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2008/07/31

 

ゆるくてゲローな名人の言葉

小中学校・高校の授業内容で、成人になってまで役に立っていることというのは、計算の基礎能力や社会常識に関するものを除いては、実は多くないのではないかと思っている。だから不要だというわけではなく、社会の多くの先達に関しての知識は、人によっては大切な「人生の知恵」になっていることもあるのだろうというお話。building

私の場合は、今でもよく思い出すのが、「高名の木登り」というお話。今でも、教科書にあるのだろうか。出典はご存知「つれづれなるままに」だらだらと、ゆるいゆるいことを書きつらねることで、日本の「古典」の地位を獲得した今ならアルファブロガー吉田某の「徒然草」。実に243話にもわたる大作、高名の木登りの話は、そのうちの109話目。ご存知の方も多いだろう。弟子が木に登っているのを見守る名人。もうすぐ着地というときになって初めて「気をつけろ」と忠告する。なぜ、それまで忠告しないで、ほとんど安全な低い場所になってから注意したかという問いに、

あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ
(事故は、簡単なところになって気が緩んでおきるものだから)

と名人が答えるという話。名人とはほんとうに人間心理をよく知っているなぁと感心するというオチ。
余談ですが、作者吉田某は、この名人に対してこう記述している。「あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり」。あやしきゲローですぜ。名人とはいうものの敬意なんて微塵も持ってないことが明快です。おまけに自分の生活に読み替えて、「蹴鞠のときも難しいのはクリアできてもミスするのは簡単なボールだもんなー」と締めくくってます。まじめなのか、目線が高すぎるのか。

この話、私はなぜか気に入って、ことあるごとに思い出し、まじめに自戒にしてきました。

高校時代、日本アルプスに登山するときもこのゲロー名人の助言を意識していました。3000メートル級の頂上へのアタック時だけでなく、500メートルクラスの近隣の山へのトレーニング登山のときも、天候のチェック、道に迷ったときの行動シミュレーション、道が崩壊している場合の避難路の事前設定などなど。(おー、書いて見るとかっこいいなー。こんなことホントにやっていたんだろうか、と他人事のように思ったりして。)実は、このおかげで、命拾いをしたことも実際にあります。1000メートルに達しない低い山を散策中に大雨に出会い、道がなくなり、春なのに体温を雨に奪われ、遭難しかけたことがありましたが、事前にチェックしておいた山小屋にたどり着き、事なきを得ました。

社会人になってからも、プレゼンや報告会の直前に、今一度準備に怠りがないか、確認し、質疑応答のあとをどう締めくくるかという台詞にも留意していたように思います(最近は、このあたり、ゆるゆるですが)
海外旅行などでも、帰国する空港までは気持ちが張っているものの、帰り道では緩みます。自宅にはいるまでが旅行だと、気を引き締めてクルマを運転するなど、すべては「高名の、だけどゲローの、名人の助言」に従ってきました。

おかげさまで、この歳まで、なんとか長生き(?)できております。

行動を想定するとき、その最後の瞬間まで目を行き届かせよ。
ゆるいゆるい吉田某に、ひっそりと感謝する次第です。アーメン。

asagao

あと1%、それも半分

ところで、この助言、かってに自分なりに変換して使っています。

99%が、やっと半分。      (あと1%、それも半分。)

バレーボールの試合や、高校野球の試合を見ていて、痛感しますよね。マッチポイントを迎えたからといって、あと一ポイントがとれずに逆転負け。九回ツーアウトまで勝っていたのに、連打されてサヨナラ負け。よくある話です。
ほんとうに力が必要なのは、この「あと1%」を乗り切ることなのです。よく「勝ち切るチカラ」とよばれるものですね。
この1%へのチカラが、一流のプロはすごい。

じぶんでも仕事や何かを作る場面では、(いつもではないですが)気にするようにしています。最後の最後に気がついて直したことが、実は全体を凄くよくしていることもあったりするわけです。たとえば、こういう多くの人に見てもらうのを想定した文章の「校正」。いったん書き上げて、一安心。でも、それから誤植や言い回しの不備を修正したり、全体のレイアウト上の「見栄え」を気にしてみたり。そして、使う挿絵の大きさをいじったりして、完成するわけです。公開しても修正できるのが、オンラインテキストのいいところでもあり、悪いところでもあり。紙の媒体なら、最終締め切りがあり、以後は直せないので「あと1%」がわかりやすい。デジタル媒体は、「終了してからでも修正可。場合によっては削除も可」というものなので、この「あと1%」の緊張感が、紙よりも希薄です。でも、読む側から見れば、同じ。
読むときに掲示されるテキストが、唯一読まれるテキスト、なのですから。
こう考えると、デジタルテキストの場合は、自ら「あと1%」を律することが重要ですね。

こう書いてきて、遅れがちな「お題提出」が、ほぼできそうで、ほっとしています。

とはいえ、この時点で「やっと半分」。これからが「あと半分」です。
気合いをいれなおして、「勝ち切るチカラ」をみせなきゃ、ですね。

それにしても、この酷暑の現代都市生活、ゆるいゆるいゲローな吉田某なら、なんと綴るのだろうか。
つれーつれーと泣きながら書くのだろうか。ちょっと想像してみたりします。
また、「有名な木登り名人」という人の、職業はなんだったのでしょうか。林業、炭焼きの類かもしれないけど、もしかして、忍者?。時代からすると、陰陽師に通じるマジシャン?。それともサル?
すでに、私の脳細胞は、「半分」熱で溶けかかっているかも。いや、50%じゃなくて、99%。

今の気分は「半分」休みたい。パリの人みたいに。今日から二ヶ月ほど。

(「50%は半分ではない」了。BGM:『夏休み』よしだたくろう)

2008/07/16

casa1アンティークな古都に遊ぶ

夏です。夏休みです。みなさんは、楽しい夏休みをお過ごしですか。

私は気分だけは、古都でのんびり過ごす予定です。実際に訪問できるかどうかはほとんど絶望ではありますが、日本およびヨーロッパの古い都市で、古い建物や古い喫茶店や古い音楽や古い店員を楽しめるといいなぁと、思っています。

日々、とにかく「三ヶ月先のテレビ番組」、「半年先の広告キャンペーン」、「一年後の新ブランド・新商品」など、先へ先へカレンダーをにらみつつ過ごしている身としては、「近未来のこと」は、とにかく息苦しい。無理やりテンションを上げざる得ないわけです。新しいお店がどんどん開店し、季節限定の新しいイベントが開催され、新しいモードも気にしながら、建設ラッシュの都会を歩いている日々は、ストレスフルー、なわけです。

だから、古いものが、いいのです。新しいことが善で、古いことが悪であるというのは、たんなる偏見です。目新しいことばかりに目を奪われていては、眩暈のうちに人生を終わらなくてはならないのです。古いことは、古いものは、単に古いだけでは不十分ですが、新しいことや、新しいものと、すくなくとも同じ位には、価値があるはずですから。古い町に出かける楽しみは、こんな古いものが今も残っている、残されている、ということを知り、その長くこの世に存在しているものから、その蓄積された「気」を受け取る楽しみなのです。

若く、新鮮で、ぴちぴちとした、まぶしいオーラも、もちろん嫌いじゃありません。生命の活力をくれます。だけど、古く、腐る寸前の、甘い腐臭を漂わせた、魅惑的なオーラに、どっぷり浸ることも、これはこれで、至福のときであります。ふむふむ・・・。
話がそれました。古いものを訪ねることで癒されたい、それが今年の私の夏のテーマです。

時は、私とともに、在る

古い古いといいますが、いつごろからが古いのでしょう。

十年一昔、とかつては言われましたが、最近の世の中の変化、騒動からすると、感覚的には一年一昔でしょうか。アワタダシイ世の中です。そういえば、10年ほど前には「ネット・バブル」という騒動もありました。インターネットが浸透する段階で、情報サービスベンチャー企業が雨後の筍みたいにたくさんでてきて、あるものは陽の目を見ることもなく腐り果て土に帰り、あるものはポータルと言われる不思議な情報企業に高値で買い取れたり、あるものは生き延びて生活道具として欠かせないサービス企業になったりもしています。今となってはふりかえると、あの頃は「祭り」でしたねー。「祭り」熱にうなされて人生変えちゃった人もいましたねー。ほんとに、今は昔、です。park

想い出すに、その頃は、「ドッグ・イヤー」とも呼ばれてました。その心はというと、犬が人間よりも7倍早く成長し時間を使うっていうんですね。時計が動く一年分が、実は七年分の内容を含んでいるということだとか。その頃それを聞いた私は、思いました。まあ、自分のことを「犬」とおなじだと、すすんで認めたい人がこんなに多いなんて、なんていう世の中だ。「犬のように働け」だって。やだやだ。私は人間の時間を生きてやる。ってね。
まぁ、あの頃「犬」になった人が今成功者になってたりもするんでしょうけどね。それはそれ。時間は、常に私とともにあるのですから、気にしない気にしない。
そんなことを言い続けているうちに、私という人間がどんどん古くなってきているというのも事実なんですけどね。

人は「区切り」をとおりすぎるだけ

百年は一世紀。そういえば10年程前には、「世紀末」ブームというのもありました。西暦ですから、キリスト教徒以外には本来関係ないはずなんですけど、どうもこの「末」というのが、魅力的だったんでしょうねぇ。世も末、明日は世界が滅ぶかも、っていろんな刹那的で、オドロオドロシイ出し物が登場して、それはそれで楽しめました。といっても、たかだか10年前です。今15歳の人からすれば、物心ついてから21世紀だったわけですから、どんなことも咽もと過ぎれば暑さも忘れます。いろんなブームも、いろんな「現在」も、過去になっていくわけです。過去に囚われて生きることは詮無いことです。

人の生活の記憶といっても、実体験だけで見ると、せいぜい数十年から長くて90年程度。なかなか100年は生きられません。だから、生きられなかった「過去」の「美」を、その時代にそれを作った人のことを含めて楽しみたい、というのは人間の根源的な欲求なのかもしれません。自分の人生と無関係に存在した、人間の所作としての品。それを「骨董品」だと、かってに思っていました。ごく最近まで。

「100年」という条件cherch

欧米のオークション業者にとっては「アンティーク」というのは完成から100年以上経過しているものという定義があるそうです。へーっ、知らなかった。漠然と昔のものという認識だったのが、実は恥ずかしい。
あっ、これって、eBAYとか、ヤフオクのことじゃないですよ。サザビーズなどの美術品オークションの話です。ヤフオクで、1960年代の手巻き時計を「アンティーク・ウォッチ」といって出品しても、とくに問題ないはずですし、詐欺だとも思わないでしょう。この「100年たったらアンティーク」とは、ある特定の人たちの中での定義に過ぎないんですけどね。でも、100年。これは、まいった。長すぎる。
ちなみに、この定義の中には、アンティークに至らない(100年たっていない古さの)ものは「ジャンク」とよぶそうです。あっ、これもヤフオクとは違う用例ですね。ヤフオクでジャンクといったら、通常の機能を発揮できないガラクタ、という意味ですものね。たとえば、「最高級アメセルマーク6 66年製 ジャンク」となると、最後の4文字がないと60万円から150万円で取引されるものが、これだと数千円から数万円どまりでしょう。ジャンク、恐るべし。

さて、2008年現在で、アンティークなものは、1907年までに完成しているものということです。そういう高級美術品オークションに「骨董品」として出品できるものはなんなのか、気になります。ということで、調べてみました。

住居はかろうじて合格 公園・教会は落選
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今年の夏、できれば行きたい(でもたぶん行けない)私の大好きな街、スペイン・バルセロナ。
モンジュイクの丘の緑を楽しみ、ホアン・ミロの白い美術館で心を洗い、下町のピカソ美術館の陰鬱な「青」に戦を思い、イカのフリットなどの地中海料理にワインで至福の時間を、港近くのバルで過ごす。ホント、サイコー、です。たぶん行けないけど、バルセロナの中心街,見慣れた雑居ビルの中にアントニオ・ガウディ作の二つの集合住宅(一番上の写真とこの上の写真)があって、車からでもウヒョーと声をあげてしまいます。この二つの建築物はかろうじて、100年経過している。アンティーク・ガウディです。でも、それよりも有名なガウディの公園、ここもタイルアートが楽しくて、かわいいんだけど、たぶん行けないけど、ここは残念ながらあと6,7年は「ジャンク」です。一番有名なサグラダファミリア教会は、いまでも建築中ですから、アンティークなわけもなく、でも塔の先まで上がって眺める細かいアート仕事には、ほんとに感激するものです。でも、たぶん、いけないんですけどね。

古い人は、大切に。優しくしてね。

100年以上前の人間の諸作に対して、骨董品と呼ぶかどうかは別にして、大いなる敬意をもって接したいものです。100年以上経過して、少しは進化しているはずの人間として、作者の意図と熱意と感情と感覚を、すべて受け止めてみたいものです。もっとも進化なんて、個人的にはまったく信じていなかったりもするんですけどね。愚か者は常に愚かであり、想像力のないものは常に想像できず、価値がわからないものはわからないままなのです。瞬間にしか生きていないその愚かな生物は、偉大な骨董品やその候補に「愚かな自分の名前」を平気で書き込んだりするものですから。かりに、今「モナリザの微笑」を渋谷の交差点で公開すると、信号一つ分で落書きされて顔が見えなくなることは間違いありません。かように、人間は進化なんかしないものなのです。一般論としての進化なんて忘れて、自分自身の進化のために、偉大なる諸作の前では心を無心にしてすべての波長を感じたいと、日々古くなる私は思ったりするのです。

夏休み、このドッグイヤー300年余の骨董男と和んでくれる方、いらっしゃいませんか。日本とヨーロッパの古都を(気分だけ)めぐり、人類の偉大なる遊興について語りましょう。ぴちぴち系、腐臭系、進化系、突然変異系を問いません。百年前の、前世の恋について、想像をめぐらしてみませんか。

※写真は、Wikipedia Commonsからお借りしております。ありがとうございます。

(「百年越しの恋」了。BGM:「元気を出して」島谷ひとみ+押尾コータローguiter )

2008/07/02

NY2
オールスターゲーム、どっちを応援しますか

プロ野球の夏といえば、アメリカも日本も「オールスターゲーム」ですね。
アメリカでは今年ニューヨークが舞台ですが、ヤンキースも例年にない不調で、
一体何人の選手が晴れの舞台に立つことができるのでしょうか。

ところで、日本もオールスターがあります。あなたは、どちらを応援しますか。

ひいきのチームがある人にとっては簡単ですが、普段興味のない人は「どっちでもいい」でしょうか。

さて、想像してみてください。

あなたは繁華街を歩いていて、テレビ局の撮影クルーに遭遇しました。そこで質問されたとします。
「今度のオールスターゲーム、どちらを応援しますか。このシールを応援するほうに貼ってください」そういわれて丸い赤いシールを渡されます。A4サイズほどのボードの右に「セントラルリーグ」左に「パシフィックリーグ」、どちらかに貼らないと許してくれません。親切でサービス精神のあるあなた、とりあえず興味もないけど、どちらか(仮に「パシフィックリーグ」)に貼りました。で、理由も聞かれて、「なんとなく、楽天のマーくんがおもしろいから」
などと適当に答えます。「明日の早朝の情報番組で紹介します」といわれ、その場は終了します。もともと野球に思い入れのないあなたは、家族にインタビューを受けたことを伝えただけで、翌日早起きすることもなく、そのインタビューのこともすっかり忘れてしまいます。

さて、その週末、偶然オールスターゲームのTV中継をみています。
「どちらかを応援してみようよ」と家族からいわれます。
さぁ、あなたが応援するのはどちらですか。セ・リーグ? パ・リーグ?

何も考えないと、たぶん「どちらかというとパリーグかな」となる確率は高いのです。
え?それって、ほんと?と多くの人はおもうでしょう。でも、実際に実験するとそうなのです。

実はこれ、アメリカの社会心理学会では統計的に有意に差があるとされている「定説」の応用例です。
社会心理学というのは実に守備範囲が広い学問ですが、その中で中心領域とされている『態度変容』に関する研究の中にあるものです。

『態度』とは、行動を起こす元になる心理的な構え方

わかりやすくいうと、

好意を持つ、選択しようと思う、同意する、支持政党を決める、などの
「特定の対象に対するベクトルをもった気持ち」

のことです。その気持ちを明確にもつことを『態度変容』とよびます。このオールスターゲームの応援チーム選びも、『態度変容』のひとつです。民主主義社会、大衆消費社会において、この『態度変容』というものは、その社会の根幹に関わることなのです。

資本主義・民主主義の根幹を揺るがす領域

freedom大げさではありません。
さきほどの支持チームの候補を「クリントン」と「オバマ」に変換してみてください。「共和党」と「民主党」でも、「自民党」と「民主党」でも、「巨人」と「阪神」でも、「トヨタ」と「日産」でも、「JAL」と「ANA」でも、「ヤフー」と「Google」でも、なんでもいいのです。ね、民主主義政治体制、資本主義経済にとって、非常に大切な領域なのだ、と気づいてくれますか。

どっちでもいいし、興味ないという方もいらっしゃいますね。それはそれで結構です。でも、こういう理論は、悪いやつほど勉強していて、あなたをおとしいれるために使ってくるかもしれません。キャッチセールス、結婚サギ、いんちき新興宗教、消防署の「ほう」からくる人、、、、。これは、使う目的の差でしかなく、大統領選挙などには社会心理学者がコンサルタントとしてついているという話もあるくらい。

これでもあなたには関係ないですか。そうですね。お時間をいただきありがとうございました。さぁ、「社会心理学」に対してまったく関係ないと「態度」を表明された方が、このページから出て行かれますよ。この手の話題にであったらまた「わたしは関係ない」と思うのでしょうね。特定の対象を「拒否」することも立派な態度ですからね。ありがとうございました。(^_^)

さて、話を戻しましょう。なぜ、もともと、それほど興味もないことに関して、このように「態度」が片方に傾いていくのでしょうか。結論をいうと、「自己統一性維持の気持ちが働くから」です。すごく説明を省力すると、そういうことです。もともとどちらを支持してもそれほど結果の影響が大きくないと思うと、過去において他者に対して(半強制的であったとしても)態度表明をしている場合は、その態度を裏切らない態度をとり続けようとする、ということなのです。

自分の意見は常にその時点で自由に選択している、という感覚で日々生きているはずですが、
実は「自分の過去の行動」が今日の選択を規定していたりするものなのです。
そう、自分で自分を知らず知らずに縛っているわけです。

「自縛ショー」としての日常生活

前述の応援チームを選択する例の場合、「テレビ番組の取材に答えた(もしかすると大勢の人に自分の態度表明が伝わっている)」ということが非常に大きく作用します。これが「友達一人に話しただけ」だと、影響は少なくなります。世間、大勢の他者が、自分の選択を知っている(知る可能性がある)ということが肝心なのです。これは、事実として「その映像が放映されて大勢が見た」かどうか、が大切なのではなく、答えたあなたがそう思っている、ということが根幹です。極端にいうと、偽のTVクルーの取材だったとしてもあなたがパリーグを応援する(高い)確率は変わらないのです。なにがあなたの選択を規定しているのか。それは「他者があなたをどう見ているとあなたが思っているか」なのです。『他の人の瞳に写った自分の像』、それをあなたは無自覚に想像し、日々の判断の材料にしているのです。ほんとうに他の人はどう思っているかを知ることもなく、です。

これを、自分で自分を縛る自縛ショー、と呼ぶことにしましょう。
無自覚な選択において、われわれはこの側面では、程度の差はあれ「M」体質なのですね。

「わたしはドSよ」と明言する方も、この領域では「M」なのです。
だって、昨日の自分と今日の自分が同じもので、自分は何年たっても自分なのだと信じているし、自分が統一したすっきりしたわかりやすい存在だと思うことって、(あたりまえすぎますが)うれしいでしょう。

過去の自分、それを知っている他者、というものを「縄」にして、今の自分をギューギューに亀甲縛りしてるのが、現代社会を生きる、統一した自己をもつ、正常な社会人の、あるべき姿なのですから。ね、あなたも「M」、私も「M」。みーんな、「M」なのです。(^_^) ついてこれない人は、見捨ててもいいですよ。さすがに(^_^)

実は、この「自縛ショー」であることを知っている人が、うまく「大衆操作」しようとしたりもするわけです。手法は合理的です。あとは「目的」が問題なのですが、それは別の判断基準の議論なので、ここでは触れないでおきましょう。

とりあえず、この「自縛ショー」としてのあなたの日常生活の態度に関して、見直してみることだけをお勧めしておきましょう。

ちなみに、「M」な人は、いろんな言葉で責められるのを好むようですね。
たとえば、「社会に出ると立派にしてるんだろ、それがどうだ、もう××歳なんだろなんだその幼稚な欲望は、悪い奴だなー。反省しなさい」とか、「この社会が駄目になっているのは誰のせいなんだ、この地球が破滅に向かっているのは誰のせいなんだ? お前も含めた人間のせいだろう。自分の快楽ばかりを考えて、周りをないがしろにしてきた結果だろう。そう思わないか。ほら、誰が悪いんだ? おまえだよな。認めなさい。反省しなさい」とか、「あなたは存在自体が罪です。原罪をみとめますか?」とか、いろいろですよね。
あー、こんな風に世相を見ていると、最近の世の中って、真性の「M」体質の人にとっては、日々カイカーンなのではないでしょうか。

とはいえ、「自縛」しすぎて、息もできなくなって、瀕死状態になるのだけは、ご注意くださいね。
ほんとうにうまい「縛りのプロ」は、このあたりの境界をコントロールできるところが、すごいのですから。

ところで、あなたを縛っている、あなたの「縄」、しっかり見えてますか?

(「セルフボンディングの選択」了。BGM:「M」プリンセスプリンセス)