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2007/12/31

サックス風景
■「セ」じゃなくて「サ」なの。間違えないように。

2007年。習い事が四年目に入り、いままでよりも本腰を入れるようになりました。ジャズ・サックスです。今年の私の生活はこのおかげで変わりました。ジャズ・サックスが連れてきてくれた、数々の人々との体験。その一つ一つに感謝する。それが私の2007年への振り返りです。

ところで、この習い事のことですが、よく言い間違えそうになったり、聞き間違えられたりするので、できるだけ口頭で話すのは避けてきました。

休日はなにやってるの? サックスかな。 え?

目を丸くする人に説明するのは大変です。だからできるだけ、仕事関係とか近所のおばさんとかには話をしないようにしてきました。まぁ、話せるほどうまくなかったこともありますが。でも、今年は周囲へ「カミングアウト」することで、自分にプレッシャーをかけるようにしてみました。

今年、本気でうまくなりたくなったんですね。要するに。

初めて楽器屋系列の音楽教室の体験レッスンを受けたのが4年半前。そのときは、音を出すだけで精一杯。お仲間は、リタイアした60代おじさまと、習い事をとにかくたくさんと言う20、30代のOLさん数人。仕事の都合をなんとかつけて平日の夜、駅前の場末の雑居ビルに入るのは最初のうちうら寂しく思ったものです。それでもなんとか継続し、ドのつく初心者クラスでも、一年たてばとりあえずかんたんな曲をアンサンブルで吹けるようになりました。月三回一時間ずつだと、そんなものです。
三年たって、譜面のある曲はそれなりに吹けるようになりましたが、グループレッスンだけでは上達といってもそんなものです。音楽を趣味として嗜んで、楽器を買ってもらうための仕組み。それが楽器屋系列の音楽教室の目的なのですから。三年近くたって欲求不満が高まりました。

もっとサックスが上手になりたい。もっと自在にサックスを楽しみたい。

我慢できないほどの欲求不満は、日常生活からちょっと外れた世界の対象へ、と向かうものです。主婦が近所の大学生と付き合うという話だねって、そこの人、それは『セ』でしょ。違いますって。冒頭言ったとおり、『セ』じゃないですから。そこんとこ、くれぐれもよろしくおねがいします。暇な主婦はそうかもしれないけど、くれぐれも間違わないでください。私の話は『サ』の話ですから。

ということで、丸三年たった昨年の夏から、プロミュージシャンに個人レッスンを受けることにしました。そして今年。厳しくも優しい師匠について本気で練習を始めました。(始めてから半年はほとんど本気で練習してなかったというのも事実ですが)

上手くなっているというほどの結果はまだ出ていませんが、自分が本気になることが一つ増えたことが、「2007年最大の事件」であり、そのことに感謝なのです。

■音楽との付き合い方が変わったぜ。べいべ。

楽器を演奏している人は大体そうなのでしょうが、していない人よりも、音楽を多面的に鑑賞できるものです。たとえばギターを弾いている人は、どんな曲を聴いても、ギタリストのスタイルやテクニックにも耳がいくし、その良さも味わいもより深いものです。深ければいいといっているわけではありませんが、単純に、同じ対象でもより楽しめるほうが良いでしょ。
「ヲタク」というのはそうした「執拗なまでの鑑賞態度」をいうのだとおもうのです。対象が、アニメや声優か、音楽やミュージシャンかという違いに過ぎないのです。
音楽とくにジャズに関しては、学生時代から「聴く」のはヲタクでした。
経済的理由からコレクションをどんどん増やすというわけにはいきませんでしたが、それなりに好きなミュージシャンの音源を漁り、時系列に聴いていってはその演奏スタイルの変化を楽しむくらいはしていました。好きなミュージシャンのアドリブ演奏は何度も聴いて、一緒に歌えるくらいになったりもしていました。
でも楽器をやるとそんなもんじゃないですね。
今年になってからは、「耳コピ」といって、有名なミュージシャンのアドリブ演奏の一音一音を楽譜に書き起こすという作業なのですが、それも時々やっています。CDをI Cレコーダーに録音して、二小節くらいをスピードを落としたりして何度も何度も聴いて、電子ピアノあたりで音を確かめて、楽譜に落としていくほんとうに地道な作業です。絶対音感のない私には、非常に時間もかかるし、根気も要る。日曜日一日かけてやっと一曲という感じです。それが、実に楽しいわけです。何度も聴いて、これはすばらしい、かっこいい、と思っている有名な演奏家のアドリブフレーズを、自分が演奏できるようになるのですから。機材以外ほとんどコストもかからず、時間だけが過ぎていく。こんないい時間の使い方はいままでありませんでした。休日に部屋にこもって、にやにやしながらこういう作業をしているのって、実にヲタクな感じで良いでしょ。

■聴くミュージシャンも増えたし、狭いライブハウスも行動範囲に。

当然、単に聴いているだけのときに比べ、対象になるミュージシャンも変わってきました。サックスを習い始めてから、俗にいう「ミュージシャンズ・ミュージシャン」、すなわち、「演奏家が好む演奏家」の音源をたくさん聴くことになりました。ジャズの名盤といわれるものをほとんど聴いていたのに、さらにこんなにCDを買うことになろうとは、三年前には想像していませんでした。ジャズ演奏家向けの情報誌(メジャーなものでは一誌だけ)の中で紹介されているジャズホーン(ジャズのサックス系の総称)奏者は、それまで注目してこなかった人ばかりです。一つ聴いて気に入れば、アマゾンとかHMVで「大人買い」です。この三年間でジャズ・サックスのCDだけで数百枚は増えました。ひぇー。(金額換算はやめてください。心臓に悪いよー)

また昨年夏から習い始めた師匠は、実はその世界では超有名なフリージャズの演奏者だったりするもので(習い始めるまで知らなかった)、その方の演奏をとにかく見たくて首都圏の小さなライブハウスにも行くようになりました。すると他の人も気になって、日本人のライブをたくさん聴くことになったわけです。小さなライブハウスで日本のジャズマンのライブを聴くというのは、実は非常に面白いのです。なぜなら、客が数人だったりするのです。こういう場合は演奏後ミュージシャンとお話する機会も増え、おのずといろんな人と知り合いになれたり、楽器のことや演奏のことを質問できたりもするわけで、自分の趣味にも刺激になるわけです。

■ジャズホーンがあったおかげで楽しい一年でした。

ね、こんなことをしているとサラリーマンの私生活としてはかなり独特なものになるわけです。プライベートで付き合う人も、音楽好きばかりになりますしね。休日は用事がなくてもひたすら練習しなきゃとなるわけです。まだまだ基礎技術もできてないので、厳しい師匠から怒られたりあきれられたり。そういうことも人生の励みになるわけです。明日こそ、このフレーズが流暢に吹けるようになろう。そんなことを思いながら飲む酒はうまかったりもするのです。
交友関係も変わりました。音楽好きとなれば、仕事も年代も関係なく仲良くなれるし、一緒に音楽を聴きにも行ける。こういうのは『趣味』のいいところなのだなぁ、とあらためて思うわけです。

ところで、今年新たな目標ができました。非常に無謀な中年オヤジの戯言です。でもカミングアウトすることで、実現は確約されたようなものでしょう。来年につなげるためにも、ここで発表してしまいます。

いつの日か、公衆の面前すなわちストリートで、思いっきりサックスすること。

・・・だから、『サ』ですから。『セ』って勝手に変換しないように、そこの人。
よろしくおねがいしますからね。

さぁ、言ってしまいました。有言実行するくらいしか人から信頼を得られない年代のおじさんですからなんとかしなきゃですね。来年、古臭いサックスをかかえた中年オヤジを街で見かけたら、あたたかく見守ってくださいね。私かもしれません。

2007年のいろんな出会いや楽しかった時間に感謝。
そして、みんなにとって幸せな2008年になりますように。
合掌。

ぷっ、ぷーぷぷっ、ぷーぴーぷぱっ。ぷーぴーぴーぴーぴーーっ。
(蛍の光もけっこうむずかしぃやん・・・)

2007/12/28
幸せ、幸福は、決して「感情そのもの」をさすものではない。「第三者的な感情および状況への評価」を内包している。だから、突然「今幸せですか」と問われても、答えに一瞬詰まるのは、実はその言葉の「くせ」なのだ。そんな視点から、幸せになる方法について、思いをめぐらせてみた。

あなたは今幸せですか?え?わかりません?

「幸せ」は、実は考察によって生み出される概念です。すごく乱暴にいうと、論理的な評価の結果たどり着く、「良い感情の塊」を想定した概念・イメージです。

え、いまひとつなんのことを言っているのか、わからない? そうでしょうね。では具体的に「用例」をみていきましょう。

幸せになりたい。幸せでいたい。幸せを祈ります。お幸せに。幸せでした。

これらを眺めて気づくことがあります。ここでの「幸せ」とは、たとえば「極楽」「至福」という意味に置き換えが可能です。「幸せ」は実は、「感情そのもの」ではありません。良い感情がたくさん集合した状況を「評価する」言葉なのです。極楽や至福という言葉やイメージと同じように、頭で考えて判断することなのです。

海岸

繰り返しますが、「幸せ」とは「感情を表現する」言葉ではないのです。だから、突然「幸せですか」と質問されると、「自分の感情を評価する必要があって」一瞬つまるわけです。「今、嬉しいですか?」「今、悲しいですか?」「今感じてる?」「こういうのは?」「じゃあ、こんなのは?」・・・感覚、快感、感情を表現する言葉なら即座に、Yes,Noがいえますが、幸せかどうか自分の気持次第です、一瞬冷静になって考える時間が必要なのです。「その男としていて幸せですか?」「今日の営みは幸せなものでしたか?」・・一瞬、うっと詰まってから、おもむろに「ええ」でしょうか。

また、「幸せ」は、抽象的な「概念」でしかありません。具体的な「像や条件」が共有されているわけではなく、ちょっと考えると、とってもあやふやな言葉だったりします。
ある人が食べると「とってもおいしすぎて、シ・ア・ワ・セ」と評価できるデザートでも、「たしかにおいしいけど、以上」ということもあります。抽象的な概念や評価は、使う人の個人的な「判断」が前提です。幸せかどうか、実は自分が判断しなければならないことなのです。自分が、感情を味わっている自分の状態を第三者的にみて、判断するしかないのです。

幸せになるために、毎日100回「幸せになりたい」と唱えましょう、という宗教があったとします。あなたはそれで幸せになれますか?このフレーズを繰り返しても、実はなにも(現実も感情も)かわらないのです。それは、この「幸せ」は、第三者からみた「評価」だからです。イメージトレーニングするとしても、「幸せになっている自分」を具体的にイメージして、その具体的な状況の中での、「幸せ」という漠然としたイメージではない、もっと直接的な感覚をイメージしないことには、体は反応できないわけです。(たとえば、体が火照ってその熱で頭がしびれて、ぼんやりと気持ちよい感覚、とかをイメージすることならできますよね。)

幸せになりたい人に忠告です。「幸せになりたい」と思わないことです。

概念に囚われた人は、生物(いきもの)としての人の感情や感覚を軽視しがちになります。シアワセニナリタイを呪文のように唱えているうちに、自分の感情や感覚を正直に見なくなってきます。いつまでも「幸せ」は願望の対象でしかなくなっていくわけです。だからほんとうに幸せになりたいと思うのなら、こういう呪文は忘れましょう。

幸せは、未来と過去を「評価」する言葉

あなたは普段、「幸せ」と言う言葉を未来や過去を語るときに使っていませんか。

幸せになりたい。幸せでいたい。幸せを祈ります。お幸せに。(未来)
幸せでした。幸せな結婚生活が終わり・・。幸せだったのに・・。(過去)

こういう「幸せ」の使われ方、実は「未来への願望」「過去への評価」を表現するときに使われることが多いんですね。「今まで生きた中で、一番幸せでした」という14歳の台詞がわかりやすいですね。自分の感情、たとえば嬉しい、晴れがましいといった「肯定的な感情」が極まった結果として、その自分を第三者の視点から「一番幸せ」と評しているわけです。つまり、自分の感情を表現しているわけではなく、そういう第三者的視点が14歳と言う若い人から出てきたので、多くの人が面白がり、流行したわけです。

話を戻して、では「幸せ」を「現在の気持ちへの評価」として使われることがないのかと言うと特殊なケースですね。

結婚発表記者会見など、喜びのかたまりとしての「幸福感」を表現するときに「私は幸せです」ということはある。でも、あなたは日常生活の中で「幸せです」と口に出すことがありますか。あったとしても、「幸せになりたい、お幸せに」(未来への願望)、「あのころは幸せだった」(過去への評価)の使用頻度に比べ、すごく少なくないですか。

どうして人は、「幸せ」が、今の自分から「遠い存在」とおもうのでしょう。未来や過去を語るときの言葉なのでしょう。
もっと自分のそばにあって、それを簡単に確認できて、それこそ幸福感に浸れるほうがよくないですか。

あたりまえのことですが、日常生活を取り囲む環境は、たとえば宝くじに当たるように、劇的な変化をすることは少ないのです。ある日突然、白い馬に乗った王子様が現れてあなたを幸せにすることは、基本的にないのです。実際に、白い馬に乗った外国人があなたの目の前に現れたら、驚いて逃げますよね。とにかく、棚ぼたで幸せが降ってくるというイメージに固執することに意味はありません。そのことを考えている時間だけ、人生の無駄遣いです。
現実をみましょう。結局、環境にたよらず、周囲の人に関係なく、「自分が変化」することでしか、あなたは「幸せ」を手にすることはできないのです。幸せへの近道は、自分を変えることです。

では、どうすればいいのでしょうか。あっ、自己啓発セミナーに行くのは少し待ってください。
今、この場で、ヒントくらい出せるかもしれません。
クローバー

幸せを「数える」能力、「自覚する」能力

ある女性から聞いた話です。

幼稚園児の娘さんがいて、眠りにつく前にいろいろとお話をするそうです。

娘「今日は詰まんなくて、いやなことが多い日だった。あんなことやこんなことや、いやなことばっかり。悲しい。もう幼稚園なんかいきたくない」(と涙ぐんだり)
母「ほんとに、いやなことばっかりだったの? しっかり思い出して見ましょう。今日目が覚めたとき何が見えたかな。・・・朝ごはんは何食べたっけ・・そう、大好きなタラコごはんだったよね。おいしかった?・・そう、ほら良かったじゃない。いいことが一つあった。・・それから何したの・・」
こうやって、母は娘の一日の中で「楽しかったこと、おいしかったこと」をひとつひとつ記憶の形にしていくわけです。
一日を確認し終わるときには、楽しかったことが4つ、5つと並びます。
母「ね、今日は楽しいことがこんなにあったじゃない。よかったね。幸せな日だったのよ。さ、明日も楽しいことがあると良いね」
娘「うん」

こんな母親の子供だったら、「幸せ」な毎日が、「幸せ」な人生がおくれそうな気がします。

「私は幸せだ」と毎晩眠りにつく前に思えたら、どんなに幸せな夢が見られるでしょう。「明日への願望」でもなく、「昨日への評価」でもなく、今を幸せだと生きることができたらどんなにいいでしょう。

有名なことわざで、「三日幸せでいたかったら」云々と言うのがあります。いろんな種類があるようですが、「一生幸せでいたかったら」というのがオチになっていて、「釣りを覚えなさい」と言うのが有名です。いい趣味を持つこともよいことです。でも趣味の世界でも未来と過去ばかり見て幸せを手にできていない人もいるのです。

あたりまえですが幸せになりたいのなら、「幸せを実感する」能力が不可欠です。抽象概念である「幸せ」を感得する能力を磨かなければなりません。犬や猿にはできない芸当です。

実は、今ここですぐに、あなたは幸せになれます。
そう思えるように、ちょっと訓練さえすれば。

それってほんと? ちなみに、こうやってあなたに話しかけている私は、幸せを感じています。
信じるも、信じないも、あなたの自由です。幸せは、所詮、あなたがあなたを見て、決めることなのですから。

アー・ユー・ハッピー? アイム・ハッピー!

2007/12/17
クリスマス、年末年始というと、デート、宴会、初詣、旅行など、季節のイベントが多いシーズンですね。あなたは好きな人をしっかり誘惑してますか。誘っても断られたりしてませんか。誘う勇気もなくてぐずぐずしてたりしませんか。それとも、あまりうれしくない人から執拗に誘われて困ったりしてますか。
今回は、そんな「誘惑者」と「被誘惑者」のかかえる「リスク」について整理してみます。


「誘惑」とは本来「リスク」である汐留白イルミ

たとえば、「年内に話題のイルミネーションを見に行こうよ」

とあなたを誘う異性がいたとします。この季節には、ありそうな状況ですね。でも、

冷静に考えると、これは「誘った方」にとっては、とってもリスクが高い行為です。なぜでしょう。

誘われたあなたは、景色を見ることよりも、高級ワインとフォアグラを食べたい気分だったり、寂しいのですぐにでも抱きしめてもらいたいという気分だったり、一年分の疲れが出ているのでマッサージか温泉につかりたい気分だったり、異性関係はこりごりでできれば同性と騒ぎたい気分だったり、普段は顧みていない分この季節くらい家族と過ごそうと決心しているところかもしれません。また、宴会やイベントですでにスケジュールがふさがっていることも十分に予想されます。

つまり、あなたがこの誘いに「ノー」という確率は、通常よりも実は高いのです。それなのに、この忙しくもふわふわした気分が蔓延している時期にあなたを誘うのですから、よほど相手はあなたを気に入っているのか、「イエス」といわれることに確信をもっているのか、暇なのか、鈍感なのか、のどれかでしょう。

たとえ、あなたもイルミネーションを見に行きたいと思っていたとしても、「あの人とは行きたくない」というのも一番本質的な、断る理由です。現実には、直接そう言いたくないがために、前述のような「都合が悪い」ことにして断ることも多いはずです。

誘惑するというのは、このように「断られる」ことも内包している行為です。「断られる」ことは、すなわち、誘惑者に対して魅力を感じていないと宣言されるともとれるものです。これは、痛い。あなたに断られた誘惑者は、この季節特有の浮き足立った華やかな街の明かりの元で、あなたは「魅力を感じないわよ」と宣言され(たかのように)、傷ついた胸を一人抱きしめながら、とぼとぼと孤独を味わいながら、ひとり小さなケーキでも買って早めの時間に帰宅することになるのです。たとえ、今年一年どんなにいいことがたくさんあったとしても、そんなことに感謝する気分になることもなく、・・。ただ、あなたを誘うという行為をしたばっかりに・・。

とはいえ、「勧誘」「誘惑」「招待」など「誘う」行為すべてに「ノー」といわれるリスクは存在しています。でも、「誘惑」のリスクとは、「オーケー」という返事のあとも、本質的に「リスク」を背負い続けなくてはならないということが、他の誘う行為との違いなのです。

「年内に話題のイルミネーションを見に行こうよ」「いやっ」【誘うことの第一のリスク】

「年内に話題のイルミネーションを見に行こうよ」「いいよ」【誘惑独自のリスクへ】

誘惑して、いいよっていわれたら、「やったー」となりますよね、ふつう。でも、それはまだまだ「誘惑」の本質がわかっていません。そのイルミネーション見学デートで、あなたは幸せを感じられますか?いってみないとわからない、というのが普通の答えですね。そうなのです。


「あなたと私の未来」を掛けたギャンブル

約束が取り付けられたところから始まるのが、誘惑ならではのリスクです。

誘う、誘われる。そして、誘われたほうは、イエスと言う答えをだす。そこから先がこの誘惑の「怖いところ」なのです。いろんな日本語で「誘う」行為を表現しますが、誘惑と言う言葉には、この「怖いところ」が内包されているがゆえに、魅力的なのです。それを、わかりやすく、結婚の申し入れ、つまり「プロポーズ」と言う行為で考えましょう。

「僕と(私と)結婚しない?」「えっ、いいよ。うれしぃ」

とかなんとか、やり取りの言葉は別にして、一応快諾を得た段階です。これこそが、誘惑の本来的な「リスク」が発生した瞬間です。えっ、ケッコンなんて重くて考えらんなーいってか。たしかに。じゃ、忘年会の三次会のあとのこんな会話ではいかがでしょうか。

「電車もないし酔っ払ってるみたいだし、ちょっと一緒に休んでいかない
(といいながら手を握る)」
「えーっ・・・うん(と手を握り返す)」

このほうが「誘惑」らしくて、ぴんときますか?
どちらも、共通しているのは、「誘惑したほう」も「誘惑されたほう」も、ともにこれからの未来の時間が不確かになっているということです。(ここからは、具体的な描写はあえて避けますが、ご自身で言葉を補って読んでください。)

どちらの場合も、相手が自分に及ぼす影響について、期待もあるものの、その分失望したり、いやな思いをするリスクも高いという状況ではないでしょうか。結果として、後日、「あーあ、あの時なんでいいよとかって言っちゃったんだろう。断っておいたほうがよかったわ」とかと後悔する可能性だってあるわけです。また、それは同時に「誘ったほう」にも、同じことが言えるわけです。「何であの時誘っちゃったんだろう、あのまま余計なことを言わなければ、こんな・・」。

そういう数限りない「後悔の可能性」を押さえ込んでも、そうではない未来、すなわち「幸せで快感の満ち溢れた未来」への期待から、人々は自らすすんで誘惑と言う行為を選ぶのです。

  • 注)ここでの「誘惑したほう」「誘惑されたほう」は言葉を使ってすることだけでなく、行為や表情も含みます。誘わせるのがうまい人、というのも存在しますからね。余談でした。

プロポーズなら「その後の人生」をかけ、お休みなら「その後の数時間+α」をかけ、人々は「誘惑」と言うリスクの高いギャンブルに身を投じるわけです。そんな非常に大切な「誘惑」について、もっとまじめに考えなくちゃというのが、本論を通底するテーマなわけです。

これまでの話を整理すると、

「誘惑」と言う行為は、誘惑者にも被誘惑者にも、同様な「不確かな未来」というリスクが襲いかかるもの。にもかかわらず、人間はその不確かな未来の中に、自分だけでは到達できない「幸せな未来」をかぎつけて、その状況に身を投じる。「誘惑」とは、人間にとって、悲しくも本能的なギャンブルなのです。

だから、告白することよりも、ほんとうはすごく覚悟がいるんですよ、誘惑ってやつは。てをつなぐ

誘惑するのに説明は不要

同じ「誘う」でも、もっと期待値も低くリスクも低いことに誘う場合はふつう「誘惑」とは言いません。

保険の勧誘、同好会への勧誘、講演会への勧誘・・・。

誘う先が「契約」だったり「団体」や「イベント」だったりする場合は「勧誘」ですね。この誘いにのることも、場合によっては非常に高いリスクがあったりします。サギみたいな保険だったり、危ない同好会だったり、洗脳イベントでやたらと高い蒲団とか買わされたりと言うリスクも、ときどきはありますが、ふつうは少ないものです。

勧誘する場合、たいていは、「こんな商品です」、「こんなことをする同好会です」、「こんな人がこんな話をする講演会です」という情報がついているものです。これは、誘われた人がその後得られるはずのメリットやリスクについて、具体的な事前説明があるということです。これがあるから、イエス・ノーが判断できるわけです。

ところが、誘惑が発生する状況では、決まって情報は少なく、事前に予想しにくいことを期待せざるえないのです。

結婚するにしても、「釣書き」の情報は幸せな結婚生活を保証するものはなく、宴会の三次会まで行ってもその人と付き合うとこんな楽しい気分になるなんて情報はほとんど得られません。
誘惑とは、事前に、メリットを具体的に約束できない行為なのです。いくら言葉で、こんな感じになるはずで、楽しくなると思うよ、といっても、それはあくまで「関係者の希望的予想」の範囲は超えられないのです。
極論すると、誘惑には、余計な「メリット説明」は不要なのです。説明などしなくても、相手がのってくれれば、近い未来に(数ヵ月後、数時間後に)、実証されることなのですから。

  • 注)「今私と付き合うとこんな特典があります」と言う合コンにおける自己紹介の文法が存在するという話もあります。これはその人の積極性や趣味生活を判断する材料にはなります。でも、付き合って楽しいかどうかは、相手とその人の相性などによるものですからね。事前にはわかりません。

こう考えると、

「黙って手を引く」という、シャイな人の誘惑の行為は、実は非常に正しい

のかもしれません。


「広告コミュニケーション」って「勧誘」?「誘惑」?

翻って、広告コミュニケーションについて考えてみましょう。

広告コミュニケーションの目的は、さまざまな定義ができますが、ざっくりと、

「ブランド」と「生活者」の間を情報でつなぎ幸せな関係を作ること

としておきましょうか。その定義の中で、一つ一つのコミュニケーションの目的はもっと具体的なものになることが多いのも現実です。

商品を試しに買ってもらうこと。ブランドのウェッブサイトにたくさんの人に来てもらい商品のことをもっとよく知ってもらうこと。企業のことをたくさんの人に認知してもらい社会的に信頼のできるブランドであると思ってもらうこと。その上で個人株主になってもらうこと。ついでに優秀な学生さんに就職活動で来てもらって採用できるようになること。などなど。

これらの目的をながめてみて、どうでしょうか。「誘われた人」にとって、「確実なメリット」があるものがありますか?たしかに、広告コミュニケーションですから、いろんな情報は「文字情報」「音声情報」として伝えているはずです。でも、それは「明らかなメリット」として約束されているものばかりですか?そんなことがないものが、ほとんどです。商品の効果効能については、さまざまな法律で言い方まで規制を受けていたりもしますが、そういうことも含めて、実はユーザーメリットを明言していないのが広告だったりします。

つまり、「広告」は「勧誘」ではないんですね、多くの場合。ほとんどは、「そのブランドと私の未来」は不確かなままです。その不確かな「そのブランドと私の未来」に関しての「ムード」や「気分」「印象」を、声や文字や画像や音楽を通じて過剰な情報の塊として届けているんですね。

だから「広告」は、「誘惑」のコミュニケーションなのだ、ということです。

今回は、どうも特別回りくどく、冗長になりました。ごめんなさい。
でも、このことをまず、ストンと納得・感得していただかないといけないので、くどくなりました。
次回からは、もっとかんたんに、「ノーハウ」本のようになっていきます。

★次回予告: 「成功する誘惑者への道」その1。日常的頻度が好意を作る。ちぇけらっ。
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(追伸1: 更新頻度を高めることにしました。週2本目標。今週中にもう一本の予定です)

(追伸2: 先週末誕生日を迎えました。歳は聞かないでください。こんなに長生きすると思ってませんでした。丈夫な体に生んでくれた母に感謝)