金銭感覚からの離脱もしくは『薬指の標本』小川洋子のこと

1,あらすじ——————————-
海辺のサイダー工場で働いていた「私」は事故で薬指を失って仕事を辞め、街にさまよい出て「標本室」にたどり着く。
そこは弟子丸という標本技術者が一人で運営しており、思い出を封じ込めたいというさまざまな顧客の「標本」作成依頼を受け付ける所だった。
事務員として就職した彼女はしだいにその仕事に馴染んでいく。
1年後、経営者兼技術者の弟子丸氏にプレゼントされた靴を履いてから、「私」は次第にその靴に(そして弟子丸氏に)拘束されていく自分を感じる。
そんなある日、火傷の後を標本にしてほしいという少女が、弟子丸氏と一緒に標本技術室に入ったきり出てこないことに不審を抱くようになる……。
一見すると人間まで標本にしてしまう弟子丸氏の毒牙にかかった女性たちを描く静かなホラー小説とも見え、他方、比喩の内実が説明されていないないまま「靴」が次第に彼女を「侵食」していく様子は、安部公房ばりの不条理小説のようでもある。
ある意味では、失われた細部の反転形として自己を規定し、そのことによって「精神」のバランスを取ろうとする「縮減された」「負」の自己実現の物語、とさえ読めるかもしれない。
2,標本化の意味と金銭感覚——————
しかしここではまず、作品内の「標本化」の意味と「金銭感覚」を確かめておきたい。
ここでの標本化とは、痛かったことや悲しかったことに係わるモノや出来事をパッケージして封じ込め、自分自身をそれと切り離し、依頼者を解放するための手続きである。
「形式はシンプルなんですよ。まず、標本にしてもらいたい品物を持って、来訪者が現れます。あなたは必要な手続きをしたうえでそれを受け取り、僕は標本を作製します。そして、それぞれの標本に見合ったお金を受け取ります」(P18)
とあるように、弟子丸氏の標本を作成する行為は、猟奇的な「コレクション」というよりは、痛みや悲しみを隔離する「技術」という側面が大きい。
支払われる代金も「だいたいレストランのフルコースのフランス料理一人分」(P28)であり、それはその標本そのもの「価値」ではなく、技術料というべきだ。
彼女の給料も決して悪くはないが「その工場の二割増し」(P18)に過ぎない。満足できる普通の静かな生活を保障するのに必要十分な金額、という意味では、ささやかなバランスのとれた「金銭感覚」といえる。
標本化の特徴は、静止と貯蔵だ。ここでは展示はむしろ重要ではない。標本を依頼した人々は、むしろ「標本化」によってその対象物や事件をパッケージし、そこから自由になろうとしているといっていいだろう。
けれどもこれだけなら後半の「反転」は成立しない。
キノコを最初に標本化してもらった少女が、次に自分自身の火傷の傷を標本にしてもらおうとして標本技術室に消えていったエピソードは、喪失を「キノコ」の標本として部分化することで一端は切り抜けたかに見える少女が、今度は自分自身の傷そのものを標本化せずにはいられなくなっていったある種の「亢進」がみて取れる。
ここでは、標本化の行為が、依頼者の喪失の部分化・分離化という機能に止まらず、その人間の主体そのものを「部分化」することによって保つといういささか倒錯した機能を持ち始めている。
それに対して、主人公「私」は最初から依頼者として存在していたわけではなかった。
「私」が「依頼者」ならぬ「依頼品」となっていくのは、上述の少女のエピソードに加えて、弟子丸氏から贈与された靴による身体の「モノ」化という「侵食」が必要だったのである。
「こんな高価な靴を、どうしてわたしに?」(P33)
「僕の選んだ靴を、君にはいてもらいたいんだ。」
そのとき、街に出てくる前に「私」が履いていた靴は弟子丸氏によって、「安物」として握りつぶされていく。
「安物」と「高価」の対比が出てくるのは靴が贈与される一カ所のみである。
それは値段の差というより、どこにでも「流通」しているサンダルと、「流通」を止める「特別な靴」の違いを示しているというべきだろう。
3,流通を拒むことは倒錯か—————-
それにしても、本来身体のごく小さな部分の「欠如」にすぎない「失われた薬指」が、その残存する残り全体(彼女自身)を「標本」とまでしていってしまう倒錯は、なぜこの作品において進行しなければならないのだろうか。
それは決して弟子丸氏の「倒錯」性「猟奇」性に還元出来る底のものではあるまい。
「私」はあるとき、靴磨き職人にその「靴」は危険だ、あなた自身を侵食していくよ、と忠告を受けるにもかかわらず最終的にその「侵食」を受け入れ、「失われた薬指」そのものの標本として自分自身を登録し、自らの手で標本技術室の扉を開けていくのだから。
4,縮減し、消失する自己—————-
第0段階
「私」は薬指を事故で失うが、サイダーの中に広がって流通していく「薬指」のイメージに耐えられず、街の迷路に迷い込む。
第1段階
失われたモノやココロたちに耐えられない人々は、悲しみや痛みといった「喪失」の感情を限定・分離するため、「標本化」によってパッケージングしていこうとする。
第2段階
部分的なモノの標本化でとどまれない少女は、自らの傷それ自体を標本化することを選ぶ。
第3段階
かつて工員だったころ自ら購った安物のサンダルから、贈与された(その贈与によって弟子丸氏は「私」の恋人になる。その逆ではないことに注意)高価な靴に履き替えることによって、「私」は弟子丸氏に、そしてその靴に支配され、しだいに身体の「自由」を失っていく。
第4段階
贈与された特別な靴によって「モノ」化していく危険を靴みがきの職人から指摘されるが、「私」は自ら「喪失」した「薬指」(=部分)に対して、そのちっぽけな「喪失」を指し示す失われた薬指以外の全体、すなわち自分自身を(弟子丸氏による視線の対象としての)「標本」そのものになすことによって、静謐と満足を得ようとしていく。
ここには、流れ出ていく無限定な「悲しみ」や「痛み」のイメージから離れて、「標本」へと自己を「縮減」してでも「静か」さを得ようとする「欲望」が、ほとんど「結晶」のように透明な形で結実している。
さきほど「自らの手で」と書いたが、それは「自らの自由な意志で」ということとは違う。自由意志を持たない「モノ」と化することによって、彼女は敢えて流通するイメージから身を引き離そうとしているかのようなのだ。
「金銭感覚」ということでいえば、この作品はあきらかに「プライスレス」なものを指し示そうとしている。だが、それにしてもなんとぎりぎりまで「縮減」されたリミットの表現であることか。
それは、一見すると世界からリタイアし、「出家」もしくは「引きこもり」のようにも思える。
だが私たちはこの作家が10年後、80分という限られた記憶の中に生きる「博士」と主人公親子の美しい「物語」を描くことになるのをよく知っている。
それらは小さい場所に限定することによって、「流通」し「変転」していくさまざまなものから何かを懸命に守ろうとする姿勢の強度という点で、優れて時代的な身振りとして響き合っているのではないだろうか。
その守るべき「何か」は必ずしも「自己」ではなく、むしろ「消失」の方かもしれないのだけれど。