元のモードに戻り、
皆さんお楽しみの早口モードのパートに差し掛かります。
しかし・・・しかし、しかし!!!
拍子が変わったことにご注目いただきたい。
もちろん速度表示も変わっています。
Allegro vivace2/4
このテンポ設定がどういうものか、まずは考察しましょう。
まず、拍子が2/4という2拍子になっている時点で、
同じAllegro vivace4/4よりは1拍のテンポが遅いのです。
さらに、vivaceという言葉がAllegroに付随すると、
一応Allegroで速い部類のテンポではあるものの、
細かい音符まで生かせ、という指示であるがために、
メトロノーム数値は落ちることになります。
このアリアのこの部分は、見事に細かい音符が並んでいます。
これを全て生かすためには、
まず、通常四分音符=140~150あたりで演奏されている
Allegro4/4よりも、2/4の指定ゆえに130あたりまで落とし、
しかも、vivaceが付随する分、さらに落として120くらいに設定する。
そうすると、言葉が流れずに、すべて正確に発音し、
しかも、イタリア人なら聞き取ることのできる発語であり、
正確に発音しようとする努力が滑稽に転換され得る、
ギリギリのテンポ設定となるのです。
そしてそのままのテンポで締め括りを歌うことも出来る。
何一つ楽譜をいじらずに済むテンポ設定が、
前半70~75、後半120というものです。
そして、そこからどのような態度で発語していくべきか、
ロジーナがそんなおっさんに対してどう感じ、どう反応すべきか、
演出のアイデアの源泉ともなるのがこのテンポ設定、
そしてそれはあくまでも楽譜から割り出したものであり、
一切の勝手な判断を排したものである、と言えます。
・・・・と、私はこう思っています。
これを実行に移そうとするに際して、
指揮者だけやっていても無理だし、
演出家だけやっていても尚更不可能だし、
ならば両方やって一致させるしかない、
というのが私の作品創作のスタンスです。
もちろん、他者と共同で作品イメージを立ち上げていく、
という作業も嫌いではありませんが、
そうではないものを作ろうとすると、
指揮者として読み取れる情報から演出家としての判断をする、
ということをするしかなく、
両方兼任しか道がない、ということになるわけです。