2008.12.10

不景気に広告のできること

編集部の提案により、広告についての擁護論を書きました。
かなり乱暴ですが、普通の人にも、業界の人にも、響いてくれるといいなと、思いながら。
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広告はもともと需要を作り出す装置

アメリカの金融ゲームの破綻に端を発した、現在の世界同時不況。
実経済への影響を世のジャーナリズムは取り上げ、リストラだの内定取り消しだの、ボーナス削減だのと不景気『気分』に拍車をかけるような話ばかりを騒ぎ立てています。それを日々、見聞きする人は、必要以上に将来に不安を持ち、財布の紐を締めてしまいます。

そろそろ、ブームに乗っかるだけのニュースを流すのをやめませんか
>テレビ、新聞のニュース記者の方々へ

日本の国内総生産(GDP)は景気判断の重要な指標ですが、国民の消費が縮小すると、これが下がります。国民が買物をしなくなるとメーカーは商品を作りません。結果として、メーカーの生産量は下がり、GDPも下がり、企業は利益が少なくなり、結果として企業に働く人の給与が下がるという「負のスパイラル」に入ります。これが俗にいう「不景気」です。ですから、「不景気だ」「不景気だ」と、マスメディアが騒げば騒ぐほど、ほんとうに不景気がやってくるのです。

当然、逆の場合もあります。他の指標がそれほどよくなくても、なんとなく景気がいい気分のときは人々の財布の紐がゆるくなってモノが売れる。そうすると、企業の生産量は増えて利益が出る。結果として、従業員のボーナスも増えて、さらに景気がよくなる。今回の金融ゲームの破綻による世界同時不況は、このような「生産⇒消費」という実質的な経済とは違うレベルでの出来事だったはずです。    *細かい話は割愛しています。突っ込まないでくださいね。

それを大変だ大変だと騒ぐだけで、ほんとうに実質的な経済にも影響が出るのが、この社会なのです。こうした「人々の消費したい気分」が現実に国民経済に影響するというのを納得していただければ、「広告」(を含めたマスメディアによるメッセージ)の、社会における重要性は理解してもらえるのではないかと思います。

もともと、広告は、マス・マーケティングという、消費と生産の「仕組み」を発明した企業が必要としたものだったのです。
一品一品手作りしていたもの(高価)を、画一的な大量生産品にして市場に送り出し、それを買ってくれる人を大量に作り出すために発明された情報の流し方が「広告」だったのです。広告のことを批判する人だって、この大量生産の恩恵をえているはずです。安く、品質の高い商品を買って使っているはずです。ネット企業だって、Googleにせよ、Yahoo!にせよ、企業サービスを支えているのは「広告」なのですから。
そういう市民生活の多くを陰で支えているのが「広告」なのです。

それは21世紀になっても必要な存在であるはずです。
もちろん、この世紀になって、以前に比べ情報は過多になっています。テレビのチャンネルは数十を超え、インターネット上には大量な情報が存在します。ケータイでメールも打たなきゃいけません。健康のためには睡眠時間も減らせません。人々のメディア接触時間はメディアの拡大に比べて、物理的には増えていません。(とはいえ、漠然とイメージされるほど接触時間は減ってもいないのですよ、実は)広告は、その中で、相対的に存在感が下がっているかもしれません。でも、資本主義社会において、健全な存在として機能していたなければならないものだと思います。

不景気なときに広告は役に立つのか、という問いかけがあります。不景気なときに広告をやっても効果が出ないのではないか、広告費は効果が明確じゃないから、一番最初に削減されるものではないのか。コストとしての広告という見方をしている限り、そういう意見が必ず出てくるのもしかたないかもしれません。でも、本質的な社会的な機能としての広告は、不景気なときほど必要なものなのです。

海外でのビジネスが急激な円高や不景気で利益が見込めない、少し前から始まっている原材料高で利益が見込めない、などの理由から、広告費を縮小している企業が増えています。単年度での利益を出さないと、株主への義務が果たせないなどの事情があるにせよ、マスマーケティングを前提にする企業にとっては、いかがなものでしょうか。

単なるコストではなく、商品の需要拡大のための投資として、不景気なときほど広告で「買いたい気分」をつくるべきではないでしょうか。元来、広告が果たしてきた役割の視点からは以上のような「広告擁護論」ができると思います。

「広告が効かなくなってきた」という声もあるけれど

そういえば、世紀の変わり目と時期を同じくして人々の生活に浸透してきたのがインターネットです。気になった情報は、パソコンやケータイで検索して探しに行くのが当たり前という人が増えています。そんなのあたりまえじゃん。ここの読者の方々はそういうかもしれません。でも、10年前まで、それは当たり前ではありませんでした。

ガンダムの全盛期の頃、ファンはその情報をネットでさくっと検索はできなかったのです。ファンコミュニティも身近になかったのです。一人こっそりと、ファンは雑誌などで楽しんでいたのです。そんな昔の話ではありません。

テレビ番組を見て、その場で検索。新商品の広告で気になったらすぐに検索してメーカーのサイトで詳しくチェック。食べ歩き番組で紹介された店も、ネットでチェックしてクーポンとっておく。料理番組でよだれを流したらそのまま番組サイトでレシピをゲットして、その日の晩御飯はばっちり。あなたもそういうことをしていませんか。純粋な広告だけでなく、マスメディアの発信する情報をふくめた「商品やサービス、生活スタイル」の情報が、消費をつくっていることは、現在でもかわりありません。

料理番組や情報番組の消費への影響力は絶大です。スーパーはその日の人気番組で取り上げる食材を事前に調べて、仕入れを増やしているところも多いと聞きます。料理番組や情報番組で取り上げる食材やテーマを選ぶときも、ものによっては企業の広告費が使われているのです。「広告」というとき、純粋な「広告」だけでなく、こうした「ニュースや情報番組のコンテンツ」にふくまれた「商品・サービスがらみの情報」までも含んでみてみると、広告が消費の気分を作っていることを理解してもらえると思います。

広い意味で、消費の気分を作り出す情報。それが広い意味での、「広告」です。

単純に、きれいでかっこよくて、シズル感の高い、インパクトの強い広告作品をマスメディアで流すことだけが、広告ではない。というだけだと思います。

広告は「生活の当たり前」を作っている

そろそろクリスマスです。クリスマスといえば、サンタクロース。では、なぜサンタクロースの衣装は「赤い」のかご存知ですか。有名な話です。もしご存じなかったらこの機会に。

もともとサンタクローズの衣装は緑色中心だったとか。それを1950年代のアメリカで、コカコーラがクリスマスキャンペーンを実施したときに、ブランドカラーの「赤」を使ったのが始まりだそうです。それが、日本を初めとする各国でキャンペーンを開始し、クリスマス=赤い服のサンタ、となったとか。

日本でもクリスマスの定番曲の一つに「クリスマス・イブ」があります。これも、新幹線のキャンペーンソングでした。今も、広告のタイアップ曲がヒットランキングの上位にあります。季節の気分も、時代の気分も、二十世紀後半の都市生活においては、広告が荷担していたのです。

いまはどうでしょうか。その魔力は衰えたのでしょうか。

ユニクロを着ることは、かつて多くの人にとって、ちょっと気恥ずかしいことだったこともあったはずです。それがいまは、どうでしょうか。多くの著名人がモデルとなって、かっこよく、きもちよさそうにCMに出続けています。そのこともあって、安いけど高品質で気持ちよく着られる服、というものに変わっていませんか。これこそが、広告の力です。

企業は努力しています 応援するなら買い物しましょう

不景気とはいえ、企業活動はとまりません。

働く人たちはいろんな知恵を使い、よい商品を、よいサービスを送り出そうと努力しています。海外の食材がリスクが高いとなれば、国内の農家と契約して、安全で安心できて、かつ美味しい食材を使おうとします。当然、コストも高くなります。皆さんは、どう思いますか。高いものは買わない。それも一つの選択です。でも、企業努力に敬意を表して、買ってあげようじゃありませんか。食品だけじゃなく、家電製品だって、それぞれに研究開発をして、よりよいものを市場に出しているのです。そのことにもっと敬意をもってつきあってもいいのではないのでしょうか。

製品の比較や、企業の悪しき対応にクレームをつけることも大切です。消費者としての権利を声高にいうのも大切です。
でも、もし、「あー、がんばってるなー」と思える商品やサービスに出会ったら、そのことに応えてあげるというのも、消費者の選択の自由、権利の一つだと思うのです。環境によいことをしている商品を開発したら、買ってあげる。恵まれない社会に貢献している商品や仕組みがあれば、少し高くても買ってあげる。そのことが、あなたの買い物自体が社会に参加することになるのですから。

では、その「がんばっていること」をどうやって知ればいいのでしょうか。誰かが教えてくれますか?あなたはその企業を「検索」でみつけることができますか? そうなのです。「広告」はそのためにも、必要なのです。不景気な気分が蔓延しているとしても、人の、企業に勤める人の、がんばりは形になって、日々世の中に出てきているのです。そんな「がんばっている商品」を多くの人が知るためにも、広告はもっと社会に貢献しなければならないと思います。

企業のコスト管理が厳しくなる中、広告は不利な立場にいます。でも、社会的な広告の機能、需要創造のための装置としての機能を、もっともっと理解する人が増えることで、広告はあたらしい「投資」としてみられる日が来るのではないかとも思っています。そのためには、この情報過多の社会の中で、ほんとうに「響く情報」として機能することが前提条件になります。過去の成功は忘れて、新しい「広告」へ。

広告はけっして、情報テクノロジーに吸収され自動化されるものではありません。
「気分」を変える仕事は、人間にしかできないものですから。

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(追記)「広告」について個人的に語ることは避けてきました。でも、編集からの依頼に応えてみました。
ご感想、ご意見、まじめにお待ちしております。

寒い日が多くなってきました。インフルエンザ、風邪などに侵されませんように、ご自愛ください。

また、「誘惑の方法」などでお目にかかります。

2008.11.11

#8 「YOU」の力・・誘惑の法則(5)

誘惑の法則、ご無沙汰しておりました。時々復活します。不景気風や北風が吹いている今日この頃ですが、いろいろ無理難題の多いビジネスの現場や、暖かい関係をもとめたいプライベートな場面で、時々思い出して、具体的に「使える」、誘惑の法則をお伝えしております。
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なぜオバマの演説は人々を動かしたのか 

新聞紙上などでいろいろ解説もされている、「演説がえろyouー上手でいろんな肌の人がみーんな涙する」といわれる次期アメリカ合衆国大統領オバマ氏の演説ですが、彼の演説のすばらしさのポイントの一づが、「YOU」という言葉です。

「あなた」もしくは「あなた達」は、と呼びかける口調ですべてを語ります。
現在の苦しい状況を打破できるんだ。人種や宗教や職業や所得や教育の差異を乗り越えてみんなで融和してこの国を再建できるんだ。などなど。その呼びかけにこたえる形で、聴衆は、あの有名なフレーズ「YES,WE CAN」と右手を振り上げて答えるのです。

人種を問わず、職業を問わず、今を生きている人は、現在の生活状況や政治状況に不安を感じています。家族関係や人間関係だって、同じように不安定です。何にすがって生きていけばいいのか、何を信じて生きていけばいいのか、どんな宗教の信者ですら気持ちは揺らいでいます。そんな人々を、一つの方向に誘惑するためのコミュニケーション。
そのキーワードが「YOU」だったのです。

アメリカ国民という多様性のきわみのような人々を「誘惑」したオバマ氏。その演説に、わたしたちは誘惑の法則をみなくてはいけません。あなたは、ビジネスの交渉相手を誘惑するときに、なにを主語にして語っていますか? 色っぽい状況に誘惑したい相手に対して、何を主語にして語りかけていますか? Iですか? YOUですか?

 「WE」ではなく「YOU」をつかおう

他の人から見てどんなに立派でお金持ちで経験豊かな人でも、ホンネのレベルでは、孤独で不安なものです。
とくに情報ばかりが駆け巡るインターネット社会においては、従来とは異なる孤独感が人々を襲います。ネットによる交際も含めて、対人関係もリスクが高くなっています。愛情表現が解釈次第では、ストーカー行為として犯罪扱いになりかねません。
マクロな経済は大きく破綻して、政治にも社会にも暗いニュースばかりです。家庭を振り返っても、理想的な幸せな家族像が適応できない家庭ばかりです。大げさにいうと、希望がどこにあるのか、以前に比べてわかりにくくなっています。資本の論理だけで生きてもいけません。過去の成功イメージを目指すことだけでも生きてはいけません。

そんな一人一人に対して、「あなたは、できるんだ。あなたは、辛い現状を変える力があるんだ」と呼びかけ、勇気付けるオバマの演説には、一人一人がしっかりと自分の胸で受け止めたくなる希望があったのです。もちろん聴衆の中には、実際にはいろんな「あなた」が存在しています。その希望も、当然、同床異夢であることは否めません。それでも、オバマの放つ「あなた」は、多様な夢を描くのに十分な効果を生みました。

ちなみに、以前大統領に一番近い黒人候補だった人は、熱烈な演説で黒人社会に熱狂をもたらしたそうです。彼が使った主語は「WE」。
私たちは、変化を起こせる。私たちは、社会を変えられる。私たちは、幸せになれる。私たちは・・・。
時代が熟していなかったこともあったのでしょうが、彼は反対勢力も勢いづかせる結果になり、人種を超えた大きな支持は得られなかったそうです。
「WE」は、パートナーとしての相手との関係を前提にした言葉です。「WE」はすでに関係のある「同士」であることを前提にしている言葉です。結果として、別の「WE」を想定させる言葉でもあります。WEとWEの対立を前提にした言葉でもあります。ある特定の宗教信者が「WE」という場合、異教徒との対立がクローズアップされる場合もあります。
要するに、誘惑したいと思ったとき、気をつけなければいけないのが「WE」 なのです。
たとえば、それほど親しくもない異性から「僕たちはさぁ」などとWEを使われて違和感を持ったことはありませんか。恋愛の場合は、妄想癖のある、早とちり君が、おちいりそうなケースですね。

すべては「あなた」のため

話を戻すと、オバマ氏のように、「YOU」を主語に誘惑してみよう、という話です。
そのとき気をつけたいのは、なんでも「あなた任せ」ではない、ということです。
どこへ行く? 君の好きなところでいいよ? えーっ。
これでは単なる優柔不断です。オバマはそんな「YOU」を語っていませんよね。

決まり文句は、「すべては、君のためなんだから」。

・・・・・

「なぜこんな寒い季節に京都に来るの?冷え込んで、寒くて、観光客もいなくて、いいことないじゃない」そう不満をいう彼女には、こういってあげましょう。
「君が千手観音をゆっくりみたいってたじゃないか。ゆっくり町家にとまって、しずかにおばんざいを食べたいっていつか言ってたじゃないか。観光客もいなくて、町家にも人が少なくて、ゆっくりおいしいおばんざいをたべるにはこの季節がいいって思ったからだよ。実は、期間限定の秘仏の公開もあるし。すべては、君のためなんだから」
 ・・・・・・・・・

「私とおつきあいしてみませんか。あなたの貴重な体験になると思いますよ。あなたの恋愛力を高めますよ。もっといい恋愛をするための一つのステップとしていかがですか。すべてあなたのためです。」

・・・・・・・・・

「どうして貯金をもちだすの?」「なにいっているんだ。いい出資話があるんだよ。一年もすれば、君がほしがっている夜景のきれいな部屋に住めるんだから。すべては、君のためなんだから」

・・・・・・・・・

最後のは、ほとんど結婚詐欺師ですねー。気をつけてくださいね。化粧品やエステなどのキャッチセールスでも使われますねー。でも、詐欺師ってうまいですよね、この「あなたのため」って。とりあえず、誘惑したい相手がいたら「あなたは」ではじまる言葉だけではじめてみてはいかがでしょうか。

すくなくとも、自分の欲望の表現だけじゃなく、相手がほんとうに嬉しいことを真剣に考えるきっかけになるはずです。

誘惑したい「あなたのため」のメッセージでした。いい誘惑、してくださいね。また、お会いしましょう。

(#8誘惑の法則(5)「YOU」の力。了。 BGM「おしゃれ番長 feat.ソイソース」orange range) 

2008.09.08

#7 「傾聴」の力・・誘惑の法則(4)

(前口上)久しぶりに復活します。「誘惑の法則」

広告業界に身を置く複数の方から、おじさんの身辺雑記ばかりではものたりない。もっと、広告の話を。とのお叱りを受けておりました。ということもあり、復活します。「誘惑の法則」。

とはいえ、現在のネット広告だの、ブランデッド・ユーテリティだの、行動ターゲティングの進化版だのといった、「広告業界内輪話」は、もっと他のアルファブロガーにお任せすることにして、「広告の本質論」「マーケティング・コミュニケーションの基本論」に迫ることをミッションにして、お話を続けることにします。とかく誤解とハッタリが渦巻く某業界内の噂話ではなく、某業界とは関係ない、ふつーの方々にも、「なるほどー、得した」といってもらえるような、「コミュニケーションの誘惑」に関する話材を提供できればと思っています。お付き合いのほどよろしくおねがいします。
(前口上おわり)

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Suika参加性。なぜ生活者を巻き込むことが大事なのか。

mixi  モバゲー YouTube  価格.com  @コスメ  ぐるなび ニコニコ動画 GREE eiga.com  2ch ……

ここを読んでいる皆さんなら、当然ご存知のネット上のサービスをいくつか揚げてみました。これらのサービスに共通しているのは、なんでしょうか。あたりまえですが、「皆さんの個人的な意見が他の人に公開される」ということです。アメリカ式に、SNS(Social Network Service)と呼んでもかまいません。交際の網の目を提供するサービス。だからといって、それで何かを理解したような気になっては、いけませんよ。業界人のテクニカルワードは、その業界の人ばかりでなく、その他の人にも一見わかったような気にさせてくれる力があります。でも、それは、その周辺や背後で本質的に重要な事柄を、「隠蔽」するために、前に出されていることも多いのです。テクニカルワードなんか、覚えなくてもいいのです。日本語でわかりやすく説明してくれる人を探しましょう。それができない業界人は、「それなり」ですから。

※たとえば、今年のカンヌ国際広告祭からよく業界関係者の使っているキーワード。「Branded Utility」。じつは、こんなキーワードが大切だなんて、信じちゃいけません。理由を知りたい人は、まず自分で考えましょう。それでもわからない場合は、私に直接話しかけてください。その際、自分なりの意見や仮説がないものは、返信しませんよ。自分の頭で考えましょう。人の口車に乗らない。私の言葉もまにうけちゃダメですよ(^_^)

話を戻しましょう。ブランドコミュニケーションにおいて、顧客(見込み客含む)の参加性を仕掛けることが大切だ、とよく言われるようになっています。前述したSNSなども活用して、生活者をブランドのキャンペーンに巻き込むことが大事だといわれます。では、なぜ大事なのか?某業界関係の、そこのあなた、よくわかっていますか? 説明できますか?かってに生活者同士をブランドキャンペーンネタで話し合いをさせて、盛り上がってもらえばいい、というのはブー。不合格。生活者の側から考えてみましょう。あなたは、自分の意見をサイトやSNSで表明するのは好きですか?そこに、他の人や企業の人から返事や共感などの返信があれば、さらにうれしいよね。そこです、それ。その自分の意見を聞いてもらえる喜び。実は、これこそが、「参加性が大切な理由」なのです。あなたがうれしいとおもうことは、たいていの場合、他の人もうれしいのです。

インタラクティブとは、相手の話を聞いてあげることから

ここに、あるお話があります。

一人暮らしの都会に住む80歳くらいのおばあちゃんを思い浮かべてください。彼女の日常生活は、近所の整形外科にリハビリに出かけるところから始まります。そこで同じような境遇のお仲間たちと日常的な世間話をするのが楽しくて、ほぼ毎日のように出かけるのです。一人暮らしの彼女は自分の話を聞いてほしいから、苦手な人が時々いたとしても、せっせと通っていたそうです。それが、ある日を境にこなくなりました。そして、半年後彼女は一人自宅でなくなりました。亡くなってみると、かなりの遺産があることがわかります。死別した夫との間には子供もなく、遺書によると、ある30代の男性にすべてを譲るとあったそうです。血縁でもなく、三ヶ月ほど前に知り合ったという男に、なぜそこまで彼女は入れ込んだのでしょうか。

その男が彼女の親族に呼び出されました。一体、彼女になにをしたのか。真面目そうな営業マンはいいました。営業の途中で、たまたま話し込んだことがあり、それからほぼ毎日一時間くらい話をして帰っただけだと。縁側で座って話すことが多く、家の中まで上がったこともないとのこと。親族は、なにか特別な話をしていたのではないかと気になり、問いただします。営業マンは答えます。「いえいえ、特別なことは何も。とにかくよくお話になるおばぁちゃんで、私も田舎の母を思い出しながら、ふんふんと聞いてるばかりでしたよ」そうなのです。おばあちゃんの世間話につきあっていたという理由だけで、この真面目な営業マンは遺産を相続することになったのです。こんなこと、ほんとにおこるのでしょうか。なんだかうそっぽいと思っていませんか。でも、これはれっきとした実話です。実は、ここに、誘惑のコミュニケーションの重要な手がかりがあるのです。

聞き上手を、嫌う人はいない。

これは、当たり前のように思えるかもしれませんが、実は、人を誘惑しようと思ったときには、肝に銘じたほうがいい、黄金法則なのです。人の話をほんとうに真剣にずっと聞き続けてくれる人なんて、実は現実社会には存在しません。あなたのパートナーはどうですか? あなたの話を真剣にじっくりと傾聴してくれますか?そして、「それはほんとうに大変だったね」などと慰めてくれますか? もしあなたのパートナーがそうなら大切にした方がいい。それだけである意味、最高のパートナーなのですから。通常の大人は、そうしているつもりでも、実のところなかなかできないものです。

またまた想像してみてください。あなたがもし、独身の女性で、一人暮らしで、それなりに仕事もバリバリやっていて、結婚願望もあって、でも時間も機会もなく、なんとなく寂しく思うことが増えてきたとして、そこに、こんな男性が現れたらどうでしょう。毎日毎日あなたの話に傾聴してくれて、共感してくれる。慰めてもくれる。あなたは、外見や所得などと無関係に、 その男に魅かれませんか。こんな風にされていると、あなたは大切にされていると実感できたりしませんか。大切にされていると思う相手には好意を持ちますよねー。その後、恋人になり、結婚しようということにもなるかもしれません。それがたとえ、「結婚詐欺師の常套手段」だとしても。そうなのです。

この「ひたすら傾聴する」方法は、相手の好意を獲得するのに、時として、絶大な効果を生む方法なのです。

本質的な欲求としての、承認欲求

人は様々な欲求をもっています。食欲、睡眠欲、性欲、支配欲、破壊欲、所有欲、名誉欲、、。
そのなかでも、「他者承認欲求」というものがあるといわれます。
(他人から)自分のことを認めてほしい。自分を貴重な存在として認識してほしい。単純にいうと、「君はほんとうに大切な人だ」と誰か他の人に言ってもらいたい、ということです。先ほどの「傾聴」という方法は、この本質的な欲求に応えるということなのです。私のことを一生懸命に聞いてくれる人は、私を認めてくれているんだわ。そう、人は勝手に思うものです。それを、浅はかだとか、単純だとか、と判断することは重要ではありません。その欲求は、他の欲求と同じように「切実」だということです。この切実な欲求に応えてあげること。そのための具体的な行動のひとつが「傾聴」なのです。

閑話休題。

この夏もたくさんの少女が、俗に「プチ家出」といわれる、家庭・地域社会からの脱出を試みたようです。その少女たちを食い物にする「出会い系サイト」が犯罪の温床になってるともいわれます。とはいえ、ここでは、その是非はともかく、彼女たちの心理にフォーカスを当ててみたいと思います。なぜ、少女たちは「プチ家出」をするのか。その原因をヒアリングしたTV番組をみていると、こんなものが理由としてあがっていました。

家族が私を大切にしてくれない。親は私を怒るばかりで、期待もしてくれない。家族が自分を人格のある人間として扱ってくれない。親に無視されている。学校で、だれも私を見てくれない。クラスメートには、いぢめられるばかりで、友達なんて学校にはいない。家にも帰りたくない、学校にも行きたくない(というか夏休みだし)・・・。

これを「愛のない、悪い親の元で育った、特殊な女の子に起きる出来事だ」とおもいますか。もしそうなら、あなたは幸せです。
この話を聞いたとき、私は直感としてこう思いました。こうした気持ち、満たされない不満をかかえている人は、世の中に大勢いるのではないか、と。それも、年齢や性別に関係なく。
テレビのインタビューに答える彼女たちのプチ家出の「動機」は、結果的な「不満」の表現にすぎません。そこにいたった「原因」は実のところ見えてきません。家庭環境、学校でのいじめ、そんなところに帰着させるにはどうしても違和感をもちます。
「プチ家出」に彼女たちを追い込こんでいるのは、一体なになのか。なぜ、彼女たちは、家やクラスに、いられなくなっているのか。彼女たちが日常生活に安穏と暮らしていけないのは、なにが欠落しているのか。
逆にいうと、なにを彼女たちにあげることができたら、彼女たちはうれしいのか。満たされるのか。他者にどうしてもらえると、家出をしなくてすむのか。
それを考えることが、大切だと思いませんか。ワイドショーのコメンテイターには、期待できません。 あなたならどう考えますか。

・・・・私は、彼女たちのコメントからこう思います。

ここに足りないのは、実は、親や友達の「愛」、ではありません。
愛がないからといってみんなが家出するわけではないのです。
彼女たちに足りないのは、他者からの、「承認」です。
親やクラスメートという身近な人たちからの「承認」が足りないのです。
わかりやすく言うと、
彼女たちには「あなたが大切な存在である」というメッセージが足らないのです。
「ここにいて好きなように過ごしていいんだよ」という他者からのメッセージが足りないのです。

そう思いませんか。
自分の他愛もない話を、真剣に聞いてくれる相手が足りないのです。
今日こんなことがあったんだよ、こんなことを思ったんだよ。
そんな、他愛もないことだけど、それを真剣に聞いてくれる人。

「愛」を、彼女たちの目の前に見せることは、難しい。
でも「大切なあなたの話をしっかり聞きますよ」という態度は、彼女たちの周りの人が、今すぐにでもできるはずです。

傾聴。それは、(無意識も含めて)他者からの承認を求めている人にとって、強力で、愛のあふれる誘惑の方法なのです。

「参加性が大事だ」というとき、こういう「他者承認欲求」に応えることで、ブランドへの好意や共感を形成するということまで考えてみる。大げさかもしれませんが、人を相手に、その心理に踏み込んだ効果を計算するのであれば、あってしかるべきだと、私は考えます。

こういう社会的、心理的な視点から、SNSやコミュニティ、ブログなどの、コミュニケーション・サービスを見直して、企画していくことも、大切なコミュニケーション企画なのだと思います。

※異論、反論、オブジェクション、共感、賛辞、袖の下、弟子入り、お問い合わせは、お気軽に私までメールくださいませ。

(「誘惑の法則(4) 了)

2008.08.20

痛がる背中の記憶

姿勢のやたら正しいある人が言っていました。

世の中には二種類の人間しかいない。
ぎっぐり腰の痛みを知る慈悲深い人と、そうではない人。

先日、私は慈悲深い人の仲間入りすることになりました。

yakushi

それも強烈なやつを知ってしまったので、ホントに慈悲深い人間になれるのではないかと、自分に期待しています。でも現状は、このように大人しく感想がいえるほど完治しているわけでもなく、今のところ、「慈悲深さ二級」というところでしょうか。

くーーっ。

まだ骨盤から背中にかけて、痺れてるぜ。中途半端な恋愛と鎮痛剤は、常用すると危険です。

そもそもなんで『ぎっくり腰』などというものになったのか。

私の話をする前に、この体験がもたらした豊穣な物語体験をご紹介します。

この痛みを知ってから周囲の人に話すと、慈悲深い人だけでなく、そうではない人の中にも、この疾病のドキュメンタリー・ライターがたくさんいる事がわかりました。

◎ご主人が先月慈悲深くなったばかりだけど幼子がいてほとんど放置プレーだったと笑うご婦人。

◎テーブルの醤油ビンを取ろうと手を伸ばすたびに慈悲深い体験を再発している母上をもつ女性。

◎夕餉の沢庵をかじっていて突然硬直し慈悲深くなり、そのまま箸と茶碗を持ったまま横倒しに床に倒れた妻をみおろしながら、「冗談だろ」と思わず言ってしまったことをいまだに悔いている男性。

◎休日にバイクでツーリング中、人気のない山中で転倒し慈悲深くなったため、大声で号泣しながら巨大なバイクを数時間にわたって起こそうと奮闘した男性。

◎浮気をしていたのに、慈悲深くなった夫のパンツをはかせているうちに元の鞘に収まった妻、、、。

どれもこれも、涙なくしては聞くことのできない慈悲深い実話です。

ある日突然、腰から背中にかけて激痛が走り、ひどい場合は立っていることも座っていることも、寝返りすらもできない状態になってしまう。そのきっかけは、通常言われるような、靴を履こうとして、くしゃみをして、など日常的な些細なこと。

私の場合は、普段よりも重い楽器を首からぶら下げて中腰姿勢で一日練習したことになるようです。

初日、午後から半日ほど練習。その日はやや腰が重い程度。温泉に入り、夕刻マッサージしてもらい、それなりに酒も楽しんで就寝。筋肉の消炎剤を塗ったので、なんとか熟睡。翌日、午前と午後、練習。夕方から、腰から背中に鈍痛が続く。床に座り込む姿勢ができなくなる。それでも、やはり温泉に入り、半身浴を楽しむくらいの状態。宴会では体育座りすら不可能なくらいの痛みになり、早々に就寝。

その翌朝。寝返りで激痛のため目覚める。そのまま、起き上がることも不可能に。
やたらと叫び声をあげて硬直する変な物体と化す。

ぎゃー、ぐー、けーっ。

なんとか四つん這いになり、深呼吸で息を整え、バンジージャンプよろしく一大決心で立ち上がる。何とか直立猿人になるものの、ちょっと姿勢を変えたところで背中の筋肉全体が攣ったように硬直して激痛が走る。

ごぇーーーっ。

そのまま顔をしかめ涙を流し硬直。
息もできない。
傍から見ると、中途半端な姿勢の銅像のようにみえただろう。
だけど、好き好んで銅像しているわけではなく、動けるものなら動いているのだ。
上野の西郷さんも意識があればそう思ったにちがいない。もっとも顔は別人らしいが。
そんなことを考えている余裕は、実はまったくないのがこの痛み。

ぐ、ぐ、ぐっひぃ、いぇーーーーい。

ゆっくりと筋肉の弛緩をまち姿勢を変える。

こんな状態が代わらず続くと、すべての社会的活動はできなくなる。
口だけうるさく動く、やっかいなお荷物として、その後自宅まで搬送してもらいました。
合宿仲間の方々に、深く感謝。

今回、実感したこと。

ぎっくり腰というのは、腰が痛いだけではない。

身体感覚というのは個人差が激しいけれども、想定していた範囲での「腰」が痛いだけではないのですよ。
もちろん、通常あまり意識したことのない「腰骨」は、指で触るだけでがんがんに痛くて、もしかして全体が腫れ上がっているのではないかと思うほどの炎症をおこし、ちょうどお腹の鳩尾(みぞおち)の後ろ側の背中まで、びんびんに痛くなるものなのです。気がつくと、左足の付け根も痛く、左足全体が少し痺れていたりもします。もはや「痛みのデパートです」(って例えがすでに死語だ)。

一週間、鎮痛剤やシップでごまかし、暇があると床に寝そべって過ごした甲斐もあり、
本日はなんとか社会復帰しております。

でも、この話をすると、さまざまな「お得な情報」をくれる人が多く、実に面白い。
今、一番興味をもっているお得な情報は、以下のようなものです。

「品川の××式」の整体治療院は、「手翳し」のみでぎっくり腰の痛みをすべてとる、らしい。
新興宗教ではあるが布教することはなく、ありがたいご利益がえられる、とか。
すでに、同僚で理屈っぽく猜疑心の強そうな人々(I 氏、T氏、H氏など)が体験済み。
絶対にお勧めといっている。

ハンドパワーの強さを体験しに、いくべきか。慈悲深さ二級の私は、悩んでいます。
行ってこそ、慈悲深さもより深くなるような気もします。誘惑されてます、とっても。
でも、この気持ち、もう一種類の人間にはわからないでしょうね。

私の背中を見て、何かを感じる人間がいるとは思えませんが、
異常に姿勢が良くなったことだけは確かな、今日この頃です。

※冒頭のお写真は、明通時 木造薬師如来坐像 です。ありがたい。

(「痛がる背中の記憶」了。BGM 「背中まで45分」沢田研二)

2008.07.31

50%は半分ではない

 

ゆるくてゲローな名人の言葉

小中学校・高校の授業内容で、成人になってまで役に立っていることというのは、計算の基礎能力や社会常識に関するものを除いては、実は多くないのではないかと思っている。だから不要だというわけではなく、社会の多くの先達に関しての知識は、人によっては大切な「人生の知恵」になっていることもあるのだろうというお話。building

私の場合は、今でもよく思い出すのが、「高名の木登り」というお話。今でも、教科書にあるのだろうか。出典はご存知「つれづれなるままに」だらだらと、ゆるいゆるいことを書きつらねることで、日本の「古典」の地位を獲得した今ならアルファブロガー吉田某の「徒然草」。実に243話にもわたる大作、高名の木登りの話は、そのうちの109話目。ご存知の方も多いだろう。弟子が木に登っているのを見守る名人。もうすぐ着地というときになって初めて「気をつけろ」と忠告する。なぜ、それまで忠告しないで、ほとんど安全な低い場所になってから注意したかという問いに、

あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ
(事故は、簡単なところになって気が緩んでおきるものだから)

と名人が答えるという話。名人とはほんとうに人間心理をよく知っているなぁと感心するというオチ。
余談ですが、作者吉田某は、この名人に対してこう記述している。「あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり」。あやしきゲローですぜ。名人とはいうものの敬意なんて微塵も持ってないことが明快です。おまけに自分の生活に読み替えて、「蹴鞠のときも難しいのはクリアできてもミスするのは簡単なボールだもんなー」と締めくくってます。まじめなのか、目線が高すぎるのか。

この話、私はなぜか気に入って、ことあるごとに思い出し、まじめに自戒にしてきました。

高校時代、日本アルプスに登山するときもこのゲロー名人の助言を意識していました。3000メートル級の頂上へのアタック時だけでなく、500メートルクラスの近隣の山へのトレーニング登山のときも、天候のチェック、道に迷ったときの行動シミュレーション、道が崩壊している場合の避難路の事前設定などなど。(おー、書いて見るとかっこいいなー。こんなことホントにやっていたんだろうか、と他人事のように思ったりして。)実は、このおかげで、命拾いをしたことも実際にあります。1000メートルに達しない低い山を散策中に大雨に出会い、道がなくなり、春なのに体温を雨に奪われ、遭難しかけたことがありましたが、事前にチェックしておいた山小屋にたどり着き、事なきを得ました。

社会人になってからも、プレゼンや報告会の直前に、今一度準備に怠りがないか、確認し、質疑応答のあとをどう締めくくるかという台詞にも留意していたように思います(最近は、このあたり、ゆるゆるですが)
海外旅行などでも、帰国する空港までは気持ちが張っているものの、帰り道では緩みます。自宅にはいるまでが旅行だと、気を引き締めてクルマを運転するなど、すべては「高名の、だけどゲローの、名人の助言」に従ってきました。

おかげさまで、この歳まで、なんとか長生き(?)できております。

行動を想定するとき、その最後の瞬間まで目を行き届かせよ。
ゆるいゆるい吉田某に、ひっそりと感謝する次第です。アーメン。

asagao

あと1%、それも半分

ところで、この助言、かってに自分なりに変換して使っています。

99%が、やっと半分。      (あと1%、それも半分。)

バレーボールの試合や、高校野球の試合を見ていて、痛感しますよね。マッチポイントを迎えたからといって、あと一ポイントがとれずに逆転負け。九回ツーアウトまで勝っていたのに、連打されてサヨナラ負け。よくある話です。
ほんとうに力が必要なのは、この「あと1%」を乗り切ることなのです。よく「勝ち切るチカラ」とよばれるものですね。
この1%へのチカラが、一流のプロはすごい。

じぶんでも仕事や何かを作る場面では、(いつもではないですが)気にするようにしています。最後の最後に気がついて直したことが、実は全体を凄くよくしていることもあったりするわけです。たとえば、こういう多くの人に見てもらうのを想定した文章の「校正」。いったん書き上げて、一安心。でも、それから誤植や言い回しの不備を修正したり、全体のレイアウト上の「見栄え」を気にしてみたり。そして、使う挿絵の大きさをいじったりして、完成するわけです。公開しても修正できるのが、オンラインテキストのいいところでもあり、悪いところでもあり。紙の媒体なら、最終締め切りがあり、以後は直せないので「あと1%」がわかりやすい。デジタル媒体は、「終了してからでも修正可。場合によっては削除も可」というものなので、この「あと1%」の緊張感が、紙よりも希薄です。でも、読む側から見れば、同じ。
読むときに掲示されるテキストが、唯一読まれるテキスト、なのですから。
こう考えると、デジタルテキストの場合は、自ら「あと1%」を律することが重要ですね。

こう書いてきて、遅れがちな「お題提出」が、ほぼできそうで、ほっとしています。

とはいえ、この時点で「やっと半分」。これからが「あと半分」です。
気合いをいれなおして、「勝ち切るチカラ」をみせなきゃ、ですね。

それにしても、この酷暑の現代都市生活、ゆるいゆるいゲローな吉田某なら、なんと綴るのだろうか。
つれーつれーと泣きながら書くのだろうか。ちょっと想像してみたりします。
また、「有名な木登り名人」という人の、職業はなんだったのでしょうか。林業、炭焼きの類かもしれないけど、もしかして、忍者?。時代からすると、陰陽師に通じるマジシャン?。それともサル?
すでに、私の脳細胞は、「半分」熱で溶けかかっているかも。いや、50%じゃなくて、99%。

今の気分は「半分」休みたい。パリの人みたいに。今日から二ヶ月ほど。

(「50%は半分ではない」了。BGM:『夏休み』よしだたくろう)

2008.07.16

百年越しの恋

casa1アンティークな古都に遊ぶ

夏です。夏休みです。みなさんは、楽しい夏休みをお過ごしですか。

私は気分だけは、古都でのんびり過ごす予定です。実際に訪問できるかどうかはほとんど絶望ではありますが、日本およびヨーロッパの古い都市で、古い建物や古い喫茶店や古い音楽や古い店員を楽しめるといいなぁと、思っています。

日々、とにかく「三ヶ月先のテレビ番組」、「半年先の広告キャンペーン」、「一年後の新ブランド・新商品」など、先へ先へカレンダーをにらみつつ過ごしている身としては、「近未来のこと」は、とにかく息苦しい。無理やりテンションを上げざる得ないわけです。新しいお店がどんどん開店し、季節限定の新しいイベントが開催され、新しいモードも気にしながら、建設ラッシュの都会を歩いている日々は、ストレスフルー、なわけです。

だから、古いものが、いいのです。新しいことが善で、古いことが悪であるというのは、たんなる偏見です。目新しいことばかりに目を奪われていては、眩暈のうちに人生を終わらなくてはならないのです。古いことは、古いものは、単に古いだけでは不十分ですが、新しいことや、新しいものと、すくなくとも同じ位には、価値があるはずですから。古い町に出かける楽しみは、こんな古いものが今も残っている、残されている、ということを知り、その長くこの世に存在しているものから、その蓄積された「気」を受け取る楽しみなのです。

若く、新鮮で、ぴちぴちとした、まぶしいオーラも、もちろん嫌いじゃありません。生命の活力をくれます。だけど、古く、腐る寸前の、甘い腐臭を漂わせた、魅惑的なオーラに、どっぷり浸ることも、これはこれで、至福のときであります。ふむふむ・・・。
話がそれました。古いものを訪ねることで癒されたい、それが今年の私の夏のテーマです。

時は、私とともに、在る

古い古いといいますが、いつごろからが古いのでしょう。

十年一昔、とかつては言われましたが、最近の世の中の変化、騒動からすると、感覚的には一年一昔でしょうか。アワタダシイ世の中です。そういえば、10年ほど前には「ネット・バブル」という騒動もありました。インターネットが浸透する段階で、情報サービスベンチャー企業が雨後の筍みたいにたくさんでてきて、あるものは陽の目を見ることもなく腐り果て土に帰り、あるものはポータルと言われる不思議な情報企業に高値で買い取れたり、あるものは生き延びて生活道具として欠かせないサービス企業になったりもしています。今となってはふりかえると、あの頃は「祭り」でしたねー。「祭り」熱にうなされて人生変えちゃった人もいましたねー。ほんとに、今は昔、です。park

想い出すに、その頃は、「ドッグ・イヤー」とも呼ばれてました。その心はというと、犬が人間よりも7倍早く成長し時間を使うっていうんですね。時計が動く一年分が、実は七年分の内容を含んでいるということだとか。その頃それを聞いた私は、思いました。まあ、自分のことを「犬」とおなじだと、すすんで認めたい人がこんなに多いなんて、なんていう世の中だ。「犬のように働け」だって。やだやだ。私は人間の時間を生きてやる。ってね。
まぁ、あの頃「犬」になった人が今成功者になってたりもするんでしょうけどね。それはそれ。時間は、常に私とともにあるのですから、気にしない気にしない。
そんなことを言い続けているうちに、私という人間がどんどん古くなってきているというのも事実なんですけどね。

人は「区切り」をとおりすぎるだけ

百年は一世紀。そういえば10年程前には、「世紀末」ブームというのもありました。西暦ですから、キリスト教徒以外には本来関係ないはずなんですけど、どうもこの「末」というのが、魅力的だったんでしょうねぇ。世も末、明日は世界が滅ぶかも、っていろんな刹那的で、オドロオドロシイ出し物が登場して、それはそれで楽しめました。といっても、たかだか10年前です。今15歳の人からすれば、物心ついてから21世紀だったわけですから、どんなことも咽もと過ぎれば暑さも忘れます。いろんなブームも、いろんな「現在」も、過去になっていくわけです。過去に囚われて生きることは詮無いことです。

人の生活の記憶といっても、実体験だけで見ると、せいぜい数十年から長くて90年程度。なかなか100年は生きられません。だから、生きられなかった「過去」の「美」を、その時代にそれを作った人のことを含めて楽しみたい、というのは人間の根源的な欲求なのかもしれません。自分の人生と無関係に存在した、人間の所作としての品。それを「骨董品」だと、かってに思っていました。ごく最近まで。

「100年」という条件cherch

欧米のオークション業者にとっては「アンティーク」というのは完成から100年以上経過しているものという定義があるそうです。へーっ、知らなかった。漠然と昔のものという認識だったのが、実は恥ずかしい。
あっ、これって、eBAYとか、ヤフオクのことじゃないですよ。サザビーズなどの美術品オークションの話です。ヤフオクで、1960年代の手巻き時計を「アンティーク・ウォッチ」といって出品しても、とくに問題ないはずですし、詐欺だとも思わないでしょう。この「100年たったらアンティーク」とは、ある特定の人たちの中での定義に過ぎないんですけどね。でも、100年。これは、まいった。長すぎる。
ちなみに、この定義の中には、アンティークに至らない(100年たっていない古さの)ものは「ジャンク」とよぶそうです。あっ、これもヤフオクとは違う用例ですね。ヤフオクでジャンクといったら、通常の機能を発揮できないガラクタ、という意味ですものね。たとえば、「最高級アメセルマーク6 66年製 ジャンク」となると、最後の4文字がないと60万円から150万円で取引されるものが、これだと数千円から数万円どまりでしょう。ジャンク、恐るべし。

さて、2008年現在で、アンティークなものは、1907年までに完成しているものということです。そういう高級美術品オークションに「骨董品」として出品できるものはなんなのか、気になります。ということで、調べてみました。

住居はかろうじて合格 公園・教会は落選
casa2

今年の夏、できれば行きたい(でもたぶん行けない)私の大好きな街、スペイン・バルセロナ。
モンジュイクの丘の緑を楽しみ、ホアン・ミロの白い美術館で心を洗い、下町のピカソ美術館の陰鬱な「青」に戦を思い、イカのフリットなどの地中海料理にワインで至福の時間を、港近くのバルで過ごす。ホント、サイコー、です。たぶん行けないけど、バルセロナの中心街,見慣れた雑居ビルの中にアントニオ・ガウディ作の二つの集合住宅(一番上の写真とこの上の写真)があって、車からでもウヒョーと声をあげてしまいます。この二つの建築物はかろうじて、100年経過している。アンティーク・ガウディです。でも、それよりも有名なガウディの公園、ここもタイルアートが楽しくて、かわいいんだけど、たぶん行けないけど、ここは残念ながらあと6,7年は「ジャンク」です。一番有名なサグラダファミリア教会は、いまでも建築中ですから、アンティークなわけもなく、でも塔の先まで上がって眺める細かいアート仕事には、ほんとに感激するものです。でも、たぶん、いけないんですけどね。

古い人は、大切に。優しくしてね。

100年以上前の人間の諸作に対して、骨董品と呼ぶかどうかは別にして、大いなる敬意をもって接したいものです。100年以上経過して、少しは進化しているはずの人間として、作者の意図と熱意と感情と感覚を、すべて受け止めてみたいものです。もっとも進化なんて、個人的にはまったく信じていなかったりもするんですけどね。愚か者は常に愚かであり、想像力のないものは常に想像できず、価値がわからないものはわからないままなのです。瞬間にしか生きていないその愚かな生物は、偉大な骨董品やその候補に「愚かな自分の名前」を平気で書き込んだりするものですから。かりに、今「モナリザの微笑」を渋谷の交差点で公開すると、信号一つ分で落書きされて顔が見えなくなることは間違いありません。かように、人間は進化なんかしないものなのです。一般論としての進化なんて忘れて、自分自身の進化のために、偉大なる諸作の前では心を無心にしてすべての波長を感じたいと、日々古くなる私は思ったりするのです。

夏休み、このドッグイヤー300年余の骨董男と和んでくれる方、いらっしゃいませんか。日本とヨーロッパの古都を(気分だけ)めぐり、人類の偉大なる遊興について語りましょう。ぴちぴち系、腐臭系、進化系、突然変異系を問いません。百年前の、前世の恋について、想像をめぐらしてみませんか。

※写真は、Wikipedia Commonsからお借りしております。ありがとうございます。

(「百年越しの恋」了。BGM:「元気を出して」島谷ひとみ+押尾コータローguiter )

2008.07.02

セルフボンディングの選択

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オールスターゲーム、どっちを応援しますか

プロ野球の夏といえば、アメリカも日本も「オールスターゲーム」ですね。
アメリカでは今年ニューヨークが舞台ですが、ヤンキースも例年にない不調で、
一体何人の選手が晴れの舞台に立つことができるのでしょうか。

ところで、日本もオールスターがあります。あなたは、どちらを応援しますか。

ひいきのチームがある人にとっては簡単ですが、普段興味のない人は「どっちでもいい」でしょうか。

さて、想像してみてください。

あなたは繁華街を歩いていて、テレビ局の撮影クルーに遭遇しました。そこで質問されたとします。
「今度のオールスターゲーム、どちらを応援しますか。このシールを応援するほうに貼ってください」そういわれて丸い赤いシールを渡されます。A4サイズほどのボードの右に「セントラルリーグ」左に「パシフィックリーグ」、どちらかに貼らないと許してくれません。親切でサービス精神のあるあなた、とりあえず興味もないけど、どちらか(仮に「パシフィックリーグ」)に貼りました。で、理由も聞かれて、「なんとなく、楽天のマーくんがおもしろいから」
などと適当に答えます。「明日の早朝の情報番組で紹介します」といわれ、その場は終了します。もともと野球に思い入れのないあなたは、家族にインタビューを受けたことを伝えただけで、翌日早起きすることもなく、そのインタビューのこともすっかり忘れてしまいます。

さて、その週末、偶然オールスターゲームのTV中継をみています。
「どちらかを応援してみようよ」と家族からいわれます。
さぁ、あなたが応援するのはどちらですか。セ・リーグ? パ・リーグ?

何も考えないと、たぶん「どちらかというとパリーグかな」となる確率は高いのです。
え?それって、ほんと?と多くの人はおもうでしょう。でも、実際に実験するとそうなのです。

実はこれ、アメリカの社会心理学会では統計的に有意に差があるとされている「定説」の応用例です。
社会心理学というのは実に守備範囲が広い学問ですが、その中で中心領域とされている『態度変容』に関する研究の中にあるものです。

『態度』とは、行動を起こす元になる心理的な構え方

わかりやすくいうと、

好意を持つ、選択しようと思う、同意する、支持政党を決める、などの
「特定の対象に対するベクトルをもった気持ち」

のことです。その気持ちを明確にもつことを『態度変容』とよびます。このオールスターゲームの応援チーム選びも、『態度変容』のひとつです。民主主義社会、大衆消費社会において、この『態度変容』というものは、その社会の根幹に関わることなのです。

資本主義・民主主義の根幹を揺るがす領域

freedom大げさではありません。
さきほどの支持チームの候補を「クリントン」と「オバマ」に変換してみてください。「共和党」と「民主党」でも、「自民党」と「民主党」でも、「巨人」と「阪神」でも、「トヨタ」と「日産」でも、「JAL」と「ANA」でも、「ヤフー」と「Google」でも、なんでもいいのです。ね、民主主義政治体制、資本主義経済にとって、非常に大切な領域なのだ、と気づいてくれますか。

どっちでもいいし、興味ないという方もいらっしゃいますね。それはそれで結構です。でも、こういう理論は、悪いやつほど勉強していて、あなたをおとしいれるために使ってくるかもしれません。キャッチセールス、結婚サギ、いんちき新興宗教、消防署の「ほう」からくる人、、、、。これは、使う目的の差でしかなく、大統領選挙などには社会心理学者がコンサルタントとしてついているという話もあるくらい。

これでもあなたには関係ないですか。そうですね。お時間をいただきありがとうございました。さぁ、「社会心理学」に対してまったく関係ないと「態度」を表明された方が、このページから出て行かれますよ。この手の話題にであったらまた「わたしは関係ない」と思うのでしょうね。特定の対象を「拒否」することも立派な態度ですからね。ありがとうございました。(^_^)

さて、話を戻しましょう。なぜ、もともと、それほど興味もないことに関して、このように「態度」が片方に傾いていくのでしょうか。結論をいうと、「自己統一性維持の気持ちが働くから」です。すごく説明を省力すると、そういうことです。もともとどちらを支持してもそれほど結果の影響が大きくないと思うと、過去において他者に対して(半強制的であったとしても)態度表明をしている場合は、その態度を裏切らない態度をとり続けようとする、ということなのです。

自分の意見は常にその時点で自由に選択している、という感覚で日々生きているはずですが、
実は「自分の過去の行動」が今日の選択を規定していたりするものなのです。
そう、自分で自分を知らず知らずに縛っているわけです。

「自縛ショー」としての日常生活

前述の応援チームを選択する例の場合、「テレビ番組の取材に答えた(もしかすると大勢の人に自分の態度表明が伝わっている)」ということが非常に大きく作用します。これが「友達一人に話しただけ」だと、影響は少なくなります。世間、大勢の他者が、自分の選択を知っている(知る可能性がある)ということが肝心なのです。これは、事実として「その映像が放映されて大勢が見た」かどうか、が大切なのではなく、答えたあなたがそう思っている、ということが根幹です。極端にいうと、偽のTVクルーの取材だったとしてもあなたがパリーグを応援する(高い)確率は変わらないのです。なにがあなたの選択を規定しているのか。それは「他者があなたをどう見ているとあなたが思っているか」なのです。『他の人の瞳に写った自分の像』、それをあなたは無自覚に想像し、日々の判断の材料にしているのです。ほんとうに他の人はどう思っているかを知ることもなく、です。

これを、自分で自分を縛る自縛ショー、と呼ぶことにしましょう。
無自覚な選択において、われわれはこの側面では、程度の差はあれ「M」体質なのですね。

「わたしはドSよ」と明言する方も、この領域では「M」なのです。
だって、昨日の自分と今日の自分が同じもので、自分は何年たっても自分なのだと信じているし、自分が統一したすっきりしたわかりやすい存在だと思うことって、(あたりまえすぎますが)うれしいでしょう。

過去の自分、それを知っている他者、というものを「縄」にして、今の自分をギューギューに亀甲縛りしてるのが、現代社会を生きる、統一した自己をもつ、正常な社会人の、あるべき姿なのですから。ね、あなたも「M」、私も「M」。みーんな、「M」なのです。(^_^) ついてこれない人は、見捨ててもいいですよ。さすがに(^_^)

実は、この「自縛ショー」であることを知っている人が、うまく「大衆操作」しようとしたりもするわけです。手法は合理的です。あとは「目的」が問題なのですが、それは別の判断基準の議論なので、ここでは触れないでおきましょう。

とりあえず、この「自縛ショー」としてのあなたの日常生活の態度に関して、見直してみることだけをお勧めしておきましょう。

ちなみに、「M」な人は、いろんな言葉で責められるのを好むようですね。
たとえば、「社会に出ると立派にしてるんだろ、それがどうだ、もう××歳なんだろなんだその幼稚な欲望は、悪い奴だなー。反省しなさい」とか、「この社会が駄目になっているのは誰のせいなんだ、この地球が破滅に向かっているのは誰のせいなんだ? お前も含めた人間のせいだろう。自分の快楽ばかりを考えて、周りをないがしろにしてきた結果だろう。そう思わないか。ほら、誰が悪いんだ? おまえだよな。認めなさい。反省しなさい」とか、「あなたは存在自体が罪です。原罪をみとめますか?」とか、いろいろですよね。
あー、こんな風に世相を見ていると、最近の世の中って、真性の「M」体質の人にとっては、日々カイカーンなのではないでしょうか。

とはいえ、「自縛」しすぎて、息もできなくなって、瀕死状態になるのだけは、ご注意くださいね。
ほんとうにうまい「縛りのプロ」は、このあたりの境界をコントロールできるところが、すごいのですから。

ところで、あなたを縛っている、あなたの「縄」、しっかり見えてますか?

(「セルフボンディングの選択」了。BGM:「M」プリンセスプリンセス)

2008.06.24

溶解の悦楽。夏フェス

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さぁ、今年の「夏フェス」の準備はオーケー?

夏です。梅雨のある国と地域だけでなく、初の黒人大統領を選ぼうという国でも、その隣の国でも、六月からすでにジャズ・フェスティバルのシーズンです。梅雨のない国ではすでにもう夏なのです。汗にまみれながらビールを飲みながら、大きなホールや緑の公園や街角で、レッツ・ミュージックな季節なのです。温度計の上昇とともに開放感もあげまくって、ひと夏の経験をするにはもってこいのステージです。梅雨のある国と地域の住人の方も、まだ見ぬ今年の夏フェスの予約はそろそろ手をつけないといけない季節です。日比谷野音、信州、北海道、国際フォーラム、、。まだ手を打っていない人は急いで急いで。
というわけで、なにゆえに「夏フェス」はこんなにも盛り上がるのか、というお話し。
私は音楽を聴くのはそんなに趣味じゃないし、関係ないかも、と言う方。これは趣味の問題ではないのです。フェスティバルというくらいです。お祭りなのです。社会的、文化的に、人々に開かれたイベントなのです。単なる「でっかいコンサート」ではないのです。サムシングエルスが魅力なのです。
もしお気に入りのお友達から誘われたらどうしますか。ビールを飲んで、だらだら音楽聞いてればいいから、気持ちよくて楽しいよって。ね、関係なくないでしょ。だから、実はみんなの関心事であるはずの夏フェス。そのサムシングエルス。
それがなぜこんなに誘惑的なのかということを、歴史的にといっても数十年のレンジですが、実体験に基づいてお話ししたいと思います。
夏突入特別企画。夏フェスのサムシングエルスの快楽をみんなで共有しよう、というお話し。

緑の街に舞い降りて。リゾート・フェスのサムシングエルス

話はバブル期以前、80年代までさかのぼります。
まだケータイもなく、もちろんiPodもインターネットもない時代。CDが颯爽と登場し、レコードを駆逐していた時代です。
ジャズの屋外コンサートが日本でもいろいろ企画されていました。情報誌が勢いがあり、いかにおしゃれに男女で過ごすか、が一大テーマになっていた、そんな牧歌的な気分が蔓延していた頃の話です。

あるビールブランドがスポンサーになったジャズフェスティバルがありました。斑尾ニューポートジャズフェスティバル。
冬場はスキーリゾートとして集客できても、雪のない季節に若者をどう集めるのかがテーマになっていた信州のリゾートエリアがその舞台になりました。これが、実に楽しいリゾートイベントだったのです。スキー場のスロープの降りたところに作られた屋外ステージに、ビバップの大御所トランペッターや大物ディーバがにこやかに演奏するという贅沢なライブ。それを、スキー場のスロープである雑草生い茂る斜面に、思い思いに座り込んだり寝ころんだりしながらビールを飲みながら拝聴する。昼間から夕方にかけての過ごし方。汗だくなんだけど、標高が高いこともあって木陰などでは涼しい風も吹いていて、だらだらと汗を流しながらも、だらだらと男女入り乱れてごろごろと、昼間っから雑魚寝状態なわけです。この開放感、ゆるーい感じ。今思えば、屋外音楽フェスティバルの「快楽装置」としての一つの典型がここにありました。
このあと音楽の種類は多様になるものの、「スキー場のスロープで聞く屋外ライブフェスティバル」は、当時軟派スキー場の代名詞だった「苗場」なども舞台にして、現代まで脈々と続いているのです。

ちなみに、お客はこの数日スキーペンションに宿泊し、午前中は、来日しているクロスオーバーのミュージシャンと「テニス」をする企画があったり、深夜はロッジでのジャムセッションを深酒しながら楽しむという、おしゃれでだらだらを満喫できる企画だったのです。

それにしても、

『スパイロジァイラとテニスをしよう』

という企画、参加した人は想い出になっただろうなぁ、といまでも感慨にふけることができるすごい企画でした。
(ここで笑える人、ありがとうございます。暖かい声援に感謝)

badplus

夏フェスは、ゆるくなきゃ、つまんなーい。

ポイントは、「ゆるさ」です。
このゆるいこその快楽。それが夏フェスの醍醐味、チーズ味、コクの元、だったのです。
首都圏周辺の遊園地敷地内での屋外ライブは、やたらと大人数がひしめきあうものです。座席が決まっていたり、立ち見でブロック分けがあってたち続けていたり。それらと根本的に異なるのは、このだらだらと寝っ転がって、だらだらビールなんか飲みながら、ときにはべたべたしながら、最高の音楽を楽しむという「弛緩方向への快楽」を満喫できることだったのです。
これは、実に夏の休日らしくて、いい!と思いませんか。海水浴や、花火大会に通じる、わくわくがありますよね。

ちなみに、今年の夏も開催される「東京ジャズ」。これも開催当初は、じつに夏フェスらしくて最高でした。
当初数年は、調布のサッカー専用競技場を会場に、真っ昼間から夜深くまで開催されていました。
昼間は灼熱地獄。たぶん45度は軽く超えたであろうステージで上半身裸になりながらサックスをふきまくったジョシュア・レッドマンの姿を今も忘れません。褐色の筋肉質なカラダを遠目に見ながら、「ごめんなさい近くで見れなくて、でも直射日光の下では熱射病で倒れるので」と小さく謝りつつ、スタンドの木陰でビールを飲んでいた自分を思い出します。さすがにアリーナ席は人もまばらでした。あのときは悲しかっただろうな、ジョシュア。ごめんね、ジョシュア。あのときからファンだからね。・・・。

その時の観客席。そこはコンクリートでしたが、スキー場のスロープとおなじ環境だったのです。
汗はダラダラ、首にはタオル巻いて、帽子にサングラス。昼間っからビールのんで酔っぱらってダラダラ。夕方からちょっと涼しくなって、暗くなれば至る処で男女がべたべたし放題。東京ジャズは、スキーリゾートの夏フェスと同じ、「ゆるい開放感」満喫の、隠れたデートイベントでもあったわけです。場所を都内のおおきな箱に移してからは、品のよいコンサートになってしまいました。さらに、昼の部、夜の部とわけて入れ替え制にしてしまっては、この「ダラダラ・べたべた」するまで酔っぱらう時間も余裕もなく、夏フェスとしての「サムシングエルス」が消滅してしまったのです。ほんとに残念。
今にして思うに、あの「東京ジャズ@味の素スタジアム」は、すごいイベントだったなぁ。今世紀最初の奇跡かもしれない。うん。ほんとに惜しい。
関係者の皆様、今年から人口減少にはいるこの国の恋愛装置として、ぜひこういう「ゆるい開放感」の夏フェスを数多く企画していただきたく、本気で思っております。実際のご相談は、JunkStage編集部あて受け付けております。
http://www.junkstage.com/ticket.php

さぁ、今年も夏フェスに、ゆるくてゆるくてとろけそうな、サムシングエルスのある快楽を探しに行きませんか?
ケータイなんて、細い線で結ばれているだけのせこい安心装置なんて、ひととき忘れて。
そうだ、夏フェス、行こう。

(「溶解の快楽。夏フェス」了。BGM「リゾ・ラバ」爆風スランプ)

2008.06.10

初恋の終身効果


ku front
初物が好き、いいよね

成熟した大人にとって「初物」といえば、一足早い季節の味わい。初鰹、初松茸、初西瓜、初蟹、、、。季節の到来をほかの人よりもちょっとだけ先に味わうという贅沢。いかにも、風流でよろしい。季節を意図的に演出するための、フライング。「旬」の人為的な前倒し。通常より高価でも許容され、その行為が賞賛される、無理矢理な贅沢。地球温暖化が「温帯性気候」自体を破壊しつつある現在。それでもこんな風に「季節の扱い」にこだわる姿勢こそが、この国の文化だ。

世界でも、「初もの」に価値をつけるものは沢山ある。ボージョレー・ヌーボーしかり。ただし、それは「初荷」という「収穫」もしくは「デビュー」のシンボルだ。収穫を祝う祭りは世界各地にあり、日本にも多くの祭りがある。これは「収穫」という社会的価値を祝うイベント。一方、この国における「今年初の(ちょっと無理した)季節ものを楽しむ」のは、似て非なる価値、文化的な価値である。もっというと「イメージの消費」。

「初物」は、小宇宙に見立てられた、食卓の空間における「季節の始まり」。すなわち「その年の初めての季節」という「イメージの消費」を味わうもの。さすが、生産活動に従事しない「貴族」が開発した「精神文化」をもつ国だけのことはある。1200年も前から、和歌という言葉遊びで、ものの見方の優劣を争ってきただけのことはある。その、非生産者の視点からの、季節感の楽しみ方「上級編」の一つとして、「初物」の楽しみ方があるのだ。ワインの初出荷なんていう当たり前の祝い事とは、ラベルが、いやレベルがちがうのだ。くぅーっ、ホントに、いい国に生まれたのー。

初めての経験は、初めて故に、かっこわるい

あなたは、初めて海外旅行をしたときどんな経験をしたか、覚えてますか? 仔細に記憶している人もいるかも。でも、私は、実のところ、ほとんど覚えてない。海外旅行も回数を重ねるうちに、楽しい想い出も増えていき、過ごし方も慣れてきて、楽しみ方自分流にもなっていくもので、そうしているうちに、初めての体験それ自体の記憶が薄くなっていく。とはいえ、誰でも「初めて」はあったはずだし、かっこわるい経験もしているにちがいない。

恋愛だって、海外旅行だって、性体験だって、会社勤めだって、結婚生活だって、育児だって、なんだって、初めてのときはあったはずだし、かっこわるいことだって多かったはずだ。でも、そんなのは初めだけ。多くの体験は、複数回経験していくことで、ちがう楽しみを発見して、盛り上がったり盛り下がったりしながら、日常生活の中に堕していくものだ。初めての時がいくらかっこわるくても、すぐに別の欲望と快楽を発見していく中で、初体験は「過ぎ去りし日」として「心のアルバムの1ページ」になり、心のどこかにしまい込まれるのだ。かっこわるく、不安でどきどき過ごした体験をいつまでも覚えておくのは、それはそれで難しかったりするものだ。振り返るに、ふだんの生活のなかで、「初めて」話は、意外にしないしね。ふつうは、奥底の棚の中にしまい込まれている記憶だったりするものだ。

恋愛だって、海外旅行だって、性体験だって、会社勤めだって、結婚生活だって、育児だって、、、。そして、しまい込まれた記憶を呼び覚まそうとするとき、快感だった場面の感覚だけを、選択的に思い出しがちだから、必要以上の「美化」が「初体験」に施されることになるのだ。ほんとうは、不安だったはずだ。混乱もしたはずだ。だから、その行動はすごく、かっこわるかったはずだ。だけど、実際にはなかなかそんなことは思い出せない。美しく、懐かしく、かなり美化された記憶に変身していたりする。自分の体験の記憶とは、そういうものなのだ。

「未知」から「既知」への移行、もしくは、それ以上

成熟した大人文化(ってくどいなぁ)を大切にする社会では、「初めての体験」は、『成長物語』というパターンの映画や小説の中での「未熟さ」のシンボルとして、あつかわれることが多いように思う。今やりっぱな紳士淑女になっている人でも、その成長期にはこんなにも恥ずかしく、こんなにもかっこわるい場面もあったんですよ。アハハ、初々しくていいじゃないですか。そんな位置づけで「初体験」を描くことが多いように思われる。知らない状態から、知っている状態への「移行体験」としてみれば、それも理解できる。でも「初体験」は、それだけではないはずだ。

「あやうさ/はかなさ」の価値ku cushon

「初体験」を特別視してしまう傾向が、この国のメディアにはあるような気がする。芸能人相手のトーク番組で、どんな大人にも「初恋の相手は?」などと平気で質問していたりする。実は、非常にプライベートで、デリケートな質問なのだ。それを、欧米のシネマスター相手でも、平気で質問して困らせたりしている。こういうのを見ると、この国の人々は脳天気だなぁ、とつくづく思う。

「旅慣れて成熟することで人間的な魅力も増す」と考える人から見ると、こういう「初体験」重視のスタンスは、とっても子供っぽくも見えるかもしれない。とはいえ、季節のフライングに「背伸びの美学」をみる人たちからすれば、「初めて」であることの、危うさ、儚さ(はかなさ)こそが、美しいのだ。かっこよくなくてもいい、若い人が淡い熱を不器用に扱っている姿を見るだけで、ほほえましくも、うれしくなる。それがこの国の人をして、「初体験」を質問してしまう所以なのだろうと思ったりもする。

「初物」の「刷り込み」の効果

鳥類などの新生児は、外界を初めて認識できるようになったときに、たまたまでも、そばにいた成人を「親」と認識するらしい。俗に言う、「刷り込み」である。初めての個体認識が、欲望の対象としての「群」の代表として認識されるというお話し。

人間においても同様だとすると、初めて恋愛対象として見た異性(もちろん、たまたまそのとき目の前にいただけかもしれない個人)を、「異性」の代表として認識し、欲望するようになるということ。要するに、「初恋の相手」は、その後の恋愛対象の個人に対する「ものさし」として機能するのではないかという仮説もたてられるかも。初恋の相手が持っている特徴は、その関係が終わったとしても、新たな相手を値踏みするときに、ある基準として作用する。その結果として、どこかしら初恋の相手と共通点のある異性を探している自分を見つけるということなのです。ku hajime

さぁ、みなさん。胸に手を当てて、思い出してみてください。初恋の相手を。
何、思い出せない? じゃ、もっと胸に手をしっかり当てて。あっ、そこのお嬢様、揉まなくても結構ですから。揉んだからってサイズアップする訳でもないですから。手じゃなくて頭を働かせましょう。

さぁ、思い出せましたか。では次に、その後の恋愛対象になった異性の顔を思い出してください。あまりにたくさんで思い出したくないですと? 思い出せる相手だけでいいです。どうですか? 初恋の相手から「刷り込まれて」いませんか? 初恋の相手とどこかしら似ている異性に惹かれていたりしませんか?

なかには、そんなこと全くない、という方もいらっしゃるでしょうね。一期一会、それも人生です。

個人的に、思い描くのは・・・
和服を休日に着るのが普通で、現代音楽が趣味で、ピアノが弾けて、明治の近代詩人が好きで、スポーツは嫌いで、ソプラノのきれいな声で、情熱的で、小柄で、睫が長くて、・・・・。

こういう刷り込みは、「一生もの」だったりします。お気をつけください。(いまさら。なにに?)
もしくは、もっと自覚することで、自分の好みが明確になるかもしれませんね。それもよいことです。

でも、実際の恋愛は、つねに初めてのことばかり。
二度目だろうが、二十回目だろうが、その相手との関係は、いつでも初めてです。すぎさりし初恋を偲びながら、いま目の前の初恋を生きる。そんなモットーで死ぬまでどきどきしていたいものですね。あはっ。

(「初恋の終身効果」了。BGM「セカンド・ラブ」中森明菜)

2008.05.07

コナジジイの話 

「私」っていうものが、一番わからないのよ。いつまでたっても。

先日飲み屋での話。40歳の凛々しい女性が、後輩である30歳男性に説教していて、突然叫んだ言葉がこれだ。「人のことなら少しずつわかるようになってきたけど、いくつになってもわからないのは自分なのよ」とのこと。となりでヘロヘロに酔っ払っていた私も、この台詞に、ぴしっと背筋が伸び、深くうなづいたのだ。生きていくうえで、他者を理解するのは大変だ。でも、それ以上に、いくつになってもわからないのが「自分」と言う存在だ。だからといって、哲学的、認識論として、「僕って何?2008」okonomiといっても失笑をかうだけだろう。

で、考えてみた。私は自分のことをどこまで理解しているのか。とくに、物理的存在として。いろいろと思いだしながらいくつかのデータを並べてみた結果、ひとつだけ確かなことがわかった。それは、今更ながら愕然とせざるを得ない事実だったのだ。

私の体は、ほとんどが「粉」からできている。

そう、粉。ふっと息を吹きかけると、すぐにまいあがり、結果として塵芥にすぐに変身する。その、粉。固体ではあるが、なんとなく頼りなく、大体において、植物の果実を粉砕したものであることの多い、粉。小麦粉、米粉、もち米粉、きな粉、汁粉、てんぷら粉、から揚げ粉、、、。ふりかえると、私の肉体の多くが、この頼りなく、既に粉砕されている物質からできているのだ。あーあ、なんてこったい。

「粉」っていうものが、一番好きなのよ。どんな形になっても。

一説によると、28日間で人間の細胞と言うのは古いものから新しいものに換わるのだそうだ。月の満ち欠けから女性の生理までがそうであるように「太陰暦」にのっとり、人間の固体を形作る細胞は新しくなるのだそうだ。その説が正しいかどうかは別にして、肉体を形成する物質はそのほとんどが「食べもの」として摂取されることは確実であり、摂取される物質によってその人間の肉体の組成内容が決まってくるのも確かだろう。
ということで、自分の食生活を約一ヶ月、振り返ってみることにした。すると、以下のような感じで、「麺類」と「小麦粉焼き系」がやたらと多いことがわかった。

某日(平日) 
朝:うどんに卵とじ 昼:スーラータンメン 
夜:パイコーダンダンメン(ご飯小盛り+お新香つき)

某日(休日)
ブランチ: 焼きうどん(自作) おやつ:もんじゃ(めんたい餅チーズ) 
夕飯: 手作り餃子(+その他)

一日最低でも一回は「麺類」である。実は一日三食全部麺類でもぜんぜんかまわないほど好きだ。自宅では、デュラム・セモリナ粉(小麦粉)の「パスタ」、オーストラリア産讃岐向け特産小麦粉の「さぬきうどん」が、やたらと多い。休日に自宅で食事を作るときは三回に一回は「パスタ」udon料理であり、残りの二回に一回は「焼きうどん」もしくは「副菜つき汁うどん」である。それに、「焼きそば」や「カップめん」「カップ焼きそば」が紛れ込んでくることもある。我が家においては「麺類」はたとえインスタントであろうとも「ジャンクフード」には分類されない。

また、たぶん普通の世帯よりも圧倒的に高い頻度で「焼きビーフン」が登場する。
私の生家では昭和30、40年代から「ビーフン」「からすみ」が普通に食卓に上っていたという「台湾引揚者世帯の末裔」ゆえの特異事情なのだが、その引揚げた人が住んだのが「香川讃岐」だったものだから、幼少のころから本場の讃岐うどんを食べなれている。打ち立て茹でたてのうどんに、刻んだねぎと鰹節を載せ、生醤油をたらすだけの食べ方が最高だと信じている。ラーメンもふつうに大好きで、一人の外食となるとまずはラーメン屋を探すことが多い。おいしいラーメンを食べるためだけにレンタカーを借りたこともある。並ぶのは嫌いだが、本当に好きなラーメンのためなら並んでもいいと思っている(が、ならばない時間帯を狙うことにしている)
という感じで、どの地方に行こうとも、どの国に行こうとも、圧倒的な頻度で『麺』なのだ。
とはいえ例外があり、「日本そば」にはまったく執着がない。うまいものはうまいと思うが自ら思い立つメニューではない。人に付き合った結果の「うまい日本そば」を含めても、とにかく「麺」の頻度は尋常ではない(と自分でも思った)。

休日の定番が、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃである。
関西および近隣県の出身者にしてみれば、これは当たり前である。独身時代から「電器たこ焼き器」は一人暮らしの定番器具であり、生家では鉄工所に特注した厚切り鉄板で、お好み焼きを焼いていたものである。現在では大判のホットプレートなどという軟弱な道具を使うものの、広島風お好み焼き(出身地はその隣県にあたり、大阪風ではけっしてなかった)を基本に、様々なものを焼くのが、休日の正しい過ごし方なのだ。
まずは、イカや野菜、肉などを焼きそのまま食す。その後、おもむろにお好み焼き。当然ベースは「小麦粉」。そして、〆は「焼きそば」である。味付けは、原則「○たふくお好みソース」なのだが、ときに「塩味」「しょうゆ味」などに変化する。ちなみに、自宅には、「○たふく焼きそばソース」「○たふくたこ焼きソース」など「メニュー対応ソース」も揃っている。また先日、「○たふくしょうが焼きソース」というのを店頭で発見したが、あえて購入しなかった。だって、おろししょうがと酒と醤油だけの味付けが好みだからだ。
また、カレーショップでは「ナン」のうまい店が好みだ。神田神保町交差点近くの「マ○ダラ」の「ナン」は最高に好みであり、このナンを食べるために月に一回は行きたい店だっnannたりする。
余談はさておき、このように、徹底的に「粉系焼きモノ・ラブ」な私である。

「こなじじい」予備軍としての自分

麺とこの「粉もの」あわせると、年間何トンの小麦粉を私一人で消費しているのだろうか。食事の頻度から推測すると、体重の約三分の一は「粉もの」でできているに違いない。このまま、粉ばかり食っていると、あと数年で「こなじじい(粉爺)」と呼ばれても反論できないかもしれない。あのー、「こなきじじい(子泣き爺)」じゃないですから、そこの人。鬼太郎じゃないんでね。あっ、頭頂部を指さして粉吹いてるっていわないように。それって、頭髪が多くないだけですから。人間違いですから。そこんとこ、間違えないように。おねがいね。

こう考えてくると、本来よくわからないはずの「自分」も、少しはわかったような気になってくるのが不思議だ。
私の体が「粉」からできているのであれば、あとは簡単だ。よりよい「粉・化合物」として、自分を調理していくだけだ。

まずは、水。
粉は粉のままでは、ふっと息を吹きかけると、すぐにまいあがり、結果として塵芥にすぐに変身する。塵芥にならないためには、まずは「水」を含んで、ジェル状態になることが前提だ。さぁ、水を大量に摂取するぞ。水を最低でも二リットルは飲みましょう、そうモデルの人はいうではないか。理由は異なるが、私にも水は必須なのだ。塵芥と成り果てることを避けるために水分補給は十分に。これから暑い季節になることもあり、今日から始めることにしよう。

つぎにするべきことは、「練り」である。
お好み焼き、たこ焼きなどの場合は、「混ぜ」ですむのだが、それは他に豚肉やキャベツ、蛸などの華やかなるメイン素材がある場合に限られる。私の肉体のように「粉」がメインの場合は、「混ぜ」ただけでは物足りない。やはり、腰の強い麺類が好まれるように、腰の強い肉体にならなければ。そのためには「練り」である。「讃岐うどん」に代表される「腰の強さ」は、全体重をかけた「踏み」による「練り」によってこそもたらされることを、皆さんはご存知であろうか。そうなのだ、「粉」は「踏まれて、練られて」初めてうまくなる。ならば、私とて同じ「粉」。思い切り「踏まれ、練られ」なければ、うまくならないのでは。ということで、今日からは、みなさんの足元に横たわる人柱のつもりになって、踏まれ、練られることを良しとしよう。まちがっても、女王さまの足元にひざまづくことは、やめるように。ピンヒールで踏みつけられても、目の内側にきれいな星は飛ぶかもしれないが、腰の強いうどんにはなれないのだから。

それにしても、粉系の肉体をもつ「自分」は、なんとも、はかなげな存在であることよのー。

ふーっ。

あっ、飛んじゃったよー。ほんとに軽いなー、存在感が。

(「コナジジイの話」了。BGM 「私の青空」高田渡)

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