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2008/08/20

姿勢のやたら正しいある人が言っていました。

世の中には二種類の人間しかいない。
ぎっぐり腰の痛みを知る慈悲深い人と、そうではない人。

先日、私は慈悲深い人の仲間入りすることになりました。

yakushi

それも強烈なやつを知ってしまったので、ホントに慈悲深い人間になれるのではないかと、自分に期待しています。でも現状は、このように大人しく感想がいえるほど完治しているわけでもなく、今のところ、「慈悲深さ二級」というところでしょうか。

くーーっ。

まだ骨盤から背中にかけて、痺れてるぜ。中途半端な恋愛と鎮痛剤は、常用すると危険です。

そもそもなんで『ぎっくり腰』などというものになったのか。

私の話をする前に、この体験がもたらした豊穣な物語体験をご紹介します。

この痛みを知ってから周囲の人に話すと、慈悲深い人だけでなく、そうではない人の中にも、この疾病のドキュメンタリー・ライターがたくさんいる事がわかりました。

◎ご主人が先月慈悲深くなったばかりだけど幼子がいてほとんど放置プレーだったと笑うご婦人。

◎テーブルの醤油ビンを取ろうと手を伸ばすたびに慈悲深い体験を再発している母上をもつ女性。

◎夕餉の沢庵をかじっていて突然硬直し慈悲深くなり、そのまま箸と茶碗を持ったまま横倒しに床に倒れた妻をみおろしながら、「冗談だろ」と思わず言ってしまったことをいまだに悔いている男性。

◎休日にバイクでツーリング中、人気のない山中で転倒し慈悲深くなったため、大声で号泣しながら巨大なバイクを数時間にわたって起こそうと奮闘した男性。

◎浮気をしていたのに、慈悲深くなった夫のパンツをはかせているうちに元の鞘に収まった妻、、、。

どれもこれも、涙なくしては聞くことのできない慈悲深い実話です。

ある日突然、腰から背中にかけて激痛が走り、ひどい場合は立っていることも座っていることも、寝返りすらもできない状態になってしまう。そのきっかけは、通常言われるような、靴を履こうとして、くしゃみをして、など日常的な些細なこと。

私の場合は、普段よりも重い楽器を首からぶら下げて中腰姿勢で一日練習したことになるようです。

初日、午後から半日ほど練習。その日はやや腰が重い程度。温泉に入り、夕刻マッサージしてもらい、それなりに酒も楽しんで就寝。筋肉の消炎剤を塗ったので、なんとか熟睡。翌日、午前と午後、練習。夕方から、腰から背中に鈍痛が続く。床に座り込む姿勢ができなくなる。それでも、やはり温泉に入り、半身浴を楽しむくらいの状態。宴会では体育座りすら不可能なくらいの痛みになり、早々に就寝。

その翌朝。寝返りで激痛のため目覚める。そのまま、起き上がることも不可能に。
やたらと叫び声をあげて硬直する変な物体と化す。

ぎゃー、ぐー、けーっ。

なんとか四つん這いになり、深呼吸で息を整え、バンジージャンプよろしく一大決心で立ち上がる。何とか直立猿人になるものの、ちょっと姿勢を変えたところで背中の筋肉全体が攣ったように硬直して激痛が走る。

ごぇーーーっ。

そのまま顔をしかめ涙を流し硬直。
息もできない。
傍から見ると、中途半端な姿勢の銅像のようにみえただろう。
だけど、好き好んで銅像しているわけではなく、動けるものなら動いているのだ。
上野の西郷さんも意識があればそう思ったにちがいない。もっとも顔は別人らしいが。
そんなことを考えている余裕は、実はまったくないのがこの痛み。

ぐ、ぐ、ぐっひぃ、いぇーーーーい。

ゆっくりと筋肉の弛緩をまち姿勢を変える。

こんな状態が代わらず続くと、すべての社会的活動はできなくなる。
口だけうるさく動く、やっかいなお荷物として、その後自宅まで搬送してもらいました。
合宿仲間の方々に、深く感謝。

今回、実感したこと。

ぎっくり腰というのは、腰が痛いだけではない。

身体感覚というのは個人差が激しいけれども、想定していた範囲での「腰」が痛いだけではないのですよ。
もちろん、通常あまり意識したことのない「腰骨」は、指で触るだけでがんがんに痛くて、もしかして全体が腫れ上がっているのではないかと思うほどの炎症をおこし、ちょうどお腹の鳩尾(みぞおち)の後ろ側の背中まで、びんびんに痛くなるものなのです。気がつくと、左足の付け根も痛く、左足全体が少し痺れていたりもします。もはや「痛みのデパートです」(って例えがすでに死語だ)。

一週間、鎮痛剤やシップでごまかし、暇があると床に寝そべって過ごした甲斐もあり、
本日はなんとか社会復帰しております。

でも、この話をすると、さまざまな「お得な情報」をくれる人が多く、実に面白い。
今、一番興味をもっているお得な情報は、以下のようなものです。

「品川の××式」の整体治療院は、「手翳し」のみでぎっくり腰の痛みをすべてとる、らしい。
新興宗教ではあるが布教することはなく、ありがたいご利益がえられる、とか。
すでに、同僚で理屈っぽく猜疑心の強そうな人々(I 氏、T氏、H氏など)が体験済み。
絶対にお勧めといっている。

ハンドパワーの強さを体験しに、いくべきか。慈悲深さ二級の私は、悩んでいます。
行ってこそ、慈悲深さもより深くなるような気もします。誘惑されてます、とっても。
でも、この気持ち、もう一種類の人間にはわからないでしょうね。

私の背中を見て、何かを感じる人間がいるとは思えませんが、
異常に姿勢が良くなったことだけは確かな、今日この頃です。

※冒頭のお写真は、明通時 木造薬師如来坐像 です。ありがたい。

(「痛がる背中の記憶」了。BGM 「背中まで45分」沢田研二)

2008/07/31

 

ゆるくてゲローな名人の言葉

小中学校・高校の授業内容で、成人になってまで役に立っていることというのは、計算の基礎能力や社会常識に関するものを除いては、実は多くないのではないかと思っている。だから不要だというわけではなく、社会の多くの先達に関しての知識は、人によっては大切な「人生の知恵」になっていることもあるのだろうというお話。building

私の場合は、今でもよく思い出すのが、「高名の木登り」というお話。今でも、教科書にあるのだろうか。出典はご存知「つれづれなるままに」だらだらと、ゆるいゆるいことを書きつらねることで、日本の「古典」の地位を獲得した今ならアルファブロガー吉田某の「徒然草」。実に243話にもわたる大作、高名の木登りの話は、そのうちの109話目。ご存知の方も多いだろう。弟子が木に登っているのを見守る名人。もうすぐ着地というときになって初めて「気をつけろ」と忠告する。なぜ、それまで忠告しないで、ほとんど安全な低い場所になってから注意したかという問いに、

あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ
(事故は、簡単なところになって気が緩んでおきるものだから)

と名人が答えるという話。名人とはほんとうに人間心理をよく知っているなぁと感心するというオチ。
余談ですが、作者吉田某は、この名人に対してこう記述している。「あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり」。あやしきゲローですぜ。名人とはいうものの敬意なんて微塵も持ってないことが明快です。おまけに自分の生活に読み替えて、「蹴鞠のときも難しいのはクリアできてもミスするのは簡単なボールだもんなー」と締めくくってます。まじめなのか、目線が高すぎるのか。

この話、私はなぜか気に入って、ことあるごとに思い出し、まじめに自戒にしてきました。

高校時代、日本アルプスに登山するときもこのゲロー名人の助言を意識していました。3000メートル級の頂上へのアタック時だけでなく、500メートルクラスの近隣の山へのトレーニング登山のときも、天候のチェック、道に迷ったときの行動シミュレーション、道が崩壊している場合の避難路の事前設定などなど。(おー、書いて見るとかっこいいなー。こんなことホントにやっていたんだろうか、と他人事のように思ったりして。)実は、このおかげで、命拾いをしたことも実際にあります。1000メートルに達しない低い山を散策中に大雨に出会い、道がなくなり、春なのに体温を雨に奪われ、遭難しかけたことがありましたが、事前にチェックしておいた山小屋にたどり着き、事なきを得ました。

社会人になってからも、プレゼンや報告会の直前に、今一度準備に怠りがないか、確認し、質疑応答のあとをどう締めくくるかという台詞にも留意していたように思います(最近は、このあたり、ゆるゆるですが)
海外旅行などでも、帰国する空港までは気持ちが張っているものの、帰り道では緩みます。自宅にはいるまでが旅行だと、気を引き締めてクルマを運転するなど、すべては「高名の、だけどゲローの、名人の助言」に従ってきました。

おかげさまで、この歳まで、なんとか長生き(?)できております。

行動を想定するとき、その最後の瞬間まで目を行き届かせよ。
ゆるいゆるい吉田某に、ひっそりと感謝する次第です。アーメン。

asagao

あと1%、それも半分

ところで、この助言、かってに自分なりに変換して使っています。

99%が、やっと半分。      (あと1%、それも半分。)

バレーボールの試合や、高校野球の試合を見ていて、痛感しますよね。マッチポイントを迎えたからといって、あと一ポイントがとれずに逆転負け。九回ツーアウトまで勝っていたのに、連打されてサヨナラ負け。よくある話です。
ほんとうに力が必要なのは、この「あと1%」を乗り切ることなのです。よく「勝ち切るチカラ」とよばれるものですね。
この1%へのチカラが、一流のプロはすごい。

じぶんでも仕事や何かを作る場面では、(いつもではないですが)気にするようにしています。最後の最後に気がついて直したことが、実は全体を凄くよくしていることもあったりするわけです。たとえば、こういう多くの人に見てもらうのを想定した文章の「校正」。いったん書き上げて、一安心。でも、それから誤植や言い回しの不備を修正したり、全体のレイアウト上の「見栄え」を気にしてみたり。そして、使う挿絵の大きさをいじったりして、完成するわけです。公開しても修正できるのが、オンラインテキストのいいところでもあり、悪いところでもあり。紙の媒体なら、最終締め切りがあり、以後は直せないので「あと1%」がわかりやすい。デジタル媒体は、「終了してからでも修正可。場合によっては削除も可」というものなので、この「あと1%」の緊張感が、紙よりも希薄です。でも、読む側から見れば、同じ。
読むときに掲示されるテキストが、唯一読まれるテキスト、なのですから。
こう考えると、デジタルテキストの場合は、自ら「あと1%」を律することが重要ですね。

こう書いてきて、遅れがちな「お題提出」が、ほぼできそうで、ほっとしています。

とはいえ、この時点で「やっと半分」。これからが「あと半分」です。
気合いをいれなおして、「勝ち切るチカラ」をみせなきゃ、ですね。

それにしても、この酷暑の現代都市生活、ゆるいゆるいゲローな吉田某なら、なんと綴るのだろうか。
つれーつれーと泣きながら書くのだろうか。ちょっと想像してみたりします。
また、「有名な木登り名人」という人の、職業はなんだったのでしょうか。林業、炭焼きの類かもしれないけど、もしかして、忍者?。時代からすると、陰陽師に通じるマジシャン?。それともサル?
すでに、私の脳細胞は、「半分」熱で溶けかかっているかも。いや、50%じゃなくて、99%。

今の気分は「半分」休みたい。パリの人みたいに。今日から二ヶ月ほど。

(「50%は半分ではない」了。BGM:『夏休み』よしだたくろう)

2008/07/16

casa1アンティークな古都に遊ぶ

夏です。夏休みです。みなさんは、楽しい夏休みをお過ごしですか。

私は気分だけは、古都でのんびり過ごす予定です。実際に訪問できるかどうかはほとんど絶望ではありますが、日本およびヨーロッパの古い都市で、古い建物や古い喫茶店や古い音楽や古い店員を楽しめるといいなぁと、思っています。

日々、とにかく「三ヶ月先のテレビ番組」、「半年先の広告キャンペーン」、「一年後の新ブランド・新商品」など、先へ先へカレンダーをにらみつつ過ごしている身としては、「近未来のこと」は、とにかく息苦しい。無理やりテンションを上げざる得ないわけです。新しいお店がどんどん開店し、季節限定の新しいイベントが開催され、新しいモードも気にしながら、建設ラッシュの都会を歩いている日々は、ストレスフルー、なわけです。

だから、古いものが、いいのです。新しいことが善で、古いことが悪であるというのは、たんなる偏見です。目新しいことばかりに目を奪われていては、眩暈のうちに人生を終わらなくてはならないのです。古いことは、古いものは、単に古いだけでは不十分ですが、新しいことや、新しいものと、すくなくとも同じ位には、価値があるはずですから。古い町に出かける楽しみは、こんな古いものが今も残っている、残されている、ということを知り、その長くこの世に存在しているものから、その蓄積された「気」を受け取る楽しみなのです。

若く、新鮮で、ぴちぴちとした、まぶしいオーラも、もちろん嫌いじゃありません。生命の活力をくれます。だけど、古く、腐る寸前の、甘い腐臭を漂わせた、魅惑的なオーラに、どっぷり浸ることも、これはこれで、至福のときであります。ふむふむ・・・。
話がそれました。古いものを訪ねることで癒されたい、それが今年の私の夏のテーマです。

時は、私とともに、在る

古い古いといいますが、いつごろからが古いのでしょう。

十年一昔、とかつては言われましたが、最近の世の中の変化、騒動からすると、感覚的には一年一昔でしょうか。アワタダシイ世の中です。そういえば、10年ほど前には「ネット・バブル」という騒動もありました。インターネットが浸透する段階で、情報サービスベンチャー企業が雨後の筍みたいにたくさんでてきて、あるものは陽の目を見ることもなく腐り果て土に帰り、あるものはポータルと言われる不思議な情報企業に高値で買い取れたり、あるものは生き延びて生活道具として欠かせないサービス企業になったりもしています。今となってはふりかえると、あの頃は「祭り」でしたねー。「祭り」熱にうなされて人生変えちゃった人もいましたねー。ほんとに、今は昔、です。park

想い出すに、その頃は、「ドッグ・イヤー」とも呼ばれてました。その心はというと、犬が人間よりも7倍早く成長し時間を使うっていうんですね。時計が動く一年分が、実は七年分の内容を含んでいるということだとか。その頃それを聞いた私は、思いました。まあ、自分のことを「犬」とおなじだと、すすんで認めたい人がこんなに多いなんて、なんていう世の中だ。「犬のように働け」だって。やだやだ。私は人間の時間を生きてやる。ってね。
まぁ、あの頃「犬」になった人が今成功者になってたりもするんでしょうけどね。それはそれ。時間は、常に私とともにあるのですから、気にしない気にしない。
そんなことを言い続けているうちに、私という人間がどんどん古くなってきているというのも事実なんですけどね。

人は「区切り」をとおりすぎるだけ

百年は一世紀。そういえば10年程前には、「世紀末」ブームというのもありました。西暦ですから、キリスト教徒以外には本来関係ないはずなんですけど、どうもこの「末」というのが、魅力的だったんでしょうねぇ。世も末、明日は世界が滅ぶかも、っていろんな刹那的で、オドロオドロシイ出し物が登場して、それはそれで楽しめました。といっても、たかだか10年前です。今15歳の人からすれば、物心ついてから21世紀だったわけですから、どんなことも咽もと過ぎれば暑さも忘れます。いろんなブームも、いろんな「現在」も、過去になっていくわけです。過去に囚われて生きることは詮無いことです。

人の生活の記憶といっても、実体験だけで見ると、せいぜい数十年から長くて90年程度。なかなか100年は生きられません。だから、生きられなかった「過去」の「美」を、その時代にそれを作った人のことを含めて楽しみたい、というのは人間の根源的な欲求なのかもしれません。自分の人生と無関係に存在した、人間の所作としての品。それを「骨董品」だと、かってに思っていました。ごく最近まで。

「100年」という条件cherch

欧米のオークション業者にとっては「アンティーク」というのは完成から100年以上経過しているものという定義があるそうです。へーっ、知らなかった。漠然と昔のものという認識だったのが、実は恥ずかしい。
あっ、これって、eBAYとか、ヤフオクのことじゃないですよ。サザビーズなどの美術品オークションの話です。ヤフオクで、1960年代の手巻き時計を「アンティーク・ウォッチ」といって出品しても、とくに問題ないはずですし、詐欺だとも思わないでしょう。この「100年たったらアンティーク」とは、ある特定の人たちの中での定義に過ぎないんですけどね。でも、100年。これは、まいった。長すぎる。
ちなみに、この定義の中には、アンティークに至らない(100年たっていない古さの)ものは「ジャンク」とよぶそうです。あっ、これもヤフオクとは違う用例ですね。ヤフオクでジャンクといったら、通常の機能を発揮できないガラクタ、という意味ですものね。たとえば、「最高級アメセルマーク6 66年製 ジャンク」となると、最後の4文字がないと60万円から150万円で取引されるものが、これだと数千円から数万円どまりでしょう。ジャンク、恐るべし。

さて、2008年現在で、アンティークなものは、1907年までに完成しているものということです。そういう高級美術品オークションに「骨董品」として出品できるものはなんなのか、気になります。ということで、調べてみました。

住居はかろうじて合格 公園・教会は落選
casa2

今年の夏、できれば行きたい(でもたぶん行けない)私の大好きな街、スペイン・バルセロナ。
モンジュイクの丘の緑を楽しみ、ホアン・ミロの白い美術館で心を洗い、下町のピカソ美術館の陰鬱な「青」に戦を思い、イカのフリットなどの地中海料理にワインで至福の時間を、港近くのバルで過ごす。ホント、サイコー、です。たぶん行けないけど、バルセロナの中心街,見慣れた雑居ビルの中にアントニオ・ガウディ作の二つの集合住宅(一番上の写真とこの上の写真)があって、車からでもウヒョーと声をあげてしまいます。この二つの建築物はかろうじて、100年経過している。アンティーク・ガウディです。でも、それよりも有名なガウディの公園、ここもタイルアートが楽しくて、かわいいんだけど、たぶん行けないけど、ここは残念ながらあと6,7年は「ジャンク」です。一番有名なサグラダファミリア教会は、いまでも建築中ですから、アンティークなわけもなく、でも塔の先まで上がって眺める細かいアート仕事には、ほんとに感激するものです。でも、たぶん、いけないんですけどね。

古い人は、大切に。優しくしてね。

100年以上前の人間の諸作に対して、骨董品と呼ぶかどうかは別にして、大いなる敬意をもって接したいものです。100年以上経過して、少しは進化しているはずの人間として、作者の意図と熱意と感情と感覚を、すべて受け止めてみたいものです。もっとも進化なんて、個人的にはまったく信じていなかったりもするんですけどね。愚か者は常に愚かであり、想像力のないものは常に想像できず、価値がわからないものはわからないままなのです。瞬間にしか生きていないその愚かな生物は、偉大な骨董品やその候補に「愚かな自分の名前」を平気で書き込んだりするものですから。かりに、今「モナリザの微笑」を渋谷の交差点で公開すると、信号一つ分で落書きされて顔が見えなくなることは間違いありません。かように、人間は進化なんかしないものなのです。一般論としての進化なんて忘れて、自分自身の進化のために、偉大なる諸作の前では心を無心にしてすべての波長を感じたいと、日々古くなる私は思ったりするのです。

夏休み、このドッグイヤー300年余の骨董男と和んでくれる方、いらっしゃいませんか。日本とヨーロッパの古都を(気分だけ)めぐり、人類の偉大なる遊興について語りましょう。ぴちぴち系、腐臭系、進化系、突然変異系を問いません。百年前の、前世の恋について、想像をめぐらしてみませんか。

※写真は、Wikipedia Commonsからお借りしております。ありがとうございます。

(「百年越しの恋」了。BGM:「元気を出して」島谷ひとみ+押尾コータローguiter )

2008/07/02

NY2
オールスターゲーム、どっちを応援しますか

プロ野球の夏といえば、アメリカも日本も「オールスターゲーム」ですね。
アメリカでは今年ニューヨークが舞台ですが、ヤンキースも例年にない不調で、
一体何人の選手が晴れの舞台に立つことができるのでしょうか。

ところで、日本もオールスターがあります。あなたは、どちらを応援しますか。

ひいきのチームがある人にとっては簡単ですが、普段興味のない人は「どっちでもいい」でしょうか。

さて、想像してみてください。

あなたは繁華街を歩いていて、テレビ局の撮影クルーに遭遇しました。そこで質問されたとします。
「今度のオールスターゲーム、どちらを応援しますか。このシールを応援するほうに貼ってください」そういわれて丸い赤いシールを渡されます。A4サイズほどのボードの右に「セントラルリーグ」左に「パシフィックリーグ」、どちらかに貼らないと許してくれません。親切でサービス精神のあるあなた、とりあえず興味もないけど、どちらか(仮に「パシフィックリーグ」)に貼りました。で、理由も聞かれて、「なんとなく、楽天のマーくんがおもしろいから」
などと適当に答えます。「明日の早朝の情報番組で紹介します」といわれ、その場は終了します。もともと野球に思い入れのないあなたは、家族にインタビューを受けたことを伝えただけで、翌日早起きすることもなく、そのインタビューのこともすっかり忘れてしまいます。

さて、その週末、偶然オールスターゲームのTV中継をみています。
「どちらかを応援してみようよ」と家族からいわれます。
さぁ、あなたが応援するのはどちらですか。セ・リーグ? パ・リーグ?

何も考えないと、たぶん「どちらかというとパリーグかな」となる確率は高いのです。
え?それって、ほんと?と多くの人はおもうでしょう。でも、実際に実験するとそうなのです。

実はこれ、アメリカの社会心理学会では統計的に有意に差があるとされている「定説」の応用例です。
社会心理学というのは実に守備範囲が広い学問ですが、その中で中心領域とされている『態度変容』に関する研究の中にあるものです。

『態度』とは、行動を起こす元になる心理的な構え方

わかりやすくいうと、

好意を持つ、選択しようと思う、同意する、支持政党を決める、などの
「特定の対象に対するベクトルをもった気持ち」

のことです。その気持ちを明確にもつことを『態度変容』とよびます。このオールスターゲームの応援チーム選びも、『態度変容』のひとつです。民主主義社会、大衆消費社会において、この『態度変容』というものは、その社会の根幹に関わることなのです。

資本主義・民主主義の根幹を揺るがす領域

freedom大げさではありません。
さきほどの支持チームの候補を「クリントン」と「オバマ」に変換してみてください。「共和党」と「民主党」でも、「自民党」と「民主党」でも、「巨人」と「阪神」でも、「トヨタ」と「日産」でも、「JAL」と「ANA」でも、「ヤフー」と「Google」でも、なんでもいいのです。ね、民主主義政治体制、資本主義経済にとって、非常に大切な領域なのだ、と気づいてくれますか。

どっちでもいいし、興味ないという方もいらっしゃいますね。それはそれで結構です。でも、こういう理論は、悪いやつほど勉強していて、あなたをおとしいれるために使ってくるかもしれません。キャッチセールス、結婚サギ、いんちき新興宗教、消防署の「ほう」からくる人、、、、。これは、使う目的の差でしかなく、大統領選挙などには社会心理学者がコンサルタントとしてついているという話もあるくらい。

これでもあなたには関係ないですか。そうですね。お時間をいただきありがとうございました。さぁ、「社会心理学」に対してまったく関係ないと「態度」を表明された方が、このページから出て行かれますよ。この手の話題にであったらまた「わたしは関係ない」と思うのでしょうね。特定の対象を「拒否」することも立派な態度ですからね。ありがとうございました。(^_^)

さて、話を戻しましょう。なぜ、もともと、それほど興味もないことに関して、このように「態度」が片方に傾いていくのでしょうか。結論をいうと、「自己統一性維持の気持ちが働くから」です。すごく説明を省力すると、そういうことです。もともとどちらを支持してもそれほど結果の影響が大きくないと思うと、過去において他者に対して(半強制的であったとしても)態度表明をしている場合は、その態度を裏切らない態度をとり続けようとする、ということなのです。

自分の意見は常にその時点で自由に選択している、という感覚で日々生きているはずですが、
実は「自分の過去の行動」が今日の選択を規定していたりするものなのです。
そう、自分で自分を知らず知らずに縛っているわけです。

「自縛ショー」としての日常生活

前述の応援チームを選択する例の場合、「テレビ番組の取材に答えた(もしかすると大勢の人に自分の態度表明が伝わっている)」ということが非常に大きく作用します。これが「友達一人に話しただけ」だと、影響は少なくなります。世間、大勢の他者が、自分の選択を知っている(知る可能性がある)ということが肝心なのです。これは、事実として「その映像が放映されて大勢が見た」かどうか、が大切なのではなく、答えたあなたがそう思っている、ということが根幹です。極端にいうと、偽のTVクルーの取材だったとしてもあなたがパリーグを応援する(高い)確率は変わらないのです。なにがあなたの選択を規定しているのか。それは「他者があなたをどう見ているとあなたが思っているか」なのです。『他の人の瞳に写った自分の像』、それをあなたは無自覚に想像し、日々の判断の材料にしているのです。ほんとうに他の人はどう思っているかを知ることもなく、です。

これを、自分で自分を縛る自縛ショー、と呼ぶことにしましょう。
無自覚な選択において、われわれはこの側面では、程度の差はあれ「M」体質なのですね。

「わたしはドSよ」と明言する方も、この領域では「M」なのです。
だって、昨日の自分と今日の自分が同じもので、自分は何年たっても自分なのだと信じているし、自分が統一したすっきりしたわかりやすい存在だと思うことって、(あたりまえすぎますが)うれしいでしょう。

過去の自分、それを知っている他者、というものを「縄」にして、今の自分をギューギューに亀甲縛りしてるのが、現代社会を生きる、統一した自己をもつ、正常な社会人の、あるべき姿なのですから。ね、あなたも「M」、私も「M」。みーんな、「M」なのです。(^_^) ついてこれない人は、見捨ててもいいですよ。さすがに(^_^)

実は、この「自縛ショー」であることを知っている人が、うまく「大衆操作」しようとしたりもするわけです。手法は合理的です。あとは「目的」が問題なのですが、それは別の判断基準の議論なので、ここでは触れないでおきましょう。

とりあえず、この「自縛ショー」としてのあなたの日常生活の態度に関して、見直してみることだけをお勧めしておきましょう。

ちなみに、「M」な人は、いろんな言葉で責められるのを好むようですね。
たとえば、「社会に出ると立派にしてるんだろ、それがどうだ、もう××歳なんだろなんだその幼稚な欲望は、悪い奴だなー。反省しなさい」とか、「この社会が駄目になっているのは誰のせいなんだ、この地球が破滅に向かっているのは誰のせいなんだ? お前も含めた人間のせいだろう。自分の快楽ばかりを考えて、周りをないがしろにしてきた結果だろう。そう思わないか。ほら、誰が悪いんだ? おまえだよな。認めなさい。反省しなさい」とか、「あなたは存在自体が罪です。原罪をみとめますか?」とか、いろいろですよね。
あー、こんな風に世相を見ていると、最近の世の中って、真性の「M」体質の人にとっては、日々カイカーンなのではないでしょうか。

とはいえ、「自縛」しすぎて、息もできなくなって、瀕死状態になるのだけは、ご注意くださいね。
ほんとうにうまい「縛りのプロ」は、このあたりの境界をコントロールできるところが、すごいのですから。

ところで、あなたを縛っている、あなたの「縄」、しっかり見えてますか?

(「セルフボンディングの選択」了。BGM:「M」プリンセスプリンセス)

2008/06/24

JVCHH

さぁ、今年の「夏フェス」の準備はオーケー?

夏です。梅雨のある国と地域だけでなく、初の黒人大統領を選ぼうという国でも、その隣の国でも、六月からすでにジャズ・フェスティバルのシーズンです。梅雨のない国ではすでにもう夏なのです。汗にまみれながらビールを飲みながら、大きなホールや緑の公園や街角で、レッツ・ミュージックな季節なのです。温度計の上昇とともに開放感もあげまくって、ひと夏の経験をするにはもってこいのステージです。梅雨のある国と地域の住人の方も、まだ見ぬ今年の夏フェスの予約はそろそろ手をつけないといけない季節です。日比谷野音、信州、北海道、国際フォーラム、、。まだ手を打っていない人は急いで急いで。
というわけで、なにゆえに「夏フェス」はこんなにも盛り上がるのか、というお話し。
私は音楽を聴くのはそんなに趣味じゃないし、関係ないかも、と言う方。これは趣味の問題ではないのです。フェスティバルというくらいです。お祭りなのです。社会的、文化的に、人々に開かれたイベントなのです。単なる「でっかいコンサート」ではないのです。サムシングエルスが魅力なのです。
もしお気に入りのお友達から誘われたらどうしますか。ビールを飲んで、だらだら音楽聞いてればいいから、気持ちよくて楽しいよって。ね、関係なくないでしょ。だから、実はみんなの関心事であるはずの夏フェス。そのサムシングエルス。
それがなぜこんなに誘惑的なのかということを、歴史的にといっても数十年のレンジですが、実体験に基づいてお話ししたいと思います。
夏突入特別企画。夏フェスのサムシングエルスの快楽をみんなで共有しよう、というお話し。

緑の街に舞い降りて。リゾート・フェスのサムシングエルス

話はバブル期以前、80年代までさかのぼります。
まだケータイもなく、もちろんiPodもインターネットもない時代。CDが颯爽と登場し、レコードを駆逐していた時代です。
ジャズの屋外コンサートが日本でもいろいろ企画されていました。情報誌が勢いがあり、いかにおしゃれに男女で過ごすか、が一大テーマになっていた、そんな牧歌的な気分が蔓延していた頃の話です。

あるビールブランドがスポンサーになったジャズフェスティバルがありました。斑尾ニューポートジャズフェスティバル。
冬場はスキーリゾートとして集客できても、雪のない季節に若者をどう集めるのかがテーマになっていた信州のリゾートエリアがその舞台になりました。これが、実に楽しいリゾートイベントだったのです。スキー場のスロープの降りたところに作られた屋外ステージに、ビバップの大御所トランペッターや大物ディーバがにこやかに演奏するという贅沢なライブ。それを、スキー場のスロープである雑草生い茂る斜面に、思い思いに座り込んだり寝ころんだりしながらビールを飲みながら拝聴する。昼間から夕方にかけての過ごし方。汗だくなんだけど、標高が高いこともあって木陰などでは涼しい風も吹いていて、だらだらと汗を流しながらも、だらだらと男女入り乱れてごろごろと、昼間っから雑魚寝状態なわけです。この開放感、ゆるーい感じ。今思えば、屋外音楽フェスティバルの「快楽装置」としての一つの典型がここにありました。
このあと音楽の種類は多様になるものの、「スキー場のスロープで聞く屋外ライブフェスティバル」は、当時軟派スキー場の代名詞だった「苗場」なども舞台にして、現代まで脈々と続いているのです。

ちなみに、お客はこの数日スキーペンションに宿泊し、午前中は、来日しているクロスオーバーのミュージシャンと「テニス」をする企画があったり、深夜はロッジでのジャムセッションを深酒しながら楽しむという、おしゃれでだらだらを満喫できる企画だったのです。

それにしても、

『スパイロジァイラとテニスをしよう』

という企画、参加した人は想い出になっただろうなぁ、といまでも感慨にふけることができるすごい企画でした。
(ここで笑える人、ありがとうございます。暖かい声援に感謝)

badplus

夏フェスは、ゆるくなきゃ、つまんなーい。

ポイントは、「ゆるさ」です。
このゆるいこその快楽。それが夏フェスの醍醐味、チーズ味、コクの元、だったのです。
首都圏周辺の遊園地敷地内での屋外ライブは、やたらと大人数がひしめきあうものです。座席が決まっていたり、立ち見でブロック分けがあってたち続けていたり。それらと根本的に異なるのは、このだらだらと寝っ転がって、だらだらビールなんか飲みながら、ときにはべたべたしながら、最高の音楽を楽しむという「弛緩方向への快楽」を満喫できることだったのです。
これは、実に夏の休日らしくて、いい!と思いませんか。海水浴や、花火大会に通じる、わくわくがありますよね。

ちなみに、今年の夏も開催される「東京ジャズ」。これも開催当初は、じつに夏フェスらしくて最高でした。
当初数年は、調布のサッカー専用競技場を会場に、真っ昼間から夜深くまで開催されていました。
昼間は灼熱地獄。たぶん45度は軽く超えたであろうステージで上半身裸になりながらサックスをふきまくったジョシュア・レッドマンの姿を今も忘れません。褐色の筋肉質なカラダを遠目に見ながら、「ごめんなさい近くで見れなくて、でも直射日光の下では熱射病で倒れるので」と小さく謝りつつ、スタンドの木陰でビールを飲んでいた自分を思い出します。さすがにアリーナ席は人もまばらでした。あのときは悲しかっただろうな、ジョシュア。ごめんね、ジョシュア。あのときからファンだからね。・・・。

その時の観客席。そこはコンクリートでしたが、スキー場のスロープとおなじ環境だったのです。
汗はダラダラ、首にはタオル巻いて、帽子にサングラス。昼間っからビールのんで酔っぱらってダラダラ。夕方からちょっと涼しくなって、暗くなれば至る処で男女がべたべたし放題。東京ジャズは、スキーリゾートの夏フェスと同じ、「ゆるい開放感」満喫の、隠れたデートイベントでもあったわけです。場所を都内のおおきな箱に移してからは、品のよいコンサートになってしまいました。さらに、昼の部、夜の部とわけて入れ替え制にしてしまっては、この「ダラダラ・べたべた」するまで酔っぱらう時間も余裕もなく、夏フェスとしての「サムシングエルス」が消滅してしまったのです。ほんとに残念。
今にして思うに、あの「東京ジャズ@味の素スタジアム」は、すごいイベントだったなぁ。今世紀最初の奇跡かもしれない。うん。ほんとに惜しい。
関係者の皆様、今年から人口減少にはいるこの国の恋愛装置として、ぜひこういう「ゆるい開放感」の夏フェスを数多く企画していただきたく、本気で思っております。実際のご相談は、JunkStage編集部あて受け付けております。
http://www.junkstage.com/ticket.php

さぁ、今年も夏フェスに、ゆるくてゆるくてとろけそうな、サムシングエルスのある快楽を探しに行きませんか?
ケータイなんて、細い線で結ばれているだけのせこい安心装置なんて、ひととき忘れて。
そうだ、夏フェス、行こう。

(「溶解の快楽。夏フェス」了。BGM「リゾ・ラバ」爆風スランプ)

2008/06/10


ku front
初物が好き、いいよね

成熟した大人にとって「初物」といえば、一足早い季節の味わい。初鰹、初松茸、初西瓜、初蟹、、、。季節の到来をほかの人よりもちょっとだけ先に味わうという贅沢。いかにも、風流でよろしい。季節を意図的に演出するための、フライング。「旬」の人為的な前倒し。通常より高価でも許容され、その行為が賞賛される、無理矢理な贅沢。地球温暖化が「温帯性気候」自体を破壊しつつある現在。それでもこんな風に「季節の扱い」にこだわる姿勢こそが、この国の文化だ。

世界でも、「初もの」に価値をつけるものは沢山ある。ボージョレー・ヌーボーしかり。ただし、それは「初荷」という「収穫」もしくは「デビュー」のシンボルだ。収穫を祝う祭りは世界各地にあり、日本にも多くの祭りがある。これは「収穫」という社会的価値を祝うイベント。一方、この国における「今年初の(ちょっと無理した)季節ものを楽しむ」のは、似て非なる価値、文化的な価値である。もっというと「イメージの消費」。

「初物」は、小宇宙に見立てられた、食卓の空間における「季節の始まり」。すなわち「その年の初めての季節」という「イメージの消費」を味わうもの。さすが、生産活動に従事しない「貴族」が開発した「精神文化」をもつ国だけのことはある。1200年も前から、和歌という言葉遊びで、ものの見方の優劣を争ってきただけのことはある。その、非生産者の視点からの、季節感の楽しみ方「上級編」の一つとして、「初物」の楽しみ方があるのだ。ワインの初出荷なんていう当たり前の祝い事とは、ラベルが、いやレベルがちがうのだ。くぅーっ、ホントに、いい国に生まれたのー。

初めての経験は、初めて故に、かっこわるい

あなたは、初めて海外旅行をしたときどんな経験をしたか、覚えてますか? 仔細に記憶している人もいるかも。でも、私は、実のところ、ほとんど覚えてない。海外旅行も回数を重ねるうちに、楽しい想い出も増えていき、過ごし方も慣れてきて、楽しみ方自分流にもなっていくもので、そうしているうちに、初めての体験それ自体の記憶が薄くなっていく。とはいえ、誰でも「初めて」はあったはずだし、かっこわるい経験もしているにちがいない。

恋愛だって、海外旅行だって、性体験だって、会社勤めだって、結婚生活だって、育児だって、なんだって、初めてのときはあったはずだし、かっこわるいことだって多かったはずだ。でも、そんなのは初めだけ。多くの体験は、複数回経験していくことで、ちがう楽しみを発見して、盛り上がったり盛り下がったりしながら、日常生活の中に堕していくものだ。初めての時がいくらかっこわるくても、すぐに別の欲望と快楽を発見していく中で、初体験は「過ぎ去りし日」として「心のアルバムの1ページ」になり、心のどこかにしまい込まれるのだ。かっこわるく、不安でどきどき過ごした体験をいつまでも覚えておくのは、それはそれで難しかったりするものだ。振り返るに、ふだんの生活のなかで、「初めて」話は、意外にしないしね。ふつうは、奥底の棚の中にしまい込まれている記憶だったりするものだ。

恋愛だって、海外旅行だって、性体験だって、会社勤めだって、結婚生活だって、育児だって、、、。そして、しまい込まれた記憶を呼び覚まそうとするとき、快感だった場面の感覚だけを、選択的に思い出しがちだから、必要以上の「美化」が「初体験」に施されることになるのだ。ほんとうは、不安だったはずだ。混乱もしたはずだ。だから、その行動はすごく、かっこわるかったはずだ。だけど、実際にはなかなかそんなことは思い出せない。美しく、懐かしく、かなり美化された記憶に変身していたりする。自分の体験の記憶とは、そういうものなのだ。

「未知」から「既知」への移行、もしくは、それ以上

成熟した大人文化(ってくどいなぁ)を大切にする社会では、「初めての体験」は、『成長物語』というパターンの映画や小説の中での「未熟さ」のシンボルとして、あつかわれることが多いように思う。今やりっぱな紳士淑女になっている人でも、その成長期にはこんなにも恥ずかしく、こんなにもかっこわるい場面もあったんですよ。アハハ、初々しくていいじゃないですか。そんな位置づけで「初体験」を描くことが多いように思われる。知らない状態から、知っている状態への「移行体験」としてみれば、それも理解できる。でも「初体験」は、それだけではないはずだ。

「あやうさ/はかなさ」の価値ku cushon

「初体験」を特別視してしまう傾向が、この国のメディアにはあるような気がする。芸能人相手のトーク番組で、どんな大人にも「初恋の相手は?」などと平気で質問していたりする。実は、非常にプライベートで、デリケートな質問なのだ。それを、欧米のシネマスター相手でも、平気で質問して困らせたりしている。こういうのを見ると、この国の人々は脳天気だなぁ、とつくづく思う。

「旅慣れて成熟することで人間的な魅力も増す」と考える人から見ると、こういう「初体験」重視のスタンスは、とっても子供っぽくも見えるかもしれない。とはいえ、季節のフライングに「背伸びの美学」をみる人たちからすれば、「初めて」であることの、危うさ、儚さ(はかなさ)こそが、美しいのだ。かっこよくなくてもいい、若い人が淡い熱を不器用に扱っている姿を見るだけで、ほほえましくも、うれしくなる。それがこの国の人をして、「初体験」を質問してしまう所以なのだろうと思ったりもする。

「初物」の「刷り込み」の効果

鳥類などの新生児は、外界を初めて認識できるようになったときに、たまたまでも、そばにいた成人を「親」と認識するらしい。俗に言う、「刷り込み」である。初めての個体認識が、欲望の対象としての「群」の代表として認識されるというお話し。

人間においても同様だとすると、初めて恋愛対象として見た異性(もちろん、たまたまそのとき目の前にいただけかもしれない個人)を、「異性」の代表として認識し、欲望するようになるということ。要するに、「初恋の相手」は、その後の恋愛対象の個人に対する「ものさし」として機能するのではないかという仮説もたてられるかも。初恋の相手が持っている特徴は、その関係が終わったとしても、新たな相手を値踏みするときに、ある基準として作用する。その結果として、どこかしら初恋の相手と共通点のある異性を探している自分を見つけるということなのです。ku hajime

さぁ、みなさん。胸に手を当てて、思い出してみてください。初恋の相手を。
何、思い出せない? じゃ、もっと胸に手をしっかり当てて。あっ、そこのお嬢様、揉まなくても結構ですから。揉んだからってサイズアップする訳でもないですから。手じゃなくて頭を働かせましょう。

さぁ、思い出せましたか。では次に、その後の恋愛対象になった異性の顔を思い出してください。あまりにたくさんで思い出したくないですと? 思い出せる相手だけでいいです。どうですか? 初恋の相手から「刷り込まれて」いませんか? 初恋の相手とどこかしら似ている異性に惹かれていたりしませんか?

なかには、そんなこと全くない、という方もいらっしゃるでしょうね。一期一会、それも人生です。

個人的に、思い描くのは・・・
和服を休日に着るのが普通で、現代音楽が趣味で、ピアノが弾けて、明治の近代詩人が好きで、スポーツは嫌いで、ソプラノのきれいな声で、情熱的で、小柄で、睫が長くて、・・・・。

こういう刷り込みは、「一生もの」だったりします。お気をつけください。(いまさら。なにに?)
もしくは、もっと自覚することで、自分の好みが明確になるかもしれませんね。それもよいことです。

でも、実際の恋愛は、つねに初めてのことばかり。
二度目だろうが、二十回目だろうが、その相手との関係は、いつでも初めてです。すぎさりし初恋を偲びながら、いま目の前の初恋を生きる。そんなモットーで死ぬまでどきどきしていたいものですね。あはっ。

(「初恋の終身効果」了。BGM「セカンド・ラブ」中森明菜)

2008/05/07

「私」っていうものが、一番わからないのよ。いつまでたっても。

先日飲み屋での話。40歳の凛々しい女性が、後輩である30歳男性に説教していて、突然叫んだ言葉がこれだ。「人のことなら少しずつわかるようになってきたけど、いくつになってもわからないのは自分なのよ」とのこと。となりでヘロヘロに酔っ払っていた私も、この台詞に、ぴしっと背筋が伸び、深くうなづいたのだ。生きていくうえで、他者を理解するのは大変だ。でも、それ以上に、いくつになってもわからないのが「自分」と言う存在だ。だからといって、哲学的、認識論として、「僕って何?2008」okonomiといっても失笑をかうだけだろう。

で、考えてみた。私は自分のことをどこまで理解しているのか。とくに、物理的存在として。いろいろと思いだしながらいくつかのデータを並べてみた結果、ひとつだけ確かなことがわかった。それは、今更ながら愕然とせざるを得ない事実だったのだ。

私の体は、ほとんどが「粉」からできている。

そう、粉。ふっと息を吹きかけると、すぐにまいあがり、結果として塵芥にすぐに変身する。その、粉。固体ではあるが、なんとなく頼りなく、大体において、植物の果実を粉砕したものであることの多い、粉。小麦粉、米粉、もち米粉、きな粉、汁粉、てんぷら粉、から揚げ粉、、、。ふりかえると、私の肉体の多くが、この頼りなく、既に粉砕されている物質からできているのだ。あーあ、なんてこったい。

「粉」っていうものが、一番好きなのよ。どんな形になっても。

一説によると、28日間で人間の細胞と言うのは古いものから新しいものに換わるのだそうだ。月の満ち欠けから女性の生理までがそうであるように「太陰暦」にのっとり、人間の固体を形作る細胞は新しくなるのだそうだ。その説が正しいかどうかは別にして、肉体を形成する物質はそのほとんどが「食べもの」として摂取されることは確実であり、摂取される物質によってその人間の肉体の組成内容が決まってくるのも確かだろう。
ということで、自分の食生活を約一ヶ月、振り返ってみることにした。すると、以下のような感じで、「麺類」と「小麦粉焼き系」がやたらと多いことがわかった。

某日(平日) 
朝:うどんに卵とじ 昼:スーラータンメン 
夜:パイコーダンダンメン(ご飯小盛り+お新香つき)

某日(休日)
ブランチ: 焼きうどん(自作) おやつ:もんじゃ(めんたい餅チーズ) 
夕飯: 手作り餃子(+その他)

一日最低でも一回は「麺類」である。実は一日三食全部麺類でもぜんぜんかまわないほど好きだ。自宅では、デュラム・セモリナ粉(小麦粉)の「パスタ」、オーストラリア産讃岐向け特産小麦粉の「さぬきうどん」が、やたらと多い。休日に自宅で食事を作るときは三回に一回は「パスタ」udon料理であり、残りの二回に一回は「焼きうどん」もしくは「副菜つき汁うどん」である。それに、「焼きそば」や「カップめん」「カップ焼きそば」が紛れ込んでくることもある。我が家においては「麺類」はたとえインスタントであろうとも「ジャンクフード」には分類されない。

また、たぶん普通の世帯よりも圧倒的に高い頻度で「焼きビーフン」が登場する。
私の生家では昭和30、40年代から「ビーフン」「からすみ」が普通に食卓に上っていたという「台湾引揚者世帯の末裔」ゆえの特異事情なのだが、その引揚げた人が住んだのが「香川讃岐」だったものだから、幼少のころから本場の讃岐うどんを食べなれている。打ち立て茹でたてのうどんに、刻んだねぎと鰹節を載せ、生醤油をたらすだけの食べ方が最高だと信じている。ラーメンもふつうに大好きで、一人の外食となるとまずはラーメン屋を探すことが多い。おいしいラーメンを食べるためだけにレンタカーを借りたこともある。並ぶのは嫌いだが、本当に好きなラーメンのためなら並んでもいいと思っている(が、ならばない時間帯を狙うことにしている)
という感じで、どの地方に行こうとも、どの国に行こうとも、圧倒的な頻度で『麺』なのだ。
とはいえ例外があり、「日本そば」にはまったく執着がない。うまいものはうまいと思うが自ら思い立つメニューではない。人に付き合った結果の「うまい日本そば」を含めても、とにかく「麺」の頻度は尋常ではない(と自分でも思った)。

休日の定番が、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃである。
関西および近隣県の出身者にしてみれば、これは当たり前である。独身時代から「電器たこ焼き器」は一人暮らしの定番器具であり、生家では鉄工所に特注した厚切り鉄板で、お好み焼きを焼いていたものである。現在では大判のホットプレートなどという軟弱な道具を使うものの、広島風お好み焼き(出身地はその隣県にあたり、大阪風ではけっしてなかった)を基本に、様々なものを焼くのが、休日の正しい過ごし方なのだ。
まずは、イカや野菜、肉などを焼きそのまま食す。その後、おもむろにお好み焼き。当然ベースは「小麦粉」。そして、〆は「焼きそば」である。味付けは、原則「○たふくお好みソース」なのだが、ときに「塩味」「しょうゆ味」などに変化する。ちなみに、自宅には、「○たふく焼きそばソース」「○たふくたこ焼きソース」など「メニュー対応ソース」も揃っている。また先日、「○たふくしょうが焼きソース」というのを店頭で発見したが、あえて購入しなかった。だって、おろししょうがと酒と醤油だけの味付けが好みだからだ。
また、カレーショップでは「ナン」のうまい店が好みだ。神田神保町交差点近くの「マ○ダラ」の「ナン」は最高に好みであり、このナンを食べるために月に一回は行きたい店だっnannたりする。
余談はさておき、このように、徹底的に「粉系焼きモノ・ラブ」な私である。

「こなじじい」予備軍としての自分

麺とこの「粉もの」あわせると、年間何トンの小麦粉を私一人で消費しているのだろうか。食事の頻度から推測すると、体重の約三分の一は「粉もの」でできているに違いない。このまま、粉ばかり食っていると、あと数年で「こなじじい(粉爺)」と呼ばれても反論できないかもしれない。あのー、「こなきじじい(子泣き爺)」じゃないですから、そこの人。鬼太郎じゃないんでね。あっ、頭頂部を指さして粉吹いてるっていわないように。それって、頭髪が多くないだけですから。人間違いですから。そこんとこ、間違えないように。おねがいね。

こう考えてくると、本来よくわからないはずの「自分」も、少しはわかったような気になってくるのが不思議だ。
私の体が「粉」からできているのであれば、あとは簡単だ。よりよい「粉・化合物」として、自分を調理していくだけだ。

まずは、水。
粉は粉のままでは、ふっと息を吹きかけると、すぐにまいあがり、結果として塵芥にすぐに変身する。塵芥にならないためには、まずは「水」を含んで、ジェル状態になることが前提だ。さぁ、水を大量に摂取するぞ。水を最低でも二リットルは飲みましょう、そうモデルの人はいうではないか。理由は異なるが、私にも水は必須なのだ。塵芥と成り果てることを避けるために水分補給は十分に。これから暑い季節になることもあり、今日から始めることにしよう。

つぎにするべきことは、「練り」である。
お好み焼き、たこ焼きなどの場合は、「混ぜ」ですむのだが、それは他に豚肉やキャベツ、蛸などの華やかなるメイン素材がある場合に限られる。私の肉体のように「粉」がメインの場合は、「混ぜ」ただけでは物足りない。やはり、腰の強い麺類が好まれるように、腰の強い肉体にならなければ。そのためには「練り」である。「讃岐うどん」に代表される「腰の強さ」は、全体重をかけた「踏み」による「練り」によってこそもたらされることを、皆さんはご存知であろうか。そうなのだ、「粉」は「踏まれて、練られて」初めてうまくなる。ならば、私とて同じ「粉」。思い切り「踏まれ、練られ」なければ、うまくならないのでは。ということで、今日からは、みなさんの足元に横たわる人柱のつもりになって、踏まれ、練られることを良しとしよう。まちがっても、女王さまの足元にひざまづくことは、やめるように。ピンヒールで踏みつけられても、目の内側にきれいな星は飛ぶかもしれないが、腰の強いうどんにはなれないのだから。

それにしても、粉系の肉体をもつ「自分」は、なんとも、はかなげな存在であることよのー。

ふーっ。

あっ、飛んじゃったよー。ほんとに軽いなー、存在感が。

(「コナジジイの話」了。BGM 「私の青空」高田渡)

2008/04/02

旦那ぁ。ちわっ。ご無沙汰で。何してた、って。まぁ、いろいろでさぁ。
今日はぁ、めずらしく自叙伝みたいなのを書いてみたくて、見てもらおうかと。
あっ、そうそう、ナントカ中学生ね。あれですよ、あれあれ。200万部突破すれば旦那とマンション経営ができまさぁ。どうでしょう。えっ、おまえそんな不幸があったのかって、いやだなぁ。私だって中学生の頃、公園でゴザしいて昼寝くらいしてましたし、海岸のテトラポットの上で朝まで釣りしてたりとか。って、それのどこが不幸なんじゃって、まぁまぁ、とりあえず、あらすじ考えてきたんで、聞いてくださいな。

今日まで生きててよかったぁ

昨日食した米国流日本料理店でのデザートのひと品なんですけどね。日本酒風味のパンナコッタ。
隣の人の表情がかろうじてわかる程度の、蝋燭の明かりだけでいただいた、薄白い三角お握りを横倒しにした形態で、大きめな白磁皿のほとんどを紅黒いラズベリーソースが占めてるんですね。オーダーしておいて、なかなか手が出せない。だって、マスカルポーネチーズをベースにしたケーキが、ほんのり日本酒の香りを漂わせているんですから。でも思ったんですよ。

sushi ここまでのアメリカ流にアレンジした寿司も銀陸奥の西京焼きも予想以上に美味かったじゃないか。ナバパレー産の白ワインもドライな割に後味に多少の甘みがあって、寿司飯を引き立ててくれたじゃないか。この白くて、酒粕を蒸したような匂いを放つものだって、おいしいに違いない。この不思議な組み合わせを食べるために今日まで生きてきたのかもしれないし・・。ちょっと気持ちの整理をした上で、銀のスプーンを立ててみたんですよ。こん。え? 固いの? そうなんです。その白い三角おにぎりは、なんとばりっとホワイトチョコレートでつつまれていたんですねー。手の込んだお握りだこと。とわかれば、一気にぐさっとスプーンで突き刺して取り分けるだけです。ぐさっと、いったところで中からどろっとあふれでる白い半液体。テーブルを包む、なつかしい香り。あきらかに、酒粕の匂い。アルコールを飛ばす前の甘酒の匂い。ここはどこ? 思えば小学生の臨海学校で遠泳をした瀬戸内海。疲れて上がった体に、あたたかい甘酒がうれしかったなぁ。あれはどこでしたかねぇ。今はどんな海岸になっているんでしょうねぇ。今も甘酒をくばってくれるのでしょうかねぇ。あぁ、あのころの純粋でシンプルな少年の気持ちは、どこへいきはったんでしょうねぇ。そいえば、ここはマンハッタン。思えば遠くに、きはったん、やねぇ。(間) 少年の頃には想像もしてなかったなぁとか何とか一人でにやにやして妄想に耽っている内に、同席のものがさきに口に運んでしまうわけです。それで、「あっ、これ、いける。さっぱりして、美味い美味い。あー、なんでこんな変な組み合わせが、うまいんだろうねー」とかいいながら、わたしもたべるわけです。そして、カフィを飲みながら、私は言ったんです。

ほんとに今日まで生きてきてよかったよ。だって昨日死んでたらこれ食べれなかった訳じゃない。いやぁ、いくつになってもこういうあたらし組み合わせの美味いものに出会えるんだから、食いしん坊は幸せだね。


日々是「未知との遭遇」

子供の頃から転校生気質でした。小学校に上がるまでにすでに四回引っ越したとか。小学校で二回。卒業後も引っ越し・・。数年ごとに繰り返される引っ越しのおかげで、俗に言う「幼なじみ」はできないまま育ちました。引っ越しのたびに、新しい土地での暮らしや人との出会いに期待したり、失望したり。子供心に複雑な気持ちをもてあましていた記憶もあります。
引っ越しの車や電車の中で思うのは、新しい土地で、生まれ変わったかのように、光輝く、新しい自分の姿。ところがどっこい現実は、そんな一少年の妄想なんか相手にならないくらい厳しいものなわけです。そういえばと、思い出すのは光の薄いモノクロの風景ばかり。思い出そうにも思い出せない転校生生活もあったのでしょうが、今思えば、それも楽しい、未知との遭遇だったりもするわけです。
田舎の閉鎖的な村社会にぽつんと放り込まれて当然のごとくいぢめられたり、小さな企業城下町に全くの異物としてでもそのうち企業生協とか使ったり会社の運動会になぜか参加したり。ふつうに一カ所で暮らしていた人では経験できない、「未知の社会」「未知の人たち」との出会いが続く日々でした。周りの人たちとの折り合いをどうつけるのかと思い悩んでいただけではなく、未知の風習に驚き、異人たちとの交わりの中に、新しい快楽を覚えたりしたものです。
そういう経験が成人になってもいろいろと大なり小なりとあり、そのおかげで、昨夜の「日本酒風味パンナコッタ」もあるのです。どんな日もそこを過ごしたことで次のどこnyかの出会いにつながっている。なにもない単調な日々でも、そのおかげでその翌日に「ドライトマトとアボカドのカリフォルニアロール」という未知の美味との出会いがあったりするわけです。これもあっさり甘酸っぱくて美味しかったんすよ。

ツラサにも出会うものだけど

数年前に大病になって何人もの医者と出会い、おかげで「主治医」というものができた。それまで何かのアンケートでそういう欄があっても記入できずさみしい思いをしていたが、これからはさみしい思いをしなくてすむ。その他生活習慣病の類と、ここ数年でつきあいが親密になった。それはそれで未知の薬剤との出会いであり、新しい薬をもらうたび効能や副作用などを調べるのが楽しかったりする。また、数年前に職場内での異動があり未知の領域で未知の人たちと仕事をしている。そういう出会いがまた楽しい。そして、この仕事が変わったことを振り返って、あのタイミングだからあの人と知り合ったんだなぁと振り返ることが増えている。一年早くても遅くても、こんなことにはならなかったなぁ、とか。
今日の、ウナギの細巻きの上にさらにウナギが握ってある「ひつまぶし風ウナギロール」だって、今日ウナギ好きのメンバーで来たからこそ食べられたのだ。こうした出会いに感謝します。ほんとに、一口サイズのひつまぶし、美味しゅうございました。

必然としての出会い

と考えていると、全てが、出会うべき時に出会っているといっても過言ではないとか思ったりするのだ。これ、ちょっと真剣に、そう思うんですよ。
独身の成人男女がよく言うじゃないですか、「出会いがない」って。あれってねー、なんか身も蓋もない気がするのは、私だけ?
あっ、そういってた女性コメディアン、最近見かけないすね。嫁に行くか何かで引退したんすかねぇ?いやっけっして好みのタイプじゃなかったんですけどね。知らんって、そうすよね。
好みの異性との出会いというのは、そんなに頻繁にあることじゃないすよね。でもなんか「出会いがない」ってそれは理由じゃないような気がして、ねー。だって、その時がくれば、どんなことでもあなたは出会うはずなのですから。出会いは、冬の雪の日のように「今年は例年に比べ少ないですね」という風にはいえないもののはずですよねー。で、小生、こんな風に思ってるんすよ。

すべて出会いは必然です。そうです。ラッキーな偶然というものを含めた「必然」なのです。
アンラッキーな出会いだと思うものも含めて、そうなるべくして出会っているのです。昨夜食べた「アルデンテ耳たぶ型パスタのラグーソース」がことのほか美味しく感じられたのも、「ツナとフォアグラと大根おろしのわさび醤油添え」が唸るほど舌の快楽だったのも、すべては必然の出会いなのです。たとえ、相手が、この世で私を幸せにしてくれる大切な大切な唯一の異性だとしても、その人との出会いも、それは「必然」なのです。だから焦っても慌てても無駄なのです。

あーっ旦那ー。何で、スポーツ新聞とか読んでるんですかぁ。あっわかった。美味いものばかり食べているあっしを嫌いになってきましたね。
あはっ。旦那、旦那。これも必然なのです。旦那はあっしの文章に、出会うべくして出会ってしまった。えっ、イビキですか。無視ですねー。
旦那ー、おきてくださいよー。これもなにかの必然なんですから。聞いてくださいよー。


sakana(閑話休題/筆者乱入)
出会いの結果としての私

ところで、こうして、JunkStageという「発表の空間」に文章を書いていることも、ある人とのひょんな出会いが元にある、必然の結果です。そのひょんな人がある時私に出した短いメールが、仕事を一段落したタイミングの僕の昼休みと出会ってしまったことで、長々とした「返信メール」という必然を呼び、そのあといろいろなものやひとが出会ったり、必然したりした結果として、今のこの文章があります。そう思うと、今回いただいたお題「わたしを変えた出会い」というものに対しての私の「構え」をお伝えすることが必然のような気がしてきました。私はつねに様々な出会いによって変化してきました。そして今もこれからもそうなのです。だから、「出会い」が私を変えるのではなく、「出会いによって変わりつづけている」のが「私」なのです。「さまざまな出会いの中には特別に大きなものがあるでしょう、それについてのべよ。」というお題であることを重々承知の上で、やはり私には今目の前にある「出会い」が一番大事なものだと思っているということなのです。ということで、この場をお借りして、全ての出会いに感謝。

旦那にかまわず、必然を生きる

仕方ない。旦那は寝たふりしててください。続けますよ・・・。

さまざまな出会いは、常に私を変えるために存在している。仏教用語で言う「無常」とは、このように恒に変化してひとつの形態を持たないイメージをいう。私は、無常である。あなたも、実は無常である。いつも変わっている。どこがどんな風に、というのは自分ではわかりにくい。たとえば、上記のようなことを独り口走っている愚人がいたとして、その次の瞬間まったくちがうことを思っているのも、それはまた何らかの出会いの結果であり、必然なのです。だから、許してあげようね。

(某月某日某所の某氏の必然)
時差ボケで睡眠不足でボーとしてるし、ネイティブの英語は早口でよーわからんよー、咳が出てたと思ったら熱も上がってきたのにー。それに会議室がえろう寒いじゃねーか、なんで最低気温がマイナスなんだよ4月だというのにー。東京はサクラ満開だったのにー。早く帰りたいよー。明日も一日中、暗くて寒い会議場で英語ばかりだよー。えーん。えーん。えーん。

ということで、今回は、出会いは必然であり、私はその必然の結果であるので、それがどのような危害を加えようとも私だけの責任ではないかも、というお話でした。旦那ぁ、ほらぁ、そっぽむかないでくださいよー。うまいもんばっか食いやがって・・・って。ねー。くいもんの恨みは恐ろしいとか、言わないでくださいよー。滅相もない。
そうそう、こちらではねあのなんとかブッシュというおっさん、そのTシャツがこれから価値が上がるかも、とか言ってるんですけど、、、あっ、いらない。そりゃそうですよね。ごめんなさい。そのうちなんかつまむものでも持って、またお宅に伺いますから・・。えっ、なんですか? 鼻でもつまんで、寝ちまえって、、。
まぁ、そうですね。さすが旦那。時差ボケを治すためにも、そろそろ寝なきゃいけないところですね。お気遣いありがとうございます。旦那、お休みなさいまし。
え、後口上がなげー、ですって。これも、未練がましい私の「必然」と言うことで、ご勘弁をくださいまし。 じゃ旦那、しーゆーすーーん(^-^)

酩酊者日乗:日々偶然にあらず(了)

2008/03/09

(★注意:以下、読後感がかならずしもよいとは限りません。体調の優れない方、ストレスがかなり来ている方、妊娠の可能性のある方、理路整然と人生を送りたいと願っている方、宿酔いの方、朝食を抜いた方には、おすすめしません。また、読後いやな気分になったとしても、筆者はなにも責任を持てません。それでも、という方のみ、お進みください)


ある朝、目覚める直前に、僕は、テントウムシだった。
てんとうむし

だいたいにおいて、眠りが深くないので、
一晩のうちに何度も夢を見るのだ。
その何度目かの夢の中で、
自分がテントウムシになっているというのは、
とはいえ、たぶん初めてのことで、
さすがにその何度目かの夢の中で、

困ったなぁ

と声を出してしまったのだ。
おまけに、短い触覚を左右にフリフリしたりして。

何故テントウムシだとわかったのかというと、
電車のドアの前に立って自分の姿を見ていたからだ。

その日はなぜかアメリカに出張に行くはずで成田エクスプレスに乗っていたのだ。
その黒と赤で統一されたインテリアをうす暗いドアのガラスが映しているのだが、
そこに丸く赤い体の上に、黒い斑点をのせて、黒々とした頭の生き物が映っていたのだ。

目の錯覚かなぁ。変なものが映っているなぁ。はじめ、そう思っていた。

それが自分であることに気づいたのは、電車が空港第2ビル駅に到着し、後ろのサラリーマンに押し出されるようにホームに降り立ったときだった。
不思議とスーツケースは手元にあるものの、視界が妙で、無数の小さな虫眼鏡越しに見ているみたいで、距離感もつかめず、おろおろしている内にドアが閉まってしまった。閉まったドアのガラスには、やはり立ち上がってスーツケースを引いているムシの姿があったような気がしたのだ。

えーっ。間に合わないじゃん。

「変身」のことよりも、飛行機のことを気にするところが、僕だったりするわけで・・。

僕が乗るはずの飛行機は、NH10便のはずで、いや9便だったかもしれないけど、
とにかく、たしか終点まで行くはずで、いや、それはJALだったか、UAだったか、よく思い出せないけど、
どちらにせよ全日空の略号「NH」というのは、「日本ヘリコプター」というかつての企業名の頭文字で、
一度登録したものは社名が変わってもそのままなんてねぇ、だったらヘリコプターに乗りたいぞ、
などと、のんきなことを思い出したりしながらも、慌ててたりして。

まぁ、夢の中なので、こういう逃げたり慌てたりする状況はよくあるわけで、
混乱していてもしかたないと思いながらも、とにかく、焦っているわけで。

黒い斑点から、墨のような冷や汗をダラダラ流しながら、
何故かうろたえたテントウムシの僕は駅の改札を出てしまい、
なんとか遠い方のターミナルを探して、短い六本の足を、
まるでレレレのオジサンのように思いっきり回転させながら、
思いっきり焦って、せかせかと動き回るわけで。

どちらに行けばいいのかもわからないし、
はたしてテントウムシが人間に話しかけられるのかどうかもさだかではないし、
などなどといろいろ考えながら、とにかく走り回っていると、なんと、屋外に出てしまった。
そこは、たぶん臨時の駐車場としても使っている、ただの荒れた広場で、
所々に落花生の林が残っている。
頭の中では、「こんなところで、千葉名産の落花生かよ」と、がっくりしているのだが、
テントウムシの僕は、なぜか勢いよく、そこに向かっていき、
半分干からびた落花生を見つけて、クチに運び出したりするのだ。

だからぁ、飛行機に間に合わないでしょ。

そう頭ではわかっているのだけど、前足は器用に落花生の殻をむき、生のピーナッツをクチに運んで
むしゃむしゃむしゃ。薄皮がクチの横にくっついて、そのことが気になってしかたない。
それを取りたいのだけど、飛行機の時間も気になって、とにかくテントウムシの僕は、パニック状態なのだ。

5個めの落花生を食べ終わったとき、また余計な考えが浮かぶ。
落花生を咥えたテントウムシが、出国審査を無事通過できるのか。
たとえできたとしても、飛行機の座席シートベルトが巻けないかもしれない。
とりあえず、どちらにせよ、こんなことをしていてはと、
黒く光沢のある樹脂製のスーツケースを転がしながら、行き先も思い出せないくせに、
タクシーを探すことにする。

でも、この姿では、タクシーにのせてもらえないに違いないと思い、ならばと思いつく。
「優良運転手タクシー乗り場」に並んでみよう。・・・・
え、そんなの新橋駅前だけじゃないのか・・・・。

・・・・。

天井の方から、自分の声が聞こえる。
「どうせ、目が覚めれば、人間に戻ってるよ」

・・・・。

と思って、目を覚ましたら。

目の前が「砂の嵐」だった。テレビ画面

細かい点が無数にうごめいていて、ブラウン運動を行っていた。
あれぇ。変だなー。
目が覚めると普通の生活ができると思ったのに。

まだ夢の中か。しかたない、また眠ってしまおう。
疲れがとれてないんだな。
そうだそうだ。もう少し眠らなきゃ。

と、夢の中なのに、目を閉じた。

でも、その目の裏側は、やはり「砂の嵐」だった。
そこで、それも夢の中なのだと思い、目を閉じた。
でも、その目の裏側は、やはり「砂の嵐」だった。

・・・・。

何度も何度も、何度も何度も、
そうやって夢の中で繰り返している間に、

気づく。

・・・・。

あー。僕って、点になっちゃったんだ。
どんどん小さくなって。
形がなくなって。

点になったんだ。

今、僕は、
無数の点になって、
うごめいている。

・・・・。

・・・・。

この砂の嵐を見て、
あの人は、
僕の愛に気づいてくれるだろうか。

(夢幻咄:愛のヤオヨロズ 了。 BGM 松風鉱一「黄砂」)

2008/02/05

※註:以下はフィクションであり、固有名詞・人物・団体名は一切現実と無関係であることをあらかじめお断りしておきます。

-いきなりですが、旦那はメーテーしてますか?
daruma

時々は。過去に何回かは。年に数回かな。よく酔うけど酩酊までは行かないかな。それがなにか?
はい、ありがとうございます。そうですよね、アルコールの過剰摂取で、肉体的な制御もままならない状態になんか、そんなに頻繁にならないもんですよね。でも、それって、ほんとうですか? 今は、どうですか? え、酩酊してたらこんなもの読めないって。そうですね、失礼しました。でも実は私のことなんですけどね。近頃ちょっとね、不安なんですよ。

思い出すと、物心付いてから数十年間(って結構生きちゃいましたねぇ)、そして今も、ずーっと酩酊しているのではないかと、思ってるんですよね。酩酊状態が続いてるって言うんですか。え、それってへんじゃないか、酒も飲まないのに、嘘つくんじゃない、って。そうなんですけどね、嘘じゃないですよ。ホントなんです。もっとも、アル中じゃないんで、ずっと酔っぱらっているというのでは、ないんですがね。だからこそ不安なんです。呑んでもいないのに、酩酊だなんて。ねぇ、旦那。

何でそんな風に思うのかって? それを説明しないと、ですね。いつだったか気がついたんですけど、酩酊したときと同じような「感じ」が、しらふの時でも全然消えてないんですよ。だから、ずーっと自分は酩酊したまま生活しているんじゃないかと。これ、すごくまじめに思っているんです。でね、正直、すこし心配になっているんですよ。聞いてもらえますか?

-酩酊すると、世界中が本屋になるんです

普通は、お酒の飲み過ぎで、酩酊するわけじゃないですか。
飲み過ぎて、酔っぱらいすぎて、眼もあけていられなくて、ふらふらと千鳥足だったりして、ひどくなるとむかむかと気持ち悪くなってきて、消化器官からすべてのものを外部に排泄したくなって、すぐにでも横になって眠りたくなったりするじゃないですか。他のことはほとんどわからないのに、「嘔吐に適した場所」「排泄が可能な場所」「横臥しても汚くない場所」のことばかりが頭の中でぐるぐる回ったりして、でも、それも意識がなくなって、気づくと、植え込みに顔を突っ込んでいたり、電車の床にしゃがんでたり、駅のホームでベンチにねてたりして・・。ところどころしか外部のことがわからなくなって・・。

もちろんね、個人差はあるんだ、とは思うんですよ、こういう時の感覚も。
でも、この過剰な睡眠欲求、嘔吐欲求、排泄欲求に支配されながらも、実は意識の方では、こんな風に思ってたりしませんかねぇ。

あーあ、こいつ、なんとか家まで、連れてかえらなきゃ。
ほら、目を開けて。ほら、前を見て。ほら、立つんだ,ジョー。

酩酊状態のぐでんぐでんの男、区別するために「ジョー」でも何でもいいんですけど、その男の肉体を、一メートルくらい上から眺めながら、あきれている「自分」がいませんか。「私」ですね、そこから見ているのは。
で、旦那はどこかって? そんなこたぁ知りません。だから今話てんのは「ジョー」と「私」の話ですって。旦那、ついて来てますかぁ? ちゃんと聞いてくださいよ。

私、酩酊すると、幽体離脱するんです。

これって、文字にしてみると、やっぱりちと「へん」ですね。アキバのメイド服の女の子あたりが言うと、なんか、ちょっと神秘的で、ちょっとカワユかったりします? 旦那も口に出していってみてください。いやぁさすが後家殺し!  って、スリッパで叩かなくてもいいでしょう。いてててて・・・。

私、本屋に行くと、便意をもよおすんです。

これ、さっき旦那の家の壁に落書きされてたんですけど、これって、同じって思っちゃいました。さっきのと同じ響きがしますねぇ。なんか、いい感じですねぇ。なんか、真実っぽい匂いがしてきました。すこし楽しくなってきましたねぇ。 え、ならないって。どうしてでしょうねぇ。

で、私の問題はですね。これが酔っぱらったときだけでなく、しらふの時でも同じだということなんですよね。便意を催すのは本屋にいるときだけじゃないでしょ。それとおなじで、幽体離脱も、酔っぱらってるときばかりじゃないんですよ。朝起きたばっかりの時から、どこかの布団でねるときまで、ずーっとそうなんですよ。ほら、今も、一メートル上から見てるでしょ、私が。 指さしたって、見えない? おかしいなぁ。 ほらっ、あっ笑ってら。あはは。

-自己同一性ってほうが、おかしくないですか

旦那、話は変わるんですけどね、、、よかったって、なんですか。
英語でね、recognize という動詞があるんですわ。辞書をひくと「認識する」とか書いてあるんですけどね、日本語のニュアンスとは、かなりちがうみたいでねぇ。

(酩酊者意訳)
recognize: ある物体を知覚した後、既知の特定対象と、同一であると理解すること。その一連の情報処理活動。わかりやすく言うと、町中で知り合いの人を見かけて、あっ千恵ちゃんだ、と気づいて、即座にデートに誘うこと。
※誘うのは実は別のことなんですけどね、誰だかわかんないとその後いろいろ面倒ですからねぇ。

旦那聞いてます? レコグナイズを説明してますよ。
人には五感ってものがありますよね。その視覚、聴覚、触覚などで対象を捕捉し、頭の中の知識と比較させて、あっこれは○○ちゃんだ、と情報に意味を付加する。言い換えると、センサーからの情報を知識データベースに連動させて、価値のある情報としてネットワークをつなぎ直す。それが、recognizeという動詞の働きなんですよ。英和辞書などには「(・・であることが)わかる」なんてかかれてますけどね。普通の人が社会生活を送るにあたってはほんとうに基本的な、だからあまり意識しない能力なわけです。わかりましたか?

この認識すべき対象が、千恵ちゃんとか東京タワーとかだと、まぁ間違いもしませんし、いいんですけどね。その対象が、「私」であるとき、話は急にややこしくなるわけです。・・・って、旦那、おきてますか?ねぇねぇ,質問しますよ。寝ないでくださいね。

旦那は、鏡を見るのって好きですか?鏡に映る人物を、自分だと、信じてますか?singer
自意識に目覚める思春期の坊主じゃないんで、恥ずかしいんですけどね。思い切って白状すると、私は、いまでも鏡が嫌いなんですよ。自分の映っている写真や自分の録音された声もね、正直見たり聞いたりしたくないんですわ。堪えられんのですよ。そんなに自分が嫌いかって? そうじゃなくて、どうしても違和感があるんですわ。そこに映っている顔や聞こえる声が、どうしてもそれを、認識しようとしている「私」と同じものだと、思えないんですよ。

酔っぱらってつぶれてる自分、あ、ジョージでしたっけ、旦那物覚えがよくて、さすがです。あ、そのジョージに声をかけている、一メートル上の「私」と、その写真とか声とかをマッチングさせることに、すっごい違和感があるんです。違和感のもとって、誤差もしくはエラーみたいなことかもしれませんがねぇ。いえいえ、あんまりにも私の顔が不細工だから、とかじゃぁないんですよ。ただねぇ、なんか、気持ちよくマッチングできんのですわ。
そりゃ、自分の顔も声もいままでいやというくらい見たり聞いたりしてきましたから、頭の中のデータベースにあるんです。それと一緒だというのはすぐわかるんですけどね、根本的にそのデータと「私」がひもづけられるのがいやなんですね。だって、そのデータって、ジョンのもので、私ではないんですからねぇ。え、旦那、なんかへんですか。そうですよね、私って普通じゃないんでしょうねぇ。物体としての「ジョン」と、認識する「私」を、無条件に結びつけられんのです。

いいんですよ。おかしいのはわかってますって。そういうところ開き直ってますから。
所詮、私は、本屋に行くと、どこでも、幽体離脱する体質、いわゆる、HDY体質なんです。え、聞いたことない? 実は、今年これからはやるんですよ、旦那。はやらせるためにも、言い放ちますよ。立ち上がっていいですか。腹から声を出してぇ、、。

私はぁ、1メートル上からぁ、自分を見下ろすぅ、「上から目線」のぉ、
おまけにぃ、HDY体質のぉ、酩酊オヤジっ、 どぅえーっす。

あぁあ、やっぱり嫌われそうだなぁ。なんでかなぁ、上手くいかんなぁ。すべては「認識エンジン」のバグがわるいんだ。「私」と入力した途端に暴走するようなバグってさぁ、ほんとにどうよ。といっても、バグはバグ。ある程度あきらめなきゃなぁ。パーフェクトなプログラムなんて存在しないし、バグとは上手く付き合っていくしかないですよねぇ、旦那。ぐでぐでの肉体のポールと、どう付き合うかということですものね。どこまで行っても、私の人生ですからねぇ、余生をどうやって楽しくするのか。それだけですもんねぇ、考えなきゃいけないのって。くすん、くすん、、、。

えっと、なんの話でしたっけ。そうそう、ほら、自分で言うのもなんですが、私ってこんな風に、酒も入らないのに酩酊してるみたいじゃないですか。今後のことはちょっと不安ですけど、ま、なんですわ、世界中を本屋だと思えば、気分も楽になりますから。
どこでも便意かって? ちがいますって。DY、どこでも、幽体離脱ですって。でもね、間違っても、「僕って何?」とか、「頭の中の悪魔がやれと言った」とか、ほんまにおこったろかみたいな、つまらないことは決して言いませんから。ご安心ください。ただ、HDY体質なだけですから。
旦那、旦那。エッチでいーわい、じゃないですから。それは旦那でしょう。もぅ、お盛んなんだからぁ。あ、これからいらっしゃるの?なんだ、早く言ってくださいよぉ。お邪魔はしませんよ。

今夜も長っ尻になってしまって、すみません。ほら、リンゴ、帰るよ。それでは失礼いたしやす。

と帰ったふりして、私ちょっとそこの天井の隅の方から、拝見させてもらいましょう。あはは。嘘ですよ。帰りますよ、帰ります。ではでは。

(某酩酊者の日乗、おわり)

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