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2010/05/29

皆様、おはようございます。

オペラデビューした団体・・正確にはその後継団体ですが・・
そこで「蝶々夫人」に出演したことがきっかけとなって知り合った、
Y氏というバリトン歌手がオペラプロデューサー、
そして演出家をやっている、
東京のある団体に、「フィガロの結婚」のドン・バジリオ役で
出演することになりました。

なにぶん大阪からの客演行為になりますので、
最終は本番1週間ほど前からの参加になりました。
この公演、私自身の出来としては、まあ上の部類に入るものでしたが、
正直言って色々な問題を抱えた公演ではありました。
最初に音楽稽古に入ったのは、稽古開始後間もない頃でしたが、
その頃「Y先生!」と敬意を込めて呼んでいた男性キャストが、
本番の頃には、「クソ!Y、死ね!」と荒れている、という具合。

実際、キャストの空気を読んでみると、
明らかに反Y勢力が出来上がっていて、
稽古場の空気がかなり悪くなっているのです。
その後Y氏のプロデュースによるその団体の公演に、
2つ出たわけですが、いずれもそういう勢力が出来上がりました。

こういう場合、私はどういうことになる性質の人間かというと、
なんとか間に入って仲裁できないか、と考えてしまう人間です。
仲裁できないまでも、せめて調整くらいして、
多少なりとも空気を良くして公演を終わりたい。
しかし力及ばず、いざ本番を終えてみると、
打ち上げに来たのは伴奏していたアマチュアオケの人たちばかり。
Y氏とごく親しい私と、もう1人のソプラノさんがいただけ。
もちろんその時のキャストさんの大半は、
その後Y氏プロデュースのオペラには乗っていません。

一方私は、というと、
出演したことをY氏にだいぶ感謝され、
翌年夏に上演する「皇帝ティートの慈悲」のティート役を依頼され、
基本的には気分良く、家路についたものです。

その後も連絡をとりあって、
翌年終わりか、翌々年の初めに「フィガロの結婚」を上演、
その演出と指揮を私が、という話がまとまりました。
また、「ティート」の時期に絡めて、
「こうもり」と「メリー・ウィドウ」のハイライト公演を
指揮する、という計画も立ち上がりました。
これが私の、転落の始まりとなりました。

ところで、この問題とも多少関係がありますので、
プライベートなことを書いておきますと、
生まれて初めて彼女なるものが、この年の初めに出来ました。
Fさんという、7つ8つ年上のピアニストで、
前年夏にあった「蝶々夫人」に練習ピアニストで参加していて、
私のことを気に入ってくれたようです。
人妻だったのですが、なにぶんにも私は生い立ちが生い立ちゆえ、
人妻と付き合うこと、俗に不倫といわれる行為をすることに対して、
何の抵抗も罪悪感も生じない人間です。

彼女は正月に帰省した折、ついでに大阪に足を運んでくれて、
その夜、初めて私は男になりました。
26歳の時のことです。・・・・いわゆる奥手ですな。
ただ、商売柄、女性との身体接触は多い人間ですので、
また、デビュー間もない頃の例の一件もありましたから、
身体的には「半覚醒状態」だったわけです。
ですから、一般的な26歳の初体験の感激、
みたいなものは何もありませんでした。

第一、幼少期から母親と近親相姦的な要素が多く、
女性の体はいじり慣れていましたから、
別段、何に臆することもなく、やりおおせてしまいました。

この女性、実はY氏がプロデューサーをしている団体の
練習ピアニストのオーディションを受けていました。
普通に考えれば、このFさんはかなり上手い方で、
音楽性豊かな演奏をする人なのです。
ところが、Y氏が求める練習ピアニストというのは、
なるべく小さな音で、稽古の邪魔にならないように弾く、
というタイプ。・・・歌手には困るんですけどね、そんなのは・・・
おかげで、危うく合格できなかったところなのです。

さて、次回は翌年のことを書いてみましょう。
「皇帝ティートの慈悲」、そして「こうもり&メリー」で
体験したことを綴ってみたいと思います。

2010/05/18

皆様、おはようございます。

さて、若かりし頃の私が、
闘争することに、一旦終止符を打つことになる、
前回とは別の、とある市民オペラでの出来事をお話し致しましょう。

そこは市民オペラといっても、大々的に活動しているのではなく、
立ち上げて何年もしない、まだ個人サークルの色合いが強い、
小さな団体でした。
オペラを何度かやってはいますが、ピアノ伴奏。
私が関わるこの回で、しかも私の進言でやっと
オーケストラ伴奏にしよう、という程度の団体。

その団体の代表者と知り合ったのは、
その人と、当時所属していたオペラ団体の公演でご一緒し、
しかも、話を聞いてみれば東京の同じ先生に発声を習っていた、
というところで、話が合ったという経緯からでした。

ふとしたことで、モーツァルトの「フィガロの結婚」を
上演しようとしている、という話になったので、
私がそれに、指揮・演出で協力しよう、という形で乗りました。
何度も申し上げましたが、「フィガロの結婚」は私の十八番。
あらゆる角度、方面から参加できる演目です。

順調、とは申しませんが、それなりに準備は進みました。
オーケストラも、当地の市民オケや、当地にある大学のオケ、
プロの助っ人など、人員は揃いました。
第2ヴァイオリンのトップ奏者には、
バロックヴァイオリンのプロの方に入っていただき、
ピリオド奏法の指導もお願いしました。

キャストも発注したり、オーディションしたりして、
それなりに形として出来てきました。
早めに歌手の稽古も始めたのですが、ここに問題がありました。
その団体の代表者が伯爵夫人役で入っていたのですが、
発声の問題から来る、音楽上の障害が甚だしく、
例えば、すぐ次のフレーズに入らねばならないのに、
発声をこねくり回している間に次のフレーズの入りを逃してしまい、
音楽が遅れてしまって話にならない、というような具合です。

ただ、代表者ですし、せっかくなら出来るようになるまで
こちらとしては誘導してあげたいところです。
ところが、その一方では「彼女には夫人役を降りてもらおう」
というような話し合いがもたれていたようで、
何を血迷ったか、この代表者は私までが自分を降ろそうとしている、
と勘違いして、様々な理由をつけて、私を排除にかかりました。

私を解雇し、しかも、私関係の、私の息のかかった人たちを
すべてクビにしました。
そして、それまで原語上演の予定で進めていたものを、
日本語上演に変えてしまいました。
「あんたを降ろそうなんて、私はしてないよ。逆だよ。」
そう抗弁したかったのですけど、
「自分を降ろそうとした」というのが挙げられた理由にない以上、
その抗弁をすることはできません。
結局私は降りることにしました。

まあ、ここまでならよくある話なのですが、
私としては、はいそうですか、とすぐには引き下がれない、
事情というものがありました。
この上演を計画した時、実際の演奏に使う、
オーケストラのためのパート譜を買いました。
このパート譜、カルマスという出版社から出ているのですが、
フルスコアと合わせても10万円くらい、という安さである一方、
中身はかなり出鱈目なことになっています。

一方、ピリオド・アプローチをもって任じている私としては、
最新版であるベーレンライターという出版社から出ている版に
カルマスの楽譜を直してからでなければ使えません。
オケ伴奏の部分だけでも2時間近くはあろうかという、
この膨大な楽譜をすべてベーレンライター状態に修正する作業を、
私一人で行いました。
そして、私独自の、まさに私が指揮するための演奏譜の状態にまで
きっちり仕上げて皆さんにお配りした次第です。
これは本当に大変な作業でした。
途中、神経がおかしくなって、消化器系がショートし、
激しい嘔吐と下痢に襲われたりしたものです。

このような艱難辛苦の末に出来た譜面を、
ただただこの市民オペラのものにしておく手はありません。
これまでのギャラやら慰謝料分として、
5万円を請求しました。
ただし、それは楽譜の所有権を折半することで相殺。
実際は私に対しては金銭を支払わなくて良い、という条件です。

次に上演する時は、私に貸し出しを申し込める、
という条件で、楽譜は上演後私のもとに送られてきました。
事実上、楽譜一式の所有者はこの私です。

さて、私と一緒に降ろされたフィガロ役の友人が、
このままでは腹の虫がおさまらないから、と
この市民オペラの1日前に、コンサートを企画しました。
阪神間のあるサロンでそのコンサートを行いましたが、
翌日、2人して市民オペラを見に行きました。
私にとっては、私の手入れがなされた楽譜が一体どう使われるのか、
その興味もあったので見に行ったのですが、
さらに不愉快なことに、ちゃんとお金を払って入ったのに、
代表者が私達を見つけ、私達はつまみ出されてしまいました。

そう、この代表者、本来なら私たちをつまみ出せないはずなのです。
なぜって、出演者なのですからね。
それが出来たのは、伯爵夫人役を、結局は降ろされたからなのです。

ともあれ、これで私には十八番であるはずの「フィガロの結婚」に、
味噌がついてしまいました。
それから5年後、しかも同じ季節に、
さらに味噌がついてしまうことになります。
次回はそのお話を致しましょう。

2010/05/06

皆様、おはようございます。

さて、それでは色々と闘争めいたことはありましたけども、
中で一つ、明らかに失敗というか、しない方が良かった、
ということを書いてみたいと思います。

私の十八番、「フィガロの結婚」バジリオ役で、
ある市の市民オペラに出演した時のことです。
副指揮者宅で、副指揮者による音楽稽古をしていたのですが、
メインの稽古部屋の他にもう一室ピアノ部屋があったのと、
ピアニストがもう1人いた、ということがあり、
副指揮者はピアニストに、別室に行ってコレペティ稽古をするよう
指示を出しました。

コレペティ稽古、というのは本来、
コレペティトール(練習ピアニストのことではない)という人との
個人的な音楽稽古のことを意味します。
そもそも、コレペティトールという言葉は、
コレペティーレンする人、という意味。
コレペティーレンとは、反復練習に付き合う、ということです。
つまり、下稽古のコーチのことをコレペティトールというのです。

コレペティトールは、欧米の劇場では主に、
コレペティ専門の人間、あるいは指揮者の卵がすることで、
要するに、そのオペラの色んな側面に通じているはずの人間です。
ですから、ある意味重んじられているポストなのです。

・・・が、日本ではオペラ専門指揮者、という概念がないため、
若手の指揮者もみんな振る方にまわってしまいます。
結局、コレペティをするのは、コレペティ専門のピアニストか、
練習ピアニストがコレペティ作業もやってしまうか・・・という状態。
前者なら問題ありませんし、後者であっても、
中には貪欲に取り組んで前者並の人であればまた然りです。
しかしながら、そうそう数はいないのが日本の現状です。

前置きが長くなりましたが、これだけ理屈をこねたのですから、
この時、コレペティ稽古を指示されたピアニストが
どの程度の代物であったかは、既に想像がつくかと思います。

今は知りませんよ。
でも当時のその方、・・・もう名前も覚えていませんが・・・
あ、当時から覚える気なんか起きなかったか・・・(笑)
先ほど述べた後者の、しかも残念な方のピアニストでした。

モーツァルトのイタリア語のオペラには、
チェンバロ(+チェロ)だけで伴奏して、
喋るように歌う、「レチタティーヴォ・セッコ」というのがあります。
一本のオペラ台本のうち、7割以上はこの「セッコ」です。
おおよその筋立ては、セッコで進んでいくものなのです。

このセッコの伴奏法は、慣れないうちは本当に大変です。
ピアノばかり勉強してきたピアニストがセッコを弾かされて、
まず何に苦労するか、といえば、和音を鳴らすタイミング。
歌手から言わせると、そりゃぴったりなタイミングであるに
越したことはないものの、次善の策としては、
後から追いかけてくれること、なのです。
最もやってはいけないのは先取りしてしまうこと。
テンパってしまい、自分が何を言ってるのかさえわからなくなります。

で、この件のピアニストさんですが、
どう出てくるかわからんのです。
遅れることもあるが、遅れたことに慌てて、
今度は先に出すぎて・・・・
まあ、シッチャカメッチャカでこちらは歌えません。

あの、今なら私、こんなことしませんよ。
ところがその当時は「我が闘争」の真っ最中。

「ごめんなさい、ちょっと貸してくれる?」

ピアノを取り上げて、私がコレペティ稽古を始めました。
こちとら「フィガロの結婚」に関してはスペシャリストです。
的確なタイミングで、的確な和音の入れ方をしていきます。
ついでながら、歌手に対しても発音の指導をやらかしてしまいました。

この部屋にいた中に、私とダブルキャストの方がいらっしゃいました。
まあ、10歳以上は年上の先輩なのですが、
正直なところ、発音があまりおよろしくない。
ビシバシ直しまくりました。

あはは・・・・それ以来、私とは全く口を利きません。
狭い業界ですから、同じオペラに乗ることもありますが、
ダブルキャストだったり、別役でも組み分けが違えば、
ホームページにキャスト表を乗せるのは自分の組だけ、
私と同じ組になった時は、私と若干名を省略、という具合に、
決して自分のホームページに私の名前を掲載しません。
徹底して嫌われたものです。

この時の一件がかなり効いたとみえ、
それからしばらく、関西のオペラ界には
ぼんち叩き旋風が吹き起こりました。

さらにこの後、モーツァルト専門を自任する私に、
小学校4年生以来の挫折が訪れますが、
次回はそのことについて書いてみましょう。

2010/04/26

皆様、おはようございます。

ピリオド・アプローチという概念が固まった頃、
それは大学を卒業したあたりですが、
その頃から周囲との闘争が始まりました。

大学を卒業した後、関西に2つある大手オペラ団体の1つ、
関西二期会のオペラスタジオに研究生として入りましたが、
同期の人たち個人とは仲間として付き合いつつも、
「音楽大学の卒業生」という・・いわば「概念」に対しては、
喧嘩というか、闘争し続けることになりました。

これまでに書いてきたように、
私は音楽と何の関係もない大学に進学し、
積極的に学問的援助を受ける機会はあまりないままに、
がむしゃらにオペラ歌手修業に取り組んできました。
その行き着いた先がピリオド・アプローチだったのですが、
いざ同年代の駆け出し音楽家たちと接して愕然としたのです。

「こいつら、4年間何をしてたんだ・・・」
ご存知のように、私は大学に入ってから歌の道を志した、
というような、よくある一般大学出身歌手ではありません。
小学校4年から音楽で食おうと考えて育ってきたが、
高校で音楽浸りになりすぎて、
音大を受けさせてさえもらえなかった、という
少し特殊な経過を辿った人間なのです。

その私から見て、ものを知らなさすぎる。
特にモーツァルトの演奏に関して、
若手声楽家たちの知識の乏しさ、方法論のなさには
怒りを禁じ得ないものがありました。
なぜそこまで怒っていたかというと、
およそ音楽大学というところはモーツァルトを基本として、
学生に勉強させる傾向があります。
つまり、一番力を入れているはずのモーツァルトで、
一体何を教えられてきたんだ、ということです。

行きたかったのに受けさせてさえもらえなかった・・・
おかげで私には音大に対するコンプレックスがありました。
ところが、音大卒業生のモーツァルト音痴は、
見事なまでに私のコンプレックスを刺激してくれたのです。
ここから我が闘争が始まりました。

主に何をしたか、というと、
文献や資料を流通させる手に出たのです。
例えば、アーノンクール著の「古楽とは何か」「音楽は対話である」
というような本を回覧してみたり、
ピリオド奏法に関して演説をぶってみたり。

もちろん、これが同期生に止まっているわけがありません。
同時に出演していた各団体の中でも、
越権行為をも顧みず、「布教」に努めてしまいました。
次回は、ある市民オペラ団体でやってしまった越権行為について、
闘争の具体的な例示として書いてみたいと思います。
もちろん、今ならもうしないことですけれども。

2010/04/01

皆様、おはようございます。

東京から戻ってきて最初にやったこと。
これは作曲でございました。
古来日本で、気持ちを短い詩にまとめたもの、
といえば、和歌、つまり短歌です。
手っ取り早いところで、百人一首で作曲を始めました。

まず、人前ではとても使えない代物が一つ出来ました。
壬生忠岑(みぶのただみね)です。
書いたその時から、使えないことは百も承知。
まずは毒を吐き出さねばどうにもならない自分がそこにいました。
陰鬱な和声がうねっていて、歌も陰鬱に唸っているだけ。
これが最初に必要な「プロセス」でした。

続いて書いたのが、式子内親王(しょくしないしんのう)です。
これはまさに例のソプラノ歌手の声質に合わせて書きました。
その翌日書いたのが、陽成院(ようぜいいん)。
これはテノールのために書きました。
3日で3つの歌が出来ました。

この式子内親王と陽成院はその後も改訂を加え、
今ではコンサートピースとして時折使っています。

ただ、これを越えるものは、それから書いていません。
これだけ素直に気持ちが表現できている曲は、
それからどうしても書けないのです。
もちろん、それに見合った人生を歩んでいるからですね・・・。

ともあれ、これらの作品が、
その夏の経験から得た副産物の第一です。

第二の副産物はシューマンの歌曲集「詩人の恋」でした。
これで、あくまで感情的にではありますが、
音楽をきちんと考えられる頭が出来上がったのです。
それまでは、オペラ、しかもキャラクターテノール専門ですから、
芝居さえどうにかなっていれば良い、という頭があり、
音楽性があまりにもおろそかになっていたのです。

この変化は、作曲を集中的に始めたこととも関連しています。
作曲を始めると、やはり音楽のことをおろそかには出来なくなります。
この記号をこの音符につけようか、それともその隣にしようか、
そんなことで一晩悩む、という経験を重ねていると、
他人の作品に対しても尊重せずにはいられなくなるのです。

ところで、例のソプラノ歌手はそのすぐ後に、
私が高校生の頃関わっていた作曲家の作品に出ることになりました。
相変わらず血迷っていた私はプレゼントを持って見に行きましたが、
これを詳しく書くことは自己嫌悪を増やすだけなのでやめます。
しかしおかげで、その団体の仲間たちが、
彼女に関するレポートを随分私にくれました。

・・・いわゆる経済力や権力にすり寄るタイプの女性。

普通なら、そんな女いらんわい、と思うところなのでしょうが、
私の場合、自己嫌悪に陥ってしまいました。
まず、その程度の女性にさえ相手にされないか、ということ。
周囲が、「その程度の女やで」と言ってくれればくれるほど、
自分がどうしようもないほど劣った人間に思えてきました。
そしてこうも思いました。
「すり寄られもしないほど、利用価値すらない男なんだ」

もっとも、20歳の男にそれだけの経済力があったり、
権力があったりしたら、逆に怖いですけどね。

ただ、この時、私の中に権力志向というものが、
明確な形で芽生えました。
これは、正直この夏の負の遺産だと思いますし、
今でもなお、時折ムクムクと起き出してきて、
抑制するのに苦労することがあります。
実際、権力にすり寄るタイプの女性を見かけると、
嫌悪しつつも、意識がかなり奪われる傾向があります。
その女性自身が魅力的かどうか、ということとは別に、
俺にもすり寄ってこないかなあ、と思ってしまうのです。

幸い、あれからもう12年になりますけれども、
一度として権力を使って女性をモノにしたことはありません。
指揮者や演出家は基本的に権力を持つ立場ですが、
その立場に立った時は、他のどんな時よりも
腰の低い人物であるように心がけています。

さて、その翌年の2月に、
大阪に住んでいる私が初めて、
関西の音楽界に参入することになります。
神戸オペラ協会という団体の「魔笛」に、
僧侶の役で出演することになったのです。
ここで音楽上、その後の私の指針となる方法論に出会います。
それは「ピリオド・アプローチ」。

「ピリオド」とは、「ある時代の」という意味です。
つまり、その作品が出来た当時の方法論で演奏する、
という音楽上の概念です。
バロック以前の音楽の専門家以外の演奏家で、
この概念を日本に持ち込んだ草分け的存在である、
本名徹次氏が、この「魔笛」の指揮をしたのです。

次回はこの「ピリオド・アプローチ」について、
それが何であり、どのように実施され、
そのような方法論を私がどのようにして練り上げていったか、
なるべく解り易く書いてみたいと思います。
この概念をわかっていただかないと、
これより後の私の演奏活動がどんなものだったのか、
意味が半分わからなくなってしまいますから。

2010/03/28

皆様、おはようございます。

ちょっと間が開いてしまいましたね。
本当は先週末更新するつもりだったのですが、
急用、しかも泊りがけが立て込んでしまったため、
PCを開けることさえままならぬ日が続いてしまいました。
まあ、何とかPCは起動する日もあったのですが、
用事を成立させるための調べものをするのが精一杯、
前回予告した内容が内容だけに、
あまり余裕のない状態で書くのもどうかと思い、
今日という日を密かに狙っておりました。(笑)

さて、オペラデビューが決まった私は、
稽古が始まってからというもの、東京との往復に明け暮れました。
思えばこの頃はまだお金に余裕があったものです。
本番前は1ヶ月ばかり東京滞在もしましたが、
そんな1人の長期滞在は生まれて初めてです。
稽古のある日は良いとして、中休みの日など、
ホテルにこもっていたりするとどうしても気鬱になります。

これまでに経験したことのない寂しさから、
このデビューの年には2つのことをやらかしてしまいました。
1つは、ホテルの壁の材質が結構もろくて、
爪で引っかけば、引っかいた通りのラインで
壁紙がはがれてくるのです。
気鬱に陥った私は、この壁に友達の名前を刻んでしまいました。
これが掃除のおばちゃんによって発覚、
壁紙を取り替えるために7万5千円払わされてしまいました。

もう1つは、ある女性歌手と仲が良かったのですが、
とはいえ、別に色恋の絡む話ではないのですけど、
これまた気鬱になってしたことが何だったかというと、
その歌手に手紙を書いて、
しかも投函すればよいものを、本人の自宅まで行って、
ポストに直接放り込んで来たのです。
やっていることがまるでストーカーです。
もちろんお怒りを被ってしまい、
友人関係もそこで終わってしまいました。

・・・無事、とは言いがたいですが、
この夏のオペラ「魔笛」はとりあえず終了しました。
何とか歌手としてのキャリアをスタートさせた私は、
翌年、再演されたこの「魔笛」に再び出演しました。
それが今の私の、いわば基礎固めとなる激烈な経験を、
私に与えてくれることとなりました。

ところで、予備知識の補足を一つ。
日本ではオペラは通常、ダブルキャストで行われます。
例えば土曜日にA組、日曜日にB組、というように。
「魔笛」再演の時、私はB組モノスタトス役でした。

ここから書くことは、100%事実かどうかはわかりません。
私の言動、及び、私の眼前での出来事以外は、
推論、憶測、噂など入り混じっている可能性がありますが、
あくまでも私の主観的経験として読んでいただけると助かります。
もしこれを当該本人が読むことがあって、
事実と違うことを書いていたとしても、
ぼんちの目にはそのように映っていたのだ、とご了解下さい。
もし、「実はこういうことだったのだ」ということを
私に伝えていただければ、もはや過去のこと。
なるほど、そうだったのか、と納得致します。

問題となる女性はB組、つまり私の共演者の一人、
主役のソプラノ歌手です。
海外に在住の29歳、かなり上手い人でした。
オペラの中で、モノスタトスである私は、
この女性に対してレイプ未遂をするシーンがあります。
最初の稽古でそのシーンをやったのですが、
当時20歳だった私は信じられないことを経験します。
床に押さえつけ、体を重ねるのですが、
この時まで女性経験のなかった私が感じたのは、
このソプラノ歌手の身体の柔らかさとお化粧の匂いでした。

その瞬間、私の中の何かが大きく動きました。

私は女性ホルモンが多いのか、頭髪と眉毛以外は薄く、
腋毛や陰毛、体毛の生え具合は微々たるものでした。
ところが、その日を境に腋毛も陰毛も濃くなってきたのです。
まあ、今でも一般に比べれば薄いですが、
それでも当時に比べたら格段に濃くなりました。
私の中の男性ホルモンが活性化されたようです。

この日から翌週の稽古までの一週間、
かなり鬱々とした日を過ごすことになりました。
身体からあの感覚が離れてくれないのです。
翌週、そのソプラノ歌手に会った私は、
稽古からの帰り道、正直にそのことを話しました。
(こういうのをバカ正直というのでしょうか・・・)
その日から約1ヶ月の間、私は東京には来ませんでした。
広島でのオペラ出演があったので、
そちらに掛かりきりになりましたから。

広島でのオペラを終え、東京に戻った私を待っていたのは、
信じられない光景でした。
このソプラノ歌手に、金魚の糞みたいにA組モノスタトス、
つまり私と同役のダブルキャストが引っ付いている光景です。
「狙っているのだろうか・・・」
今はセミプロのような感じで活動しているみたいですが、
当時はまだ素人がばれるような感じの状態で、
それなりに役、特に芝居に自信のあった私は我を見失いました。

このA組モノスタトスは某大手電器会社勤務、
当時39歳の妻子持ちで、ベンツを乗り回している人でした。
妻子持ちの癖に・・・俺より実力もない素人の癖に・・・
今の私にしてみたら、恥ずかしくていたたまれないような、
どこまでも思い上がった理屈でしかありませんが、
自分の怒りを正当化するなら何でもよかったのです。

後で情報収集した限りでは、狙っているどころか、
金を使いまくって高価なプレゼントをし、
すでに口説き落として、毎日遊んでいる状態だったようですが、
そこまでは知らなかったその時のこと、
我を見失った私が何をしたかというと、
前年やってしまったことのうち、2番目の手段です。
不気味さを相手に与えてしまうことを知っていた私は、
この時とばかりに、それを逆手にとって使用することにしました。
ほとんど脅迫状に近いものを書いて、
この男性歌手の自宅に届けたのです。
奥さんが受け取ってしまうこともありえますが、
それはこちらにとっては幸いでこそあれ、
困るところではありません。

もちろん稽古が進むにつれ、
この脅迫の主が誰であるか、この男性歌手にはわかっただろうし、
相手のソプラノ歌手にもこのことは話したでしょう。
少なくとも、「あいつとは付き合うな」くらいのことは
言っただろうと思います。
実際、一度お茶に誘ったら、こう言って断られました。
「あなたとお茶すると嫌な思いをする人がいるから」と。

長い長い、嫉妬の日々が始まりました。
ある時など、ホテルの部屋で胸を掻き毟ったことがあります。
「胸を焦がす」という表現がありますが、
それまでそれは、単なる表現としてあるだけだと思っていました。
ところが、それが物理的に・・といっても感覚的物理ですが・・・
起こり得ることだ、ということが生まれて初めてわかりました。
本当に胸の中に、焼けた鉄の玉が入っているような感触を覚え、
のた打ち回らずにはいられなくなるのです。

ところが、最終リハーサルであるGP(ゲネプロ・総練習の意)で、
これまた信じられないようなことが起こりました。
私と出番が同じこのソプラノ歌手は、楽屋から出てきた私の腕に、
自分の腕を絡ませてきて、寄り添うように舞台袖にスタンバイ。
単純な私はこれに何の疑いもなく、単純な喜びを噛み締め、
その日のGPは最高の出来で終えることができました。
GPとはいえ、お客を入れてましたから一応本番のうちです。

ところが、本番の日にはこれがひっくり返されてしまいました。
今度は私に対して、よそよそしく、冷たいのです。
すぐにわけはわかりましたけども。
実はその前日、A組本番の日に、
途中までソプラノ歌手と2人で帰った私は、
別れ際、彼女の額に軽くキスして別れる、という
今思い出しても自殺したくなるような、軽率なことをしたのです。
これを、共演者の1人に見られてしまっていて、
翌日楽屋でそのことが話題になっていたとか・・・。

ともあれ、彼女の態度にテンションを落としてしまった私は、
この日は乗り切れないままに、良くない本番を終えました。
モノスタトスがパミーナ姫に抱く劣情そのまま、
しかも、テンションは低く、ドロドロした感情がそのままで、
最もやってはいけない形の本番をしてしまいました。
その夜はヤケ酒となり、暗澹たる気分で、
翌日大阪に帰ってきました。

今回は・・・もう時効だろうということで、
懺悔録のようなものを書かせてもらいましたが、
この経験が思わぬ副産物を生じさせることとなります。
これがなければ今の私はなかったでしょう。
まず、音楽家として基本である音楽性を育てるきっかけが
おそらくは得られていないと思います。
次回は、続く七転八倒と副産物について書き記しましょう。
今回だけは、そう時を置かずに・・・。

2010/03/16

皆様、おはようございます。

私がメチャクチャな高1を終え、
・・・実は、終わってないんですが、
いえ、・・・通知簿が終わってました・・・
雲雀丘学園では進級できない、ということがわかった時、
一つの道が示されました。
それは、どこかへ転校すること。

オペラの練習のため、土曜日の授業を早退していたのですが、
ちょうどその時間にあたる体育の授業が、
出席日数が足りなくなり、単位を出せなくなってしまったのです。
しかも、体育の担当教師が相当に私を嫌っており、
あいつは絶対に進級させない、と息巻いていたそうです。
加えて理数科目が赤点。
苦手な科目というものは、成績に対する危機感、
というモチベーション・・・消極的だが・・・が、
何とか最低限の点数に達する最後の切札なんですが、
前回も書いたように、私にとっては問題外。
だからどうした、という感じだったので、
それはもう、散々な出来だったわけです。

そんなわけで、芦屋大学附属高等学校に転入致しました。
「ブッダ」も一段落し、多少余裕のある状態でオペラは続けつつ、
後の2年間はそれなりに高校生活を送り、
・・・とはいうものの、阪神大震災を経験しましたが。
ふと、地震の夢を見て起きると、何も起こっていない・・・。
しかし、しばらくしてゴゴゴゴ・・・・。
あの時だけは真剣に死を覚悟しました。
幸い大阪市のど真ん中でしたので、死ぬことはありませんでしたが、
それなりに大きな体験だったと思います。

ところで、その直後でしたが、思わぬ仕事を受け持たされました。
父親がJC(青年会議所)のメンバーだったのですが、
その事業で南の島国であるバヌアツ共和国の子供たちの、
教育プログラムを担当することになったのです。
調べてみると、どうやらバヌアツの子供たちには、
童謡の類がない、ということが判明。
そこで、いくつかの童謡を作って与えよう、
ということになったようです。
そのうち1曲を私が担当し、現地の人が作詞したものに
作曲して父親に持たせました。
原題は忘れましたが、「僕たちはバヌアツの子供」
という意味のタイトルでした。

さて、自身では大阪音楽大学の声楽科を受験するつもりでした。
実際、大阪音楽大学助教授だった師匠からは、(現在は教授)
実技に関しては間違いなく10番以内で合格できる、
というお墨付きをもらっていたんですが、
実は家族の誰もが、それを信じていませんでした。
また、残念にも芦屋大学というところは、
「バカ大学」として有名なところ。
下にはまだ程度の低い学校はあるんですけれども、
有名というのは恐ろしいもので、無名の底辺校より評価は低いです。
だから、実技はOKでも国語と英語がどうせ・・・
という頭も働き、受けさせてさえもらえませんでした。

加えて、高2から転入させてもらった、という経緯から、
芦屋大学の理事長とのコネが強度に出来てしまい、
よその大学を受けるなんて申し訳ない、
という空気になってしまったこともあります。
そんなわけで、芦屋大学教育学部英語英文学教育科に進学、
結局4年間通って卒業することになります。

普通に考えれば、音楽業界への遠回りと思われたこの進学が、
結果的には私を近道へと誘ってくれました。
この大学の当時の学長がクラシック音楽好きで、
よく学長室にお邪魔して喋ったりしていたのですが、
学園祭の楽日は大阪の厚生年金会館大ホールで文化祭をするのに、
私のために時間をとって出演させてくれたりしたものです。
また、自分も素人ながらに歌ったりしますから、
自分が頼まれた時に、私も連れて行って歌わせてくれたりしました。

そうこうするうちに、ある日本屋で宝塚の雑誌を見たのです。
ふらっとそんなものを手に取ったのは、
雲雀丘学園時代の友人と電話で喋った時に、
「濱田さんは高1が終わると宝塚に入った」
ということを聞いていたからです。
その日より前に手にとっていても何もわからなかったでしょうが、
その日だったことで、私のターニングポイントになりました。
紺野まひる、という名前で、確かに濱田さんの顔がそこにあり、
新人公演で主役をとった、ということが書かれていました。
しかも、結構評判良かったらしい。
当時、芝居は今ひとつだったようですが、
容姿と歌については頭一つ抜きん出ていたようです。

これで私に火がつきました。
よし、私もやってやる!

丁度その時です、クラシック雑誌「音楽の友」に、
「省エネオペラ 魔笛」の募集広告が出ていたのは。
「フィガロの結婚」バジリオ役と並ぶ、
モーツァルトオペラのキャラクターテノール役は
「魔笛」のモノスタトス役です。
迷うことなく、オーディション受験を決意しました。

願書を出してしばらく、もう1ヶ月ほどでオーディション、
という頃に、電話がかかってきました。
TBSからで、News23の担当者からでした。
受験者からランダムに選んで、取材を依頼している、とのこと。
もちろん、快諾しました。
数日後、取材班がやってきて、師匠宅でのレッスン、
自宅・・・と称して撮影しましたが、実は父親宅での練習風景、
家族・・・ただしテレビに映ることを嫌う祖母は、
婆やである経理社員が替え玉しましたが・・・へのインタビュー、
結構面白い2日間でした。

そしてオーディション当日、
ピアニストと共に東京まで遠征しました。
結果は見事合格。
3日後の顔合わせまで、東京滞在し、大阪に凱旋しました。

それからしばらくして、News23で全国放映されました。
もっとも、大阪MBSの支配区域は、
後半は他番組のために削りますので放映されず、
私が見たのは後日送られてきたビデオでしたが。

これが、私のオペラデビューが決定した経緯になります。
次回は、その年の「魔笛」と翌年の再演で起こったことが、
私の音楽家としての資質を伸ばしてくれたことについて、
書いてみたいと思います。
ただし、それは苦しい経験でした。
私が生まれて初めて、「女性」ということで苦悩した経験です。

2010/03/09

皆様、おはようございます。

話は中学校3年にさかのぼりますが、
音楽の先生であった小林先生の出るオペラやコンサートを
数回見に行ったものです。
その中に、奈良在住のある作曲家のオペラで、
先生がタイトルロールを演じたことがありまして、
我が家のすぐ近く、南御堂で上演されましたので、
見に行って気に入ってしまった作品があります。

それは尾上和彦という作曲家の「ブッダ」というオペラです。
今は「仏陀=求道の人=」という1本のオペラに完結していますが、
私が見た時は「ブッダⅠ=真理の人=」という1作目、
「ブッダⅡ=永遠の今=」という2作目が現存し、
3作目として「ブッダⅢ=生命の歌」が予定されている、
という3部作ものとして上演されていました。

その後、小林先生が留学される少し前、
「ブッダⅠ」は改訂・増補されて「=散華=」というタイトルになり、
そのタイトルロールであるシッダルタ(釈迦)を演じて、
先生はウィーンに留学されました。

大変暗いというか、陰気というか、
異様な雰囲気で始まるオペラでしたので、
一発で気に入ってしまいました。
また、これには1人2役で演じられる、
キャラクターテノール用のパートがあり、
いつかこのオペラに関わりたいものだ、
楽譜を見たい、と思うようになりました。

それとは別に、高校になって音楽の先生が替わり、
音大を出たばかりの女性の先生になったのですが、
どういうわけか、昔から年若い女性の音楽の先生とは
ウマが合わず、冷ややかになってしまったり、
険悪な空気になってしまったり、という傾向がありました。
この時もやはりそうなってしまいましたが、
私の歌の能力に目をつけてくれた人が1人現れました。

大阪音楽大学4回生で、教育実習にやってきた女性です。
その時、昼休みに音楽室で、
モーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の一節を
ピアノを叩きながら歌っていたのですが、
それを聞いたその女性が私を自分の師匠のところに
連れて行ってくれました。

それから、大阪音楽大学受験を目指して、
声楽のレッスンを始めることになりました。

レッスンに通いだしたことで一定の自信が出来たのか、
オペラ「ブッダ」の事務局に、連絡を取りました。
次の公演予定はあるのか、と問い合わせたわけです。
すると、10月に東大寺大仏殿前で公演するが、
是非合唱に参加して下さい、というお誘いを受けました。
楽譜が手に入るのです。
即座にYesの返答を致しました。

稽古は基本的に、作曲家自身によって行われます。
彼は公演の指揮もするのです。
合唱の稽古には合唱の部分だけ抜き出した楽譜が配られましたが、
作曲家に頼み込んで全曲の楽譜をもらいました。
とりあえず東大寺の公演はそれで終わったのですが、
引き続いて、宇陀のお寺で上演されることになっていたため、
稽古が続行されました。

その中のある時、私のやりたい役をしているキャストが
いない状態での稽古がありました。
その時までにその役を覚えきっていた私は、
飛び入りでその役を歌いきりました。
それ以来、その役に限らず、
誰か男性歌手がいない時はそのパートの穴埋めをする、
という私独特の下積み修業が始まりました。

これは「ブッダ」に限らず、
その後初演された「堅花子の花(現・ヤカモチ)」でも
やはり全曲の楽譜をもらって準備したものです。
また、基本的に私は作曲もしますから、
「アイデアの変遷」「作品の変遷」というものにも興味があります。
以前のバージョンがどうなっていたのか、
という研究も、音源を借りて行いました。
ここが、私の「音楽学的研究」の基礎を作ったようです。
今でも、作曲家が初めはどういうアイデアを出し、
それをどう書き直して最終的な形に至ったか、
そこを追求せずして私の演奏はあり得ません。

このような研究のおかげか、
今でもこの作曲家のスタイルで作曲することが可能です。

ところで、こんな風に送っていた私の音楽生活ですが、
肝心(とは私は思ってませんでしたが)の高校生活は、
この音楽生活のためにメチャクチャになっていました。
なにせ、音楽の先生はお互いに気に入らないものだから、
まったく交流がなく、教えてももらわない。
そして学校へもろくに行かずに音楽ばかり研究してましたから、
学校の勉強、とりわけ元々苦手な理数科目は散々、
数学Ⅰに至っては2点という栄えある点数をとったこともあります。

私が自信あるのは音楽と宗教についての経験だけ。
およそ今とまったく変わらない状態が、
この時からあったわけです。
ただ、普通の人であれば、自信ある部分は部分として、
そういう散々な成績に対しては何らかの危機感を持つものです。
しかし私は、むしろ自慢にさえ思っています。
散々な成績を屁とも思わない自分を!

さて、恵まれているとはいえない学校生活だったのですが、
・・・まあ芸術的な方面にですけれども、
私を発奮させてくれた人がクラスメートにいました。
宝塚歌劇団雪組の元トップ娘役の「紺野まひる」です。
彼女は1年だけ、雲雀丘学園に在学したのですが、
1年間音楽の授業を受けていて、歌わされると
音楽室の中で聞こえる声は私と彼女の2人分だけでした。
音楽家目指して声楽のレッスンを受ける私と、
宝塚目指して励む彼女、
他に類似の方面を目指す人はいなかったのですから、
仕方のない話だったかもしれません。
この年頃の子は、滅多に声を出しませんから。

3年後、彼女は・・・彼女自身は意図せずしてですが・・・
私が東京でオペラデビューをするきっかけとなります。

さて、今日はこのあたりにしておきましょう。
次は、オペラデビューの話を書きたいと思います。
このあたりから、身の回りのどの事象を考えても、
これが起きなければ、今の私はない、
と言い切れそうなことばかりが起こっています。
その中のどれか一つがなかった、あるいは別のことだっただけでも、
現在の私はかなり違っていただろう、ということばかりです。

2010/03/03

皆様、おはようございます。

両親の離婚によって大阪に帰ってきた私は、
祖母の姉の夫に作曲を習い始めました。
一応これでも、音楽大学に入ろうと考えたわけです。

ちょうど鹿児島にいる頃、映画「アマデウス」が
テレビで放映されました。
モーツァルト好きの私としては見ないはずがありません。
ここで描かれている、「オペラ」というものに興味を持ちました。
そこで、オペラ「魔笛」のCDと楽譜を買ってみたのですが、
音情報だけではイマイチ全貌がわからなかったのです。

そして大阪に帰って1ヵ月後のことでした。
大阪芸術大学の学生オペラが「フィガロの結婚」を上演する、
という情報を心斎橋のYAMAHAで仕入れた私は、
これを見に行ったわけです。
今の私なら絶対に選択しない、日本語上演だったのですが、
これを見た私は歌の道も決意します。

別に華やかな主役に憧れたわけではありません。
この「フィガロの結婚」には、
ドン・バジリオという音楽教師の役が存在します。
一般的なイメージを申し上げますと、(私の演出では違います)
お喋りで、軽薄で、場合によってはオカマチックな、
その場を引っ掻き回してしまう、という感じでしょうか。
音楽と芝居が結びついて、これほど面白いことが出来る!
そこに大いなる魅力がありました。

その頃、変声期を終えた私の声帯は、
子供の頃からの予想通り、テノールであろうと思われる、
そういう声を出すようになっていました。
幸い、「フィガロの結婚」のドン・バジリオは、
テノールで書かれています。

もっとも、普通テノールといえば、王子様や英雄、
色男など、いわゆる2枚目の役に充てられるのですが、
ドン・バジリオや「魔笛」のモノスタトス、
「マダム・バタフライ」のゴローなどは
一般にキャラクターテノール、
ドイツ語でシュピールテノール、イタリア語でテノーレ・ブッフォ、
という呼び方で、「性格的テノール」と言われています。

私がなりたい、と思ったのはこの「性格的テノール」です。
「ヘンゼルとグレーテル」やバロックオペラでは、
我々キャラクターテノールが魔女などの女装役をすることもあります。
もしここに、私に向かって
「どうして歌をしようと思ったの?」
と尋ねる人があれば、答えは至って簡単です。
「ドン・バジリオやりたさに。」
結局大阪でも東京でも、ドン・バジリオは何度かしていますから、
私をご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。

私はさっそく「フィガロの結婚」の楽譜を買ってきて、
・・その時は中1の2学期でしたが・・
3学期が終わるまでにはドン・バジリオのパートを、
すべて暗譜してしまっていました。
この後、随時他の男性役パートも制覇していきます。

さて、大阪に帰って来て、転入した学校はやはり私立。
宝塚市にある雲雀丘学園中学校でした。
その頃、この学校の音楽の先生は、
今も私が所属している関西二期会の準会員で、
バリトン歌手の方でした。

・・・実はこの先生、劇団四季に詳しい方ならば、
おそらく知らないということはないでしょう。
先年、若くして亡くなられてしまいましたが、
劇団四季で活躍しておられた、小林克人さんです。

小林先生には中学卒業までお世話になりました。
歌のことはかなり教えてもらいましたし、
色んな楽譜を貸してもらったりもしました。

中学が終わる直前の、学年最後の音楽の授業となりました。
いつも、簡単に発声練習をしてから始めていたのですが、
この授業に限っては、その発声練習が異常でした。
やたらとハードで、私以外誰もついていけなかったのです。

この学校は中高一貫でしたから、そのまま高校に上がりましたが、
その時、小林先生がウィーンに留学されたことを知りました。
小林先生29歳の時です。
後で、中3の時に別の学級だった友人に確認したところ、
最後の授業で別に難しい発声をやらされたことはなかった、
ということでしたから、
私のいた授業の時だけ、私への形見分けのようなつもりで
ハイレベルな発声練習をしてくれたのでしょう。

その後、ウィーンで劇団四季のオーディションを受けられ、
日本で活躍するようになった頃、
こちらも東京でオペラに出演するようになっていましたので、
オペラやリサイタルに何度も来てくれました。
私が自筆譜などの原典資料の研究もしていることを知ると、
シューマンの歌曲自筆譜のことで質問してきたりもされました。

最後にお会いしたのが、2006年7月、
東京で「皇帝ティートの慈悲」というモーツァルトのオペラで、
ローマ皇帝ティート役をした時のことです。
当日になってメールでチケットを予約して、来てくれました。
その次の年、ふとYahoo検索で先生の名前を検索すると、
出てきたのが「小林克人 死亡」の文字。
これを機に、幾人かの親しかった人たちが亡くなられました。
中には私より1つか2つ年上、という女性もいました。

さて、今回はオペラに目覚めたきっかけと、
それを応援してくれた小林先生のお話を致しました。
次回は・・・これも若干小林先生絡みになりますが、
高校1年になってから始まった、
オペラ現場での下積みについてお話し致しましょう。

2010/02/23

皆様、おはようございます。

まずはゴジャゴジャ抜きにしてこの写真を拝め!(笑)

img1341.jpg 
これは、鹿児島で貰ってきた、
小学校6年生の時の写真です。
撮影と写真提供は、母親の江田ときえ女史。
場所は転校先の西田小学校。
転校して1ヵ月後にあった、学習発表会での一コマです。

転校してきたばかりの児童に指揮をさせる方もさせる方ですが、
それに乗っかってちゃっかり振ってしまう私も私ですね。
しかし、よくご覧下さい。
私もここ数年、学校廻りの仕事をよくやりましたから、
小学生の指揮姿というものを沢山見てきています。
その目から見て、この写真を母親に見せられた時、
我ながらびっくりしたし、感心したものです。

・・・およそ小学生の指揮姿ではありません。(笑)
My指揮棒ですから、持ち慣れているのは言うまでもないですが、
姿勢と視線が全く違います。
(というか、My指揮棒持ってる小学生なんてあまりいないだろう・・)
この頃は指揮法の本を読み漁ってましたから、
今よりも図形はきれいだったはず。
図形というのは、指揮棒を振るラインのことです。

さて、自慢話はここまで!
その後のことを書きましょう。

中学受験のために鹿児島市に転校した、と書きましたが、
そもそもなぜ中学受験をしたか、というと、
その理由を聞けば、今の私を知る人は笑うはずです。
このページに私の写真がありますから、
読者の皆さんもお笑いになるかもしれませんね。

当時、鹿児島県内の公立中学校で、
長髪可だったのはたった一校。
大根占中学という、大隅半島にある遠い学校だけ。
つまり、川内にいても鹿児島市にいても、
丸刈りにしなければならなかったわけです。
その長さの基準は、手を突っ込んで、
指の間から出ない程度、でした。

そう、坊主頭になるのが嫌で私立受験をしたのです。
今や、手を突っ込んで指の間から出ないどころか、
手を突っ込もうとしても、数時間前に剃って伸び始めた髪が、
ジャリジャリと音をたてるだけの無防備な頭・・・。

動機がそんなのですから、
鹿児島中学校、志學館中等部、ラサール中学校のうち、
ラサールが落ちたのは言うまでもありません。
(国語と社会だけなら通っていたと思いますが。)
どうしても理数の点数は伸び悩み、
鹿児島中学校と志學館中等部は通りまして、
志學館中等部に進学致しました。

また、鹿児島市に引っ越したのにはもう一つわけがありまして、
この頃から両親の離婚訴訟が始まり、
父親からの仕送りがなくなりましたので、
母親には働く必要が生じました。
そこは女手のこと、しかも都合よく向いてもいた職業、
大阪にいた頃からやりたかったクラブのホステスに、
やっと手を染めることになったわけですが、
生憎川内市では職場が・・・・まあほとんどないわけです。
今の過疎状態ではなおさらありませんが、
当時でもやはりなかったように記憶しています。

さて、小学校の頃からモーツァルト好きになっていた私が、
中学校に入ってから、徐々にオペラに興味を持ち始めました。
そのうち、秋になって両親の離婚が確定し、
私は父親に引き取られることに「しました」。
私がそれを選んだのです。

初めのうち、どちらに行くか、感情で色々考えていたのですが、
感情で考えていては千年経っても結論は出ない、とわかりました。
それで、「どちらに行った方が音楽の勉強ができるか」
ということのみにポイントを絞り、大阪に戻ることを決めたのです。

話は少し遡りますが、小学校4年生の頃から、
作曲にも手を染めるようになってきました。
他人の曲を演奏するばかりでは面白くない、
そう思い始めたのがきっかけでした。
ピアノに関しても、バイエル終了程度の曲であれば、
初見でパラパラと弾けるようになっていました。
これは、特別に練習したわけではありません。
気付いたら出来ていたのです。
そもそも練習嫌いな傾向があるので、
地道に練習することはしていないのですが。

このような状況では、音楽の道しか考えることは出来ず、
大阪に戻るとすぐに、作曲家だった祖母の姉の夫に、
作曲を習うことにしました。
それと同時に、オペラとの本格的な出会いがあり、
今に至る道筋が出来上がっていくのですが、
次回はそれについてお話し致しましょう。

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