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皆さん、おはようございます。
今日よりちょうど1ヶ月前、
2016年3月5日、オーストリアにて、
20世紀から21世紀にかけて音楽界を牽引した偉大な指揮者、
ニコラウス・アーノンクール氏が逝去されました。
私は昨年、盟友である水野昌代女史と共に、
音楽グループConceptusを立ち上げましたが、
私がぼんちオペラなるものの指揮、演出を行い、
バロックや古典派の音楽のみならず、
元々好むことのなかったヴェルディやプッチーニといった、
ロマン派後期の作品にまで、手を伸ばしている、
そのこと自体、アーノンクール氏の業績なくしては、
決して成立していないと確信しております。
思えば、1999年2月に、
神戸オペラ協会(現ニュー・オペラシアター神戸)の魔笛に、
僧侶役で出演したことが、決定打となりました。
この時、指揮者だったのが本名徹次氏で、
彼はオランダでアーノンクール氏の現場に立ち会い、
薫陶を受け、資料をひも解いて学んだ、
ピリオド・アプローチを日本でも実践されていました。
この古楽奏法とも言われるピリオド・アプローチ、
オペラをひたすら朗々と歌い上げる現代的な唱法を、
日々実践している人間にとっては、初めは不都合なものです。
繊細さが要求され、歌手の都合で歌うことができません。
愚かにも、その現場にいる間はそうとしか思えなかったのですが、
後日、日本人音楽家へのインタビュー書籍において、
本名徹次氏がとりあげられ、どのようにしてこの奏法に至り、
どのような資料で勉強したか、ということが書かれているのを見て、
検証した結果、これこそ私の中でモーツァルトを演奏する、
最適な方法論である、という結論に至り、
本名氏同様、レオポルト・モーツァルトのヴァイオリン教本など、
昔の教本や資料を漁り、研究しました。
この過程は、アーノンクール氏の存在なくしては、
決してたどることのできない過程でした。
この研究成果をもって、改めて歌唱法を見直すと、
ピリオド・アプローチとはなんと自由で楽な、都合の良い方法論なんだろう、
という評価に変わってしまったのです。
もちろんその興味は声楽のみならず、器楽にも及び、
小学校以来の指揮者としての欲が蘇り、
こうして今に至っております。
そんな2000年あたり以前のアーノンクール氏の録音に加え、
それ以降にも繰り出される演奏を映像や録音で聴き、
私なりの資料研究の結果も大胆に取り入れたものが、
現在の私の楽譜の読み方、演奏の仕方となっています。
私はオペラにおけるキャラクターテノール歌手としては、
それなりの仕事をしてきたつもりですし、
リート歌手としても、そこそこの能力はあると自負しています。
しかしながら、それらを支えているもの、
能力に加え、明確な方向性を与えてくれているのは、
紛れもなく、ピリオド・アプローチの概念です。
ぼんち独特の色を引き出すツール、
それはアーノンクール氏なくしてはあり得ません。
アーノンクール氏は間違いなく、私の「心の師」です。
その「心の師」の逝去にともない、
追悼の演奏会を開催しよう、という結論に達しました。
この人なくしてコンツェプトゥスはない、という人間の死に、
何もしないのは徳義に悖ることと思います。
ただし、準備期間がそれなりに必要です。
よって、一周忌に、という企画を立てました。
キリスト教式には一周年と呼びならわしていますので、
「アーノンクール一周年コンサート」とタイトルをつけ、
2017年3月5日(日)午後4時より、
大阪ミナミの島之内教会にて執り行うことに致しました。
プログラムは、「モーツァルトのレクイエム」です。
これには様々な版があります。
伝統的には、弟子であったジュスマイヤー補筆版、
現代になってジュスマイヤー版に修正を施したバイヤー補筆版、
ジュスマイヤーより先に、Dies illaeから Confutatisまでを補筆した、
モーツァルトが自分に次ぐ才能と称したアイブラー補筆と、
それ以降の部分をジュスマイヤー版で構成したランドン校訂版。
そして、20世紀半ばに発見された、アーメンフーガのスケッチを完成させ、
Lacrimosaの終結部を締めくくったのが以下の版です。
レヴィン版、モーンダー版、ドゥールース版、コールス版、鈴木優人版など。
アーノンクール氏自身は、バイヤー補筆版を用いていました。
追悼コンサートを通常の概念において開催する場合、
その遺徳を偲び、アーノンクール氏の用いたバイヤー版を選択するのが、
妥当であろうとは思われるのですが、
そこはそれ、何事も疑い、議論し、自ら考えて実践する、
という理念こそを受け継ぎたいと考えておりますので、
上記の補筆版の中から私が抜き出した、
梵智セレクションにて一周年の祈りを捧げたいと考えました。
梵智セレクションの概要は、
Confutatisまではランドン校訂版、それ以降はレヴィン版、
というものです。
まずレヴィン版の評価から申し上げますと、
多少学問の匂いはするものの、モーツァルト自身が完成していれば、
おそらくこの規模と内容であっただろうと思われるところに
最も肉迫した補筆版であると信じております。
特徴としては、ジュスマイヤーの仕事には一定の評価を与えるがゆえに、
残すべき要素は残し、直すべきところは直し、という姿勢の仕事、というところ。
つまり、歴史的事実に対しても、一定の敬意は払われているということです。
その意味では、積極的な補筆ではなく校訂ですが、
ランドンの仕事も、モーツァルトの同時代人の仕事、
つまり歴史的な経緯を評価した姿勢であります。
Confitatisまでのアイブラーの補筆は実に見事です。
少々モーツァルト本人の色から逸脱した要素もありますが、
モーツァルト本人から称揚された才能を駆使し、
ジュスマイヤーより高度な補筆が施されています。
私の評価としては、ランドンと似通ったところがあります。
基本的には同時代人の仕事を優先させたいこと、です。
しかし、ジュスマイヤーには足りないことも多く、
それを最も合理的に埋め合わせているのがレヴィンなのです。
よって、この2つを組み合わせることが、
モーツァルトが完成していたならば、という歴史上の「もし」を
納得できる形で実現出来ているのではないか、
というシミュレーションになるわけです。
さて、梵智セレクションにはおまけがついています。
全曲終了の後、簡単な解説を挟んで、
アーメンフーガのスケッチ、モーンダー版のLacrimosaとアーメンフーガ、
というものを演奏して終わります。
モーンダー版の特徴は、ジュスマイヤーの徹底排除にあります。
そして、初めてアーメンフーガの補筆をした人なのですが、
心情的に、モーツァルトの哀しい死に寄り添った、
情緒を満足させるアーメンフーガであり、
おまけとして演奏するのには良いと思っております。
そして、この演奏会ではレクイエムの全体演奏に入る前に、
実演で、モーツァルトの残した状態をご提示申し上げ、
いくらかのレクチャーをしたいと考えております。
これは、アーノンクール氏のやり方を私なりに踏襲するものです。
私はこれまで、幾度となく恐れていました。
アーノンクール氏の亡くなる日がいつ来るのか、と。
そんな中、昨年12月5日に引退表明をされました。
その時、3ヶ月後が危ないんじゃないか・・・
そんな考えが頭をよぎったのですが、
本当に、きっちり3ヶ月後にその日が来るとは、
何とも不思議なものです。
モーツァルトのレクイエムの中で、
最新の補筆といえるものが二つあります。
一つは日本人のもので、
バッハ・コレギウム・ジャパンの御大将、
鈴木雅明氏の子息、優人氏の補筆です。
もう一つは、第一線の音楽学者である、
ベンヤミン・グンナー・コールスの補筆。
楽譜が出たことは知っていましたが、
その後、演奏されたという話や、
CDが出た、という話は聞きませんでした。
一流の学者による補筆なのだから、
もう少し話題に上がってもいいのに、
そう思いましたが、我々を取り巻く現状から、
話題にならないのも無理ないかな、
という風にも思っていました。
1991年、2006年といった、
いわゆるモーツァルトイヤーを逃していて、
しばらくそういう記念年はないので、
完全に時期を逸していますし、
潮流がジュスマイヤー再評価傾向にあり、
必ずしも新しい補筆がもてはやされない、
そんな潮流になっているからです。
いわば、出尽くしてしまったんですな。
さりとて、出ているものをチェックしない、
というのも、モツレクフリークとしては
ちょっと気持ち悪いものですから、
思い切って楽譜を取り寄せてみました。
乱暴に一読した感想ですけど、
学者臭いww
間違いはないのかもしれないけど、
本人が書いてたらそうすると、
ホントにそう思う?と
小一時間問い詰めたい内容でした。
試みにYouTubeを検索してみたら・・・
なんとありましたよ、しかも自作自演w
楽譜見ながら聴いていたら、
プッと吹き出すような和声進行があったり、
それ、絶対いらんやろ、という合いの手があったり、
まあ・・・一言で表せば、蛇足が多いと。
ここまで色々出揃ったところでつらつら惟るに、
現代のモツレク補筆者たちというのは、
ひょっとしたらモーツァルト関係者の
生まれ変わりが集結してるんではなかろうか、と。
今までそんなこと考えもしなかったんですが、
コールス補筆版はそう思わせる内容でした。
というのも、コールスの補筆の特徴が、
ジュスマイヤーの仕事の特徴とリンクするからです。
ジュスマイヤーの前に楽譜はアイブラーの手に渡り、
途中までほぼ完成させていたことは周知の事実です。
ジュスマイヤーはアイブラーの仕事を引き継ぐのではなく、
アイブラーの仕事は破棄して最初から自分色でやりました。
モーツァルトがロイトゲプに残したホルン協奏曲の、
終楽章ロンドも、モーツァルトの残した部分を削除して、
自分色で補筆完成してしまうような男、
これがジュスマイヤーの実態です。
つまり、実力が伴わないものの、プライドは高い。
その結果が後世の不評となり、
それが、新しい補筆の乱立を生んだのです。
私は、規模もクオリティもモーツァルト本人が
完成していた場合に接近していると思われる、
ロバート・レヴィン版を超す補筆を知りません。
実際レヴィンはモーツァルト作品に通暁していて、
言われればたちどころにどんな作品でも
暗譜で弾き出すほどの頭と腕の持ち主で、
コンチェルトのカデンツァを即興でやるとなれば、
ささっと朝飯前でこなしてしまうそうです。
これは、18世紀の音楽家の基準を、
かなり高い水準で満たしています。
私はこのレヴィン氏こそ、モーツァルト本人か、
モーツァルトも信頼していたアシスタントで、
コジの副指揮者も務めたアイブラーの生まれ変わり、
という風ににらんでいます。
アイブラーの実力や如何に?と思う方のために、
モーツァルトが書いたアイブラー評を掲載します。
下に署名する私は、
これを有するヨーゼフ・アイブラー氏が、
かの名高き大家アルブレヒツベルガーの高弟であり、
しっかりした基礎のある作曲家であり、
室内楽にも教会音楽の様式にも等しく通じ、
芸術歌曲の分野にも熟練しており、
そのうえ洗練されたオルガン奏者や
クラヴィーア奏者であることを認めます。
手短に言えば、これほどの新進作曲家に、
惜しむらくは、並び立つ相手がいないということです。
ぶっちゃけ、俺の次にすごい、と
モーツァルトが言っているようなもので、
その実力はレクイエムの補筆の程度からもわかります。
ですから、私はアイブラーが補筆した部分は、
アイブラーの補筆を用いるのです。
そのアイブラーか、あるいはモーツァルト本人が
生まれ変わったとしか思えないようなレヴィンは、
ジュスマイヤーの功績を最大限に生かして、
そこから高水準の作品に仕上げているのです。
それがレヴィン版モツレクです。
そのレヴィン版に対抗して、
あえてアイブラー補筆を使ったとしか思えないような、
そんな使い方をしているのがコールス版です。
勉強はしたのでしょう。
でも、センスはあまり伸びなかったようで・・・
結局、コールスの仕事はアイブラーの邪魔をしています。
そんなところにそんな音を重ねなさんな!
いくつもそんな箇所があります。
アーメンフーガでは、ジュスマイヤーの仕事を否定した、
モーンダー補筆にあるフレーズを、
かなり嫌味ったらしく引用しています。
そこから不必要に引き延ばしてやっと終結。
そうなると、モーンダー氏は
せっかくの自分への遺稿を、
ジュスマイヤーに無茶苦茶にされた、
ロイトゲプ氏の生まれ変わりで、
ジュスマイヤー否定のカルマがあるのかなあ、
などと妄想が膨らんできます。
ひょっとすると、あの素人臭い、
ドゥールース版を書いたドゥールース氏こそ、
匿名で依頼したヴァルゼック伯爵の生まれ変わりなのかな、
などという妄想も首をもたげてきます。
モーツァルトのレクイエムという作品、
こんな風に業の深い作品だと思うのですよ。
私をしてこんな幻想に駆り立てるほどに!
ちなみに、冒頭に述べた鈴木優人氏の仕事ですが、
アイブラーの仕事とジュスマイヤーの仕事を尊重しつつ、
ごく控えめに自分のカラーも出してくるという、
節度があり、好感のもてる仕事で、
演奏のクオリティとも相まってなかなかの出来栄えです。
レヴィンの才には及ばないかもしれませんが、
もっと世に出して良い仕事だと思います。
是非楽譜も出版してほしいものです。
皆さん、おはようございます。
年始以来のバラエティ番組を見ていて、
特に歌を使ったものを見て、思うところがありました。
それは、息を吐き、息で歌えているかどうか、
ということなのですが、
・・・実は今からするのは、相当低次元の話です。
しかし、歌が上手くならない、という素人さんは、
まずこの段階をクリアしないことには、
いかなる努力も、はっきり申して徒労になりますから、
避けて通れないことなのです。
では、歌の下手な素人さんというのは、
つまり何が出来ていないかというと、
「息を吐けていない。」
あるいは、
「息で歌えていない。」
ということが言えるのです。
もちろん、プロの歌手の中でもそういう指摘はできます。
しかしながら、そこのところこそ、
私が上で、低次元の話だ、と書いた所以でございまして、
プロにおけるその指摘は、もっと高い次元の話なのですね。
基本的に、音程の上下って、何で操作してると思います?
声帯の使い方で操作している・・・ことも確かなのですが、
それと同時に、吐く息の量で調節する部分もあります。
隠さずに申し上げますが、
声帯とその周囲の筋肉に依存する度合いが、
ある一定以上であると、それは下手の領域に入るのです。
では、声帯と周囲の筋肉の他に何に依存しているかというと、
それが吐く息の量の調節なんです。
息の調節に依存する割合が高いほど、
良い声、上手い歌、ということがいえます。
声帯と周囲の筋肉への依存度が、
例えば8割以上だと下手な歌にしかなりません。
2割以下ならかなり上手いでしょう。
そして、その中間帯があります。
この依存度が8割以上であれば、
残念ながらこの8割を下回るための壁がかなりあります。
この依存を外すことが、下手からまあまあへの
かなり手強い関門になっているのです。
2割のラインは、さしたる壁ではありません。
息をもっと吐けばいいだけの話で、
癖になっていることを止めるような努力はいらないからです。
そして、この2割ラインを下回るかどうか、
という話こそ、プロの高次元の話になるわけです。
皆さん、おはようございます。
私は指揮をしていますけれども、
指揮を他人に習った経験はありません。
講習会に出たことがないわけではないけれど、
それは振ることの講習というよりは、
指導者研修というか、練習の進め方の講習です。
では私の指揮は何をどう考えてしているのか、
といえば、それはアクセントとアーティキュレーションの指示、
という二つに集約されると思います。
フレーズのどこにどういう重みを置き、
どのような切り口の発音をするのか、
といえば、多少噛み砕いた言い方でしょうか。
そして、これはどんな指揮者でもそうでしょうが、
振り下ろす時よりも、振り上げる時の方が、
遙かにエネルギーや力を使っています。
テンポ、強弱という基本設定が、
すべてそこに込められてしまうからです。
これを伝え損ねると、意図通りの演奏にはなりません。
プロの方には釈迦に説法かもしれませんが、
これらのことをわかった上で、
私の指揮に対応して演奏していただきたいものです。
拍を演奏者に提供し続けることは私の業務ではありません。
一応拍は刻んでいますが、
それは、「いつ拍を刻むか」が問題なのではなく、
私が示しているのは、「どのように拍を刻むか」です。
そしてそのことは、
「どのように音楽を展開していくか」
ということと同義語なのです。
それは、「どのように時間を使うか」
という人生の問いを形成しています。
まさに、音楽は人生そのものなのです。
皆さん、おはようございます。
東西、この場合東京と関西の歌手が並んで演奏していると、
何かが違う、ということに、
声を突き詰めて考える人であれば気が付くと思います。
もしこれを、元々の実力や素質の差と考える人がいたら、
その人には大きくブーを言っておきます。
関西にいても、東京の風を十全に取り入れている歌手は、
未成熟であろうとも、違和感は感じません。
では何が違うのか。
それは、東京の歌手、これも真ん中より上の人ですが、
ノンヴィブラートである、ということなのです。
おっと、一つお断りしておきますが、
東京の歌手でも、古楽の演奏以外では、
ノンヴィブラートだなんてことはありません。
ちゃんとヴィブラートがあります。
何を言ってるのか、おわかりでしょうか?
物の見方考え方は様々でしょうが、
歌手の歌声というものを考えた場合、
一人の声を、同時に鳴っている2種類に大別することができます。
一番基礎的なところで鳴っている、いわばボディの響き、
それは、喉仏よりも下で鳴っている音と考えて下さい。
そして、もう一つは一番先に耳に飛び込んでくる、
いわば表面的な声や響きです。
どんな歌手にもあるヴィブラートは、
この後者の部分、特にその上辺についている、
装飾的ともいえる、いわゆるヴィブラートです。
これは、演奏様式の問題にも抵触する話であり、
古楽の演奏では、このヴィブラートも抑制し、
限定的に使います。
で、今回話題にしているのは、
前者、つまりボディで鳴っている音での話です。
東京でも中以下、関西では中以上の人でもかなりの人が、
ボディ次元においてもヴィブラートがかかっている、
ということを申し上げたいのです。
これを好き嫌いの問題で片づけることもできます。
実際、好きな人も多いことは事実で、
単純に良し悪し、上手下手で斬ってしまう気はありません。
しかし、人の声を模倣すべく作られているヴァイオリンなど
弦楽器を考えてみましょう。
ボディでの響きはヴィブラートしておらず、
弦を左手指で操作することでヴィブラートを作ります。
たとえヴィブラートをかけたオーケストラ演奏でも、
多少濁るけれども汚い濁り方にまでならないのは、
ボディ次元のヴィブラートはないからです。
いくつもの現場で実感していますが、
ボディまでがヴィブラートしている人が集まって、
合唱などをすると、違うパートはもちろん、
同一パートにしてすでに濁り、
到底同一パートとは思えない修羅場になるのです。
そりゃそうでしょう。
音全体が揺れるわけですから。
西洋音楽の価値観から見て、
少なくとも西洋音楽を演奏するための音としては、
ボディ次元のヴィブラートとノンヴィブラート、
どちらの方がふさわしいでしょうか?
また、ボディがヴィブラートしない人は、
上辺のヴィブラートをコントロールすることで、
いかなる様式の演奏をもすることができます。
しかし、ボディがヴィブラートしていれば、
上辺をコントロールしても・・・いや、
上辺をコントロールすることからしてままならぬのが大半です。
で、これは抜本的な長期の訓練がいる話ではありません。
まず、聴き分ける耳を養って下さい。
耳に飛び込んでくる音の土台の部分に、
ノンヴィブラートのボディがどっしりとあるはずです、
一流の人たちの歌声には。
そして、それを願って下さい。
すぐには無理でも、遠からずその道は開けます。
声なんて、イメージし、望んだようにしか鳴らないのですから。
声の国際化は、まさにこの一点にかかってますよ。
耳の痛い話をズケズケ申しましたけど、
未成熟ながら、私の歌声にそんなヴィブラートはないはず。
(ただし、ガチガチにあがっている時を除く。ww)
私に出来るんですから、素質は遙かに高いものをお持ちの皆さん、
絶対に私より簡単に習得できるはずです。
そんなあたりから、関西を底上げしていきましょうぜ!
皆さん、おはようございます。
オペラには原語上演と日本語上演があります。
それぞれに特色があり、また、役割というものがあります。
そして、人には得手、不得手というものがあるわけです。
私は、モーツァルトオペラについて、
その1部分であれ日本語で歌うよう依頼されると、
すかさずこう申し上げることにしています。
「今、あなたが下さろうと考えているより1万円余分にギャラを下さい。」
作曲されたままの形を保とうと考えた場合、
また、作曲家と台本作家の意図を最重要視した場合、
あるいは、それに準じる何らかの意図を持っている場合、
そんな時には原語上演しか選択肢はありません。
少なくとも、作曲家自身が許した外国語までが許容範囲です。
例えば「ドン・カルロ」はフランス語かイタリア語までで、
日本語でやるのは、この上演意図に照らせば論外です。
日本語でやる意味は、
リアルに意味がわかる、というところにあります。
ただ、日本語は日々変遷していることを考慮すると、
あまりに古い時代からの訳詩上演も考え物ですし、
そもそも、歌手が日本語の歌唱は得意でないことも多く、
聞き取れない、というデメリット、リスクもあります。
私個人の考えでは、日本語上演もある程度推奨できるのは、
オペレッタ、という部門に限ります。
それでも、原語上演への誘惑も残ることを考慮しつつ、です。
それ以外は原語上演に限ると考えます。
もちろん、オペレッタの日本語上演で得られる効果を
他のオペラでも、と考えて日本語上演する人もいるでしょう。
しかし、私はそれは、それがやりたい人に任せておきたいと思います。
少なくとも私はそれに、基本的には関わらないし、
関わったとしても、指揮者や演出家としては関わりません。
その最たるものがモーツァルトで、
これは私の専門範囲ですから、尚更スタンスは死守します。
もちろん、要求には出来るだけこたえたいと思いますが、
相手に「あなたはイレギュラーな要求をしているのですよ」
という釘は刺しておきたいところです。
それが「1万円余分にギャラを下さい」なわけです。
この時、私はまだギャラを知らないはずです。
ですから、その人は「私に渡そうと考えていたギャラ」というのを、
こっそり1万円下げればよいのです。
初め、3万円くれようと思っていたのであれば、
「実は2万のつもりなんだけど」と言えばよろしい。
私が要求しているのはギャラの増額ではなく、
私にしたくないことをさせている、という自覚を持つことなのです。
皆さん、おはようございます。
私は楽譜至上主義者というわけではありません。
・・・とはいえ、演奏家の皆さんからはそう思われてるでしょう。(笑)
プッチーニだろうが、マスカーニだろうが、
モーツァルト並のスコアの明晰さを求めますから。
少し専門用語になりますが、
col canto(歌に合わせて) という指示が伴奏に書かれていないのに、
勝手に伸ばしたり、短縮したりして、
楽譜通りでない歌い方をすることを基本的に私は禁止します。
まずは楽譜通りの音価で歌ってみて、
そこに表現の余地が存在すれば、そのまま楽譜通りに、
どう考えても不自然になる場合にのみ、
自然な崩し方を認めることにしています。
ところが、大半の場合、
歌手は「他の歌手(大抵は有名な人)がそうしているから」
という理由で、崩した歌い方で準備してくる傾向があります。
これは、よく言えば模倣、悪く言えば真似、
さらに悪く言えば、怠惰さゆえの万引き同然だと思います。
べんちゃらを言うなら「伝統の尊重」というやつでしょうが、
そんな偽善を許す私ではありません。
なぜなら、そこには「本来自己に置くべき基礎」というものが
まったく見当たらないからです。
原型をとどめないくらいに破壊したものは芸術品になり得ますが、
初めから原型がないものを芸術とは言えません。
他の分野はともかく、音楽においてはそうです。
ただし、そこを否定した音楽を意図的に作り出せば話は別ですが。
結果として、基礎のない崩し方はどうなるかというと、
指揮が出来なくなります。
次がどう来るのか、見越せないのです。
それでも指揮できる合わせ物の得意な指揮者はいるのでしょうが、
私の力量では無理な話です。
そして、基礎のない崩しは、
演奏家本人の顔が見えなくなります。
基礎を踏まえた崩しには、
どこかに本人の意思や意図が見え隠れするのです。
言葉で説明するのは難しいけれど、それは確かなことです。
皆さん、おはようございます。
私が皆さん、・・・まあベテランの人に今更望みはしないですが、
若いクラシック歌手の人に望む、声づくりがあります。
それは、汚い声も自在に使いこなせる人になれ、ということです。
確かに観客の皆さんというのは、
美しい声を聴きたいと、足を運んでくれている人が大半です。
ですから、そもそも汚い声の歌手なんて不必要だとは思います。
しかしながら、最初から最後まで、
美しい声だけ聞かされたら、ある例外を除いては拷問です。
どういうことかというと、
美しい声で歌われた歌というのは、
私の場合5分も聴けば飽きます。
上に「ある例外」と書いたのは、
その声が好みのタイプだった場合に限り、
どれだけ聴いても飽きないでいることができる、ということです。
ただし、飽きないというだけの話です。
男女関係に譬えるとわかりやすいかもしれません。
男目線で書かせてもらうならば、
どんなに綺麗な女性とベッドを共にしても、
よほどタイプの容姿を持っているか、
セックスの相性がよほど合わない限り、
あっという間に飽きてしまうでしょう。
しかし、セックスがよほど良くても、
それ以上の快楽があるわけではありません。
そんな状態で望み得る関係はセックスフレンド、
即ち、セフレというやつです。
誰にでも自慢できる彼女にするためには、
才色兼備、という言葉の通り、
才が備わっていなければなりません。
もちろん、どういう方向に才があるのを良しとするか、
それは個々人で違いますから、一概には言えません。
でも、どこかに感動でき、尊敬できる要素があってこそ、
その女性を彼女にしていることを誇りに思えるものです。
これは歌でも同じです。
この人のファンで良かった、と誇りに思えるファンを作りたければ、
美しい声で美しく歌っているだけでは不十分です。
私はこれに、「汚い声も駆使できること」を提唱しています。
それだけ表現幅が広がるのです。
そして、ここからはテクニックの話になりますが、
「真の」美しい声は息の柱を支えとすることで獲得できるのですが、
汚い声の方は、美しい声ではそれほど問題とならない、
鍛えられた筋肉の支えが多少必要となります。
どら声のような声だと、横隔膜の支え、
正しくは、横隔膜を支えに使えるだけの関連筋肉の支え、
というものが必要になるわけです。
この支え無しに汚い声を出すと、絶対に喉を潰します。
さて、それらのテクニックを前提にした上で、
その先は人間性の問題になってきます。
これは、精神の人間性と音楽の人間性、
まったく同じ土俵での話になりますので、
いわゆる「音楽哲学」、同一の話ですね。
しかしその人間性の基礎の部分は、
テクニックを磨く姿勢にも表れていますので、
初手からは関係ない、というわけでもありません。
他人に対して謙虚であっても仕方ありませんが、
自分の目指す音楽に対してくらいは謙虚でなければいけません。
もっとも、音楽には謙虚だが、他人に対しては謙虚でない、
という人だと、一匹狼の音楽家になってしまいますけどね。(笑)
ともあれ、幅の広い音楽家になっていただきたいものです。
レパートリーが広い必要はないけれども、
ある作品を幅広く表現できる人ではあってほしいですね。
皆さん、おはようございます。
世の中には様々な発声法が存在しています。
・・・というよりも、発声法の宣伝が存在しているのですが。
しかし、発声法の表現としてよく使われる。
「こうしなければならない」
「こうすべきだ」
というのは、極端な発言ですけど、全部ウソです。
よく「悪いオーケストラがあるのではなく、悪い指揮者がいるだけだ」
という言い方があるんですけども、
その言い方を借りますとね、
「正しい発声法があるわけではなく、してはいけないことがあるだけだ」
ということが出来ると思います。
まず、声というのがどうしたら出るのか、
ということを考えてみて下さい。
そもそも、声というのは、声帯からしか出ません。
発声をどう考えるのであろうと、
その単純な事実から認識するより他ないのです。
しかし、声帯が振動して出る音なんて微弱なもんです。
それが、体という共鳴箱が使われることによって、
他人様に聞いてもらえる音量に達するのです。
するとね、言えることはたった一つになるんですよ。
声帯が無理な振動のしかたをすることなく、
共鳴箱が使用不能なほど力むことなく声を出すこと。
これが発声に関する極意です。
つまり、「してはいけないこと」の形に置き換えるとすると、
・声帯を無理に鳴らすこと
・共鳴箱に蓋をするほどガチガチになること
この2つの禁止事項さえしなければ、
正しい発声だと言えるはずなんです。
私を含めて、技術が未完成な歌手というのは、
その未熟な部分で、上記2つのうちどちらか、
あるいは両方のことが起こっている人のことなんです。
で、「正しい発声法があるわけではない」というのは
どういうことかというと、
どうすればどの音域のどんなシチュエーションでも、
禁止事項が起きないようになるか、ということについては、
人それぞれ違っていて、
万人がこう考えればそれが出来る、ということはない、
ってことなんです。
また、同じ人でも、今日と明日では、
考えねばならないことが別、ということもあり得ます。
体調や環境でそんなことは一気に変わるのです。
絶対に安心立命の教義を立てられるようなもんではないのです。
例えば、これまた極端な例ですが、
人によってはその育成環境のため、
大きな声を出したことがない、という人がいます。
この人に、いくら通常のレッスンを施したところで、
決して歌唱に使える声は出せやしません。
まずやらせなければならないのは、
多少喉を傷めようと(極端に傷めるのはNGですが)、
体がガチガチになろうと、
思いっきり声を出す、という行為自体に慣れることです。
体が無意識に築いたタブーを打ち破る必要があるのです。
正しい状態に導いていくのは、その後の作業です。
つまり、人によっては禁則さえ一旦忘れる必要がある。
それが発声法というものです。
逆にいえば、オペラ歌手の能力というものは、
実はそう特殊な能力というわけではない、ということです。
人によって手段を選ばずに訓練すれば、
誰でもそれなりに声を出すことは出来るようになるんです。
それも、楽音を、です。
皆さん、おはようございます。
ネットにある情報を見てびっくりしました。
いまだにこんな誤解が出回ってるのかと・・・。
いえね、10年近く前に、あるテレビ番組で、
私の知り合いの声楽家が、
ドイツ唱法とベルカント唱法は真逆だ、
という発言をしていたことがあるんです。
その前に一緒に仕事したこともあり、
結構仲良くしていただいてたんですけども、
その番組見た時だけは、
「この人、何アホなこと流しとんねん!」と
思い切り突っ込んだものです。
曰く、ドイツ唱法は横隔膜を下げたまま、
吸った息を保つように力を入れて歌い、
ベルカント唱法は横隔膜が自然に上がるに任せ、
吐く息に載せて、力を入れずに歌う。
ベルカントについての誤解もすさまじいですが、
ドイツ唱法に至っては偏見も甚だしい!
誤解を通り越して、言いがかりの域に達しています。
ま、確かに昔の日本にあった「ドイツ唱法」とやらは、
どこの三流教師に学んだのか知りませんが、
やたら力んだ、面白味のない歌だったことは事実です。
ほとんどそのアンチテーゼのように、
イタリアに留学する歌手が増え、
イタリアのベルカントと称する歌唱法を持ち込んだこともまた事実。
しかし、上手い奴が横隔膜をほったらかしにして歌っているのを
私は一度として聴いたことはありません。
吸った息を保とうとして力んで歌うのはもちろん論外です。
しかし、横隔膜をほったらかすのは自殺行為です。
吸った息を吐き出すことが歌の奥義ですが、
素早い息を効率的に吐くためには、
横隔膜を下げておくことは必要です。
そして、息をきちんと吐ききるためにも・・・。
近年では、特に関西でそういうことがあるんですが、
「何もするな」という先生もいるようです。
ま、あれこれ訓練して迷っている生徒がここにいれば、
私はそのセリフをもしかすると言うかもしれません。
しかし、声楽初心者を目の前に、
そんなセリフは殺人行為といって過言ではありません。
何もするな、と初心者に言えば、
その生徒は吸うことも吐くこともしなくなります。
本当は、まず吐くことを覚えさせねばならないのです。
そのためには、まず力を使ってでも吐ききらせねばなりません。
吐ききることが出来れば、吸わなくても息は入ってきます。
時々息の無駄遣いをしないため、と称して、
息を保とうとする人がいますが、これは逆効果。
私なりの感覚を申し上げると、
保とうとすると、保つことにエネルギーと酸素を消費して、
かえって保てなくなる、という現象が起こります。
さて、ネットで出回っている「ベルカント唱法」、
特に、「ドイツ唱法」とやらを目の敵にしている記述を見ると、
限りなく「何もするな唱法」に近いです。
そうなると、よほど素質のある、歌いやすそうな体型でもなければ、
いつまでたっても歌は上手くならないでしょう。
ちなみに、テレビの中でその知り合いは自ら、
「ドイツ唱法」なるものと「ベルカント唱法」なるものとを
歌い分けてサンプルを提供していました。
後者はともかくとして、前者はどうだったかというと、
力が入ったのはお腹というよりは喉。
単に喉が力んだだけです。
何のことはない、この人は「ドイツ唱法」を
捉えそこなっているだけです。
じゃあ、この両者は何が違うのか、というと、
原理としては何も違いません。
単に扱う言葉が違うだけ。
言葉が違う分、フレージングなどが多少違うだけ。
フィッシャー=ディースカウを御覧なさい、
別に「ドイツ唱法」とやらではありません。
しかしながらドイツリートの大家です。
たった一つの番組だったんですが、
その説が蔓延していることにギョッとしました。
ことのついでに申し上げれば、
声楽家の大半が思い込んでいる「ベルカント唱法」ですが、
私に言わせればそんなものは「ベルカント」じゃありません。
なぜなら、18世紀以前にはなかった発声法ですから。
ベルカントの終焉は、「全滅」はロッシーニオペラ。
そして「絶滅」はヴェルディです。
そもそもベルカントとは、カストラートの発声が基本です。
つまり、大半の声楽家が「ベルカント唱法」で歌おうとしている
作品のほとんどは、ベルカントが絶滅した後の産物です。
古き良きベルカント黄金時代とやら、
つまりレコードに残っているような年代のそれを
理想とするような概念というのは、
私に言わせれば「第二次ベルカント」というやつ。
バロック時代の0次ベルカントこそ源流であり、
そのオマージュとしてロッシーニ、ドニゼッティ、
そしてベッリーニあたりにあったのが1次ベルカント。
正直、第二次ベルカントというのは、
私に言わせれば「唱法」ではなく、
「ベルカント商法」にしか見えません。
さて、ドイツ唱法の花形であると思われる
シューベルトのリートですが、
唱法は「0次ベルカント」にすべきです。
実際その頃はそういう時代だったのですから。
許せても1次ベルカントまで。
そう、今回のメインテーマは
「ドイツ唱法」の誤りを正すこと。
テーマに言うところの「ドイツ唱法」とは、
みんなが誤解している「ドイツ唱法」のことです。
つまり、誤解を解かねば、という話ですな。