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皆さん、おはようございます。
昨今、問題視されている僧侶派遣について、
そろそろ私の見解を申し述べておきたいと思います。
結論から申し上げると、あらゆる形態の僧侶派遣が、
形としてはあって良いし、あってほしいと思います。
形としては、と申しているのはどういうことかというと、
僧侶派遣が民間俗人のビジネスであっても良いが、
お坊さんの品質くらいは一定ラインを保っていただきたい、
ということなのです。
少なくとも、得度すらしていない俗人の偽坊主だけは、
最低限の信用を保証するためにやめてほしいです。
それが言い切れるのはなぜかというと、
得度もせずに、という完全な偽坊主だけは、
宗教を食い物にする意識がなければ出来ない芸当だからです。
せめて得度だけでもしている未熟坊主なら、
志はあるけれど、諸事情でまだ先に進めていないだけ、
という可能性があります。
本当は葬儀を執行できる資格はないのですが、
完全な偽物でないことも確かです。
これは、いわゆるグレーゾーンになると思いますが、
そういうグレーゾーンはあえて否定しないでおきます。
その上で、お布施の問題が云々、となるわけですが、
もはや寺と檀家の間にさえ、
お布施の授受が行われることはほぼありません、
そのように申し上げておきます。
つまり、お布施という美化した言葉に置き換えた料金です。
私がそう言い切るだけの根拠を挙げたいと思います。
元来お布施というのは、布を施す、と書くように、
釈迦教団に袈裟を作るための布を寄付することでした。
基本的に僧侶や僧団に渡して良いのは物品だけで、
金銭を僧侶が触ることは禁じられていましたので、
袈裟や雑巾などの材料となる布を寄付するか、
托鉢に回ってきた僧侶に食べ物を施すか、
くらいしか俗人が僧侶に渡すものはなかったわけです。
そして、大乗仏教の六波羅蜜や南伝仏教の十波羅蜜など、
その冒頭に来る、「在家の修行内容」こそ布施でした。
つまり、その内容は金銭か、物品かなど、
時代や場所によって違いは出てくるでしょうが、
目的はただ一つ、在家信者の修行にあったのです。
つまり、修行として施していないものを、
お布施とは言えないわけです。
もちろん、それが中国に伝わり、日本に伝わって、
実際布施の行われるのが、法事や葬儀などの、
特別な時だけになってはしまいましたが、
それでも、その法事を施主一家の修行として捉え、
僧侶に金品を渡しても、
それは少し広い意味を許容した布施、
そう言えないことはありません。
施主が修行と考えて僧侶に渡すからこそ、
「お気持ちで」という言葉が現実的になるのです。
翻って現在の「お布施」状況はどうでしょうか?
まず、その地域での相場なるものが存在します。
本来、修行に相場もクソもありません。
確かに、修行になると思われる金額とならないであろう金額、
そういうものはあると思いますが、
それは個々人の経済状況や信仰の度合いなど、
他者が測ることのできない諸要素が複合して、
何となく線引きがされるものです。
例えば、手取り月収100万の人が法事のお布施と称して
1000円出してきても、たいてい修行とは言えますまい。
生活状況にもよりますが、その人の場合、
概ね3万より上、最低でも1万くらいは出さないことには、
修行をしたとは言えないだろうと思います。
篤信の仏教徒を自称するなら、
キリスト教徒などが行う10分の1献金、
つまり、10万くらいは出してからの話でしょう。
カネの話ばかりして!と思われるでしょうが、
これはあくまで、わかりやすく、
金銭だけで寺院や僧侶を相手に布施の修行をするなら、
という話です。
つまり、地域の相場があり、それを気にしている時点で、
そこから計算して包まれた金銭が、
布施の定義を満たすものになど、なるはずがない、
ということを申し上げています。
また、施主が自己の修行として渡す、
という意識がなく、法事をしてもらったから渡す、
というのでは、それは対価であり、
いわば、ワンステージのギャランティというものです。
つまり、料金。
施主側に内在するこの2つの要素だけでも、
そこに用意された金銭は料金でしかなく、
布施と称するべきものではない、と言えます。
そして、僧侶が持ち帰ったその金銭は、
扱われ方としては料金そのものです。
中間マージンを業者に送金するなど、
差し引かれて僧侶側の収入が確定するからです。
どこから見ても、料金でしかないこの金銭授受に対し、
お布施のあるべき姿とは云々、と批判したところで、
正しい牛丼の姿を鉄火丼屋に説教しているようなもので、
頓珍漢な説教と言わざるを得ません。
料金を料金と称して明示し、料金として処理しているのだから、
それで良いのです。
ここで、僧侶が料金をとるべきでない、
などと考えた人があるならば、
よく現実を考えてみていただきたいです。
料金をとらずに僧侶としてやっていける世の中ですか?
在家の人は、本来の意味のお布施が出来る人たちですか?
布施を布施として成立させるだけの知識と気構えがあると思いますか?
答えはノーです。
知識と気構えがあるか?との問いには、
中にはある在家の人もいる、との答えもあるでしょう。
それは私も認めるところです。
でもその人口は僧侶の生活を支えられる人数ですか?
そんなにいないでしょう?
つまり、大半の在家は、布施が修行だということすら、
おそらく知らないわけですから、
2番目の質問もノーなのです。
1番目の質問も、2番目までが崩れたことで不成立です。
料金をもらわなければ、生きてもいけず、
寺も維持できないのです。
こんな情けない状況になったのには理由があります。
まず明治以降、僧侶の妻帯が可能になったことです。
元々妻帯できた浄土真宗のお寺と合計して、
コンビニの数を超す軒数の「妻帯寺院」が出現しました。
その寺院の住職が死んでも家族が追い出されないためには、
息子を作って寺を継がせるか、その代替手段をとるか、
どちらかを選ばねばならなくなりました。
こうして、僧侶の「身分固定化」が始まりました。
僧侶の息子でもないのに僧侶になっても仕方がない例、
というのが相当数になってきました。
なぜなら、「身分固定」を目的に、
志もなしに家業としての僧侶にしがみつかねばならない、
という人が妻帯寺院の軒数だけいるわけですから。
まあ、その中でもいざ始めてみると、
仏教徒としての志を持つことができた、
という人もいるでしょうから、そういう人は除き、
仕方なくやっている人だけ還俗してもらって、
そこに志ある在家出身僧侶を住職に据えていけば、
それなりに僧侶分配は解決するのではないかと思いますが、
仕方なくやっている人が還俗してくれるかといえば、
これも難しいところではないかと思います。
なぜなら、仕方なくやってるかもしれないけど、
食いっぱぐれのない生活を何年もやってしまったら、
今更その地位は捨てられないし、息子にも継がせたいでしょう。
そして、もう一つの理由は、
日本の寺というのは、修行の場というよりは、
儀式のための場所として使われている、ということです。
元来、仏教の寺、つまり釈迦教団における「精舎」というのは、
修行生活のための場所でした。
それも、集団でしたから1人当たりのスペースは微々たるもの。
今、日本で同じ機能がある寺院といえば、
永平寺など、多数の集団修行をしている寺くらいのもので、
檀家寺は一家5人とかで明らかに広すぎる敷地を占有しています。
そして、儀式のための場所という性質上、
修行道場よりは豪華な調度品、仏具が置かれていて、
どう考えても、釈迦教団の「精舎」より維持費が嵩みます。
加えて、国は宗教には肩入れしてくれませんから、
維持費は檀家からの寄付もあてにせねばなりません。
しかも、本山へは宗費というものを上納せねばならず、
その宗派の代紋を使って檀家から吸い上げる、
という暴力団のような構造はこれからも続くでしょう。
つまり、お寺の大半というのは、
無駄の塊のようなものなのです。
伝統やら境内地内の墓地を口実にして、
無駄の部分も檀家に背負わせているという、
結構な悪徳商法なのです。
これが表だって非難されないのは、
宗教という、目に見えなくて当たり前のところが、
取扱品目である、という暗黙の了解によって
特例が認知されているだけのことであり、
同じことを宗教以外のところでやったら捕まります。
そして、日本の歴史の中におけるお坊さんの位置、
というのも、影響していると思われます。
だいたいは、日本でお坊さんというのは役人でした。
つまり、ひょっとしたら明日自分もなるかもしれないもの、
という存在ではなかったわけです。
そして釈迦教団が、出自不問だったのとは異なり、
日本の僧侶は、出自で階級がことなっていました。
早い話が、仏教としては、輸入された初期の段階から、
僧侶団体としてのあり方を間違えていたのです。
これでは民衆は坊さんの生命維持のため、
布施の修行として食物を施す、という意識にはなり得ません。
要するに私に言わせると、
日本仏教史の中において、
布施と呼ぶにふさわしい金品の授受は極めて稀な事例であり、
特に現代において布施と称して僧侶に渡しているものは、
イベントステージのギャラ、対価、料金でしかなく、
そうなってしまったのは、在家、僧侶、国家
いずれにも原因がある、ということです。
さて、お布施と称していても、実態は料金なのだから、
そこには俗人の業者が入り込む余地がある、ということです。
その業者が僧侶派遣をしても、まったく罪のないことです。
もちろん、宗門も僧侶派遣に参入しても構わないです。
しかし、宗門による派遣だけで良いとは到底思えません。
なぜなら、先ほども申し上げたように、
宗教界というのは基本構造がヤクザ的です。
メンツ第一という業界ですから、
宗門による派遣だけになってしまうと、
宗門にとって都合の良い人間しか仕事ができない、
ということになりかねません。
私のような反骨精神旺盛な僧侶を派遣する本山など、
どこにもありますまい。
また、宗門は寺出身の僧侶に厚く、在家出身に薄い、
という傾向がありますから、
本当に僧侶としての志を持つ在家出身者は
あまり派遣される見込みがあるとは思えません。
在家出身者に仕事を与えるのは、
業者が主になると思われます。
ゆえに、在家出身者から実践の場を奪わぬためにも、
業者の存在価値は十分に認められるべきなのです。
色んな状況が重なってこうなってしまった世の中、
そして出てきた僧侶派遣業者なのだから、
一概に反対だとか、こうあるべきだとか言っても、
仕方ないと思うのです。
なぜなら、理想が実現できるような前提すら、
実際に構築されていないからです。
今、僧侶派遣業者がなくなってしまったら、
在家出身者の僧侶としての道を断つことになるだけです。
悪質なところは論外として、
そうでない業者は許容されるべきでしょう。
そして最後に一言。
在家出身の僧侶の皆さまは、
仏教の何たるかを、広く宣べ伝えて下さい。
そして仕方なくやっている跡継ぎの皆様には、
真剣に布教活動をしていただくか、
その座を志ある在家出身者に明け渡していただくか、
そろそろ腹を括っていただきましょう。
お寺も檀家も、あなた個人や、ましていわんや、
あなたの家族のためにあるわけではない。
それでもみっともなく、徒に居座るのは、
仏教の面汚しでしかないのはおわかりでしょう?
志あれば、出自を問わず私の法友、
志なければ仏敵、死後の転生は保証しません。
かく言う私も、僧侶として、
寺というフィールドで布教することには、
適性の限界を感じ、
音楽家としての布教活動に軸足を置き、
僧侶としては主に密教行者としてやっていこう、
というスタンスで生きることにしました。
ですから、もう怖いものがありません。
僧籍簿を抹消されようが、どうぞご勝手に、です。
登録がなくなったところで、
私が僧分であることには何の違いもありません。
印信が取り上げられるわけでもありません。
授かった秘印明は、私の中にあります。
(行法中、常に結誦しますから・・・中院流ではなく三憲をw)
私に必要なのは本質であって、代紋ではありません。
私は単なる真言宗の僧侶です。
皆さん、おはようございます。
今年の終盤は慌ただしい時期となりました。
10月16日にこれまでのぼんちオペラのグループで
新団体を立ち上げました。
この10月16日の公演「ドン・ジョヴァンニ」も大変でしたが、
新団体の立ち上げにともない、
色々な話が浮上してきて、責任が大きくなり、
6月から勤務していたお寺を退職することになりました。
これが11月のことです。
そして12月は年末のコンサートが重なり、
同時に来年の準備を始めなければならず、
神経をすり減らすこととなりました。
お蔭で不義理するところも多くなりましたが、
未来へ向かって着実に進んでいることを以て
ご容赦いただけたらと思います。
詳しくは新年のご挨拶にて申し上げますが、
ぼんちオペラのグループでしかなかった我々、
これからは規模を拡大していきます。
これまで培ってきたものを、
外に向かってぶつけてみる時が来たようです。
音楽というのは、一人では出来ません。
仮に、音楽行為そのものは一人で出来ても、
それを広く周知し、運営することは一人では出来ません。
それが出来る人もいるようですけども、
私に出来ることではありません。
でも、どこにもないものを創り出す自信だけはあります。
ええ、それしか自信ないのです。
他のことはダメ人間です。
似たようなことがお坊さん業務にも言えるような気がします。
私は拝むことは、それほど質の悪い人間ではありません。
祈祷についても、それなりに能力はあるようです。
つまり、成果はそこそこ期待していいと思います。
音楽におけるこの状況は祈祷能力に支えられてもいます。
しかし、無難な人間であることは出来ません。
万人に好かれる態度を身につけることも出来ません。
「功績を残さなくてもいいから、無難であれ」
こういった組織の一員に求められる態度でいることは、
私には無理な相談です。
音楽家はこの逆です。
成果さえ出せば、みんなに多大な迷惑が出るような、
そんな重大な欠陥でもない限り、
多少の難は目を瞑ってもらえるのがこの業界です。
逆に無難なだけでは淘汰されてしまいます。
こんな180度態度の違う世界の両方に、
どっぷり身を漬けることなど、到底不可能です。
ですから、私は音楽家をメインとします。
しかしながら、お坊さんとしてのスキルはありますし、
還俗するつもりは毛頭ありません。
何より私は、宗教家です。
宗教家としての精神を音楽にもろに反映しますし、
それが私の宗教活動のメインでもあります。
同時に、お坊さんとしてのスキルも活用します。
ご供養、御祈祷、葬儀なども承ります。
つまり、他人が住職の寺の看板を背負いはしないが、
個人的に坊さんの仕事は受けます、ということです。
今後はこのようなスタンスで生きて参ります。
来年もよろしくお願い致します。
皆さん、おはようございます。
朝ドラで幕末から明治大正、というドラマをやっていますが、
ヒロインたち姉妹の結婚話を出勤前にチラ見することがあり、
この時代の商家の物の考え方を鑑みずにはいられませんでした。
昔の結婚は、戦国時代などはさらに極端な背景がありましたが、
基本的に家と家との結びつきであり、
個人の都合が考慮されることはありませんでした。
今でもイスラム諸国の結婚は、結構そんなのもあるんじゃないでしょうか。
西洋の貴族階級ともなると、
一応結婚は家と家の都合、国と国の都合で行われたものの、
そうした恋愛の介在しない結婚においては、
夫婦互いに愛を外に求めることを
半ば公然と行っていたこともあります。
ところがイスラムや日本でそこのところはどうかといえば、
そんなことをしたら命に関わります。
イスラムなら姦通で石打の刑、
日本でも二つ重ねて斬り捨ててオッケーという事例です。
しかも、妻と間男だけ。
ここでは日本を見ていきましょう。
商家などの子女に、子供の頃から許婚がいて、
有無を言わさずそこに嫁がされる、というシステム、
一体何のためにそんなことをしていたのでしょう?
当事者たちの意識としては家と家を結びつけることによって、
相互の家、家業の維持発展が目的だったでしょう。
しかし、全員がそう思って結婚を成立させているとしたら、
それは何を成立させていることになるのでしょうか?
数ある商家や武家が成立することで成立するもの、
それは社会です。
日本は島国で、ただでさえ孤立状態である上、
当時は鎖国体制にあったか、鎖国はしていないまでも、
その影響が引き続いていたかの状態であり、
実際、家と家の結婚は戦後も行われていました。
社会という名の全体の存続を優先させることを、
全体主義といいます。
その中においては、個人の幸福の追求は二の次、
というよりもむしろ、無視されます。
嫁いだ先で幸せになってくれればいいが、
不幸になったところで、全体の存続の前には無視、
嫁ぎ先で理不尽な扱いを受けたところで、
それは「運が悪かった」ような結論で終わり。
この「運が悪かった」部分を補完するのに使えるのが、
仏教の因果応報理論です。
「今が苦しいのは、前世の行いの報い」
この証明できない理屈で丸め込むわけです。
ひょっとしたらその通りなのかもしれませんが、
証明できない以上、その理屈で丸め込むことは間違っています。
しかし、証明できないという理由で、
その丸め込みが間違っている、という考え方は、
極めて現代的な発想であって、
当時の人たちに許される考え方ではありません。
それこそ命に関わります。
天皇家以下、その理屈で動いているわけですから。
そもそも、昔の人たちがそういう生き方をしていたからこそ、
今の私たちがあるようなものです。
昔の人たちが今のような考え方をしていたら、
国がどうなったかすら定かではありません。
歴史とはもはや善悪、是非ではありません。
こうしたからこうなった、の積み重ねでしかないのです。
皆さん、おはようございます。
長らくご無沙汰致しました。
この間、お寺に勤め始めまして、
とりあえず慣れることに専念しておりました。
ということで、お寺ネタ。
このところ、お盆の回向期間ですので、
毎日経木塔婆の読み上げをしております。
「○○家先祖代々之霊、増進仏果菩提の為」
「○○△△信士、増進仏果菩提の為」
唱えては金一丁している今日この頃です。
増進仏果菩提の為、というのはいったい何でしょう?
ぶっちゃけて言えば、
あの世、若しくは転生先における仏道修行が進み、
悟りを得て仏陀の境地に到達しますように、
ということです。
こうして書いてしまうと、
悟りや解脱について考えたことのない人には、
今一つピンとこないと思います。
悟りを得て、仏陀の境地に到達するということが、
どういう状態になることなのかがわからないし、
我が身にそれが起きた場合、
喜ばしいのか、嫌なのかを想像したこともありませんから。
その境地がどんなものか、
一言で表すならば、
「苦悩がない」という言葉に尽きるでしょうか。
何か心や体にとって、痛いことを経験するとします。
普通であれば、その時も苦悩しますし、
次にその経験をせずに済むことを望み、
その経験が訪れるかも、というシチュエーションであれば、
確実に恐怖し、悩むことだと思います。
しかし、仏陀の境地にあれば、
痛みは感じますが、それが心の苦悩にはなりません。
どうしてこんな痛みを味わわねばならないのか!
なんて考えませんし、次に同じことが起きるにせよ、
恐怖したりはしません。
恐怖で苦悩することがないのです。
逆に、心や体にとって、心地よいことを経験するとします。
普通であれば、その時も喜びを感じますし、
再びその経験が出来ることを望み、
二度とその経験が出来ないかも、ということになると、
渇望は増し、恐怖し、苦悩に変わってしまうことだと思います。
しかし、仏陀の境地にあれば、
心地良さは楽しめますが、それが苦悩には変わりません。
もっと楽しみたい、なんて考えませんし、
二度とないことについても、何とも思いません。
喜びに執着することがないのです。
苦痛は最小限、喜びは最大限、
しかもそのどちらにもとらわれないから、
苦痛も喜びもその場限り。
これがどれだけ素晴らしい状態かわかるでしょうか?
自分が苦痛を感じていることを客観的に考えて、
それが哀しく、残念なことである、と思ったことのない人には、
ひょっとしたらこれだけ解説してもわからないかもしれません。
しかしながら、この文章の目的は、
仏陀の境地の素晴らしさを説き明かすことではありません。
読み上げの趣旨こそが目的です。
「誰それ、増進仏果菩提の為」
この誰それに代入されるものは、私ではありません。
「梵智惇声、増進仏果菩提の為」
これは、未来において誰かが唱えてくれる読み上げでしょう。
私が回向の場においてすることはありません。
つまり、自分以外の誰それが、仏陀の境地に到達しますように。
そんな素晴らしい状態になりますように。
それが読み上げの趣旨です。
その願いそのものが素晴らしいではありませんか。
でも、実際に人間がしていることは何かといえば、
自分の増進仏果菩提の祈願ですらありません。
私たち密教行者が自行で祈願するのは、
悉地成就、ということなので、同義語です。
行中に
「護持仏子悉地成就の為に」
と唱えるのは、
「梵智惇声、増進仏果菩提の為」
というのと、同義語なのです。
大抵の人が願うのは、
増進仏果菩提とは無関係であったり、
酷ければ、全く逆のことであったりです。
増進仏果菩提の素晴らしさを想像できるだけに、
私にとってどれほど残念で悲痛なことか、おわかりでしょうか?
皆さん、おはようございます。
実は先日、調伏護摩というやつを焚きました。
別名、降伏護摩ともいいまして、
要するに何かをねじ伏せる、というような護摩です。
伏せ調えるのか、伏せ降すのか、という言い方の違い。
時代劇や歴史ドラマなどで、
合戦に際し、領内の僧侶に命じて、
戦勝祈願・・・といえば良い言い方ですが、
相手を打ち負かす祈願をさせる、というシーンがあります。
護摩を焚いていれば、それが調伏護摩というやつです。
これを個人に向けて行うとどうなるかというと、
一般的には呪詛、つまり呪いだと考えられています。
確かに完全な間違いだとも言えない部分があります。
例えばここにどうしようもない悪党がいて、
この悪党が積み続ける悪業をどうにかして下さい、と
調伏祈祷をかけるとします。
何かで痛い目に遭うことがきっかけで改心出来る範囲であれば、
きっとそのようになるでしょう。
しかし、痛めつけたくらいでは改心出来なさそうな場合、
この悪党はかなり不本意な死を迎えることでしょう。
現象だけ見ていると、
AさんがBさんに祈祷をかけて、結果Bさんが死ぬ・・・
これでは呪ったようにしか見えませんよね。
さて、対象は何であれ、何かをねじ伏せてくれ、
と祈祷する以上、それは調伏の祈祷です。
そして、墨で染めたゴマとか、鉄粉とか、
およそ食えないもので黒いものを供物として火に投じます。
また、六器には刺のある葉っぱ、ヒイラギの葉を供えました。
これだけでも、怪しい呪詛をかけているように見えるでしょう。
しかも、こういった供物を火に投じつつ、
口で何と言っているかというと、
真言を書くのは差し控えますが、
ニュアンスとしては、「ドタマとってこんかい!」という感じ。
恐ろしげなものを火に投じる身の行い、
そして真言を唱える口の行い、
この二つについては、呪詛と方法論は同じです。
だとすると、呪詛と一線を画す要素は何か、ということになりますが、
それは意密、つまり、心の行い、働きであります。
そして、護摩に限らずあらゆる修法の大事な部分、奥義の部分は、
まさにこの意密にあるわけでして、
そこが呪詛でないから、この修法が呪詛でないのです。
今回は、衆生の三毒、つまり貪(貪り)、瞋(怒り)、痴(愚かさ)を
調伏の対象とし、それに関連する諸々の悪心や悪縁が
伏せ調えられるように、という祈願をしました。
坊主の祈りとしては至極真っ当な内容だと思いますが、
それでもこの修法、色んな意味で痛かったことは確かです。
まず、必然的に刺だらけのヒイラギが目の前にあるわけで、
六器をいじるたびに痛かったことは言うまでもありません。
また、いきなり火が消えて、すごい煙が噴き上げ、
南蛮燻しを食らって目が痛かったの何の!
涙を流しながらの修法でした。
やがてついた火も、暴れること暴れること。
右手は危うく火傷するところだった場面が何度も。
そして、何よりふらつくような疲労が・・・。
さらに不思議なことが続きます。
翌日の昼食を約束していた友人が、
深夜に料理をしていて、油が跳ねて右手に結構な火傷を負いました。
キャンセルを申し出るLINEを受け取った時、蒼くなりました。
決して直接的な関連があるとは思いません。
ただ、私が調伏護摩を焚いていなければ、
その火傷は今日ではなかったかもしれない、とは思います。
たとえ、友人に火傷を負うべき業があったとしても、
それは別の日に起こったのではないか、
というのが私の思うところです。
このように、調伏護摩の何たるかを、
身を以て経験することが出来たのは、
良い勉強にはなったと思っています。
息災、増益、敬愛という
普段修している祈祷でそこまでなったことは、
これまで一度もありませんでしたから。
そして、決して間違った願意ではない祈祷でさえ、
このような痛い現象を引き起こすわけですから、
本当に呪詛として使ったらどうなるのか、
考えずにいられない、という点でも
良い学びであったと考えることにしました。
皆さん、おはようございます。
2月は2回しかコラムを書くことができませんでした。
坊さん業でバタバタ、というのもあったのですが、
意識が八方に振り回されていたことが大きかったといえます。
まず、これまでオペラ活動の中心地であった、
お好み工房ほわっとが、2月末で閉店となったことです。
それそのものはいつかあること、
心を乱す原因とまではならないのですが、
そのさよならパーティがありまして、
そこで会う人について、心を乱しておりました。
・・・まあ、かのコジ・ファン・トゥッテ絡みとだけ申し上げておきます。
そして、ほわっとオペラを通じて、
また、アヴェンヌオペラへと引き継がれる中で、
考えたこともございますが、それはまた別のコラムで書きたいと思います。
そして、身の回りで、二人の女性が、
ダメンズとくっついてしまう、ということが、
去年より立て続いて起こっておりまして、
そのことにも相当意識を奪われておりました。
1人は我が妹、
そして、本来ならそのことを愚痴ったり相談したり、
ということが出来るはずの親友が、
もう1人となってしまい、連絡を絶たれてしまって、
憂鬱なことが重なる事態となりました。
1月15日明けてすぐのコラムが
「縛ってほしい?」ですが、
それが親友のことでございます。
どうやら「嫌いな自分と決別」して、
新しい人生を束縛男と踏み出そうとしているようですが、
克服していないコンプレックスを放置し、
近親者を嫌悪したまま「嫌いな自分」とやらと決別しようとしても、
それは決別ではなく、単なる逃避になってしまい、
いずれ最悪の形で向き合わねばならないことになる、
ということすら、わからなくなっているようです。
そして、仲間に向かって高飛車に
「もう連絡しないでください」と書き送る態度たるや、
友達をなくすものです。
築き上げたキャリアを壊す原因にもなります。
そして残るのは・・・決別したつもりなのに背後に寄り添う、
「嫌いな自分」だけ。
よく現実を見ろ、とか、終わりなき日常を生きろ、とか言いますが、
その現実も日常も、それは外にはありません。
たとえ宇宙の生き物全部を殺害しようとも最後まで残る、
自分自身こそ、向き合うべき現実なのです。
この女性、一人暮らしを始めてからというもの、
理想的に近い男性と付き合ったことがありません。
必ず何か一つ、他の長所を打ち消してなおマイナスを残すような、
致命的な欠陥を抱えている男ばかりです。
男運がないのではないが、男運悪すぎ、というパターンです。
これだけ続けば、そろそろ自分に原因があると断定すべきです。
良い子だと思われたい、他者に必要とされたい・・・
そんな願望が、ロクでもない男性しか寄せ付けないのです。
割と簡単に自宅の鍵を男に渡してしまうことは、
簡単に自分を明け渡してしまうことを意味していますが、
その背景には、コンプレックスから来る、
上記のような歪んだ願望が潜んでいると思われます。
そろそろそんな自分と向き合わなければ、
彼女は一生を棒に振ってしまうでしょう。
彼女が本来目指していた自分なら、
決して選ばない相手とくっついているのですから。
皆さん、おはようございます。
今日は映画「マエストロ」鑑賞の感想を書いてみたいと思います。
映画としてというか、そもそもプロットは至って単純。
詳細は公式ページなどに譲るとして、
ストーリーで見せるような映画ではありません。
あらすじだけ追いかけて考えても、きっと感動はしないでしょう。
あくまでも音楽の素晴らしさと、
それを補佐し、解説する、登場人物の言葉の含蓄によって、
音楽の素晴らしさを体感できる映画であると思います。
一般的な意味での「映画としてのクオリティ」については、
私は専門家ではないので断定はできませんが、
決して保証できるところではない、というのが感想です。
私がグッときたのは、いずれも西田敏行扮するマエストロ、
天道徹三郎が発した言葉です。
「これが最初で最後かもしれないと思って演奏したことがあるか?」
これは、折に触れて私が考えてきたことです。
言い換えると、「私の最後の演奏とは?」という、
未来に対する想いでもあります。
そこには、生き方と同時に死に方についての考察も含まれます。
どんな死に方をしたいか・・・。
共演者には迷惑をかけてしまうかもしれませんが、
舞台で死ぬ、オケピで振りながら死ぬ、というのは
自分にとっては最高の死に方だと思います。
せめて迷惑にならぬように、と思うならば、
最後の一音、最後の一芝居を完了した瞬間の死。
面白い、やってみたいと思う死に方はこれだけではありません。
執行後に冤罪であったことを会見発表してくれ、と
言い残した後での冤罪による刑死なんてのもシャレているし、
護摩を焚きながら、断食断水で干からびて死ぬ、
なんてのも伝説が残せて面白い。
どれにしても、共通点は、畳の上、ベッドの上、
なんて普通の死に方はご免だ、ということです。
しかしどれであれ、私がその昔、
演奏という行為を始めてしまった以上、
必ず最後の演奏というものをする時が来ます。
それが一体いつなのか、目途が立っていない以上、
これがそれか、あれがそれか、と
疑い続けなければなりません。
その重さに、私は涙しました。
次の一言がこれです。
「音は一瞬で消えてしまうが、他者と響き合った音楽は永遠だ。」
瞬間的に私は、2014年4月12日、
ほわっとでの「コジ・ファン・トゥッテ」の25番、
フィオルディリージのロンドを思い出しました。
あれは確実にそれが起こった瞬間でした。
今でも25番を聴くと、冷静ではいられません。
くどいようですが、あれは私の渾身の作。
身を削り、心を傷だらけにして構想した、
大事なラブレターです。
唯一の残念は、8月8日のアヴェンヌ公演において、
その瞬間を起こせなかったことでした。
いずれ再演すると思いますが、
それは、その瞬間を求め続ける行為になると思います。
本番以前にも、いくつか奇跡が起きたのですから。
西田敏行がその言葉を発した瞬間、
心は動揺し、涙があふれました。
その前日に起きてしまった心の動揺が、
映画の力で癒された瞬間でした。
一般的職種の経験がほとんどなく、
また、その醍醐味を理解するような経験もしなかった男、
ということをおわかりいただいた上で、
以下の記述を受け取っていただけたらと思いますが、
なんと素晴らしい経験が出来る職種についたことか、
ということこそ、感動の種です。
それは種であり、感動の波の源泉でもあります。
感動が次の感動を呼ぶのです。
他の人はどうか知りません。
でも、私は他の職種、
ことにいわゆるところのサラリーマンを、
私がしていてもその感動はないだろうと思います。
何かの仕事で達成感くらいあるかもしれませんが、
世界一素晴らしい仕事をしている、というような
恍惚感は決して味わえないでしょう。
何の嘘も裏切りもない、
プロやアマという概念を超えた感覚です。
プロとしてどうなのか、そんな自信はありませんが、
少なくとも最高のアマチュアである自信はあります。
他人様に何かを伝えていく仕事、という意味において、
私の中で音楽家であることと僧侶であることは、
全くの同一であり、二足の草鞋ではなく、
まさに一足の下駄であって、どちらが欠けても、
それは私の仕事ではありません。
しかしそれらの仕事には苦痛も多く伴う中、
こうした醍醐味を味わえるということは、
何物にも代えがたい、自分へのご褒美なのです。
皆さん、おはようございます。
私の中で今、ちょっとホットな話題を考えてみたいと思います。
主に男女の仲で起こることのようですが、
束縛男、束縛女というのがいるようです。
というのも、私がそのタイプではないので、
いるようです、としか表現できなかったのですが、
ふふふ、こんなに身近なところでレポートされようとは!
程度の多寡はあるでしょうけども、
自分の彼氏、彼女を束縛し、
交友関係を把握しようとし、
メールの逐一まで報告させるというのは、
基本的に自信のない人間のすることです。
さらにいえば、自信のなさを根本とした、
発達障害、人格障害、精神の病のなせるわざでしょう。
その自信のなさゆえに、
パートナーを根本的に信じることができず、
妄想的な疑いをかけて縛ろうとするのです。
もちろん、考えているのは相手のことではなく、
自分のことしか考えられていません。
残念ながら、これは恋愛をする上で、
一番あってはいけない状態だと思います。
人間に対する執着をこんな風に譬えることができます。
水辺に浮かぶ船を岸につけようとして、
棒で突いているようなものであると。
これは、ダメンズのすなることでしょう。
紳士の振る舞いではありません。
嗚呼、ヤダヤダ
こういう人間にだけはなりたくない・・・。
いやね、一つ間違うとなってしまいかねない要素は、
私にだってあるわけですから、気を付けないと・・・。
皆さん、おはようございます。
先日、仲間とお守りしている神仏習合形式の護摩堂で、
秋の大祭で護摩三昧を致しました。
午後から4座の護摩を修行しましたが、
私は最後の座を勤めさせていただきました。
私が修した護摩は何だったかといいますと、
欲・触・愛・慢など、
主にセックスの感覚で象徴される十六の尊格を眷属とする、
十七尊愛染明王を本尊とする敬愛護摩でした。
(この修法については、「呼ぶ声」というショートショートを書きました。)
護摩堂の本尊、主祭神と地域住民との和合、
威光倍増などを祈念した護摩です。
修法による祈願について、このような考え方があります。
いわゆる願主、この場合でいえば地域住民でしょうか、
そういう人たちに祈願の験が出ることはもちろんだが、
その功徳が誰に一番及ぶかといえば、
それはやはり・・・この場合、私ですが・・・
行者自身に最も及ぶ、と。
敬愛好きな私にしては、
異性からの、異性としての敬愛は得にくいくせに、
私の敬愛は専ら、仲間に恵まれる形で功徳が現れるようです。
実は椿姫のキャスティング、ほとんど決まりかけです。
2日のトスカ稽古の席で、あれよあれよという間に埋まりました。
ほぼ、私の希望するメンバーがOKしてくれた形です。
中の一人に至っては、投稿している椿姫の構想を読みながら、
自分にオファーがこないか、と思ってくれていたそうで、
芸術監督冥利に尽きる話です。
今まで、こんなスムーズなこと、ありませんでしたから。
となると、彼らは当然ながら私の所有物などではなく、
神仏からの預かりものということになります。
大事に扱わせていただくことはもちろんのこと、
彼ら自身の境地が大いに高まるよう、
私自身も精進してかからねばなりません。
そういった意味も含め、
公演が成功しますように。
皆さん、おはようございます。
とあるページで、ある人が子供に義務教育を受けさせず、
学校には在籍させたまま、実際には行かせずに、
家で家庭教師をつけるなりして学習させ、
大検に合格させて大学にやる、ということを勧めていました。
調べてみたら、ホームエデュケーションとか、
ホームスクーリングとか言うんだそうな。
初めに断っておきますが、
私は一概にこの教育方法を否定しません。
私自身、学校というところはあまり好きではなく、
出席日数はかなり悪かった方の人間で、
ホームエデュケーションやってくれたら良かったのに、
と思うタイプの人間であることはお断りしておきます。
で、その人は結構安易にホームエデュケーションを勧めていて、
その理由が私の目から見てお粗末なものだけに、
こんな考察を書く気になってしまったわけです。
その人の切り口なんですが、「オナ禁」、
つまり自慰行為の禁止を強く推奨していて、
まあ、そのメリットはわからんでもないのですが、
明確にヨーガなどの宗教的目的でするのでなければ、
私に言わせれば有害でしかない禁欲です。
もっとも、宗教的目的でやっているとしても
有害なパターンはあって、
全く異性にもてないという人間が、
逃げ道に禁欲を選んで、それなりに成功したがために、
慢心に陥って、禁欲しない人を蔑む、というのは
救いようのない事例となってしまいます。
だから、私は禁欲するならリア充に限るべきと思います。
閑話休題、
その人は、学校が自慰行為を推奨している、
という風に捉えているわけですな。
性教育によって性的な知識を与えることが助長だと。
だったら囲い込め、みたいな感じなんですが、
あまりにも理由がチープすぎて、
正直な感想は「アホか!」にしかなりません。
そもそもホームエデュケーションの選択は、
親が一方的に子供に通告することではありません。
我が子の適性を見極め、話し合いの上で選択することです。
オナ禁達成のための一方的な就学拒否は、
カルト教団の子供たちの境遇と何ら変わりはありません。
だいたい、これという特殊技能、
特に、芸術的な技能があるわけでもない人間が、
しかも集団を重んじる傾向のある日本人が、
学校という場で集団に揉まれずに大学生になったらどうなるのでしょう?
この人は大人になってからでも集団適応力は身につけられると言いますが、
私は普通の意味でのその能力はつかず、
イデオロギーじみた集団性しか獲得できないのではないか、
という疑問を持っています。
それに、これだけ横並びになりたがる日本人のことですから、
本人が行きたくないとも言っていない学校に行かせない、
というのは、人間形成上どうなんだろう、とも思います。
制度としてホームエデュケーションが確立した後ならともかく、
それが当たり前でない時に、本人の望みでもないのに選択するのは、
将来に懸念を作ってしまうだけではないかと危惧しています。
その人は欧米での成功例があると言いますが、
日本では上記の理由で、失敗例がかなり出来るのではないか、
というのが私の見解です。