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2016/08/03

皆さん、おはようございます。

突然の質問ですが、
「公演する」って、どういうことだと思われます?
オペラならオペラ、芝居なら芝居、
コンサートならコンサート、それぞれのジャンルにおいて、
共通のことなのですが。

大まかに言えば、
「ちゃんと来てもらう、ちゃんと見てもらう、ちゃんと帰ってもらう」
この3つに集約されると思いますし、
中でも、「ちゃんと帰ってもらう」ことに集約されるでしょう。
これらが揃って初めて「素晴らしい公演」ということになるし、
「ちゃんと」の前に「一応」というのをつければ、
「普通の公演」になるだろうと思います。
それだけ「ちゃんとする」ことは難しいことだし、
すべてにおいて「ちゃんとしている」のは至難の業です。

まず、「ちゃんと来てもらう」がなければ話になりません。
ともかくも会場にたどり着いていただくことが肝心です。
・・・お客様についてはもちろんのことですが、
これは、演者、スタッフ、主催者に至るまで、全員についてです。
この3者については、稽古も同じことなのです。
そのための周知はチラシ、内部文書などにより、
事故のないよう、徹底せねばなりません。
そして、会場についたところで、まだ「ちゃんと来てもらう」ことは
終わっているわけではありません。
お客様には「着席してもらう」ところまでが
その内容ということになります。
そのために、ホールには受付があり、
案内係がいるわけです。

「ちゃんと見てもらうこと」についても、
キャスト、裏方、総動員での頑張りどころです。
それだけの内容を組み立てねばならず、
その内容を確実でハイクオリティに再現せねばならず、
そこには、様々な技術を投入せねばなりません。

裏方さんには、この技術的なことの中に、
舞台で事故が起こらないように、
照明機材が落ちてきたりしないように、
セリから人が落ちたりしないように、
細心の注意を払うことも含まれます。
演者も事故に注意しなければなりません。

何か明らかな事故が起これば、
お客様に「ちゃんと見てもらう」ことは達成できません。
ちゃんと見てもらえなければ、
必然的に「ちゃんと帰ってもらうこと」も怪しくなります。

内容に著しい不満があったり、
舞台上で起こった事故に意識が向いてしまったり、
最悪、途中で上演中止になったり、
そんなことがあれば「ちゃんと帰る」なんて無理な話です。
また、仮に客席にまで影響する天災や火災があった場合、
「来てもらうこと」の仕上げで登場した案内係が、
重要な役割を担うことになります。

劇場などというものは、
人数に対して出入り口の数は少ないものです。
人が殺到したら、それだけで殺人的な要素を兼ね備えます。
案内とは、来る人の案内だけではなく、
帰る人の案内だって必要なのです。
また、有事に備えて、
それだけの人が集まることを、
消防署などの各所に届けておくことも必要です。

おそらく私でさえ気づいていない、
「ちゃんと帰ってもらう」ための必要事項が色々あるはずです。
大きな老舗のプロダクションでは、
特に気にしなくても出来ていることかもしれません。
それは、働いている人間が多数存在するために、
責任が分散されているから、
例えば歌手ならば歌手業界に伝えられている常識だけで、
歌手の責任が達成されているからに過ぎません。

プロダクションが小さくなればなるほど、
責任は一人一人の肩に重くのしかかり、
イヤでも自覚しなければ公演は成立しないのです。
だから小さなプロダクションに出演したくない、
なんて思わないで下さいね。
大きなプロダクションで何かがあった時、
もしかすると、小さなプロダクションでの責任経験が、
役に立つこともあるかもしれないんですから。

ちゃんと来てもらう
ちゃんと見てもらう
ちゃんと帰ってもらう

言葉にすると簡単な言葉で、
響きも簡単そうな響き
あまりにも当たり前な響きですが、
実はかなりシビアな問題なのです。
是非、考えていただきたいことです。
普通のお店にも共通することなのですから。

11:57 | 雑筆 | No Comments
2016/06/17

皆さん、おはようございます。

何のことかと思われるかもしれませんが、
最近、みんな使う略称や、
丁寧な言い方を少しまとめた言い方について、
そのメリット、デメリットを考察してみたいと思います。

実は私、今、デリバリーのアルバイトをしています。
あるとき、こう指示が来ました。
「ナンキューへ持って行ってください」

ナンキュー?どこのことじゃ、それ?と思い、
配達伝票を見てみると、
「南久宝寺町1丁目云々」とある。
そう、ナンキューとは、
「みなみきゅうほうじ」の略だったわけです。

このこと以来、
私は人と会話する際に、
地名を略して言うのは極力避けようと思いました。
もちろん、「あきば=秋葉原」とか、「うえろく=上本町6丁目」、
「ぶくろ=池袋」など、もう一般化しているところは良いでしょう。
でも、一般的でない地名はやめておくことにしました。

ご想像の通り、ナンキューが南久宝寺町の略とわかった時、
あまり良い気分ではなかった・・・
平たく言えば、少しムッとしたからです。
物心ついて以来、生まれ育った「みなみきゅうほうじ」。
それをナンキュー呼ばわりされた時、
何とも言えない気分の悪さを感じたわけです。

しかし、略することが気分を害しかねないからといって、
別のシチュエーションでは、逆のこともまた起こり得ます。
ある人物に、あることをした方がいいか、と尋ねたことがあります。
すると返ってきた答えがこれ。

「そう思うんだったら、○○に訊いてみて下さい。」

一瞬殺意がわきました。(笑)
何かと他人をむかつかせる言動が多い人のようでしたが、
私にもそのようなこと、数回目でした。
この御仁、私よりはそれなりに年下のようで、
初対面の時に、私のことを「目上の人」と言っていた人です。
その「目上の人」である私への、イエローカード言動数回目です。

皆さんご存知のように、私は上下関係の嫌いな人間です。
目上だの目下だの、糞食らえなのが私の生き方です。
ですから私はこの御仁の言動について、
「目上の私に向かって」という風には感じません。
つまり、私にとって上のような返答は、
たとえ後輩への言葉であっても無礼な応対なのです。

「もっと他の言い方ないのか?」と思いましたが、
一番簡単で適当なのは、
「じゃあ、○○に訊いてみて下さい。」でしょう。
この中で、「じゃあ」という言葉が今回の考察対象です。
「じゃあ」を少し丁寧に言い換えていきます。

じゃあ→それじゃあ→それでは→それなら=それだったら、というところでしょうか。
「それだったら」とまで来たら、「それ」には何が代入できるでしょうか?
まさに「そう思うんだったら」でしょう。

つまり、件の御仁の言い方を、機械的な国語としてとらえたら、
かなり省略のない、形式としては丁寧な表現をしたことになります。
しかし、ニュアンスとしては、それは喧嘩を売っているような表現なのです。
ビジネス現場でビジネス相手に言うこととして言い換えると、
「そうお考えでしたら」とか、「そう思われるのでしたら」になるでしょうし、
クレームっぽい相手であれば、「言いたいことがおありでしたら」
というバリエーションも考えられるでしょう。
喧嘩相手なら「文句あったら」になるでしょうか。

どれもこれも、「じゃあ」に省略できる表現ですし、
しかも、相手を突き放して、「自分は関わらないし、受け付けないけど」
という但し書きのニュアンスを含む言い回しになってしまいます。

ここで角の立たない緩和方法として存在するのが、
思い切って「じゃあ」に縮めてしまうことです。
言葉と言うものは至って恣意的なものです。
100年後の国語では、そんなニュアンスにはならないのかもしれない。
でも、今はそういうニュアンスを帯びてしまうのです。

そんな時、今なら「じゃあ」に縮めることで、
「そう思うなら○○しろよ、俺知らんけど。」
という乱暴なニュアンスを8割9割薄めることが出来るわけです。
もちろん、口調が乱暴ならそれでもダメですが、
やんわりした口調ならば効果が出ますし、
逆に、「そう思うんだったら」といえば、やんわり言っても喧嘩の種です。

言葉って難しいものです。
略したら相手の気分を害することがある一方で、
略すことで角が立たないようにすることもあるのですから。

12:08 | 雑筆 | No Comments
2016/01/02

皆さん、あけましておめでとうございます。

いよいよ、Conceptus本格始動の年を迎えました。
旧年中お世話になった方々も、
今年はさらにお世話になるであろうと思われますので、
何卒お覚悟のほどをよろしくお願い致します。(笑)

何事にも完成形態というものはないと思いますが、
とりあえず出来るようになりたいこと、というのはあります。
モツレク、第九、受難曲、シンフォニー、コンチェルト・・・
いずれもオーケストラが必要なことばかりです。
従いまして、急務の一つはオーケストラの編成です。
弦楽器の基本的な最少人数は、
モーツァルト当時のプラハのオペラハウスのサイズ、
3-3-2-2-2としたいと考えています。
曲によって適宜増やせばいいわけです。

それから、各パート3~4名の室内コーラスです。
この二つは急務になると思います。

大きいことばかり書きましたが、
実際のオペラ上演は、来年まで

2016年
セヴィリアの理髪師
フィガロの結婚
ラ・ボエーム

2017年
藤戸
ポッペアの戴冠
皇帝ティートの慈悲

このようなラインナップで行いたいと思います。
そして、オペラの前月あたりにはオペラのキャストによる
宣伝と解説のためのコンサート、
それ以外の月はマンスリーのようなコンサートで、
器楽、声楽ともに充実を図りたいと思います。
このマンスリーについては、その都度プロデューサーを指名し、
計画から実行に至るまでやっていただこうかと。
各々の特性に応じたコンサートをすることでマンネリ化を防ぎ、
出来れば新しい人材の発掘もしたいな、と。

私はどのジャンルの音楽であれ、
「つまり音楽だろう」と考えています。
扱う方法論を会得しているのなら、
クラシック演奏家がロックを演奏してもいいのです。
クラシックでない人を引っ張り込まれても困りますが、
クラシックの人が、然るべき方法で他ジャンルを演奏するのは、
私は大いに歓迎するところです。

しかし、こんな話が出来るようになったのは、
仲間たちが増えてきてくれたことがすべてです。
本当はもっと早くにしたかったことですが、
音楽大学に行かなかったことで、
対等にやっていける仲間がいるわけでもなく、
それは実現するはずもなかったのです。
そこのところだけは失敗したと思ってますが、
果たして音大に行っていたら、
そんなことをするだけの見識が身についたか、というと
これが相当疑問に思えるのです。

私はこれで良かったのか?
今では良かったと思いますけど、
それをタイムマシンで15年前の自分に伝えてよいかというと、
相当慎重にならざるを得ません。
やろうとしては粉砕されてきた歴史なくして、
今の実力はないと思いますから。

ほわっとでぼんちオペラが始まって、
きっちり6年たった今ですが、
この6年の積み重ねがあったればこそのコンツェプトゥス。
そしてその6年は、それ以前の苦悩なくしては存在しません。

正直苦しかった経験を肯定したくないんですが、
それでもそれなくして今はない・・・。
人生って難しいものですね。

01:28 | 雑筆 | No Comments
2015/12/31

皆さん、おはようございます。

今年の終盤は慌ただしい時期となりました。
10月16日にこれまでのぼんちオペラのグループで
新団体を立ち上げました。
この10月16日の公演「ドン・ジョヴァンニ」も大変でしたが、
新団体の立ち上げにともない、
色々な話が浮上してきて、責任が大きくなり、
6月から勤務していたお寺を退職することになりました。
これが11月のことです。
そして12月は年末のコンサートが重なり、
同時に来年の準備を始めなければならず、
神経をすり減らすこととなりました。

お蔭で不義理するところも多くなりましたが、
未来へ向かって着実に進んでいることを以て
ご容赦いただけたらと思います。

詳しくは新年のご挨拶にて申し上げますが、
ぼんちオペラのグループでしかなかった我々、
これからは規模を拡大していきます。
これまで培ってきたものを、
外に向かってぶつけてみる時が来たようです。

音楽というのは、一人では出来ません。
仮に、音楽行為そのものは一人で出来ても、
それを広く周知し、運営することは一人では出来ません。
それが出来る人もいるようですけども、
私に出来ることではありません。
でも、どこにもないものを創り出す自信だけはあります。
ええ、それしか自信ないのです。
他のことはダメ人間です。

似たようなことがお坊さん業務にも言えるような気がします。
私は拝むことは、それほど質の悪い人間ではありません。
祈祷についても、それなりに能力はあるようです。
つまり、成果はそこそこ期待していいと思います。
音楽におけるこの状況は祈祷能力に支えられてもいます。
しかし、無難な人間であることは出来ません。
万人に好かれる態度を身につけることも出来ません。
「功績を残さなくてもいいから、無難であれ」
こういった組織の一員に求められる態度でいることは、
私には無理な相談です。

音楽家はこの逆です。
成果さえ出せば、みんなに多大な迷惑が出るような、
そんな重大な欠陥でもない限り、
多少の難は目を瞑ってもらえるのがこの業界です。
逆に無難なだけでは淘汰されてしまいます。
こんな180度態度の違う世界の両方に、
どっぷり身を漬けることなど、到底不可能です。

ですから、私は音楽家をメインとします。
しかしながら、お坊さんとしてのスキルはありますし、
還俗するつもりは毛頭ありません。
何より私は、宗教家です。
宗教家としての精神を音楽にもろに反映しますし、
それが私の宗教活動のメインでもあります。
同時に、お坊さんとしてのスキルも活用します。
ご供養、御祈祷、葬儀なども承ります。
つまり、他人が住職の寺の看板を背負いはしないが、
個人的に坊さんの仕事は受けます、ということです。

今後はこのようなスタンスで生きて参ります。
来年もよろしくお願い致します。

2015/10/09

モーツァルトのレクイエムの中で、
最新の補筆といえるものが二つあります。
一つは日本人のもので、
バッハ・コレギウム・ジャパンの御大将、
鈴木雅明氏の子息、優人氏の補筆です。

もう一つは、第一線の音楽学者である、
ベンヤミン・グンナー・コールスの補筆。
楽譜が出たことは知っていましたが、
その後、演奏されたという話や、
CDが出た、という話は聞きませんでした。

一流の学者による補筆なのだから、
もう少し話題に上がってもいいのに、
そう思いましたが、我々を取り巻く現状から、
話題にならないのも無理ないかな、
という風にも思っていました。
1991年、2006年といった、
いわゆるモーツァルトイヤーを逃していて、
しばらくそういう記念年はないので、
完全に時期を逸していますし、
潮流がジュスマイヤー再評価傾向にあり、
必ずしも新しい補筆がもてはやされない、
そんな潮流になっているからです。
いわば、出尽くしてしまったんですな。

さりとて、出ているものをチェックしない、
というのも、モツレクフリークとしては
ちょっと気持ち悪いものですから、
思い切って楽譜を取り寄せてみました。

乱暴に一読した感想ですけど、
学者臭いww
間違いはないのかもしれないけど、
本人が書いてたらそうすると、
ホントにそう思う?と
小一時間問い詰めたい内容でした。

試みにYouTubeを検索してみたら・・・
なんとありましたよ、しかも自作自演w
楽譜見ながら聴いていたら、
プッと吹き出すような和声進行があったり、
それ、絶対いらんやろ、という合いの手があったり、
まあ・・・一言で表せば、蛇足が多いと。

ここまで色々出揃ったところでつらつら惟るに、
現代のモツレク補筆者たちというのは、
ひょっとしたらモーツァルト関係者の
生まれ変わりが集結してるんではなかろうか、と。
今までそんなこと考えもしなかったんですが、
コールス補筆版はそう思わせる内容でした。

というのも、コールスの補筆の特徴が、
ジュスマイヤーの仕事の特徴とリンクするからです。
ジュスマイヤーの前に楽譜はアイブラーの手に渡り、
途中までほぼ完成させていたことは周知の事実です。
ジュスマイヤーはアイブラーの仕事を引き継ぐのではなく、
アイブラーの仕事は破棄して最初から自分色でやりました。

モーツァルトがロイトゲプに残したホルン協奏曲の、
終楽章ロンドも、モーツァルトの残した部分を削除して、
自分色で補筆完成してしまうような男、
これがジュスマイヤーの実態です。
つまり、実力が伴わないものの、プライドは高い。
その結果が後世の不評となり、
それが、新しい補筆の乱立を生んだのです。

私は、規模もクオリティもモーツァルト本人が
完成していた場合に接近していると思われる、
ロバート・レヴィン版を超す補筆を知りません。
実際レヴィンはモーツァルト作品に通暁していて、
言われればたちどころにどんな作品でも
暗譜で弾き出すほどの頭と腕の持ち主で、
コンチェルトのカデンツァを即興でやるとなれば、
ささっと朝飯前でこなしてしまうそうです。
これは、18世紀の音楽家の基準を、
かなり高い水準で満たしています。

私はこのレヴィン氏こそ、モーツァルト本人か、
モーツァルトも信頼していたアシスタントで、
コジの副指揮者も務めたアイブラーの生まれ変わり、
という風ににらんでいます。
アイブラーの実力や如何に?と思う方のために、
モーツァルトが書いたアイブラー評を掲載します。

下に署名する私は、
これを有するヨーゼフ・アイブラー氏が、
かの名高き大家アルブレヒツベルガーの高弟であり、
しっかりした基礎のある作曲家であり、
室内楽にも教会音楽の様式にも等しく通じ、
芸術歌曲の分野にも熟練しており、
そのうえ洗練されたオルガン奏者や
クラヴィーア奏者であることを認めます。
手短に言えば、これほどの新進作曲家に、
惜しむらくは、並び立つ相手がいないということです。

ぶっちゃけ、俺の次にすごい、と
モーツァルトが言っているようなもので、
その実力はレクイエムの補筆の程度からもわかります。
ですから、私はアイブラーが補筆した部分は、
アイブラーの補筆を用いるのです。

そのアイブラーか、あるいはモーツァルト本人が
生まれ変わったとしか思えないようなレヴィンは、
ジュスマイヤーの功績を最大限に生かして、
そこから高水準の作品に仕上げているのです。
それがレヴィン版モツレクです。

そのレヴィン版に対抗して、
あえてアイブラー補筆を使ったとしか思えないような、
そんな使い方をしているのがコールス版です。
勉強はしたのでしょう。
でも、センスはあまり伸びなかったようで・・・
結局、コールスの仕事はアイブラーの邪魔をしています。
そんなところにそんな音を重ねなさんな!
いくつもそんな箇所があります。

アーメンフーガでは、ジュスマイヤーの仕事を否定した、
モーンダー補筆にあるフレーズを、
かなり嫌味ったらしく引用しています。
そこから不必要に引き延ばしてやっと終結。

そうなると、モーンダー氏は
せっかくの自分への遺稿を、
ジュスマイヤーに無茶苦茶にされた、
ロイトゲプ氏の生まれ変わりで、
ジュスマイヤー否定のカルマがあるのかなあ、
などと妄想が膨らんできます。

ひょっとすると、あの素人臭い、
ドゥールース版を書いたドゥールース氏こそ、
匿名で依頼したヴァルゼック伯爵の生まれ変わりなのかな、
などという妄想も首をもたげてきます。

モーツァルトのレクイエムという作品、
こんな風に業の深い作品だと思うのですよ。
私をしてこんな幻想に駆り立てるほどに!

ちなみに、冒頭に述べた鈴木優人氏の仕事ですが、
アイブラーの仕事とジュスマイヤーの仕事を尊重しつつ、
ごく控えめに自分のカラーも出してくるという、
節度があり、好感のもてる仕事で、
演奏のクオリティとも相まってなかなかの出来栄えです。
レヴィンの才には及ばないかもしれませんが、
もっと世に出して良い仕事だと思います。
是非楽譜も出版してほしいものです。

 

2015/01/25

皆さん、おはようございます。

どの作品でも、原作とその舞台化、映像化とでは
いわゆる差というものが出来てしまいます。
椿姫など、舞台化、オペラ化の段階で、
必要な毒素が抜け落ちてしまいましたし、
近年でいえば、ハリー・ポッターが、
映画化による、2、3時間の時間枠ゆえに、
切り詰められ、切り詰めるための設定変更が施され、
明らかに原作より落ちる作品に仕上がってしまいました。

今、これとは逆パターンの傾向を感じる作品が
日曜日午後9時からTBS系で放送されています。
その名は「流星ワゴン」。

先週初回の放送があり、初回SPで2時間でしたが、
その後原作を読んでみると、
初回分に該当するところが、
原作本の半分にまで達していました。
あんなドラマですから、10回くらいはあるのでしょうが、
本の残り半分で残り9回とかを乗り切らねばなりません。
それに、前半分でさえ、原作にないエピソードを付け加えての、
初回SP2時間枠でした。

つまり、ハリー・ポッターとは逆に、
原作を丁寧に描くことが出来るにとどまらず、
さらに膨らませて、作品の心を伝えることも出来る時間枠なのです。

原作とテレビとの結論に大差なければの話ですが、
これは初手からお伝えしておいた方がいいかもしれません。
これを読んでいる、私の演出論に接することのある人たちには・・・。
私と切り口を共有していただくために、です。

お伝えしたいこと、というのは、
実は最終的に現実はほとんど変わりません。
主人公はリストラされ、息子は中学受験に失敗して荒れ、
妻との間は崩壊状態、という現実はそのままの結末です。
初回に、そのことが伏線として示唆されています。
最初に行った過去で、替えたはずの企画案、
次に行った過去では、何も替えられていませんでした。

そう、この話は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではないのです。
原因をいじって結果を変えるのではなく、
原因を知り、悔いのない対処をして、
同じ出発点以降の判断をより良いものに変える、
という話なのです。

違うのは、なぜそうなったか、を知っているということ。
その知識を得た上で、未来を築いていくのです。
つまり、このドラマはSFではなく、
どちらかといえばスピリチュアルに属するでしょう。
あくまでも、心の問題を扱っているように感じます。

このことを、ドラマ制作者は見ているうちに理解できるように
番組制作していると思うのですが、
私はあえてこれを先に言うことで、
本来とは少し違った見方をしてもらって、
制作者の期待値以上の何かを掴んでいただければ、と思っています。
それは、私の演出行為とも繋がると思われるから、です。

06:33 | 雑筆 | No Comments
2015/01/15

皆さん、おはようございます。

私の中で今、ちょっとホットな話題を考えてみたいと思います。
主に男女の仲で起こることのようですが、
束縛男、束縛女というのがいるようです。
というのも、私がそのタイプではないので、
いるようです、としか表現できなかったのですが、
ふふふ、こんなに身近なところでレポートされようとは!

程度の多寡はあるでしょうけども、
自分の彼氏、彼女を束縛し、
交友関係を把握しようとし、
メールの逐一まで報告させるというのは、
基本的に自信のない人間のすることです。
さらにいえば、自信のなさを根本とした、
発達障害、人格障害、精神の病のなせるわざでしょう。

その自信のなさゆえに、
パートナーを根本的に信じることができず、
妄想的な疑いをかけて縛ろうとするのです。
もちろん、考えているのは相手のことではなく、
自分のことしか考えられていません。
残念ながら、これは恋愛をする上で、
一番あってはいけない状態だと思います。

人間に対する執着をこんな風に譬えることができます。
水辺に浮かぶ船を岸につけようとして、
棒で突いているようなものであると。
これは、ダメンズのすなることでしょう。
紳士の振る舞いではありません。

嗚呼、ヤダヤダ
こういう人間にだけはなりたくない・・・。
いやね、一つ間違うとなってしまいかねない要素は、
私にだってあるわけですから、気を付けないと・・・。

2015/01/11

皆さん、おはようございます。

「だろう」ではなく、「かもしれない」と思え。
こう言われる分野は何かというと、
他にもあるでしょうが、一般的なところでは
運転と呼ばれる行為です。
主に、バイクや自動車。
教習所の学科授業で言われることです。

しかし、出来ていない人は数多くいます。
自分で言うのもなんですが、
私は出来ているというか、
割と最初からこういうタイプの人間です、
運転に限らず・・。

ちなみに、私の親父はよく
「~はずや」と言うのですけど、
私はこれを聞くといつもイラッとします。
「その根拠は何だ?」となってしまうのです。
例えばどこかから送金される予定になっていることを、
親父は「○○から送ってくるはずや」と表現します。

約束はしているのでしょう。
しかし、その○○がその時に予定通り金を用意出来ている、
という保証は、こちらでは致しかねるところですし、
金は用意出来ていても、ふと悪心を起こし、
送るのやめとこう、とトンズラしないという保証はありません。
私なりに表現するとしたら、それは
「○○から送金される予定である」
となります。
そこには安心はありません。
先方の事情も、先方の良心も、
すべてを疑ってかかります。
「何かが起こって送金しないかもしれない。」と。

私は母親によく包丁をつきつけられた経験から、
ナイフなどを持った人間は、
無条件に信用できなくなります。
料理などの必要があって持っているのはわかっていますが、
いつ何時その相手が発狂して私を刺すかもしれません。
これは自分自身に対しても同じで、
私がナイフを持っている時、
ひょっとすると私が発狂して自ら刺すかもしれない。
道を歩く時でも、誰かが私の命を狙っているかもしれない、
そう思っています。
通り魔が狙ってるのも含むのですから、油断は出来ません。
すれ違った人間が、私の後ろに行ったあと、
いきなり発狂しないという保証はありません。

この私から見ると、世の中の通行人は、
およそ世の中に対する疑いがなさすぎます。
特に、運転免許をとったことがなさそうな自転車ライダーなど、
車の方が自分に気を付けてくれているはず、だろう、
そういう意識丸出しの光景によく出くわします。
バイクや自動車の運転手の目が万能、
運転の腕前は全員が世界一、
そんなことはあり得ません。
ちょっとしたタイミングの違いで見落とすこともある。
着衣が背景と保護色の関係であるなら絶望的。
そのくらい、理屈で考えてわからないのでしょうか?

私が他のドライバーについて考えていること。
それは、基本的に他のドライバーは、
交通法規を守る気のない盲人である、
ということです。
もちろん、そうでない人はいますが、
そんな出会いはごくまれなラッキーだと思っています。

こんな私がみんなに思うこと。
それは、目視しろよ、ということです。
とにかく確認しなきゃ気のすまない人になってほしいです。

08:44 | 雑筆 | No Comments
2014/12/29

皆さん、おはようございます。

もういくつ寝ると・・でございますね。
年末に向けていくつものテレビドラマが最終回となりましたが、
最近観ていたのが「信長協奏曲」です。

とりあえずまだ連載の終わっていない、
つまり結末の出ていないマンガが原作ですし、
来年には映画化されるとのことで、
放送の最終回に批判が寄せられているドラマでもあるようです。
映画に持って行くためのドラマかよ!という批判もある最終回ですが、
それはともかくとして、私は結構気に入って観ていました。

何が良いかというと、違った角度から歴史を捉える点が、です。
戦国時代の数人が、もし現代からのタイムトラベラーだったら、
という角度で描かれているわけですが、
原作ともまた違ったドラマでのキャラクターと、
起こることとの絡みあいが大変面白いドラマでした。

およそ歴史をドラマにすると、
オーソドックスには、いわゆる定説というやつを
映像化してドラマに仕立て上げることになります。
つまり、その時代の人物が、それらしいキャラクターで、
ということになるわけですが、
このドラマでは数人の現代人が登場することで、
なぜそういう言動をしたのか、という背景に、
当時のことだけではない要素が加わります。

「殺し合いをやめたいから」などというのは、
現代人の、それも一般的な市民の感覚であり、
戦国時代の侍の感覚ではありません。
やられたらやり返す、倍返しだ!
というのが当時の一般的な感覚です。
もちろん、やるのやらないの、というのは命のやりとりです。

それが、確実に一歩成長した、と思わせる良いシーンが、
最終回には用意されていました。
「友を殺しに行く」と言って出てきた小谷城責め。
負けが確定した浅井の城へ、長政を救いに行きますが、
長政はとうとう腹を切り、サブローに介錯を依頼します。
サブローは躊躇せず、介錯をしますが、
劇中でサブローが直接殺生をした最初でしょう。
「戦国時代に戦国武将として生き、天下を目指すこと」
ということがどういうことなのか、
完全に体で理解して、次のステップに歩む瞬間だったと思います。

このようなところが、演出の妙というものです。
原作にこのような背景の描写があるのかないのか知りませんが、
作者本来の意図とは別に、作者が意図していないにも関わらず、
作品から湧き出してくるものを掬い取り、反映させるのも、
演出家としての役割であると考えています。
我々がテレビから受けっとった作品「信長協奏曲」は
二重の演出が施されています。

まずは、本来の原作者である、歴史上の本人たち、
そこにマンガ原作者の演出が施されており、
その上で、ドラマの脚本家や監督の演出が施されています。
本来の歴史を追いかけるのも良いのですが、
逆に、こうした思考実験的な角度から、
歴史というものを考え、未来に生かすことも、
これまた大事なことではないかと思うのです。

オペラの演出も、こういう作業の積み重ねなのです。
意味もなく雑多なアイデアをぶちまけるわけではありません。
出てくる時は雑多なアイデアも、
検討を重ねるうちに淘汰されていくものもあり、
逆に洗練されて採用されるものもあり、
最終的には系統だてて作品と一体化するわけです。

そういうところも見に来ていただけたら、と思います。
もちろん、作業の過程ばかりでなく、
結果出来上がった作品の発するメッセージを!

01:01 | 雑筆 | No Comments
2014/12/11

皆さん、おはようございます。

ひょんなことから、10月、そして12月と、
2度に渡って「花は咲く」を取り扱うことがありました。
東北の震災復興ソングです。

実はサビの部分は何となく知っていましたが、
これまで扱うことはなかった曲でした。
楽譜を見たのも、実はこれが初めて。

歌っていて、気づきました。
ああ、これは震災での亡者目線だ、と。

何をいまさら、とはおっしゃらないように。
本当に知らなかったのですから、歌詞とかは。
その時初めてまともに目にする歌詞だったのですよ。

「叶えたい夢もあった、変わりたい自分もいた」
これを見た時に、え?と思いました。
一瞬のうちに、誰がこのセリフを吐けるかと検索しました。
結果は死んだ人でした。
生きているならば、よほど重大な障害でも負わない限り、
夢を叶えることを諦めるには根拠薄弱だし、
自分を変える余地なんていくらでもあるからです。

「叶えたい夢もあった、変わりたい自分もいた」
この先に続く言葉があるとしたら、
でも、もう叶えられないし、変わることもできない、です。
そんな存在がいるとしたら、それは亡霊以外にありません。

そして、その亡霊たちが本来持っているべきこの世への未練、
叶えようとしていた夢の実現を、
生き延びた人どころか、まだ生まれていない人にまで託している。

この歌が独創的かつ現代的であると感じるのは、
こんな一大事にあって、恋愛を大事であるかのように歌っていることです。
生き残っている人たちに向かって、
めげるな、頑張れ、立ち上がれ、自分たちの分まで生きてくれ、
というようなメッセージを発しているのではない、ということです。
復興といいつつ、その目は現在を通り越して、
まだ受精卵にさえなっていない存在に対しても呼びかけている。
これはもはや、復興ではなく、生のプロセスの歌です。

希望、と解釈してしまえば前向きに思えますが、
コインは裏まで読んでこそ味わいがあるというもの。
託された希望の裏には、かならず絶望の哀しみ、諦めの哀しみがある。

この歌が政治的な意味合いをあまり感じさせないのは、
歌われている亡者たちというのが、
被災者であって、被害者ではないからでしょう。
今のところ、原発の崩壊のために死んでしまった、
という正式発表は、私は耳にしていませんが、
仮にそんな人がいるとして、その亡者目線でこういう歌を作ったら・・・
きっと、そんなつもりがなくとも恨み節のようなものと捉えられてしまい、
作者の意図を無視してでも、政治的に排除されるでしょう。

地震兵器によって起こされた地震なのだ、というような
いわゆる陰謀論の類で考えない限りは、
地震というのは加害者が存在しません。
誰が悪くて起こったことでもない地震なればこそ、
死者目線の復興ソングが存在し得るのです。

そして震災の次に来た、原発被害についてですが、
他県民が原発賛成、と叫んでも、原発反対と叫んでも、
福島県は危ないと言っても、大丈夫だ、と言っても、
結局福島県民の気持ちを逆撫でしてしまうことは以前述べました。
なぜなら彼らは、原発を押し付けられ、しかもその電力は使わせてもらえず、
ハイリスク・ノーリターンの状態にある被害者でありながら、
原発を受け入れることで栄えた、いわば加害者の側でもあり、
極めて複雑な思いを持っている人たちだからです。

友人のこの説明を受け入れやすかったのは、
私自身が数年間同じ境遇だったからでしょう。
鹿児島県川内市の住民をやっていましたが、
当時は川内原発がいわば市の誇りのようなもので、
各小学校は挙って原発に見学に行ったものです。
それで町は潤っていたわけですから、
しっかり恩恵を受けていたが、リスクもあるし、
現在のような事態になれば、紛糾するのは当然、という立場です。

私は感情論は苦手だし、はっきり申し上げて嫌いですが、
この問題に関しては、自身ではそうはしないものの、
当事者たちが感情論に走ってしまうのも無理はない、
ということくらいは理解します。
原発被害についての歌を作ったところで、
きっとメジャーにはならないだろうし、
第一、現地の人たちがすんなり歌いはしないだろう。
そう感じている今日この頃です。

02:11 | 雑筆 | No Comments

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