2009.01.01

国語教師の私的=詩的本棚、再開です。

JunkStage の読者のみなさん、そしてスタッフのみなさん
明けましておめでとうございます

すっかりご無沙汰しておりました。
なんと8月末から4ヶ月も休載してしまいました……面目ない……。

ようやく体勢を立て直して2009年の1月からJunkStageの更新を再開します。

そういえばこのサイトのキャッチコピーは
「二度目の〈読み〉のすすめ (国語教師・foxydog)」(注)
でした。

急ぎ足で情報を収集し、時代に即応した反応を返していくばかりではなく、中間的な場所にひとときたたずむことで加速度ならぬ遅速度に身をゆだね、結論を急がずにじっくりと「スローリーディング」を楽しむ空間にしていけたら、と考えています。

一度読み流すだけでは決して読み終われないことが、テキストの奥底には地下水のように湛えられているはずです。
そんな豊かな水脈に出会うとき、作品自体は現代のものでありながら、いつのまにか古典の香りを漂わせ始めるかもしれません。
そんな体験を少しでもみなさんと共有できれば。

ともあれ今年もよろしくおねがいします。

2009年1月1日 foxydog

注:昨年の第1回JunkStage公演パンフレット原稿に寄せた原稿です————————————————–

二度目の〈読み〉のすすめ(国語教師・foxydog)

境界線上の近傍に立ち現れる幽霊のようなもの。それらのうち、人間に近い形をしていながら人間ではないもの。〈読み〉とは、そのようなものを見極めていく作業ではないだろうか。

わたしの考える〈読書〉のポイントは、欠如した対概念の片方を多重に妄想することで幽霊的なものを中間領域に招き寄せ、人間的な物語を虚構の強度の問題として読み直すことにある。

私たちの持っている概念の多くは対として用いられる。子供/大人、男/女、自己/他者、個/社会などなど。しかしその境界線は予め引かれているわけではなく、その〈概念〉がイメージされた瞬間に立ち現れる虚構の境界線によって支えられているに過ぎない。

たとえば漱石。人間世界に「猫」をぽんと投げ入れた彼は同時期、四国の地方都市の中に「江戸っ子」の「おれ」をパラシュート降下させた。それら人間世界の「機微」を知らない「無知」・「無鉄砲」な存在を、人間と猫、地方と江戸の間の境界線近傍に立たせることで、その「ズレ」の感触が逆にそこにある二分法の虚構性をおかしみとともに示していくことになった。

もし、子供が大人になり離れたものが出会い出会ったものが別れ強大なものが滅び卑小なものが成功する……という反復と逆説が物語の基本であるとするなら、そこに存在する境界線とその乗り越えを自明のものと見るのではなく、むしろその境界線の近傍=中間領域に降り立ち、ことばの身振りたちを今一度じっくりと読み直していきたい。切り分けられることで不可視の領域に追いやられた幽霊たちの声に耳を澄ませ、その見えない身体に向けて瞳を凝らすために。

そんな暇はない、と聡明な読者には叱られそうだがJunkStageでは、敢えて二度目の読みを、ただそれだけを提供しつづけたいと考えている。
————————————–

2008.08.24

『赤めだか』<不可思議な師弟愛>

評判の高い自伝的エッセイ『赤めだか』(立川談春著、扶桑社刊)を、ようやく夏休みの終わりに読みました。

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この夏読んだ中ではいちばんぐいぐいと引き込まれた傑作青春エッセイです。
一人の若者が天才落語家に入門して真打ちになるまでの半生記、ですが、とにかく面白い。

筆者の文章の切れ味が抜群で、面白い「話」のツボをつぎつぎに押してくるのが爽快。ページをめくる手を止められない本に久しぶりに出会った気がします。
一度に一つの道しか歩けない青春の「もどかしさ」「やるせなさ」「ばかばかしさ」、そしてそれらを飲み込む「情念」や「純粋さ」「理不尽なまでの思い」が、読む者に日頃忘れている心の揺らぎを思い起こさせてくれます。

また、私自身が落語好きでもあり、素材として落語家が入門から真打ちにまでなる過程にとても興味があったことも重なって、本当に「巻、措く能わざる」の感がありました。

さらに落語家の青春のみではなく、師匠があの「立川談志」だということも大きいでしょう。
このツボは、ある程度年配の落語ファンの方がより楽しめ るかもしれませんね。でも、とにかく立川談志というひとは「天才」だということが分かっていればお話として楽しめるので問題ありません。

そしてこれはまた、間違いなく「愛」の物語でもあります。
読んでいるこちらがヒリヒリしてくるような師弟愛。
それは師匠に惚れ込んだ「弟子」という存在の中に渦巻くえもいわれぬ不可思議な情動です。

それに加えて、この『赤めだか』の書評をネットで参照していたところ、

浜 美雪 (はまみゆき)という書評者

 

の文章に出会えたのも、意外な収穫でした。よろしかったら併せて一読を。

2008.08.23

金銭感覚からの離脱

金銭感覚からの離脱もしくは『薬指の標本』小川洋子のこと

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1,あらすじ——————————-

海辺のサイダー工場で働いていた「私」は事故で薬指を失って仕事を辞め、街にさまよい出て「標本室」にたどり着く。
そこは弟子丸という標本技術者が一人で運営しており、思い出を封じ込めたいというさまざまな顧客の「標本」作成依頼を受け付ける所だった。
事務員として就職した彼女はしだいにその仕事に馴染んでいく。
1年後、経営者兼技術者の弟子丸氏にプレゼントされた靴を履いてから、「私」は次第にその靴に(そして弟子丸氏に)拘束されていく自分を感じる。
そんなある日、火傷の後を標本にしてほしいという少女が、弟子丸氏と一緒に標本技術室に入ったきり出てこないことに不審を抱くようになる……。

一見すると人間まで標本にしてしまう弟子丸氏の毒牙にかかった女性たちを描く静かなホラー小説とも見え、他方、比喩の内実が説明されていないないまま「靴」が次第に彼女を「侵食」していく様子は、安部公房ばりの不条理小説のようでもある。

ある意味では、失われた細部の反転形として自己を規定し、そのことによって「精神」のバランスを取ろうとする「縮減された」「負」の自己実現の物語、とさえ読めるかもしれない。

2,標本化の意味と金銭感覚——————

しかしここではまず、作品内の「標本化」の意味と「金銭感覚」を確かめておきたい。

ここでの標本化とは、痛かったことや悲しかったことに係わるモノや出来事をパッケージして封じ込め、自分自身をそれと切り離し、依頼者を解放するための手続きである。

「形式はシンプルなんですよ。まず、標本にしてもらいたい品物を持って、来訪者が現れます。あなたは必要な手続きをしたうえでそれを受け取り、僕は標本を作製します。そして、それぞれの標本に見合ったお金を受け取ります」(P18)
とあるように、弟子丸氏の標本を作成する行為は、猟奇的な「コレクション」というよりは、痛みや悲しみを隔離する「技術」という側面が大きい。
支払われる代金も「だいたいレストランのフルコースのフランス料理一人分」(P28)であり、それはその標本そのもの「価値」ではなく、技術料というべきだ。

彼女の給料も決して悪くはないが「その工場の二割増し」(P18)に過ぎない。満足できる普通の静かな生活を保障するのに必要十分な金額、という意味では、ささやかなバランスのとれた「金銭感覚」といえる。

標本化の特徴は、静止と貯蔵だ。ここでは展示はむしろ重要ではない。標本を依頼した人々は、むしろ「標本化」によってその対象物や事件をパッケージし、そこから自由になろうとしているといっていいだろう。

けれどもこれだけなら後半の「反転」は成立しない。

キノコを最初に標本化してもらった少女が、次に自分自身の火傷の傷を標本にしてもらおうとして標本技術室に消えていったエピソードは、喪失を「キノコ」の標本として部分化することで一端は切り抜けたかに見える少女が、今度は自分自身の傷そのものを標本化せずにはいられなくなっていったある種の「亢進」がみて取れる。

ここでは、標本化の行為が、依頼者の喪失の部分化・分離化という機能に止まらず、その人間の主体そのものを「部分化」することによって保つといういささか倒錯した機能を持ち始めている。

それに対して、主人公「私」は最初から依頼者として存在していたわけではなかった。

「私」が「依頼者」ならぬ「依頼品」となっていくのは、上述の少女のエピソードに加えて、弟子丸氏から贈与された靴による身体の「モノ」化という「侵食」が必要だったのである。

「こんな高価な靴を、どうしてわたしに?」(P33)
「僕の選んだ靴を、君にはいてもらいたいんだ。」
そのとき、街に出てくる前に「私」が履いていた靴は弟子丸氏によって、「安物」として握りつぶされていく。
「安物」と「高価」の対比が出てくるのは靴が贈与される一カ所のみである。
それは値段の差というより、どこにでも「流通」しているサンダルと、「流通」を止める「特別な靴」の違いを示しているというべきだろう。

3,流通を拒むことは倒錯か—————-

それにしても、本来身体のごく小さな部分の「欠如」にすぎない「失われた薬指」が、その残存する残り全体(彼女自身)を「標本」とまでしていってしまう倒錯は、なぜこの作品において進行しなければならないのだろうか。

それは決して弟子丸氏の「倒錯」性「猟奇」性に還元出来る底のものではあるまい。

「私」はあるとき、靴磨き職人にその「靴」は危険だ、あなた自身を侵食していくよ、と忠告を受けるにもかかわらず最終的にその「侵食」を受け入れ、「失われた薬指」そのものの標本として自分自身を登録し、自らの手で標本技術室の扉を開けていくのだから。

4,縮減し、消失する自己—————-

第0段階
「私」は薬指を事故で失うが、サイダーの中に広がって流通していく「薬指」のイメージに耐えられず、街の迷路に迷い込む。

第1段階
失われたモノやココロたちに耐えられない人々は、悲しみや痛みといった「喪失」の感情を限定・分離するため、「標本化」によってパッケージングしていこうとする。

第2段階
部分的なモノの標本化でとどまれない少女は、自らの傷それ自体を標本化することを選ぶ。

第3段階
かつて工員だったころ自ら購った安物のサンダルから、贈与された(その贈与によって弟子丸氏は「私」の恋人になる。その逆ではないことに注意)高価な靴に履き替えることによって、「私」は弟子丸氏に、そしてその靴に支配され、しだいに身体の「自由」を失っていく。

第4段階
贈与された特別な靴によって「モノ」化していく危険を靴みがきの職人から指摘されるが、「私」は自ら「喪失」した「薬指」(=部分)に対して、そのちっぽけな「喪失」を指し示す失われた薬指以外の全体、すなわち自分自身を(弟子丸氏による視線の対象としての)「標本」そのものになすことによって、静謐と満足を得ようとしていく。

ここには、流れ出ていく無限定な「悲しみ」や「痛み」のイメージから離れて、「標本」へと自己を「縮減」してでも「静か」さを得ようとする「欲望」が、ほとんど「結晶」のように透明な形で結実している。

さきほど「自らの手で」と書いたが、それは「自らの自由な意志で」ということとは違う。自由意志を持たない「モノ」と化することによって、彼女は敢えて流通するイメージから身を引き離そうとしているかのようなのだ。

「金銭感覚」ということでいえば、この作品はあきらかに「プライスレス」なものを指し示そうとしている。だが、それにしてもなんとぎりぎりまで「縮減」されたリミットの表現であることか。

それは、一見すると世界からリタイアし、「出家」もしくは「引きこもり」のようにも思える。

だが私たちはこの作家が10年後、80分という限られた記憶の中に生きる「博士」と主人公親子の美しい「物語」を描くことになるのをよく知っている。

それらは小さい場所に限定することによって、「流通」し「変転」していくさまざまなものから何かを懸命に守ろうとする姿勢の強度という点で、優れて時代的な身振りとして響き合っているのではないだろうか。
その守るべき「何か」は必ずしも「自己」ではなく、むしろ「消失」の方かもしれないのだけれど。

2008.08.01

森絵都『ラン』では読めないこと

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森絵都『ラン』理論社刊を読んだ。
この作者らしいアイディアがいたるところに見えて、楽しく読了することができた。
『カラフル』から十年、と腰巻きコピーにある。十年前に中学生ぐらいだった、二十代前半の、一人の「不幸な」女性が主人公だ。そういう意味で言うと、十年は単に作者の歴史というばかりではなく、作品の中の時の積み重ね、でもあるだろうか。

このお話は、大きく二つの部分に分かれている。一つは、死んでしまった人たちが、この世に未練を残している限りに置いて留まる場所、天国の手前の第一ステージについてのお話。これは生/死というデジタルな二分法を拒んだ中間領域の設定として、とても現代的な、私たちに馴染みやすい世界像だろう。
もう少ししたらこの書評で紹介する予定の『蕨野行』(村田喜代子著 文春文庫刊)のワラビ野もそうだけれど、現代においては、単純に「死」から「生」を定義づけることに私たちはそろそろ疲労感を覚え始めているのではないか。

「中間領域」がやせ細ってしまっていることに、人は不安を覚えているのではないか……。

閑話休題(それはさておき)、『ラン』のもう一つの物語は、ひょんなことから誘われたマラソンチームのお話。
『カラフル』では一端死んだ主人公自身の「生き直し」がつまり人生の「読み直し」になっていた構造を、『ラン』では、ファーストステージ(生と死の中間領域)に住む「幽霊」との交わりにおいて描き直した、といっていいだろう。
作者が自らの世界観を確かめ直し、それを二つめの世界観に手渡すための仕掛け・基盤の描写、と見てもよいかもしれない。

二つめのマラソンチームのお話は題名ににもなっているように、この作品の「核」になる部分である。

「走る」ことはどんな意味があるのか。

もちろん、「ラン」自体に意味などある筈はない。しかし、偶然のようにした集まったマラソンチームのメンバー八人には、それぞれ「走る理由」がある。
そのてんでバラバラな「理由」が、ともに走ることそれ自体を「鏡」にして捉え直され、改めて八人の理由が、バラバラでありながらどこかで深くシンクロしていくのだ。

ある意味では、直前の書評「骨董と小説」において骨董が担っていた「鏡」としての役割を、「ラン」が果たしているといっていいかもしれない。

主人公がその「ラン」に映そうとしているのは、最初は一つめのお話の中心である、死んだ家族と中間領域で出会うこと、つまり過去に向かって走ること、である。生からもっとも遠ざかろうとするその「走る」行為は、「鏡」というより「ブラックホール」に向かうこと、に近いだろうか。

だが、最初は自転車の力を借りて、死んだ家族に出会うために「後ろ向き」に走るに過ぎなかった主人公が、しだいに自分の身体それ自身によって走ろうとしていく。つまり、次第に、生身の彼女の「今」を映しだしていく推移が、二番目の物語のポイント、ということになる。
そして自分の力で走り出すこと、新しいチームや職場の人間関係の中で生き出すことは、「今」を生き直し、未来に向かって生き始めることにも繋がっていく。

安心して読める「物語」として、誰にでも、とくに若い読者に勧められる良本だ。

ただし、「骨董と小説」で少し触れ、これから『蕨野行』(村田喜代子)や『薬指の標本』(小川洋子)において論じようとする「生/死」の対立に限定されない豊かな「中間領域」の感触は、ここでは可能な限り薄められている。

まるで薄められ、忘れられてていくのが中間領域だ、とでもいいたげだ。
さらに言えば、走っている間の描写、走っている瞬間そのものが作品において意外に「希薄」ではないか。

森絵都『ラン』で「読めないこと」が、「走ること」そのもの、だとしたら……。

少なくても私は『つきのふね』で主人公たちが、友人を救おうとして疾走するラスト近くの場面ほどの臨場感を、この『ラン』の「ラン」からは感じることができなかった。

基盤として立っているところがそんなに遠いとは思わないが、これはもう「物語」と「小説」(もちろん『ラン』が物語で『蕨野行』が小説です)というジャンルの違いとして納得するしかないことかもしれない。

さて、書評の更新をさぼっている間にいささか宿題が増えてきたようだ。

あくまでこちら側と向こう側を区切ろうとする身振りによって画定された境界線の近傍に必ず立ち現れる幽霊の姿に瞳を凝らすことで、世界の「読み直し」をしていこう、というこの書評の基本的な姿勢に沿って、『蕨野行』を読み直すことが目下の急務かもしれない。

2008.07.26

骨董と小説(2)

『清談佛佛堂先生』服部真澄著 講談社文庫
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たまたまもう1冊、書画骨董を素材にした小説を読んだのでそれについて。

この作品は、圧倒的な目利きの「佛佛堂先生」が、絵画、骨董、お菓子、料理、陶芸などさまざまな「名品」や「才能」に対して、お節介を焼いて発掘したり守ったり育てたり、適切な価値のあるものを適切な場所に置いて正当に処遇していくさまを、楽しくお洒落に、しかも蘊蓄たっぷりに描いている。

余計なことを考えずに、読んで楽しくて意外性もあり、読後感もさわやか。エンタテインメントとしてお勧めだ。
ただ、今回は「骨董と小説」という点から少しだけ付け加えさせてもらおう。
ここには既に骨董の価値を「絶対的に」知っている「佛佛堂先生」がいる。

だから読者は、前述の二つの小説のように登場人物が試されたり読者が振り回されたりすることを忖度せずに、安心して読むことができる。そういう意味では一見[「名探偵(=見巧者)」の登場する古典的推理ものの造りにも見える。

しかし、もちろんそうではない。
ここで行われているのは、「モノ」それ自体の称揚だ。

気づいても気づかなくても「モノ」はそこにある。

佛佛堂先生は素材の「声」を代弁している。彼が常に見せるそのへんの「おっちゃん」のような「変装」に込められた「含羞」は、「モノ」たちの口寄せをする役割を背負っているだけだ、という立場の表明でもあるだろう。
最初の「八百比丘尼」も主役はあくまで「花」だし(女性はむしろ「美」を男性<=人間>の主体からずらす役割を果たしているとみてよい)、「遠あかり」でも人と人の出会いではなく、本来あるべき骨董と骨董の出会いこそが目的だ。「寝釈迦」も、あくまで自然の素材から「美」の営みが立ち現れるところに焦点が当てられている。

この本に収められた短編がそれぞれ持っている、ミステリ仕立てのどんでん返しや「落ち」には、決して主役を人間の主体に回収させない爽快さが満ち溢れている。

この作品が非常に自由で風通しがよく見えるのは、もちろん作者の趣向(そしてエンタテインメントを書く作者としての力量)に依るところは大きいけれど、決定的なのは、「モノ」の周辺で立ち上がる人間の「主体」こそが陽炎か幻のように描かれている、という点に負うところが大きいのではないか。

価値ある書画骨董それ自体についての豊かで繊細な描写と、その価値を十分に知り尽くした上で、その「モノ」に対して、(神様や天才のようにではなく)端的に欲望する「佛佛堂先生」のあっけらかんとした単純さを対置しているのだ。

むしろそのスタンスこそがこの小説の手柄かもしれない。

2008.07.19

骨董と小説

「骨董と小説」
『狐罠』北森鴻 講談社文庫
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『人が見たら蛙に化(な)れ』村田喜代子 朝日文庫

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知り合いに骨董屋が一人いる。
月に二度ほど地方で立つ市に出向くのだが、田舎の市のことで、お歳暮用品や今ものの小皿揃え、がらくた寸前のものなどが沢山出てくるのだそうだ。お話にあるように盛り上がった競りなんて、そんなにありゃしないよ、と笑う。

しかし、そんな中でも、プロ同士のやりとりはシビアなのだそうだ。

真贋を見誤って「贋物」を掴まされても、声高に相手をなじれば自分の目利きがその程度だと吹聴したも同様だ。黙って授業料と諦めるか、ご同様にそしらぬ顔で売り抜けるか。
その辺りになると、骨董というものは、素人のこちらにはどこか不思議でうさんくさくて魅力的なオーラを感じ出しはじめるようだ。

また、その骨董屋さんが言うには、
「今自分が目利きできるレベルのちょっと上までしか分からない。もし今目利きできる程度が二、三十万のものだとしたら、一足飛びに百万二百万のものは絶対に分からないんだ。少しずつ分かっていくしかないんだよ」
ということだった。

それを聞いていると、骨董の真/贋は、実は「真理」の問題ではなく、むしろ「文化」の問題でもあるのだなあ、と実感されてくる。
科学的な分析などだけで解決出来る底のものではなく、ヒトの歴史・習俗・技術・生活様式、そして欲望が瞳を曇らせることまで含めて、骨董は「文化」の魅力=魔力がまとわりついた不可思議なものなのだろう。

とすれば。

書画骨董の謎ときの中心に据えたり、詐欺ゲームの素材にする小説や映画は少なくないけれど、上のことをちょっと考えただけでも、骨董の真贋は、実は殺人事件ほどには単純に描写できないのではないか、という疑問が起きてくる。

誰が(本格推理)、なぜ(動機)、どうやって(不可能犯罪)、いつ(アリバイ)人を殺したのか、というなら、真/偽を明らかにするお話は何の不思議もなく進行しえる。
しかし、骨董の真/贋は実は誰にも分からない。とくに、読者にとっては、最初から存在もしない虚構の骨董の真/贋など、どうやっても「物語」としてしか受け取れないに決まっている。

読者にとっては、どんなことだって小説の中のことは「物語」であり、だから「嘘」に決まっている、というのは大きな錯覚だ。

普通の推理小説において殺人事件が起きた描写がなされれば、それは起きていると了解してよいだろう。むろん、本当は被害者は死んでおらず、それは犯人をおびき寄せるおとりだった、という筋立てなどはいくらでも可能だ。だがそれはいわゆるどんでん返しとして了解可能な範囲のことに過ぎない。
「実はそうだったんだ」
と読者は瞬間的に了解可能である。

だが、小説に登場した骨董の真/贋はそうはいかない。骨董は基本的に「目利き」がその真/贋を決める。小説の登場人物、つまり虚構の発話主体が語る形でしかその真/贋は明示できない。

想像してみてほしい。

地の文で「この骨董は本物だった」と作者が書いた文章を。おまえはいったい誰だ?ということになってしまうだろう。

作者は中島先生か?

だから、骨董を巡る小説はどんなものであっても、話が進行するにしたがってどこか逸脱していく感じが漂ってくる。面白い小説ほど、その発話主体が奏でる真/贋についてのポリフォニックな言説に忠実になることによって、逆にうさんくささを招き寄せていくことになるのだ。

たとえば北森鴻の『狐罠』(講談社文庫)を見ても良い。
『狐罠』は、主人公である宇佐見陶子という「旗師」(店を持たずに市に参加して骨董を仕入れ、それを顧客に売る仕事師)が、老獪な骨董屋に目利き殺しを掛けられ、わざと偽物を掴まされて評判を落とさせられたことから、プライドを賭けた復讐が始まる……といった大枠の小説であるかのように最初は見える小説だ。
だが、購入した陶器が贋物だと陶子が気づくことから始まったこのお話は、骨董を単なる詐欺の素材として扱ってはいない。だからしだいに物語は、目利きや贋作者の「目利き度」を、登場人物たちが互いにどう目利きするか、という話にスライドしていかなくてはならなくなる。

まるで短編連作のように、章ごとに意外な展開をふんだんに織り込みながら真/贋のレベルが変化していくこのスタイルは、作者の趣向でもあるのだろう。しかし、前半はそのドライブ感がほとんど一級品のレベルにありながら、最後にはなにやら人間の因縁話の落ちがついてしまったかのように見えるのは、作品が「残念」なのではなくて、骨董の話をしながら、骨董の真/贋に踏みとどまるのは意外に難しいからなのではないか。

あるいは村田喜代子の『人がみたら蛙に化れ』を見てもよい。この小説には、はなから骨董の真/贋をミステリ仕立てにしようという意図はない。三組のみすぼらしげな旗師や堀り師(盗掘専門)の男女が、骨董の商売をしながら、より価値のある骨董を求めていく生活の様子が、その場末の骨董師たちの哀感を含めてこの作者らしくリアルに描写されている作品だ。
だが。
やはりこの小説もまた、骨董の真/贋を巡って、男/女という関係が微妙にねじれていく様を描かずにはいられないのだ。

これもまた、村田喜代子はそういう「対」(たとえば男/女)を描くのが彼女の「趣向」だといえば言える。
だが、骨董の真/贋を巡る言説を身にまとった人々は、その骨董への欲望ゆえに、自らの「目利き」の境界線の向こう側へ見えない視線を巡らせ、その結果、たとえば男/女という二分法によって見ていた世界像をいつのまにか逸脱して視覚の失調を招き寄せるかのようなのだ。

作者が骨董を、男/女の比喩として描くのではなく、むし骨董が作者に、骨董それ自身の真/贋の比喩として、(男にとっての)女、(女にとっての)男を描写させていくのだ、といってもいい。

なぜなら、小説において骨董は宿命的に「鏡」であり、「ブラックホール」であるよりほかにないからだ。自らはその真/贋を指し示すことなくそこにひたすら佇み、周囲に「目利き」の主体を立ち上げ、結果としてその主体の「目利き」度を試し、果てはその主体を飲み込んでいく。

結局のところ小説の中に骨董が描かれる、ということは、骨董それ自体は描けない、ということに他ならない。

だから、骨董についての小説を読み始めることは、単なるコン・ゲーム小説(詐欺師小説)の題材として骨董を限定的に描写しているのでない限り、骨董自体の周囲に「目利き」としての主体を立ち上げる作用を抱えずにはいられないし、しかも、その骨董の周囲に立ち上げられた主体は、つねに骨董それ自体から真/贋の判断を「試され」つづけていかざるを得ないだろう。
それは、試される主体を次第に無限の合わせ鏡の回廊にいざなうか、闇の中に招き寄せる。

このとき読者がその試される主体に共感性をもって作品を読んでいたとしたら……。

村田喜代子の描く骨董師の男たちが女性への視線を失調し、北森鴻の描く女性旗師が、骨董に注いでいた視線がいつのまにか逸脱して、男たちを目利きする視線となり、果てはその瞳の機能までも失調していくのは、作品の瑕瑾でも作者の手腕でもなく、骨董を題材としているかぎり、表現の必然として視覚の失調、あるいは境界線の逸脱を招いていくということなのではないか。

いや、たまたま二つの作品だけがそんな相貌を持っているに過ぎない、と人は言うだろうか。
だが、すぐれた作家によって描かれた骨董は、小説の中においてそれを見つめる主体を「試し」続けている。それは同時に、その小説を読む読者の主体を「試す」ことともつながっているし、それはもはや、描かれている骨董が、小説自体を飲み込む可能性さえ示唆しているというべきなのではないだろうか。

さらに小川洋子『薬指の標本』を巡って考えて見よう。(この項続く)

2008.06.15

歴史の「爪あと」

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『宗教VS.国家』工藤庸子 講談社現代新書

この本は、フランスにおける「政教分離」と「市民」意識・規範の誕生について書かれた本である。

サッカーワールドカップにおけるジダンの頭突き、日本で製作された「世界人権宣言」ポスターにカトリックの修道女であるマザー・テレサが映っていることへのフランス人の違和感、イスラム系の女子生徒が教室にスカーフを着用して入ったことから成立した「スカーフ禁止法」などなど身近に見聞するエピソードを交えつつ、フランスにおける政教分離について、具体的な事例に即しながら論じている。

同じように「国家」や「宗教」を扱っていながらも、先日紹介した大澤真幸の『ナショナリズムの由来』とは全く対極的だ。

かたや800頁を超える大長編評論、こちらは本文200頁足らずの新書。またあちらは絶対王政、植民地と宗主国の関係、帝国主義、国民ー国家、ファシズム、そして二十世紀末から二十一世紀にかけてのエスノナショナリズム・原理主義、多文化主義、と広げられるだけ風呂敷を広げて現象を網羅しようとしているのに対し、こちらは十九世紀フランスの政教分離のみに絞って話を展開している。

比較することに大きな意味があるわけではないが、この『宗教VS.国家』という小著のコンパクトな叙述のスタイルは、まことにチャーミングだ、という印象を持った。

ある部分では小説の描写に例を取り、またある面では歴史書の記述を紐解きつつ、カトリックとプロテスタント、王党派と共和派、男性と女性など多層な切り口を提示して、政教分離の中から紆余曲折を経てしだいに「市民」が誕生していこうとするフランスの様子を、生き生きと伝えてくれる。

その中でたとえば、フランスにおいて女性の選挙権が認められたのは、1944年で、実は第二次大戦後にそれが認められた日本とほとんど同時期というちょっと信じられない「遅れた」面があるという話が書かれている。
それは、政教分離によって「男性」が運営するカトリック教会は比較的早い時期に政治の中心から離れていったのに対して、教育や医療を担い続けていたカトリック女性による修道会の存在は非常に大きかったため、女性が選挙権を獲得すると、実質的に政教分離ができなくなってしまうという事情があったからだ、ということを知ると、日本で天皇が人間宣言したのと同じころ、フランスでもようやく政教分離がある意味で実質的になっていったのか、と驚く。

冒頭に挙げた例に戻れば、日本人にとっては、人道的な活動の象徴でもあるマザーテレサと「人権」とは非常に親和的だ。ヒトを大切にする、という意味でマザーテレサの活動と「人権」保護は連続的イメージで受け取ることができる。
しかしフランスにおいては、宗教(特にカトリック教会)の影響を脱するために「政教分離」を進めていく過程で「市民」が誕生していった、という「政治的」文脈がある。
それが理解できて初めて、(宗教からの独立という「市民」の「人権」イメージからすれば)フランス人が、マザーテレサの肖像が世界人権宣言ポスターに使われることに違和感を持つ、という感覚も分かってくるわけだ。

歴史の「爪あと」という表現を用いると、ともすれば戦禍やナショナリズム・革命などの大きな出来事・惨禍を想像しがちだが、実際には微細な現実にまで歴史はその刻印を刻んでいる。

フランス文学研究者である筆者がその豊かな知識・教養をふまえつつ、なおも歴史の「素人」という視点に立って、あくまで具体的で小さな事柄から「宗教」と「国家」関係を解き明かしてくれる本書は、とても素人に優しい。
繰り出される適切な具体例に贅沢さを味わいつつ、いつのまにか歴史の深い刻印が刻まれた事件の現場に誘われていくことに、読者は満足を覚えることだろう。

読んだ後、歴史を身近に感じるようになる、「浅い」誘惑力に満ちた一冊。ぜひ一読を。

2008.06.13

『ナショナリズムの由来』を読む

『ナショナリズムの由来』大澤真幸(講談社)

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筆者が2000枚にも及ぶこの本で求め続けるのは、ほぼたった一つの事柄である。

ナショナリズムは一方では必ず普遍的なもの個人を超えたもの(筆者の用語でいえば「第三の審級」)を求めつつ、同時にあくまで個別的で特殊な、およそ普遍的とは言えない民族とか国家とか原理主義的な立場に固執する。

ナショナリズムが、その一見相反する動きを同時に持つのは一体なぜなのか?

その疑問に対する答えを筆者はこの本で一貫して求め続けているのだ。

資本主義は普遍的なものを求めつつも、それを未だ存在しない未来に投影し、現在をどんどん「ゴミ」化し続けるシステムだ、と指摘した上で、ナショナリズムを駆動させている根本的なエンジンは資本主義だと筆者は言う。
だから、グローバリゼーションが世界を覆い尽くそうとするその普遍主義的な運動のただ中に、「ゴミ」のようにちっぽけな特殊で狭い枠組みにこだわる立場(たとえばエスノナショナリズム)が力を得ていくという一見矛盾する二つの事柄は、別の事象でもなければ、相反する事象でもない……

と、ここまでこの本の内容紹介を書いていたところ、ちょうどasahi.comに秋葉原の無差別殺傷事件を論じた東浩紀氏の原稿が掲載された。

そこで、東氏は一般的にはこの事件をそう呼ぶことには抵抗があるだろうことを承知で敢えて「自爆テロ」と捉えてみせる。そして

「容疑者を英雄視することは許されない。」

と念を押した上で、

「しかし、テロリストを厳正に処罰することと、テロが生み出される背景を無視することは異なる。私たちは彼のような『幼稚なテロリスト』を不可避的に生み出す社会に生きている。犠牲者の冥福のためにも、その意味をこそ真剣に考えねばならない。」

と結論づけていく。

大澤真幸が『ナショナリズムの由来』で追究しているのもまた、間違いなく東氏の指摘するこの「現実」だろう。

資本主義が「国民ー国家」の枠を超え、帝国主義的な植民地ー宗主国の関係からも離陸して、世界中どの国にいても同様にヒトを「搾取」るグローバルなシステムとしてすべてを覆い尽くした時、それがあたかもゴミのような(東氏の指摘する言葉を用いれば「幼稚な」)「自爆テロ」という行為を招き寄せてしまうという逆説。

かつて「進歩的な知識人」にとってナショナリズムは、十分に普遍的な認識を持ち得ない者が抱く迷妄だと捉えられており、その視点から見ればナショナリズムは克服されるべき対象と考えられていた。
しかし、20世紀末になっても、その「幼稚」で「ゴミ」のような、誰が見ても普遍性からはほど遠い特殊な立場に立って行動する「テロ」行為が、むしろ世界を席巻している。

それは、資本主義がより普遍的なものへと進歩した「明日」(=未来)を常に求めつつ、その「普遍化」への志向(とそのことによって現実が不満足であるという不可能性の自覚)が、実際には今生きている「現在」を「ゴミ」として廃棄させる「ズレ」をもたらすからであり、普遍を目指しつつ、永遠に不完全な「今」しか手にすることができない我々は、「普遍」を強く渇望するがゆえに、逆に現在の「特殊」で「ゴミ」のような立場を絶対化すること以外に選択肢がなくなってしまうというわけだ。

筆者はそれが国家レベルで行われたのがファシズムだと分析している。

世界の大きさを自分たちの納得できる自分たちの「民族」や「国家」大きさに「縮減」してしまい、その特殊な立場だけが世界の全部だと主張してそれを本当に実現しようとすれば、身近な内部に排除すべき対象を設定することでどんどん自分たちの世界を「縮減」し、純粋化していくしかない。政治におけるその極端な例がファシズムなのだ、と。
ナチスにとって、ユダヤ人たちは「外部」の無縁な存在ではなく、むしろ自分たちの文化に限りなく近い「他者」だったからこそ、自己の内部にある「他者」として徹底的に排除しなければならない対象となっていったのだというのだ。

(そういえば、私<foxydog>は先日ある研究会で「ハンセン病文学」の発表を聴いたのだが、日本で「ハンセン病」の患者隔離が著しく強化されはじめたのは、昭和16年12月8日からだったという。身近な同胞を「他者」として隔離し、戸籍さえ抹消して「存在しなかった者」にしようとする行為は、当然のことながらナチスだけのものではなかった。)

もしその分析が当たっているとすれば、ヒトは最後には身近な隣人までをも(いや、身近な「他人」だからこそ?)、「他者」として排除していくことだろう。
そこでは、排除すべきはむしろ身近にいる自分と同じような近い存在となる。
それが犯罪として現れた時には、むしろ「非社会的」に見えてしまうに違いない。さらに一歩進めていけば、それは「家族」を排除することにもなり、最終的には自分自身の身体をも「テロ」の対象としていくことになっていくのかもしれない……。

とさまざまなことを考えさせてくれるが、ともあれ大澤真幸のこの本は、ちょうどその序で、資本主義の圏域の中では「ゴミ」だけが「芸術」たり得る、と筆者自身述べているように、現代が抱える現実の諸相を、圧倒的なまでに大量な「ゴミ」として拾い集めてくれている。

橋爪大三郎氏が週刊読書人の書評で、引用や例が筆者の論旨によりそって切り取られ過ぎているのでは、といった指摘をしていたが、そういう印象は確かにある。

このテキストには、読み解きにくい論理は一行も含まれていない。
正直なところ、目を見張るような新しい知見も見あたらない。
むしろ、必ず読み得てしまう限界(ある種の「縮減」された普遍性)をふまえた上で、徹底的に秩序立てられるものを論理によって語り尽くすしつつ、それらを過剰に収集していくことによって、語り得ない「外部」に触れる手だての予感をこの本の厚みで示そうとしているかのようである。

もちろんこの道筋を付けてくれた筆者の営為には敬意を抱く。

しかしながら私たちは、大澤真幸の主張を読むためではなく、むしろ、その主張の道筋の道ばたに転がされている数え切れないほどの「ゴミ」と出会い、向き合っていくためにこそ、この本を繰り返しこれからずっと開いていくことになるのではないか。

きれいに編纂された「ゴミ」の辞書を開くことで、もう一度豊かな現実への索引を手に入れるために。

2008.05.07

魔法のことば

魔法のことば

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』上田 真而子・佐藤 真理子訳(岩波書店)
ル・グィン『影との戦い』-ゲド戦記(1)-清水 真砂子訳(岩波書店)
酒見賢一『陋巷に在り』全13巻(新潮社)

「魔法のことば」という今回のテーマを知り合いに話したら、予想外に大きな反応がありました。

「自分の愛する本にはほとんどあてはまっちゃうぞ」
「そんなのメールじゃ書ききれない。一度酒飲みを設定しなさい!」
「それはもう読書論、いや言語論そのものだあああっ」

などなど。
どうもこのお題は、本好き(とくにファンタジー好き)にとっては心の琴線に触れる「ことば」のようです。
「ことば」の中にはいつも「魔法」が潜んでいる……どうも本好きたちは、まじめにそう信じている節があります。大丈夫かね、いい大人がほんとに(笑)。
まあしかし、それだけ気合いの入るテーマだということでしょう。

そこで今回は少し趣向を変えて、「ことばの魔法」にふさわしい次の3冊を紹介していきたいと思います。
「魔法のことば」が作品の中でどんな力を持っているか、ぜひ一緒に味わって楽しんでみてください。

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まず1冊目はミヒャエル・エンデ作、『はてしない物語』。
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ファンタジーの世界的名作です。映画『ネバーエンディングストーリー』を観て知っている人も多い。
ことばが魔法のように使われているファンタジーの「本」という意味でなら、このミヒャエル・エンデの『果てしない物語』は世界中の物語の中でも最高傑作のひとつといってよいでしょう。

特になんといってもお話の中盤の山場、本の読み手である「主人公」と、本の中の「物語」の関係が劇的に変化する場面は、読書行為において(ということはある意味では人生において)「エンデ」以前と「エンデ」以後という区分をしたくなるほど衝撃的な体験でした。

つまり、この原作は単に「ネバーランド」へ行く話ではなく、「読み手」が読んでいる「物語」自身に招かれてウロボロスの蛇のように中に入ってしまう(「ことば」の階層性が循環する)という点がおおきなポイントになっているのです。

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2冊目はアーシュラ・K. ル・グウィン作『影との戦い』
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「ゲド戦記」シリーズ1巻目のこの作品は、文字通りゲドという優秀な魔法学校の生徒が、困難を乗り越えて一人前の魔法使いになるまでのお話です。
ジブリの映画の原作で一気に国民的作品になりましたが、むしろ映画は外伝的な位置づけに近いもの、というべきかもしれません。
やはり「魔法のことば」を描いた古典的名作です。

秀逸なのは、モノにはすべて「真の名」があり、それを知ったものはそのモノに対する支配力を持つという設定。

ル・グィンはたしか文化人類学的知見に基づいて作品を書いています。
ですから、この作品の中における魔法のことばは、単なるご都合主義的な超能力アイテムではありません。魔法とはその「真の名」をコントロールすることであり、魔法のことばを使うことは、この世界のバランスを変えることにもなるというのです。だから、物語も白魔法と黒魔法の戦い、といった単純な展開ではなく、ことばとは?世界とは?自己とは?モノの本質とは?人間がその世界を捉えなおすこととは?……といった哲学的な問いが底流に深く流れていて、子供ばかりではなくむしろ大人もひきこまれていってしまいます。
「ことば」が持つ根源的な力についての深い考察に支えられている、といっていいでしょう。

上記2作はいずれも映画化されていますが、「果てしない物語」は「ネバーエンディングストーリー」ではなく、「ゲド戦記」はジブリで描かれたものがすべてではありません。
やはり本好きとしては是非とも本で読んで欲しいところです。本の方が、映画よりずっと手応えがあると私は思います。

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3冊目は酒見賢一の中国歴史ファンタジー小説『陋巷に在り』
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ことばがどのようにして世界像を立ち上げ、また呪術的に人間の心や体を縛りながら機能しつづけているかを、微に入り細をうがって描写する酒見賢一の表現には、ほとんどフェチとも言うべき執念のようなものさえ感じます。
たんなる超能力としての呪詛ではなく、ことばの力=虚構を活かしてフィクションとして描ききった作品。とにかく中国の歴史を知らなくても活劇的に面白いし、歴史についての知識があれば、そうきたかと思わず膝を叩きたくなることうけあいです。

孔子の弟子顔回(顔淵)を主人公とし、古代の呪術的世界像に満ちていた戦いの世にあって、古代の呪術的な言葉の魔力を熟知した孔子が、その古い世界観を打ち捨て新しい政治や世界像を立ち上げようとして「礼」に基づいた政治を行おうとする様子を、その孔子の弟子であり、自らも天才的な儒=呪の使い手である顔回を主人公としながら描いていく、伝奇ロマンの傑作です。

ただし、歴史に残る名作とするにはいささか叙述にバランスを欠いているかもしれません。なにせ、南方の媚を尽くした女呪術師と儒の天才顔回とが繰り広げる胎内めぐり的呪術バトルが13巻のうちほとんど半分を占めており、正直なところ「そこは中国でなくてもよくね?」とついつっこみをいれたくなる場面もあります。
またその部分はかなりエロティックでもあるので、安易に少年少女に勧めると「変なものを推薦した」と白い眼で見られる危険もあります。

しかしそんなことは大きな問題ではありません。

とにかく、他に比較するものを持たないほどものすごい魅力を秘めた作品であることに間違いありません。荒唐無稽な大風呂敷の呪術的世界観にもかかわらず、その底流に中国古代の歴史(ひいては人間のことばの歴史)への熱く真摯な作者の姿勢が見えてくる傑作ファンタジーです。
ぜひ一読をお薦めします。

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最後に。

ことばには「魔法のことば」と「普通のことば」の2種類があるのではなく、発せられた言葉の奥底にはいつも「ことばの魔法」が働いているのだというべきかもしれません。

優れた作品の「ことば」たちは、決して単なる記号の羅列や嘘の積み重ねではなく、見えないけれど大切な深い心の底の泉からくみ上げられた「いのち」のありように形を与えてくれる、けがえのない「虚構」としての存在感を持っています。
そしてまた同時に、ことばが持つ魅力だけではなくひとつ間違えれば人を傷つけたり大切なものを見失わせる力さえ秘めている、そんなことばの闇までもがきちんと描かれているのです。

今回「魔法のことば」というテーマで3冊紹介させていただきましたが、どうやらもう少し続けていかなければならないような気がしてきました。

「魔法のことば」ならぬ「ことばの魔法」がぎっしり詰まった作品たちを、これからしばらくここで取り上げていこうと思います。

よろしかったらお付き合いいただければ幸いです。

2008.04.08

吉田修一『悪人』がもたらす居心地の悪さ

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吉田修一『悪人』がもたらす居心地の悪さ

吉田修一の新聞小説『悪人』は不思議な小説だ。
読者へのリーダビリティはとても高く、どんどん先を追うように読んでしまう。
だが、そこで動いているのはお話の展開にわくわくして先を知りたいという種類の物語エンジンとはおよそ別の仕組みだ。
むしろ、描かれているのが身近な日常的描写であればあるほど、私たちは、次々に提示される「共感性の欠如」という事態を持てあまし、齟齬を感じる。

その齟齬は何に由来するものなのだろうか?

この作品で描かれる登場人物たちは一人の例外もなくみんなが内向きで、誰とも「出会わない」。
誰のことも本当には分かっていないし、だからといって生身の相手をとらえてきちんと問いただしたり、相手とのズレを我が身や相手に負う生々しい傷として向き合おうとしない。
だから、物語は宙づりのまま、華やかさのみじんもない「万華鏡」のような様相を呈していく。
その結果、何か起こってほしい、どこかで共感したい、妥当な結論を得たい、という読者の欲望は徹底的に踏みにじられていくのだ。
登場人物ばかりではない、この小説自体、「誰もが心の内に「悪人」を抱えている」とも結論づけないし、「格差社会の現実に翻弄される地方の人々は本当は誰も悪くないんだ」とも言ってくれない。

その読者を甘やかそうとしない徹底性・一貫性には舌を巻く。
腰巻コピーで浅田彰が「悪人は作者だ」といみじくも指摘していたのは、おそらくこのあたりの事情をいったものだ。

つまり、『悪人』という作品は、
「そうだよね、人間は出会えない孤独の中で生きていくんだよね」
という安易な共感を許さず、物語の中の登場事物ばかりではなく、読者自身をもその齟齬の感覚にひたひたと陥れていく、という意味でのリアリティを持っている。
そういったいわば負の物語エンジンこそが、この作品の高いリーダビリティを逆説的に支えているといっていいだろう。

たとえば作中。登場人物のひとり、馬目光代の最後の言葉を見ても良い。
「きっと私だけが一人で舞い上がっとったんです。」
「世間で言われとる通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねえ?そうなんですよね?」
この言葉は、宙づりにされ、読者の前に放り出されたままだ。

自分の皮膚で出会ったことの意味を、「世間」の言説に還元していってしまうこと。
それはやはり悲劇といえば悲劇なのだろうが、もはやそれは主体として内面化しえる共感的なドラマにはなり得ないだろう。
「出会おう」としても、男と女は、どうすれば「出会える」のか分からないままなのだ。
そして結局、読者はこの「問い」の前ではどうすることもできない。
光代の問いに「そうだ」とうなずけば、「世間」の言説を共有してしまうだろう。
逆に「いや違う。男は悪人ではない」と呟いてしまうと、ヒトを一人殺してしまった男の「闇」から瞳をそらすことになってしまうに違いない。

ここに展開されているのは徹底的に「機会原因」的な受け身の状況におかれた「今」の有り様だ。男は耐えられずに暴力の一線を越え、女はそこに幽霊のように立ちつくす。

いずれにしても、ここでは絶対に相手に向かって何かを働きかけ得るような言葉や身振り、行動は一つも起こさない。
その結果(登場人物同士はもとより)読者もまた、誰とも共感しえないままその内に抱えたエゴイスティックな孤独や不安と「齟齬」を抱えて「共振」することしかできないのである。

この小説が描ききった「出会わなさの万華鏡」とでもいうべき圧倒的な一貫性を、私たちは小説の豊かな達成として苦い幸せとともに読むべきなのだろう。
この苦さや齟齬から瞳をそらさないことが「今」を生きることなのだとすれば、たった一度だけ物語を読めば済む、というわけにはいかないのだから。

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