2008.08.30
小さい頃、実は音楽が苦手だった。いや、聞くのは好きだったが、「音楽を自分で奏でる」ことに対して、ずっと苦手意識を抱いていた。その理由の中には、音程というものをあんまり理解できていない生まれつきや、人前で発表することへの緊張感もあったのかもしれない。
ただ、リズムをとることは好きだった。大人になった今、例えばタップダンスなんかをやってみたりもした。
タップは結局、時間の都合で中断したままになってしまっているが、いつかは再開したいことの一つだ。地面との摩擦で鳴り響く乾いた靴音が、好きだったのだ。
そんな育ちをしてきた私からすれば、「音楽を自分で奏でる」ことのできる人たちが、とてもまぶしく見えた。自分の中に湧き上がる気持ちを、すぐさまメロディとして世界に放つことのできる、そんな人たちに、私はとても心惹かれていた。
友人にも今、音楽大学でピアノを学んでいる人がいる。バーの片隅を借りて彼が即興でかき鳴らすミュージックを聞いたとき、とても心が震えたのを覚えている。
「音楽の力」を、今という瞬間に、その場所に解き放つ。
音楽家はそんなことのできる魔法使いのように、私には思えた。
いや……今でも思っている。
音楽とは、基本はその瞬間瞬間に賭けられた想いではないかと思う。
奏でられた音は、一瞬の後には空気の中に消え去って、聞いた人の耳の置くにひっそりと息づくだけ。
建築や絵画、映画、文学といった、後々まで残るものではない。
かつて、建築・絵画・彫刻は「空間の芸術」と称された。それと対比するように、音楽、舞踏、文学は「時間の芸術」と言われた。その「時間の芸術」の中でも、音楽と舞踏は特に、その時間でしか生命を持たない芸術のように思える。
たしかに技術は発達し、音楽や映像の記録は容易になっている。しかしそれでも、生で音楽を聴いたときの心に伝わるような衝撃は、やはりその瞬間でしか味わえないものだ。
そこまで考えて、思った。
「音楽は、なんてつらい芸術なんだろうか」と。
例えば、ストリートでライブをする。その時作られた音楽は、その時だけのものでしかない。すぐに都会の喧騒の中に消えていってしまう音の塊を、少しでも多くの人の耳に届けようと楽器を鳴らし、声を張り上げる。
それは、演奏する側からしてみれば、何百回ものうちの一回だ。だが、聞く側からすれば、その一回限りになるかもしれない。その一回限りの演奏で全てが評価され、気に入られるか気に入られないかの明暗が分かたれる。
音楽家は、そんなぎりぎりに張り詰めた“たった一回の勝負”を、何百回と繰り返している。
その強さには、心底敬服する。
多くの人間は、“一回きりの勝負”という場面にはそうそう出くわすことがない。
その数分で全てが決まってしまう、なんてことは起こらない。
だからこそ、わたしたちは、そんな世界に住む人たちの熱をまぶしく感じてしまう。
スポーツ、職人。そして、音楽家。
一瞬が人生を左右するような、こげつきそうなほど熱い世界に、憧れている。
その裏に潜む、辛さやしんどさには目を向けることなく。
ただ、その華やかさに魅かれている。
ただひたすら、勝負を繰り返す。
そんな生き方には力強い光があり、そして当然のことながら、同じぐらい深い闇がある。
でもだからこそ、彼らはよりまばゆい光を放つのかもしれない。
そう、思った。
2008.08.25
星になる前の、原始の星。
protostarが結成されたのは、2年前、2006年の夏。
ボーカル・鳥越たかこ、ギター・山東潤、ベース・若林大輔、ドラム・吉田一哉の4人で始まった。
8ヶ月後の2007年2月にはファーストアルバム「march」を出した。その後ストリートやライブハウスでの演奏を重ね、2007年12月にはキーボード・星怜那が新加入。現在の5人体制になった。現在は2ndアルバム「Starfish Park」が発売中である。
バンドとしての経歴は、多くの賞賛と受賞暦に包まれている。それは、ストリートライブを見ていれば少し分かる。ただ通り過ぎられていくのではなく、多くの人の足を止めさせ、そして思わず拍手をしてしまうような、そんな魅力に包まれているバンドだった。
バンド名の由来は「原始の星」から。いつか星になることを願って、名付けられた。
夜空に歌う、原始の星。
その星のまぶしさに、強く魅かれた。
梅田の路上に響く歌声。
最初に彼らのライブを路上に遭遇したとき、都会の喧騒の中で、その存在が際立って見えた。
5つの音源が発する声が融合して、一つの大きな輝きになって梅田の夜を照らしているように思えた。
それは大げさな表現かもしれない。だが決して、誇張ではないと思う。
毎週火曜日の夜。晴れていれば彼らは、そのいつもの場所に楽器を広げ、軽快なコンサートを始める。会社帰りの人の多くが彼らの前で立ち止まり、駅を向いて歩いていた顔を彼らに向け直す。信号待ちのはずが、二曲三曲と聞き入ってしまい、大きな拍手を送る。そんな風景を見るたびに、彼らのすごさがわかっていった。
あるサラリーマンは、仕事の疲れが癒されたように笑顔になって帰っていった。あるOLは、「これからまだ仕事なんです」といいながら、楽しそうに戻っていった。カップルも老人も親子連れも、自転車で素早く通り過ぎる人さえも、ついつい興味を抱いてしまう。そんな音を、彼らは奏でている。オフィス街と駅をつなぐ場所で、通り過ぎる人を魅了する。
思わず買ったCDには、アップテンポな曲やバラードなどが入っていた。そのうちのいくつかはすでに路上で聞いた曲だったが、自宅でスピーカーを通して聞く曲は、梅田で聞くのとはまた違って聞こえた。
ライブの熱気のなかで。

一度、彼らの音を、室内で聞いた。彼らがよくイベントを行うという「SADE’S CAFE」で開かれたライブだった。ライブが始まる頃になると、店内の椅子は全て埋まった。店内奥に楽器を運び入れた彼らは、挨拶をしながら、音を合わせはじめた。
「音合わせから披露してます。前代未聞なバンドですみません」
そういって笑ったボーカルの鳥越に、軽く拍手が飛んだ。
彼らは、室内でもやはり楽しそうに音楽を生み出した。時折冗談を飛ばしながら、観客を巻き込んで一体になって盛り上がっていこうという想いが伝わってくるようだった。曲順もあらかじめ決めたりせずに、「次はどれにする?」と一曲一曲相談しながら、進めていく。
そんな感じで進めていたら、気づけば終了の時間。少しだけ延長しながら、「最後の曲、聞いてください」と鳥越は頭を下げた。観客は総立ちし、盛り上がっている演奏にあわせて、手を上げて応えた。
曲が進むにつれて、カフェの店内に熱気が充満していく。彼らはお互い目で合図しながら曲をさらにヒートアップさせ、観客の熱に接してくれている。
そして曲の最後のフレーズを鳥越が歌い終わる。他のメンバーが音を盛大にかきならし、観客が拍手しはじめている中で、ドラムが最後のシンバルを鳴らす。
その瞬間、鳥越は軽く飛び上がってこう叫んだ。
「We are “protostar”!!」
ひときわ大きく鳴る拍手の中で、汗だくになりながら笑いあっていたメンバーの姿が、とても印象に残った。

『protostar』ホームページ
http://protostar.tv/
2008.08.20
出会ったのは、優しく熱い音楽だった。
とある平日の夜。取材帰りに私は、大阪梅田の路上を歩いていた。
その道は、いつもは使っていない道だった。その取材は毎週のその曜日に行っていて、私はその帰りに地下街を通り抜けて駅へ戻っていた。
それがその日、どうして地下ではなく地上を歩いてみようと思ったのか。
その理由ははっきりとは覚えていない。ただ夜風が気持ちよくて、もっと風を浴びていたいという想いは、確かに抱いていたように思える。
そして私は、その音楽に遭遇したのだ。
「みなさん、よければ聞いていってください」
ぺこりと頭を下げたボーカルの女性を含め、メンバーは5人。
キーボードの足元には、バンド名「protostar」の文字と、アルバム発売の告知が記されたポスターが立てかけてあった。
場所は、仕事帰りのサラリーマンがよく通る大きな交差点。周りを梅田の背の高いビル群が包み込んだ空間で、彼らは音楽を奏でていた。
「ちょっと聞いていこうかな」と私が思ったのは、そのメンバーたちの今にも躍りだしそうな楽しい雰囲気に、思わず足を止めたからだった。
ポップな曲調にのせて、ジャズのように歌う。
そんな演奏を聴いて、私はこの「protostar」というバンドに興味を持った。
演奏を数曲続けたあと休憩している間に、通行人の中で足を止めて聞いていた人たちがぽつりぽつりと話しかけていく。新作のCDアルバムを買っていく人もいる。中でも、まとめて5枚買い取った人が印象的だった。バンドのメンバーともすでに顔見知りらしいその人は、「また東京の友人に勧めてくるよ」と笑いながら、去っていった。
他にも、もともとは興味なさそうに通り過ぎようとしていたのに、交差点で信号待ちをしている間についつい魅きこまれて聞きいった人もいる。そういった人たちに、彼らメンバーは平等に暖かく接している。私も、最初に聞いた3曲が妙に気に入ってしまい、CDを買って少し話をした。
そして休憩が終わり、新たな曲が始まる。「今日は月は見えないんですが、月のことを綴った『空の鍵穴』という曲を歌うので、聞いてください」とボーカルが微笑んだ。
「今宵も夜空に浮く 寂しがりやの鍵穴……」
そんなフレーズから始まったその曲は、とても心地よいバラードだった。
その演奏中、一人の老人が通りかかった。大きな荷物を抱えて横断歩道で信号が変わるのを待っていたその人も、思わず演奏に魅せられて、青信号を二回ほど見逃していたようだった。
その人が他の観客と違ったのは、そのまま近くにいるベーシストの青年に熱心に話しかけていたことだ。彼も笑顔で言葉を返しながら、指はちゃんと音を刻んでいく。そして老人と二人、笑いあいながら、曲を演奏しきった。さらにはその横のギタリストもつられて微笑んでいた。
それを見て、「心底楽しくてライブをしているんだな」ってそう思った。
多くの人が「楽しんでやっています!」と言う。そんな中でも彼らはとくに、本当にそんな気持ちでストリートをしているんだなって確信できた。
そして、私が抱いたそんな想いをいつか文章にしたいと、そう思ったのだ。
「早く、歌いたい!」
ボーカルの女性は、曲の合間の休憩中にふと、メンバーにそう言っていた。ドラムの青年がトイレに行って不在だったので少し時間ができていた時だったが、うずうずしながら、もうすでに気持ちは次の曲へと移っていたようだった。
そして歌への気持ちを溜め込んで、吐き出された歌声は、聞いているこちらの耳を心地よく通って、お腹の底に優しく着地する。歌が好きな想いを受け取ったような、そんな感触だった。
周りに立ち並ぶビル群には、まだ明かりが灯っている。雑踏の中で歌いながら、彼女は時折両手を斜め下に伸ばして、空を見上げるしぐさをした。まるで、羽ばたこうとするように。もしくは、星になろうとするように。
そんな祈りにも似た歌声が、ビルの合間で風を巻いて、たちのぼっていった。
2008.07.30
私は驚きを隠すので精一杯だった。
「小学校の二年生から中学三年まで不登校児でした」
そうさらっと言ってのけた髙木に対してである。別に不登校だったことに驚いたのではない。そんな人たちなら、周りにたくさんいた。
私がびっくりしたのは、その事実を普通に人の前で、しかもインタビューという場で、こともなげに言えてしまう髙木の強さに、だったのだ。
自分にこういう過去があって……と簡単に吐露できる人間はそう多くはない。だが髙木には、そうした逡巡を簡単に蹴飛ばす強さがあるように思える。さらには、その過去を逆に自分の武器にして戦っていこうという決意までもが読み取れた。
「そんな感覚のズレで、世界をとらえることができるようになったのは、ある意味プラスだった」
そう語る髙木の瞳にうつっていたのは、なんだったのか。
彼は、すぱあんと突き抜けるような強いまなざしを持っている、と思う。
「すぱあん」という擬音を使ったのは、それが熱すぎず、ねちっこくもないからだ。ギラギラと燃えているわけでもなく、粘りつくようなしつこさでもない。ただ、乾いたまま、今現在のことを通り越して、未来を見つめつづけている。
インタビューを終えた時、その独特の視線の理由はどうしてなのか、ふと気になった。
その理由の一端が分かったような気がしたのは、先日、インタビューさせてもらったことを謝して、髙木と酒を酌み交わす機会を持った時だった。
その時は梅田で待ち合わせして軽く飲み、酒の勢いでJRの一駅隣にあるバーに歩いていこうということになった。
歩いて約15分。いろんな話をしながら隣の駅前に来てみると、なにやら妙に騒がしい。
JRの高架下の広い横断歩道で、車と人がひしめきあっている。無数の車のテールランプが夜の駅前を赤く照らしている。大型のトラックが何台も、痺れを切らしたかのようにUターンを試み、出動していた警察官が慌てて誘導していた。
原因を探ると、どうもそこにある電車の踏切で無理な横断があったため、機械的に踏切が閉じてしまい、しばらく通行不可能となっているらしい。カンカンカンという踏切の音が鳴りつづけ、それに混じって歩行者が警察官を問い詰める声があちこちで聞こえてくる。
「面白そうですね」
この一連の騒ぎの理由を聞きまわっていた私と少し離れて、しばらくの間風景をじっと見ていた髙木が、ぽつんとつぶやいた。そこには足止めされてしまった苛立ちなどは全くなく、むしろ楽しんでいるように、微笑みながらこの光景を見つめていた。彼は、上がることのない踏切だけでなく、その前で戸惑う人たち、説明に疲れ果てる警察官、慌ててきびすを返していく車など、その状況を構成するすべてのものを見ていた。さらには警察官の制止を振り切って踏切を無理に横断する人たち、そしてこの状況を携帯電話のカメラで撮ってブログに載せようとする人たちまでも見つめていた。ずっと飽きることなく、その風景を見守りつづけていた。
それは映画を作る側として、つまり物語を編みだす者としての視点ではないかと思う。現実の事象を拾い上げて、物語のヒントや材料にする。クリエーターが持ち合わせている視線を、髙木も持っていた。中でも髙木のそれは、驚くほどに優しさに満ちているように思えた。誰かを悪と断罪するために正義を振りかざすのではなく、世界の全ての存在を許しているかのような、熱量の豊かな愛を持っていた。
「僕も何かを断定して語るのではなく、まず表現したいんですよ」
私が「何かの真実はこうだ、と決め付けることが怖い」と言ったことを受けて、髙木はそう自分の想いを語ってくれた。その考え方は例えるならば、広角のレンズのようなものではないだろうか。
望遠のレンズを覗き、一部の事象をクローズアップすれば、より詳しくその事実に迫ることができる。創作であろうとも、伝えたいことを絞りきれば、おのずと分かりやすい物語になる。しかしそれは、そのレンズの外にはみ出たものを容赦なく切り捨てていく必要がある。
髙木はそれとは逆に、いろんなことをレンズの中におさめたいと思ってるのだろう。広角レンズで世界を見るためには、多種多様な価値観を認めることのできる広い感覚が必要だ。そして髙木にはそれが備わっているように思えた。
それが髙木の幼少の体験によるものなのかどうかは分からない。だがどちらにせよ、「すぱあんと突き抜けたようなまなざし」の理由の一つは、その熱を持った優しさではないか。私にはそう思えて仕方がなかった。
2008.07.27
(当記事は、週刊JunkStage用の寄稿です)
「ひらがな」というのは、なかなかに面白いものだと思う。
例えば、アルファベットなどの言語に比べて、日本語は非常に多彩だ。漢字、カタカナ、そしてひらがなを自由に組み合わせて文章を作ることができる。
それぞれの文字の種類も多い。漢字はほぼ無限大。カタカナやひらがなの数も、アルファベットの26文字にくらべて、50音。
その多量さが、日本語の魅力であり武器であり、頭を悩ませるところでもある。
小学生の頃、読書感想文というものをよく書いた。小児喘息で激しい運動ができない時期があり、そのため本を読む時間がたっぷりあった私は、いろんな本を読み、そして感想文を書いた。
そこには幼少だったからゆえの、素朴さがあったのだろう。気負いが少しだけ見られるものの、のびのびとしていた文章を書いていたように思う。もちろん今のように、「読みやすさに気を配る」とか「“~ました”ばっかりの文章は読みにくいから文末に変化をつける」といった小細工とも無縁だった。
でも、ただ一度だけ、読者を意識したことをおぼえている。ある年の春、「喘息で入院したときのことを書いて作文コンクールに出せ」と担任の先生に言われた。「ぼくは去年入院しました」から始まる作文を書き上げて先生に提出したら、優しい口調で「書き出しに、読む人をひきつける力がないよ」と諭された。
「例えば、病院の先生の“入院しなさい”というセリフを最初に持ってくるとかどうかな? 読む人がちょっとびっくりするだろ?」
今から見れば、それが私へ最初の文章指南だったように思う。言われたとおりに書き直し、提出したコンクールは、たしか銀賞だった。
そのあとは、様々な機会で文章を書いてきた。中学や高校では、友人たちで毎年の文化祭ごとに雑誌を作ったりした。どうでもいい読み物とか四コマ漫画、映画やゲームや本の感想などを集めた分厚いパンフレットを、300円ぐらいで売っていたのだ。
その時歴史小説にずっぽりとはまっていた私は、かなり骨太な文章を書こうとしては、失敗していたように思う。例えば漢字を多用して、なかなか改行しなくて文章が長くなったりと、あえて“読みづらさ”を前面に押しだしたものを書いていた。ようするに、漢字というものの持つ風格が好きだったのだ。
それは逆に言えば、ひらがなの力を信じていなかった、ということなのかもしれない。
例えば、以下の文章を見比べてみてほしい。
「田舎であじわう夏のひととき」
「田舎で味わう夏のひと時」
「ぼくは必死で階段をかけのぼった。いまも彼女のことが大好きだったのだ」
「僕は必死で階段を駆け上った。今も彼女の事が大好きだったのだ」
同じ文章でもひらがなの割合を変えることによって、印象がずいぶんと違ってくる。
やわらかい文章と堅い文章。読みやすい文章と難解な文章。柔和と風格。
漢字の文章も悪くはない。だがひらがなには、漢字にはない個性を引き出す力がある。
それを知ったのは、大学に行ってからだった。
今はすっかり、ひらがな愛好者だ。
現代は、ほとんどの人がパソコンやケータイで文章を書く時代だ。
文字の変換は簡単になり、知らない漢字でも使えるようになった。
でも、あえて漢字にしない方が、書き手の心情が伝わる場合がある。
わずか50個のひらがなに乗せて、気持ちを伝えることができる。
50のひらがなのちからを。
たまには信じてあげても面白い。
2008.07.25
映画を作るには、とてつもない労力がこめられている。
どの世界でも物を作り出すということにはそれ相応の代価やエネルギーが必要のはずだが、
映画の場合は特にそれを感じた。
例えば1時間の映画を1本撮るとしよう。スタッフは監督からアシスタントまで、総勢20人。ロケハンなどの準備に二ヶ月、撮影に三ヶ月、編集に一ヶ月かかったとする。計半年、かける20人……10年分。10年分のエネルギーが注ぎ込まれた1時間。それを観客は、1000円ぐらいのお金と1時間の時間を使って楽しむのだ。
もちろんこれは簡略化した図式である。だがそれでも、とほうもない贅沢のように思えた。
彼らはそんな作品を作ろうと思っているのだ。
だが、映画製作者とは、クリエーターでありながらクリエーターでいすぎることを許されない。それは、「共同で作品を撮る」という映画の性質上仕方のないことだ。監督、助監督、撮影、脚本、演出、照明、録音、音響、制作、プロデューサー。挙げていけばキリがないほど役割は細分化され、それぞれが協力しあうことで作業はすすんでいく。
そして協力しあうということは、妥協しあうということでもある。全員の希望が満たされることなどなく、毎日誰かの主張と主張が戦って、心が少しずつ折られていく。映画製作はその繰り返しだ。
「でも、いつかきっと」
そう、すべての望みがかない、自分たちの力をすべて発揮しえた作品が生まれるに違いない。
それは祈りにも似た非現実的な願いだが、それでも映画人たちはそんな瞬間が来ることを、心の片隅で信じているのではないだろうか。
だから彼らは何度も何度も映画を撮るのかもしれない。
「今度こそ」とつぶやきながら。
そしていつしか彼らは、芸術家でいるのか、職人でいるのかの選択を迫られることになる。
自分の創りたいものを創れるように高みを目指すのか。
芸術家の要求を満たすためにその技術の粋をふるうのか。
ある人は言う「やっぱり、自分で物語を作りたい」と。
別の人は言う「困難な要求ほど、燃えてくる」と。
この二つに優劣はない。ただ、同じ水準の技術を持ちながら、同じ道を選ばなかった二人がいるだけだ。
だが彼らは幸せなのかもしれない。なぜなら、そうして道が分かたれた二人は、いつか同じ仕事に関わることができるのだから。古臭い言い方を許してもらえるならば、「同じ釜の飯を食った仲間」。その優れたチームワークは、何より見ていて気持ちがいい。
カメラのフレーム内に切り取られた世界。
フレームの外では、きっとたくさんの映画人たちが、悪戦苦闘しているに違いない。
今度映画館に行ったときは、そんな感慨にひたりながら観賞してみるのもいい。
映画がほんの少し、身近に感じられるだろうから。
2008.07.20
(【Interview 1】「髙木 駿一/映画監督」からの続きです)

生徒たちに先生として思うのは。
――髙木さんはビジュアルアーツを卒業して間もないので、学生と年齢が離れているわけでもないですよね。先生として教えるのって変な感じじゃないですか?
髙木 不思議な感覚ですよ。たまに「恥ずかしいから先生と呼ばないで」って思いますが、まあ5歳ほど離れているので、先生と呼ばれちゃいますよねえ。僕が一番若いんですが、同じような年代の講師も多いですね。
――ビジュアルアーツ卒業生だと、最近は河瀬直美監督が有名ですね。
髙木 でも先日、学生に「河瀬監督の映画見た人!」って聞いたら、一人しか手を上げなかったんですね。映画を観ている人は減っている感じですね……。テレビやメジャーな映画だけ観ている人が多くて、たくさん観ている人のほうが、少数派になっている感じです。僕らのときは映画観ている人が多かったので、お互いそういう話をして刺激をもらえたんですが。
――今は少し、熱量が減っている感じですか?
髙木 減っているように思いますねえ……そうこうしているうちに、就職活動もしないといけなくなるので、そっちにもエネルギーをとられてしまいますから。
――学生さんの中には、自分の映像作品をいろんな賞に応募している人もいると聞くんですが。
髙木 今はそういう人もあんまりいないかもしれません……「感覚基地」の人はよく応募してたんですよ。ぴあフィルムフェスティバルにも応募して入賞したひともいましすね。
うちのビジュアルアーツでは授業で作品を撮るんですが、それ以外にも個人的に作品作ったり、自主映画をたくさん見て勉強したりといった人が減っている気がします。まあ授業内で頑張っているとは思うんですが……。
そういう意味では、夜間部の生徒の方が意欲は高いんじゃないかなと。僕は夜間部の授業も受け持っているんですが、みんな真剣ですね。どうにかして吸収していこう、少ない時間で多くのことを学ぼうという。僕が思うのは、「昼間部と夜間部が協力すれば、もっとスムーズに作品が作っていけるんじゃない?」ってことです。でもその辺りがなかなか噛みあってないかなと思います。
――昼間部と夜間部の間に交流がないんですか?
髙木 例えば合宿だと一年生と二年生や、昼間部と夜間部で一緒に組んでやるんですが、授業外だとなかなかやらないですね。自主映画を立ち上げたりしてお互い関わっていけばいいのにと思うんですが。映画を撮っていて楽しいのは、人の輪がひろがることじゃないかなと。たくさんの人と知り合えるし、一緒に作品作ればまた違うものが見えてきたりとか。それはすごく嬉しいことだと思うんです。
自分を切り取って、映画を作ろうと思った。
――そもそも、最初に映画に触れたのはどういうきっかけだったんですか?
髙木 父親が学生時代に映画を作っていて、割と映画が身近にあったんですよ。父親が嬉しそうに解説してくれながら、その映画を見ていました。
あと、実は小学校の二年生から中学三年まで不登校児だったんです。その間に時間はたっぷりあったので、映画をたくさん見ていました。ある意味、映画に救われた感じです。そういう体験を作品に生かしたいなと思って、学生時代にグループ実習で実体験を盛り込んだ暗めの脚本をプレゼンしたんですが、全然通らなかったですね(笑)。
――じゃあ髙木さんは最初から映画が撮りたかったんですね。ビジュアルアーツの放送映画学科は、映画とテレビの両方を教えていますけど。
髙木 はい、最初から映画でしたね。「テレビ業界志望の人はにぎやかだなあ」って眺めてました。華やかというか元気というか。それに比べて映画が好きな人はちょっと暗いんですよ(笑)。僕も入学当初から「こんな暗い映画が好きだ」みたいな話をして、「あいつはオタクだ」みたいに言われてました(苦笑)。
――たしかに、映画業界志望の人は、心に何かしらのものを抱えている気がします。
髙木 「こんな過去があって、それを作品にしました」っていう人が多いですね。身を削って作品を作っているというか、過去がにじみでているというか。でもそういう人が、表現者として残っていくのかなあって感じてますね。
――そういう意味では、人生経験をたくさんしていたほうがいいですか?
髙木 そうですね。僕は今、経験をつんでいるところです。例えば学校を舞台にした映画とかドラマとかありますよね。それが不登校だった僕には少し分かりづらいんです。「誰も知っている世界のことでしょ?」って前提で話が作られているんだけど、よく分からないんですね。でもその中にたまに不登校の生徒が出てくる話があったりすると、そっちのほうが分かりやすかったり。そういう感覚のズレで世界をとらえることができるようになったのは、ある意味プラスだったと思っています。
――監督以外にも、撮影カメラマンだったり音声だったり照明だったり、はたまた下働き的な制作だったりと、いろんな役柄があると思うんですが、やっぱり監督がやりたいですか?
髙木 もちろん監督です。技術的なことをそんなに学んでない、っていうのもあるんですが、やっぱり自分で物語を書いて、自分で作っていきたいですね。他の雑務もいろいろ経験しましたが、コリゴリです(笑)。
映画を作る現場から、目指す場所へ。
――こうして映画を作る側に立つようになると、素直に映画を楽しめなくなりませんか?
髙木 いやあ、ちゃんと物語として観れないことも多いですね。常に構図とか撮影技術とかに目が行っちゃいますから(笑)。でも、感情移入できないわけじゃないんです。「監督はこういう話の流れにしようとしているんだな」というのが感じられて、それが不快じゃなかったら気分を乗っけていくんで。ひねくれた見方もできるようにはなったんですけど、映画はそれだけじゃないってことも分かっているので、純粋に楽しめる気持ちも残しています。
――レンタルビデオで借りたりもしています?
髙木 あ、僕はあんまりビデオやDVDでは観ないんです。映画ってもともとはテレビ画面向けに作られているものではなくてやはり映画館を想定しているので、小さい画面で観るよりは、って思いますから。映画作品として味わうためには、映画館で観た方がやっぱりいいと思っています。このスタンスは守っていきたいですね。
映画はそもそも、まず観るものだと思うんです。映画制作側から「この映画はこういうものだから」って発信するのではなく、観客がそれを観てどう感じるかがまず優先。もちろん監督の主張がまったく入っていないわけじゃないですけど、受け取り方を制限しすぎないような作品を作っていきたいですね。
――ところで、今日のインタビューの前にも何か新しい企画を書いてたと聞いたんですが……。
髙木 はい、文化庁の若手映像作家支援プログラム用の企画です。CO2から文化庁のワークショップへ、そして成績が良かったら、また助成金で撮影できるようになるんです。狭き門ですが、挑戦しようと思ったので企画を作っていました。『都会の夢』でCO2に関わっていないとできなかったことなので、活動がつながっていってるなあと思いますね。
――東京はそういう映像志望の人たちが多そうですか?
髙木 やっぱり多いと思いますね。大阪や他の地域で頭角を表した人が次にどこを目指すかってなると、東京になるんですね。そういう感じで、いろんな地域のおもしろい人が集まってくる場所として、東京という存在は大きいですね。
――東京行きたいですか?
髙木 自然な流れで行きたいですね。がっついて行くと都会の荒波にやられそうなんで、「東京が俺を呼んでいるから」みたいな感覚で(笑)。
――次はいつごろ動きます?
髙木 ワークショップに行ければ忙しくなりますし、まだまだ先が読めない状況ですね。「感覚基地」の上映会も8月末に開催しますし。今後どうなるか分かりませんが……本音は、自分の作品を何回も公開してもらえるようになりたいですね。『都会の夢』も大阪で2回、池袋では1回だけの上映だったので。「二作品連続上映!」とかしてみたいですね(笑)。

髙木さん、ありがとうございました!
■「感覚基地」第9回映像作品上映会
日時/ 8/22 [Fri] & 8/23 [sat] open18:30 start19:00~
場所/ ギルドギャラリー(http://guildgallery.net/)
詳細は「感覚基地」ホームページ
http://kankakukichi.fc2web.com/
2008.07.15
7月某日 大阪梅田の喫茶店にて。

『都会の夢』という作品の舞台裏。
――『都会の夢』は、どのシーンから撮影したんですか?
髙木 最初のシーンは、「感覚基地」の小林君が不良仲間にいじめられているシーンからでしたね。他の主演2人、小林幸太郎さんと重実百合さんのクランクインは軽めのシーンからでした。ストーリーに深く関わってくる箇所じゃないので気楽に撮れたというか。
でも小林君だけ、けっこうハードなスタートだったんですね。まあ同じ「感覚基地」ということでお互い知った仲なので、安心感はありました。小林君は「感覚基地」っていう名前を考案してくれたんですよ。ビジュアルアーツ卒業生じゃないんですけど、学生時代の作品で出演してくれた縁で、「感覚基地」にもそのまま参加してくれましたね。
――『都会の夢』HPのインタビューを拝見すると、最初はラブホテルのシーンからだったとあったんですが。
髙木 それは正確には、最初の立ち稽古ですね。せっかくなんで一番セリフのあるシーンの練習をしようと思って、それでラブホで演技してもらいました。最初から抱きあってもらったり(笑)。
――でも舞台の役者さんはそういうの、あんまり気にしないですか?
髙木 そうですね。おかげでこちらも気にしないで進められましたね。というか、気を使っていても仕方ないですからね、監督は。
――主演の2人は、監督から見てどうでした?
髙木 すごくよかったです。とても救われましたよ。
――役者さんから「ここはこういう演技のほうがいいんじゃないか」みたいな、演出上の提案はされました?
髙木 重実さんは自分から提案してくれましたね。彼女は舞台をやっている方なんで、演技がわりと強めなので。僕はそれを抑えるように指導しましたね。エキストラにも劇団の人がいたんですが、やっぱり「少し弱めに」ということもありました。
チョップリンの小林さんは逆に、ちょっと強めにしてもらうことが多かったですね。最初にお会いしたとき、「僕は基本的に小声なんで、強くしろっていってください」って言ってました(笑)。ワイヤレスのマイクをつけて声を拾ったりしてましたし。
――ラブホテルでの撮影って、場所を貸してくれるものなんですか?
髙木 意外とけっこう協力的でしたよ。同じ系列の店をいくつかロケハンさせてもらったり、実際店内にも何回か入ったりしました。今まさに掃除中の部屋、とかもありました。男2人で見に行って、「この部屋はどうだろう、どうやって撮影しよう」みたいな話をしてましたよ(笑)。
――『都会の夢』はロケハンも大変そうでしたけど。
髙木 そうですね、撮影の前日にロケ地探しに行ったりとかしましたね。ずっとドタバタして……。
――映画製作は共同作業ですから、みんなの予定が噛みあわないと大変ですね。でもその分、それが楽しかったりします?
髙木: たしかに、うまくパズルあったような瞬間が楽しいですね。スケジュール決めるときもとにかく今日決めないとっていうことで、スタッフ何人かと酒飲みながら予定の表を作って、スタッフや役者の名前のパネルを置いてパズルのように決めていきましたね。今回は手配や下準備してくれるスタッフが優秀だったので、なんとかこなせた感じです。
――今回のロケスケジュールもなかなか短かったですよね? 昨年末から今年はじめまで。
髙木 まあ2週間ちょっとですね。1日にちょっとだけしか撮影しない日もありましたし。でも、ピンク映画なんて数日で長編を撮ってたりするんです。それに比べると、まだまだだなあと思うんですよね。
毒は抜いた。でも、伝えたいことがあった。
――最後のほうに、ゲリラ撮影的なシーンがあったんですが。電車のホームで主演2人が演技しているシーンですが、周囲の人の顔がエキストラじゃなくて普通の感じだったので。
髙木 あのシーンは、一応許可はもらっています。でも電車の始発時間にあたってしまったので、物珍しげにカメラを見ていく人が多かったですね。まあ、角度的に、主役2人を見ているということにしてしまいましたが(笑)。
あのシーンをそもそも思いついたのには理由があるんです。いま、通勤でJRの駅を使ってるんですが、夜遅い時間とかカップルが抱き合っている風景をよく見かけるんです。当人たちは別れを惜しんでいるんでしょうが、はたから見るとある意味痛々しいというか(笑)。でもその人たちには、その人たちなりの事情や物語があるのかなあ、と妄想しながら見てて、あのシーンができましたね。
――たしかに、この作品の主人公たちも、みんな回りを気にせず自分の世界に入り込んでいますね。
髙木 そんな風に、周りが見えてない人たちばっかり描きましたからね。細かいダメなことばっかりしている人たちですね(笑)。
――CO2の審査員の方が「もっときもちわるく!」っていうコメントをつけてたんですが、それはどう受けとめました?
髙木 最初企画出すときに参考作品として自分の過去の作品を提出するんですが、その時の映画が気持ち悪い作品だったんですよ。それをふまえて「もっと」って言われたんだと思うんです。「今回のは毒がぬけている」、って言われちゃいました。
――それは自分でわざと毒を抜いたってことですか?
髙木 今回のは時間的にも長い作品で、映画祭としての間口も広いので、まずいろんな人たちに見てもらえるような作品をこころがけました。そしてその上で、にじみでるところに僕自身の目線や感覚が入ればいいかなと思ってましたね。
――「誰にも理解してもらわなくてもいい」っていうよりは、やっぱりきちんと、観客に届いてほしいですか?
髙木 僕はそういうタイプですね。まあそう考える一方で、単なる日記映画みたいなのをダラダラ撮っていたりもするので、そういう欲求はそちらで発散している感じですね。とくに今回は描きたいテーマがあったので、自分の撮りたいようにじゃなくて、伝わるように意識して作りましたね。
――『都会の夢』は池袋でも上映されましたが、東京での反応はどうでした?
髙木 観客は100人を超えるぐらい入っていただけました。僕自身は言ったとおり、分かりやすい物語を作ったつもりだったんですが、それでも「どう受け取っていいかわからない」と戸惑う意見をよく言われましたね。キャラクターの面白さ、人間の面白さは評価してくれる人はいたんですが、「映画全体としてどこに集中していいかわからない」と。そのあたりが今後の課題でしょうか。
――ちなみにぶっちゃけた話、助成金50万円は足りました?
髙木 いやあ、もちろん足りなかったですね(笑)。だから僕自身やスタッフ同士でもカンパして、共同で制作した感じです。スタッフの数が多かったんで、交通費や食事代、場所代などがでかくて。特に場所を借りるお金がかかりました。
今までの自主映画ではそんなに場所にお金かけない場合が多かったんです。場所を借りても「ありがとうございました」の挨拶で終わってたことが大半だったんですが、今回は大規模な作品だったので、ちゃんとお金がかかりましたね。商業映画では当たり前にやっていることなんですが、それを思い知ったいい機会になったと思います。ほんと、勉強になりましたね。
帰ってくる場所としての「感覚基地」を。
――「感覚基地」は髙木さんがビジュアルアーツ在学中に結成したとうかがいました。もともとは同級生の集まりだったんですか?
髙木 僕がビジュアルアーツの学生だった頃、ずっと映画ばっかり見ていたんですね。学校終わったら映画館に直行したり、そんな毎日を過ごしていました。まあみんながそうだったわけではないんですが、同じように映画をたくさん見に行く人たちで「感覚基地」が結成した感じです。
――今も定期的に上映会を行っているそうですが、そういった活動はこれからもずっと続いていきそうですか?
髙木 まあやっていくんだろうなあと思いますね。全員で1つの作品を作るチームというより、みんなで好き勝手作ったものを持ち寄って上映して、批評しあうというスタイルです。だから、全員が作るのをやめない限りは続くと思います。
メンバーみんなも商業ベースで利益を生む場にはしたくないって言ってますよ。それよりは、自分たちで作品を観賞しあうことによって刺激を得て、鍛錬していく場として続ける意味が大きいですね。外に見せていくのは今回の『都会の夢』のようにそれぞれが活動していけばいいので、「感覚基地」としてはそういう存在意義でいいのかなあって思ってます。
――外部向けの作品と感覚基地用の作品、作るときも心構えが違いますか?
髙木 僕は結構使い分けてますね。「感覚基地」用の作品は、自由に好き勝手撮ってます(笑)。メンバーそれぞれが今後どんな方向に進んでいけるかはまだまだ未知数なんですけど、いつかそれぞれが自分の道を進んだ後に、「実はみんな、ルーツは「感覚基地」なんだ」と思ってもらえようになれぱ面白いかなあと。
――みんな商業作品を作るようになって、ストレスがたまった頃に、感覚基地に戻ってくる、というのもいいですね。
髙木 確かに、ストレス発散にもなっていますね。学生時代にそういう場を作れれば幸せだと思いますよ。
(【Interview 2】「髙木 駿一/映画監督」に続きます)
2008.07.10

監督、髙木駿一に会った。
映画監督、髙木駿一、23歳。
第4回大阪市映像文化振興事業(シネアスト・オーガニゼーション・大阪エキシビション、通称CO2)の企画制作部門において、助成監督に選出。撮影のための助成金50万円をもらい、『都会の夢』を制作。同事業の優秀賞を受賞する(最高賞の大阪市長賞が“該当作なし”となったため、次点の『都会の夢』が実質の最高賞に)。それ以前にもNHKミニミニ映像大賞など、いくつかの賞を受賞している。
ビジュアルアーツ専門学校大阪を2006年に卒業。2007年より同学校の非常勤講師に就任。有名な先輩は、カンヌ映画祭で審査員特別グランプリを受賞した『殯の森』の河瀬直美。
また、専門学校時代の同級生が中心となって発足した映像制作グループ「感覚基地」にて、定期的に映像作品の上映会を開催している。
CO2ホームページ
http://www.co2ex.org/
「感覚基地」ホームページ
http://kankakukichi.fc2web.com/
以上が、髙木監督の経歴だ。
ビジュアルアーツに通う友人にとって、髙木は先生にあたる。その友人から、「髙木さんは、すごく物腰が柔らかい人」という印象を聞いていた。
最初に会って雑談を交わしたとき、その前情報が間違ってないことがわかった。あんまり大声を上げて笑ったりはしない。でも、寡黙で何を考えているのか分からない人、というわけでもない。少し生やしたヒゲとメガネに隠れてはいたが、少しおとなしくて、少し陽気で、少し人懐っこい、そんな表情を持った人だった。
その時は30分だけ雑談をした。初対面とは思えないほど、お互い話が弾んだ。うっかり、インタビューをしてしまいそうになった私は、あわてて話を切り上げると、次回の正式なインタビューの日時を決めて、そしてCO2のポスターと『都会の夢』のDVDを借りて帰った。
代表作『都会の夢』を見て。
-不器用な時間がこのまちに流れてる(『都会の夢』予告編より)
群像劇、というべき映画なのかもしれない。
主役はいる。一応は。お笑い芸人チョップリンの小林幸太郎演じるネットカフェに暮らす中年男と、劇団クロムモリブデン所属の重実百合演じる家出少女を軸に、話は進んでいく。そして、髙木監督と同じ「感覚基地」所属の俳優、小林政善演じる青年も物語に食い込んでくる。だが、それ以外の脇役にもそれぞれ、進んでいく物語があった。そしてそれはどれもがみな、少しずつねじれた物語だった。
みんな自分のことでいっぱいいっぱいで、そしてそれがゆえに世間からはみだしたことをしてしまう。でも、世間自体が、ひょっとしたら歪んでいるのかもしれない。そうも思えてくる。物語は少しだけ現実から浮遊した感じで淡々と進められ、そして世の中とはまったく無関係に話が終わり、始まっていく。
髙木監督は、この作品がCO2の企画制作部門を突破したとき、CO2のホームページ上で「全ての負け組人間に捧げます!」と語っていた。
私は「なぜ、彼はそんな脚本を書こうと思ったのだろう」と気になりながら、映画のバックに流れる印象的なピアノ曲に、思わず聞き入っていた。
小林幸太郎が「俺が悪い」と呟いたときの目を伏せた表情や、重実百合が世界を突き放すときの力強い瞳、そして小林政善のヘラヘラとした悲しい笑い声が、印象に残った。
映画を撮り終えて。
『都会の夢』の長さは97分。私が借りたDVDは、東京での上映用に編集され、10分ほど短くなっていた。
それでも髙木監督にとっては今まで撮ったことのない長さの作品だったという。
そもそも映画制作というのは、作品の長さの何十倍もの時間を撮影につぎこんでいる。その事実を、最近学生のロケに参加するようになって知った。
最初に、ロケする場所の候補をいくつか見て回るロケハン。そしてロケ地が決まった後は、監督の想像したとおりの画像を撮るために、照明の配置やカメラのセッティングなどに時間が費やされる。天候待ちの場合も多い。屋外のシーンでの雨が天敵なのはもちろんのこと、屋内でも曇りのために光量が足らず、晴れをひたすら待つ状況だってよくあるという。役者のスケジュールの調整や、リテイクの繰り返しでも時間がどんどんと消費されていく。
そこまで手間ひまがかかるのが映画というものだ。だから97分の映画を作るのにどれだけの時間と労力が使われたか想像してみると、製作者たちに「お疲れ様です」の一言でも言いたくなってくる。髙木はそれを去年の年末から今年の春先にかけてなんとかやりとげ、そしてその結果として、賞をもらった。『都会の夢』は池袋でも上映され、大阪だけでなく東京での活動を広げていく素地を固めつつあった。
だからだろうか、出会ったとき多忙な時間の合間だったにもかかわらず、髙木は疲れた様子を見せなかった。
「ずっとバタバタしてましたよ」
そう苦笑した髙木の表情は、その言葉と口調に反して、なんだか誇らしげに見えた。

『都会の夢』ホームページ
http://tokainoyume.web.fc2.com/
2008.07.05
私の友人に、大阪にある映画制作の専門学校に通っている人がいる。
彼が以前、髙木駿一という人の映画に出た、という話を、酒の席で聞いた。
髙木駿一。彼の学校の先生だ。
その時、その映画撮影の際のエピソードをいくつか聞いたが、深酒のせいもあってしばらく忘れたままになっていた。
それがふとしたきっかけで思い出したのは、つい最近のことだった。
私はこの春先から、その友人を含めた専門学校生(夜間部)をルポするために取材している。
仕事ではなく、ただ自分の興味が向いた取材対象として、学校の授業や土日のロケに同行させてもらっている。
夜間部の彼らの年齢はバラバラだ。20才前後の人もいれば、年長の人もいる。
そしてその生徒たちからいろんな話を聞いているうちに、ふと出てきた名前が「髙木駿一」だったのだ。
友人との会話を思い出しながら私は言った。
「髙木さん……そういえばその名前、以前聞いたね」
「そう、僕が作品に出演した監督です。というか、強引に出演させられたんだけど……」
「髙木さん、生徒をきっちり使いこなしてるねえ。さすが先生」
そう答えた時、その友人はたしなめるようにこう言った。
「でも髙木さんは、僕らより年下ですよ。まだ23才だから」
それを聞いたとき、ふと、この髙木駿一という人に興味が出た。
若干20歳代前半で専門学校の講師をし、自分より年上の人たちに授業をしたり自分の作品に出演させたりする。そんな彼に会ってみたいな、と思った。
髙木駿一は、この専門学校の放送映画学科の卒業生だ。
そして卒業の一年後、同学校の講師に就任した。さらには同期の卒業生たちと、映像製作チーム「感覚基地」を結成。生徒に映像技術を教えるかたわら、自分でも作品を撮りつづけている。
今年3月には『都会の夢』という作品が、大阪市映像文化振興事業にて、事実上の最高賞を受賞。
5月には東京の池袋でも公開された。関西のインディーズ映画界の中を引っ張る存在になりつつある若手の一人だ。
友人は、その『都会の夢』に出たときのことをこう語った。
「もともと、スタッフとして手伝ってました。そうしたら、『人が足らないから声だけ出演してくれ』って言われて……。それなのに、いつのまにかカメラにも映らされたんですよ」
そこまで苦笑しながらぼやくと、友人は忠告するような顔つきで私にこう言った。
「途中で、はめられたってことに気付いて髙木さんをにらんだら、にやあっと人の悪そうな笑顔をされました。あの人は、そういう人です」
そこには、子供っぽさを残したままの監督の姿があった。
専門学校生の他の一人はこう教えてくれた。
「『都会の夢』は髙木さんの最近の代表作です。あの人はそのDVDを、鞄に入れてずっと肌身離さず持ち歩いてるんだそうです」
「それは、例えば自分をPRする機会を逃さないようにしているから?」
「いや……ただ単に、お気に入りだからでしょう」
ますます、子供だと思った。
彼がどうしてそんな、「子供のままの23歳」になれたのか。
そして、そんな「子供」がどのようにして、関西インディーズの雄になったのか。
それがすごく、気になった。
かと言えば、逆の評価もある。
お笑い芸人チョップリンの小林幸太郎が、『都会の夢』の主役として出演している。
彼が『都会の夢』の撮影時に、監督の髙木に抱いた印象は
「監督は36歳に見える」
というものだったという。
年の割りにしっかりしていて、とても22歳(『都会の夢』撮影時)には見えなかったというのだ。
そんな、子供っぽく、でも大人っぽい髙木に、学生の紹介で一度会った。
正式にインタビューする前に『都会の夢』を見ておきたくて、そのDVDを借りるためだった。
学校のロビーで初めて対面した髙木駿一は、物腰がとても柔らかかった。
専門学校という場は、学生の年齢層がまちまちだ。
その中にたたずむ髙木は、いい意味で溶け込んでいるように見えた。
学生のようで、先生でもある。23歳という年齢、子供っぽいところと大人っぽいところの共存。
映画を学んでいる生徒という立場と、映画を教える先生という立場。
その両方に自在に出入りすることのできるような、そんな人だと思った。
髙木と、正式なインタビューの日取りを約しながら、雑談していたら、ふと彼がこう言った。
「いつか東京に出たくて……」
東京は関西にすむ人にとって、いや全国の人にとって、やはり憧れの地だ。
普段は神戸に住む髙木も『都会の夢』を池袋で上映するときに、東京の“熱気”に触れたという。
「身もだえしてますよ」
そう言ってひかえめに笑う髙木からは、決意のようなものがうかがえた。
自分の好きな“映画”というものを引っさげて上京してやるぞという意気込みが、感じられた。
最後に、髙木はこう言った。
「関西でくすぶっている人は多いですからね。そういう人が、僕も含めてどんどん出てくればもっと面白くなるのに、と思います」
私も、同感だった。