キッチン再考

8月 12th, 2008

昨年から年に数回のペースで通っているドイツの手織り学校で私が始めて織ったのは食器用の布巾でした。織り方を変え、横糸の色を変え、気づけばまったく表情の違う布巾が4枚、今でも私のお気に入りキッチン用品です。

「布巾をプレゼントすると、なぜかみんなすごく喜んでくれるのよ」
と言ったのは、ドイツの手織り学校の先生アンドレア。

ドイツでもスイスでも、布巾は好んで織られます。
日本でなじみのあるものと違い、大きさも横50センチ縦70センチと随分と大きいものです。
色とりどりの布巾がオーブンの手すりなどにかかっていると、モノトーンのキッチンがパッと明るくなります。

布巾にも用途があることを知ったのもその時です。
コットン100%またはコットンリネンの糸で織ったものは普段使いの食器用。
そして、最高級のリネンで織ったものはワイングラスなどの傷つきやすい食器用。
麻の布なんていうと、ジャガイモ用の袋みたいにゴワゴワしているのではないかと思うかもしれませんが、最高級の麻布はテロンとしてツヤツヤしています。

春先に訪れた展覧会でも、リネンの布巾は立派な作品として堂々と飾られていました。
織り手がデザインを工夫し丹精こめて織り上げた布巾は、思わず手にとりたくなるほどの美しさを放っていました。

食器や用具にこだわりを持っている人はいても、布巾に凝る人はあまりいなのではないかと思います。
私も自分で布巾を織るまでは、布巾なんて安く買えるものをわざわざ織らなくてもいいのに、と思っていたくらいですから。でも、自分で織った布巾の使い心地の良さや、使っていて心に添う感じがなんとも心地よく、もう大量生産の布巾は買いたくないと思うくらいです。

でも、普通の金銭感覚で考えたら手織りの布巾はとっても高い。
スイスで手織りのものを買おうとすると、1枚3千円から高いものでは6千円ぐらいするのです。
ドイツではもうちょっと安いですが、それでも千円以上はするはずです。
たかが布巾にここまでお金をかけなくてもと思うのも、もっともです。スーパーにいけば、1枚500円ぐらいで買えるのですから。その上、布巾は消耗品です。

それでも、もし気に入った布巾があったら、ちょっと勇気を出して自分のものにしてみて下さい。
きっとそれまでにない発見に心が躍るはずです。

「手織りの布巾は、スーパーやインテリアショップで売っているものよりもちろん高いわ。
でも、安さよりも質にこだわる人たちは手織りの布巾を喜んで買ってくれるわよ。
でも困っちゃうのは、手織りの布巾はすごく丈夫で長持ちするから、すぐ新しいものを買ってくれないのよ(笑)」
手織り一筋のアンドレが言うほど、長持ちする手織りの布巾。

たとえ値の張る消耗品でも、愛着を持って長く使えるものが日常の中にあるというのは、それだけでも豊かな気持ちになるものです。

叡智の50

7月 30th, 2008

北京オリンピックのスタジアム「鳥の巣」を手掛けたスイス人建築家ヘルツォーク&ド・ムーロン。
中国ではこの鳥の巣が毛沢東に代わって10元札の図柄になったというから、彼らの貢献度は計り知れない。

つい先月、この2人のうちの1人、ヘルツォーク氏のインタビューに同席しました。
建築には縁のない生活を送るわたしですが、アートという点では建築もやっぱり興味深い。事前にドキュメンタリー映画『鳥の巣』を観たり、建築雑誌を読んだりと、にわか知識を詰め込めるだけ詰め込みます。

でも、スクリーンで話す様子を見たり、雑誌に載っている写真を見ても、そこに実感は生まれません。
直接会って初めて、その人のまとう空気から無言のメッセージを感じ取ることができるのですから。

そして、当日。
わたしの記憶に今でもはっきりと残るのは、ヘルツォーク氏の眼。
己の信じるものを貫こうとする意志の強さを感じさせる、鋭い眼光。

「50にして天命を知る」
と言ったのはかの孔子。

58歳のヘルツォーク氏にも「天命」を知る瞬間があったのかもしれない。
そんな風に思わせるだけの迫力を彼の眼は持っていました。

ところで、染織をしていると嫌でも 「間違った選択をしたかな」と思う時があります。
大きな織り機で貴重な1部屋を陣取ってまで、この前近代的な営みをする意味はあるのかしら・・・・と。
その上、糸の染色まで自分でしようと思うと、本当に手間しかかからない。

現に、手工芸の醍醐味を理解しない人たちからは
「あんな大きなものを家に置いて・・・・」
と白い目で見られているようで、たまに肩身の狭い思いもするのです。

そんな時にふと思い出すのがあの「孔子の50」。
くじけそうになると、50歳までは思い込みでもいいから続けてみようじゃないかと、自分を励ますのです。

そして、ヘルツォーク氏と会った今、彼の歳になった時にわたしはどんな眼をしているのだろうと、ちょっぴり楽しみでもあるのです。

好きなのに・・・・

6月 30th, 2008

sokubaku

糸のかかっていない織り機を前にして、
次に何を織ろうかなと考えている時ってとても自由で幸せな時間。

今織っているのは自宅にかけようと思っているカーテンの生地です。
柄や色をあれこれ考えている時は、夜も眠れないくらいわくわくして、頭の中には風に揺れるカーテンの様子まで浮かんでしまうほど。何パターンもあった候補から1つに絞り、「よし、今回はこれに挑戦!」なんて勢いよく準備に取り掛かったのです。

これから起こる数々の惨劇を知る由もなく・・・・。

今回は1000本近い糸をたて糸に使うので、織り機にかけるのにも時間がかかります。
ようやく準備が終わって、いつものようにちょっとドキドキしながら織り始めました。
そして、気づいてしまった大ミス。
狙ったところでたて糸が浮き出てこない・・・・。
呆然とする私に与えられた選択は、そのままムシして織り続けるか、最初からたて糸をかけ直すか。
駄作を残すのはやめようと心を鬼にして、再びたて糸を通す作業に入ります。

どうやら今度はうまくいったようで、満足の結果。
「ああ、これで家にカーテンをかけられる~」
とほっとして織っていると、
今度はあちこちでたて糸が切れ始める・・・・。
1、2本ならあまり心配しないのですが、何箇所も切れるということは織り方に問題があるということ。
最初は布の右端に負担がかかりすぎて切れたことがわかり、注意しながら修正していくと、今度は左端が切れる。それも切れ方が尋常でないのです。

もうこのまま織り続けることは無理と判断。
今まで織った数十センチを泣く泣く切り落とし、再びゼロからの出発。
この布、無事に織り上がるのかしら、とちょっと不安です。

今の私には家に置かれた大きな織り機から脅迫の声が聞こえてくるようです。
「早くちゃんと織ってくれ~。このヘタクソ~」

普段はもっと時間を作って染織に束縛されたいと、思っているはずなのに、
思い通りに行かないことが続くと、
「ああもう、なんでそんなに苦しめるの!」と嫌になってしまう。

そんな自分の器の小ささにため息をついてばかりです。

遠く・・・

6月 9th, 2008

ノートに「初恋」と書いてみる。
初々しくて、瑞々しくて、なんだかこの字が好きになる。

いろいろな恋をしながら人は年を重ねるけれど、私の最初の恋ってなんだろう。人?物?それとも・・・?そんな風に思い出の中を彷徨うだけで、なんだか幸せな気分になる。たとえ一瞬のことでも、心がスッと動いてピタッとその対象に重なってしまう、不可抗力ともいえるあの不思議な感覚。

「好きで好きでたまならい」そんな恋もあれば、「恋しくて恋しくてたまらない」そんな恋もある。

「恋しい」と、そっとささやいてみる。
どこからか平安貴族のお姫様のつくため息が聞こえてくるような、そんな優雅な切なさを「恋しい」は持っている。もう2度と会えないかもしれない人を、そして、もう2度と会えない人を、心だけはどこまでも追いかけていく。そんな生死を越えて存在しているのが「恋しい」なのかなとすら、思ってしまう。

一緒に大きくなった同じ年の従兄弟が、14歳の誕生日を待たずに死んでしまった時、全身を突き抜けた悲しみの後に私を満たしたのが永遠の恋しさでした。

誰もが思い描くような、無邪気に誰かを好きなった初々しくて瑞々しい初恋もあったけれど、初めて誰かを思い焦がれた日々を、今日の私は初恋と呼んでみたいのです。

ビビビッの法則

5月 23rd, 2008

暮らしの中にある自分だけの「ビビビッ」の感覚。

いつも歩いている道だけど、あの日見た夕焼けに・・・〈ビビビッ〉・・・「嗚呼、きれい」。
初対面の人に・・・〈ビビビッ〉・・・「なんだか好きになれそう」。
バスの座席にちょこんと座る小さな女の子に・・・〈ビビビッ〉・・・「ふふふ、かわいいなあ」。

そう、「ビビビッ」を簡単に言ってしまえば、「好き」ということ。
近頃、私の「ビビビッ回線」は絵本に出会うとよくつながります。

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Heinz Janisch & Selda M. Soganci, “Schenk mir Flügel” (Residenz Verlag)

どんなことでも「表現」をするには、五感を伝わって自分の中に入ってくる「インプット」が必要。
アートと呼ばれる分野に限らず、普段しているおしゃべりやお料理だって立派な表現です。
おしゃべりやお料理を通して、その人が表現されていることに違いはないのですから。

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Harriet Grunewald & Selda M. Soganci, “Frau Machova wartet auf den Postmann” (Peter Hammer Verlag)

どんなインプットがあるかで、表現も変わるし、たとえ同じインプットでも、人が違えば表現内容や表現方法も違ってきます。

私の中に入った絵本は、もしかしたら染織の作品の中で表現されるかもしれない。でも、それははっきりとはわからないですね。なぜって、ひとつの表現にインプットはひとつと決まっていないのですから。

いろいろなインプットがあってこそ、何かを、つまりは自分を、表現できるのだと私は思います。
自分に「ビビビッ」とくるインプットは、いつか自分から誰かに向かって発せられる「ビビビッ」になるはず。そんな「ビビビッ」がやって来たら、忙しい手をちょっと休めて心ゆくまで楽しみたいものです。

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ところで、本屋さんには素晴らしい絵本がいっぱい。幸せな気分になります。
そんな幸せを独り占めにしたくないなあ、と思って翻訳を始めた私です。
翻訳というと、すでに完成された原本があるので「表現」と思わないかもしれませんが、訳者がどんな言葉を選ぶかというプロセスはやっぱりその人の表現です。私の言葉に変換された「私のビビビッ」が、日本の出版社さんに伝わるといいなあと思うのです。

魔法

5月 14th, 2008

aloe

「悲しいことやいやなことがあった時はキッチンに行ってケーキを焼くのよ。
気分が落ち着くの」
と言ったのは、あるドイツのご婦人。

ケーキを焼くなんて、普段からお菓子作りをするヨーロッパ人らしい発想だなあと思うのですが、甘い香りで家中が満たされると、それまでざわついていた心も自然と落ち着いてしまうのかもしれません。

心にぽっかり穴が開いて、でも何かをせずにはいられない。そんな時、きっとだれもが自分だけの魔法を持っているはず。植木の手入れをしてると心がやすまるとか、バビュンと車をとばすと気が晴れるとか、不思議とその人にだけ良く効く魔法です。

生と病と死が1度に私の身近で起きて、それまでの自分が大きく揺さぶられ、現実だと信じていたものは無遠慮に消えてしまいました。放心状態という言葉が適切なのか分からないけれど、すべてが遠くて現実感を失って見える。そんな時、吸い寄せられるように機(はた)の前に行き、織り始めた自分がいました。1本1本よこ糸を入れ、織り上がっていく布の色合いを見ていると、それまでばらばらだった自分の中の感情や思考がなんだか1つになっていくようです。まるで自分の中にも機があって、手を離せばばらばらになってしまうたて糸によこ糸を入れているような感覚です。

でも、悲しいからといって悲しい色の布が織り上がるとはかぎらないのです。その時私が織った布は、太陽を思わせる黄色とオレンジと白の糸からできました。もしかしたら無意識に再生や力を願っていたのかもしれません。織り上がった布に触れると、なんだか力が湧いてくるようなのですから。何かに没頭して作り上げるというのは、自分の中にあるものを投影するということなのかもしれませんね。そして、その投影されたものがまた自分に返ってくる。

魔法というと、ちょっと軽い響きになってしまうけれど、自分の足元がぐらついてあぶない時、手元に残されたものを見てみると、その中に自分だけの豊かさが見つかるのかもしれません。

十人十色、わたし色

4月 7th, 2008

Meilen手織り展02

チューリヒ湖湖畔の町マイレン(Meilen)で開かれた展覧会「Textil 13 - weiss +」へ。

マイレンは小さな町ですが、旧市街地などは、耳をすませばトントンと機(はた)の音が聞こえてきそうな風情があります。もちろん、手織りの工房などはないのですが、落ち着いた町の雰囲気と湖を臨む美しい景色が想像力を掻き立てる。そんな町なのです。

今回の展覧会では、”weiss(白)” をテーマに13名の女性たちが作品を披露します。
以前このグループの勉強会に参加したこともあり、「ああ、あの人はこういうものを織る人なのかあ」なんて思いながら作品を見て回るのも楽しいものですね。

「白」という1つの単語から、自分だったらどんな世界を描くだろう。
13人いれば、13通りの解釈があり表現方法があります。テーマがシンプルであればあるほど、その言葉の向こうにある世界は広がりを持ってくるような気さえします。

技術を磨くことだけに心を奪われるのではなくて、「何を表現したいのか」をいつでも自分に問いかけていたい。そんな心持ちにさせられるマイレンの展覧会なのでした。

染織事始め

3月 3rd, 2008

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手織りに出会い、自然染色の世界を知った頃、たてよこに重なり合った糸から色が生まれ、匂い立つような色が奏でる音を知りました。

その時、もし自分に表現手段があるのなら、これであってほしい。
そんな風に思った気がします。

そして、なによりも、染織の魅力はどこに行ってもあるということ。
初めて手織りに出会ったアメリカには、ネイティブアメリカンの伝統が、生まれ故郷の日本には、地域色豊かな染織文化が、そして、現在住むスイスにも、女性たちに支えられ生き続ける手織り文化があります。
染織を通していろいろな国を見るというのは、ひと味違った世界地図を眺めるようで心が躍ります。

まだまだ未熟な見習いの身ですが、そんな心躍る色の世界、手仕事の世界をお届けできればいいなあと思っています。

この忙しい合理主義の世の中で、手仕事はその対極にあるのかもしれません。でも、手仕事だからこそ宿る豊かさに、大切な何かはあるのかもしれません。

※写真は、日本の先生からいただいたクチナシ染めのシルクショール