2009/05/12

現在、森田が他のプロジェクトなどにかかりきりで、
当JunkStage上での執筆が遅れております。

もうしばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。

2009/05/12 03:59 | 未分類 | 1 Comment
2009/04/13

今回、少し番外編的なコーナーを挟みたいと思う。
JunkStage内で、私森田が人生で一番最初にインタビューした人物に、偶然再会したからだ。
 
落合寿和氏。肩書きは字幕演出家。
当時の私は、ライター業を志す学生だった。
ライターを学ぶための講座に通いながら、いつかいつかと息巻いていた。
その最後の卒業制作の課題として、
「自分で選んだ相手からインタビューして、3000字の記事を書いてこい」
と言われた。
それで選ばせていただいたのが、落合氏だった。
 
学校の課題のため取材は当然無償。優秀作は講座の母体の出版社が発行する雑誌に載るが、そんなのは一握りで、ほとんどの記事は日の目を見ないままになる。
そしてインタビュー術や記事を書く能力も、当然素人。
そんな貧弱な理由しか持ち合わせていない私の依頼に対し、落合氏はこちらが心配していたよりもはるかにあっさりと了承。「大阪から横浜は遠いですけど、よければ来てください」という返事が来た。
 
喜んだ私は、それから落合氏がそれまで字幕をつけた映画のリストを作り、レンタルビデオショップに駆け込んだ。
「この中で、あるやつ全部貸してください」
そのリストはあまりに大量で、それを見た店員は少し驚いていたが、それでも店内からあるだけの在庫を探し出してきてくれた。
そしてそれから一週間。バイトと授業以外の時間は、そのビデオをひたすら見る日が続いた。思えばそれが私にとっての、最初の取材訓練だった。
 
ではなぜ落合氏を選ばせていただいたか?
理由は一つではないが、一番大きなのは、当時再燃中だった映画の字幕問題だ。「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕がファンの間で大きな物議をかもし出していることは聞いていた。そしてこの「字幕」というものに、ずっと問題提議を続けている落合氏の存在を知った。
「会って話を聞きたいな」
と純粋に思った。ひょっとしたら記事にできないかもしれない。それに書いたところで、優秀作には全然選ばれない可能性が高い。それでも、話を聞きたいと思った。
それまでの私は、「書きたい」という思いが強かった。いつかは文筆で身を立てていくのだという若さなりの野望に燃えていた。
そんな私が、書くより以前に話を聞きたいと思った。書く書かないの問題ではなく、まずたくさんの人の話に耳を傾けるというこの仕事が、いきなり好きになった。
 
 
取材は平日の昼からだった。
前の晩も映画を見て徹夜した私は、朝一の新幹線で東京に行った。東京・八幡山で落合氏の過去の取材記事を読むためだった。「大宅文庫」と呼ばれるその図書館は、今までの雑誌のほとんどが閲覧できる、稀有でありがたい場所だ。私は朝から昼前まで、落合氏が以前に取材された週刊誌の記事を読み漁った。
 
取材は一時間半ぐらいを予定していたが、落合氏の熱弁が続き、結局終わったときには日が暮れていた。新横浜から急いで帰りの新幹線に飛び乗った私は、最初の取材が完了した高揚感からか、疲れているにもかかわらずずっと取材の内容を反芻していた。
落合氏は、駆け出しですらなかった私に、結果として何時間もの時間を割き、その思いを語ってくれた。それがありがたかった。
大阪に帰ってきた私は、やはりゆっくり寝る時間などなかった。ひいひい言いながら記事を書いていくと、10000字ぐらいの分量になって驚いた。それをなんとか3000字に押し込めて提出した。そうやって書き上げた作品は結局は優秀作に選ばれず、落合氏のせっかくの発言を発表できないまま、私の卒業制作は終わった。
 
その後新たな就職先が決まり、ライターとしての仕事がスタートした。
いきなり多忙になってしまった中、私は取材時に落合氏に借りた資料DVDの返却を遅れてしまい、大変な迷惑もかけてしまった。
今では、いろんなことに気をつけるようになった、と思っている。
 
 
その落合氏が、この春からJunkStageで執筆を始めた
その久しぶりの偶然に、私は当時の気持ちを思い出した。
今から思えば、私の今に至るさまざまな経験や失敗は、ほとんどがあの時の取材から始まっている。
そう考えたとき、「あの記事をもう一度、JunkStage上で掲載しよう」と決意した。
もちろん字幕の情勢はあの頃から変化している。何より、当時の文章は今から見れば恥ずかしく、とても世に出せたものではない。
だから、書き直す。
書き改めて、今一度、落合氏の熱い思いを伝えたい。
 
 
というわけで。
次回、落合寿和様のインタビュー記事を掲載します。
ぜひともお読みいただければと思います。

2009/04/06

四月ということで、「花」に関する言葉をいろいろ集めてみた。

 

■「願わくは、花の下にて、春死なん」西行法師
平安時代の歌人、西行(1118-1190)は、天才肌の詩人だったという。
若かりしころは武士だったが、その道を捨てて出家。
諸国を遍歴し、さまざまな歌を残した。
そして上の歌の通り、1190年の2月16日(旧暦)、桜の季節に逝去。
この桜の時期になると、いつもこの西行の歌を思い出す。

 

■「花酒」
与那国島で作られる泡盛。度数はなんと60度。
与那国の神事で古来より用いられてきた酒らしい。
沢木耕太郎は「これほど美しい名前の酒はない。だがその名前の割りに強すぎる」と、
名称とその度数のチグハグさを称えた。
先日、この花酒を飲む機会があった。
度数に比べ意外に飲みやすく、その透き通るような可憐さに驚いた。

 

■「春に花、夏に星、秋に月、冬に雪。それで充分酒は美味い」
昔読んだ少年漫画の中の一セリフ。
当時はまだ酒を飲めない年齢だったが、なぜか心に残った文句だった。
今酒をよく飲むようになってしみじみと実感する。
確かに、日本はすべての季節に、美しいものがある。
四季の変化は、やっぱりすばらしい。

 

■「花の色はうつりにけりないたづらに
 わが身世にふるながめせしまに」

長雨が降る間に花の色は移ろい衰えた。私もまた、物思いにふける間に、
美しかった姿も衰えてしまった----
平安時代美人の代表、小野小町の代表歌。
桜は散る。桜は美しさの代名詞であるとともに、散りゆく儚さの表現でもある。

 

■「勧酒」の歌
「この盃を受けてくれ
 どうぞなみなみつがしておくれ
 花に嵐のたとえもあるぞ
 さよならだけが人生だ」

晩唐の詩人于武陵の「勧酒」という漢詩を、井伏鱒二はこう訳した。
漢詩では最後は「人生別離足る」(人生は別れが多い)となっている。
それを「さよならだけが人生だ」と書いた井伏。
歓送迎会の多いこの時期、ふと口ずさみたくなるフレーズだ。

2009/04/06 02:39 | <エッセイ> | No Comments
2009/03/30

【インタビュー 前半】「天劇キネマトロン/自主映画上映場」からの続きです)

 061.jpg

「天人」(あまんと)という存在。

――「天人」が出来るまでの中崎町は、これほど若者向けではなかったと聞きましたが。
吉田 
そうです、いわゆる普通の町ですね。おじいちゃん・おばあちゃんも普通に住んでいますし。
――アメリカ村の「LOOP」みたいな印象を受けました。
吉田 
オーナーのJUNさんが堀江(アメリカ村の隣にある同じく若者向けスポットとして急成長したエリア)出身なんですよ。だからアメリカ村の発展を見てきてるんですね。
――なるほど。でも“天人”の人たちは「LOOP」と重ね合わせられるのがイヤかもしれませんが。
吉田 そんなことはないと思います。こういう形で店を改装するのがパフォーマンスなんです。そしてそうやって店が作れるということをみんなに知ってもらって、そうすればみんなもやっていってくれるじゃないですか。そんな風に広がっていってほしかったんですね。
――併設の「朱夏」は、カフェバーとして運営されていますね。
吉田 こちらは映画の感想などを語ってもらう場として使っていただければと思います。お見合いパーティをしたこともありまして(笑)、好評で月一企画になってたりします。それでカップルになってもらって、最初のデートで「天劇キネマトロン」で映画を見てもらう、とか(笑)。そしてそのあと「朱夏」で映画の話をしてもらう。使い勝手はいろいろあると思います。
――確かに“天人”のいろんなお店で、さまざまな楽しみ方ができるようになっていると思います。ちなみに自主映画の上映会は昔からあったと聞いたんですが。
吉田 
もともと一番最初は上映会からやってました。そうすると監督が少しずつ集まってきたので、「天影公司」という団体を立ち上げて、いろんなプロデュースもするようになりました。JUNさんがもともと知り合いが多かったし、アーティストが集まってライブやったりデザイナーが来たりするとどんどん輪が広がっていくんですね。映画って総合芸術なんで、あらゆる人たちが参加できる可能性があるんです。それで、いつでも紹介できるように、と。
――“天人”で作った作品はあるんですか?
吉田 
小さいのはいっぱいあるんですよ。「天劇キネマトロン」でもたまに上映しています。これからは天劇でかける用の映画をレギュラーで作っていこうかなという話もでていますね。

 

中崎町という空間。

――自主映画を作る人たちは、東京を目指していると思いますか?
吉田 東京は仕事が圧倒的に多いですからね。特にCMやテレビ関係が多いと思います。ただし映画となると、逆にロケ地が大事になってくると思うんです。東京だけでやっているとロケ地も限られてくるんで、いろんな地方で作ることはできるんじゃないかなと。だから今いろんな地方の町が、町おこしを兼ねて映画を作っていますね。
――中崎町ではそういう町おこし映画は無いんですか?
吉田 
全体としてはまだ無いですが、“天人”はこの町を残すっていうコンセプトで動いています。ただ難しいもので、カフェなどが流行ってくると、アメリカ村みたいに大手の参入があるんですよね。最初の個人個人でやっている時は面白かったですけど、例えばショッピングモールとかが立ってくる。人がいっぱい来るようになると大きな事業が注目して来るんです。中崎町をそんな流れにならないようにどうするか、というのが考えどころですね。今、梅田も急ピッチで開発されてて、隣の茶屋町は今ビルばっかりですね。もうすぐ大通りを渡ってこっちにくるんじゃないかと(笑)。
――関西の今の20代30代の人は、具体的な店の名前は分からないけど、「中崎町というエリアは知っている」ぐらいにはなってきていますね。
吉田 
そうですね。今はまだカフェの町、古着の町として有名だと思います。おじいちゃん・おばあちゃんが多く住んでいるし、そのまま残したいとは思っているんですが、その次の世代の人たちはもうここに住んでいないんです。そうなるとやはり売り払われたりして、町が残っていかなくなる。そうなる前にどうするかというのが大事だと思います。
――老人の方とのつながりはあるんですか?
吉田 
お客さんとしてよく来てもらっています。うちは町内会に入っているので(笑)お祭りとかも積極的にやってるんです。
――中崎町はそういう地元との取り組みに前向きな店が多いなあと思っています。下手したら若者だけで、地域から浮いてしまうと思うんです。年配の方が「若者が入ってきて邪魔だ」と怒る人が多くなってしまいがちなのに。
吉田 
他のカフェなどでもそうだと思うんですが、“天人”でも一緒に共存していこうという考え方でやっています。小さい子供もとても多いんです。実は「天人」は、子供はジュース一杯無料なんです。なので最近は子供だけで来てくれます。親も「天人なら大丈夫だろう」ということで安心してもらっているみたいなんで。なかなかこういうカフェは若者ばっかりで危ないイメージもあると思うんですが、そういうこともなく、来ていただいていますね。

 

一緒に育っていきたい。

――「天劇キネマトロン」は東京進出も考えていると聞いたんですが。
吉田 
はい。東京には自主上映会場はたくさんあるんですよね。ただうちで強いのは、例えば東京と大阪で2店舗構えると、一度に2都市で上映が可能になるんです。そういう風に上映したい人って多いんじゃないかなと。今でも、「東京でも上映したいな」って相談してくれる人が多いんですね。
――“天人”で撮影スタジオを作ったりはしないんですか?
吉田 
そうですねえ……現在は「天劇キネマトロン」を撮影スタジオとして使っていただいたりはしています。編集スタジオは、編集スペースを作りたいなとは思っているんですけどね。地元の人たちが簡単に映画を作れるような環境を作りたいなと。今まで映画を作ったことの無い人から面白い発想が出てくると思うんです。そういう人が簡単に参加できる環境が理想です。下町文化として、町の人から文化をつくっていくということをしていきたいですね。 
――では今後の「天劇キネマトロン」の展望を教えてください。
吉田 
関西では今は採算が合わなくても好きで映画を作っている人が多くいます。その人たちを何とかバックアップして、一緒に育っていけたらいいなと思いますね。なんとかもっとメディアに露出する機会や仕事を増やして、役者も出演の機会が出来て、といったチャンスを増やして、もっともっと大きくしていけたらいいなと思っています。

071.jpg

吉田さん、ありがとうございました!

自主映画上映会場「天劇キネマトロン」
http://amanto.jp/tengeki/

2009/03/16

事前に【キッカケ】「天劇キネマトロン/自主映画上映場」
【紹介】「天劇キネマトロン/自主映画上映場」をお読みください。

2月某日 開店前の「朱夏」(「天劇キネマトロン」併設のカフェバー)にて。

 041.jpg

昔は長屋、今は上映会場。

――こちらの「天劇キネマトロン」は2008年6月27日オープンとうかがったのですが。
吉田 
はい。昔は印刷工場だったところを改装しました。このあたり一体が大きい長屋だったんですよ。ここももともと町内会長さんの家なんですけど、印刷工場して上で住込みしながら働く、そういうスタイルだったそうです。
――だから土足では入れる場所が広いんですね。
吉田 
そうですね。大きい機械をいっぱい置いてたみたいなんで。木張りとコンクリートそれぞれの床があって面白いので、あえて塗りなおさずに使ってます。
――併設されているカフェバー「朱夏」も「天劇キネマトロン」と同時オープンですか?
吉田 そうですね。飲食できるというスタイルが一番いいかなって。
――「天劇キネマトロン」は何人まで収容できるんですか?
吉田 前回は立ち見を出さずに30人入りました。「朱夏」まで使えば50人。たくさんの人が関わっていた映画の試写会とかですね。そういう使い方をされる方も多いです。
――値段もメチャメチャ安いですからね(平日30分で500円)。いいんですか、こんなに安くて?
吉田 
いいんです(笑)。映画を作っている人って出来上がった時はだいたい予算使い果たしていますからね。せっかく作ったのに上映されないケースが多くて。でも映画って子供だと思うんです。出来た直後は産み落とされたばかりで、そこから育てていかないと。いろんな人に見せれば、勝手に広がっていったりする。何年かたって忘れた頃に、「あ、昔見た映画がこんな映画館で上映されている」って驚くような、そんなのも面白いなって。そういう理由で、なるべく上映される機会を増やしてあげたいと思っています。

 

再利用が生み出すレトロ空間。

――床はそのままだったり、色も塗りなおしたりせず再利用していると聞きました。改装費用5万円と聞いて、すごく安いなと。
吉田 それがうちの“天人”全体のスタイルなんです。廃材やゴミを出さず、あるものをうまく使っていくという。
――吉田さんも改装されたんですか?
吉田 
はい。基本の大工仕事は、経験豊富な“天人”オーナーのJUNさんが。カウンターなんかも一瞬で作りした。「天人」の前にも何回かお店自分でやってらっしゃるので、その蓄積ですね。
――店内の物も再利用なのでしょうか。
吉田 
そうですね。雀荘から頂いた椅子とサイドテーブルはなかなか評判よく使ってもらっています。「朱夏」の椅子は、いろんなギャラリーが集まっていたビルがなくなっちゃって、そこから譲り受けました。“天人”にはちょっとした倉庫があるんです。今はいらないけど、いつかいるかもしれないものをそこに置いて、何かすると時に選んで出してきて、ということをしています。
 「朱夏」には浮いた感じで水屋箪笥が置いてあるんですが、これにも面白い由来があります。もともとここに持ち込まれる予定は無かったんですけど、ここがオープンする直前に愛媛県から来たんですよ。JUNさんに直接電話があって、江戸時代から庄屋さんが使っていたこの水屋箪笥がもう壊されることになるから、もったいないから良ければもらってくれないか、って。もともと“天人”がこういう活動をしていることは知ってもらってたんで、すぐにドーンと届きました。「天劇キネマトロン」のオープン準備中です。
――この「天劇キネマトロン」は店内でもロケできそうな雰囲気がありますけど、今まで映画のロケはあったんですか?
吉田 
山崎都世子さんという監督の作品では使いました。今はそれぐらいですけど、基本的には積極的にやっていきたいと思っています。また、上映で使われた別の監督が言ってましたが、朱夏はカウンターの後ろが窓で、開けれるんですよね。つまりカウンターの後ろから撮れるんですね。普通の店だと横からしか撮れないので、その点うちはオススメです(笑)。

 

支配人が“天人”に参加するまで。

――吉田さんは“天人”に参加する前は何をやってらしたのですか?
吉田 
近くの高架下で劇団やっていたんですよ。「森羅空間」っていう。
――役者自体はいつから?
吉田 
大学行きはじめた時からですね。大学行きながら養成所に入ったんですよ。大学ではメディアの制作を学ぶ学部に入って、そこでは映画を作る側の勉強をしました。それと同時に養成所で芝居を学びました。両方リンクできるし、作る側と演じる側両方の気持ちが分かっていればやりやすいかなと。技術の専門学校ではなく、一番学んだのはプロデュース学だったので、実際に作るのは少なかったですね。 
――吉田さんの場合は、今はさらに、こうして上映する場も提供するという状態ですね。
吉田 
変な感じですけどね。あんまりこういうことをするとは思っていなかったんで。
――飲食の経験はあったんですか?
吉田 居酒屋のバイトですね。あとは甲子園でビール売ったりしました。缶をいっぱい持って売り歩く仕事です。なかなかしんどかったんですけど、発声練習になりました(笑)。でも相手もこちらも阪神ファンなので、気持ちは伝わりましたね(※吉田さんはバリバリの阪神ファンだそうです)。歩合制でしたけど、売れなくても給料もらって試合が見れるというおいしい仕事でした(笑)。
――その後で“天人”に参加されたと。
吉田 はい。最初は「天人」そのもので働いていました。
――最初「天人」が作られた頃からですか?
吉田 いえ、僕はそのあとで入りました。劇団やっていた時に「面白いカフェがある」と聞いて行ったんです。僕らは路上パフォーマンスもやってたんですね。路上で叫んだり踊ったりするというチームを組んでいたんです。相川翔の「一世風靡」の関西版みたいな、コントチックなものです(笑)。その時に、天人オーナーのJUNさんも路上でいろいろダンスしていたりしたんで、行って「いろいろ教えてください」と。そうしたら「こういうカフェがあるんで、手伝ってくれたらいろいろ教えてやる」という感じで。それが縁でずっとやるようになりました。
――今後吉田さんはどういう活動をしていくんでしょうか?
吉田 将来的には監督もしていきたいと思っているんですけど、今は映画をプロデュースするか出演するか、という感じですね。
――監督や脚本は別の誰かにしてもらうとして、そのマネージメントをしていくような?
吉田 そうですね。やっぱり誰かが先導しないとできていかないんで。やりたいなという人はいっぱいいるんですけどね。それを自分の力でどんどん進めていければと思っています。

051.jpg

【インタビュー 後半】「天劇キネマトロン/自主映画上映場」に続きます)

2009/02/17

021.jpg


自主映画の発信基地を。

天人のネットワークが自主映画上映会場「天劇キネマトロン」を開設したのは、2008年の6月27日。
それまでも天人では「シネ天人」という自主映画の定期的上映会が開催されていた。
その下地を元に、
「もっと、自主映画を上映できる環境を整えたい」
という思いから作られたのが「天劇キネマトロン」だ。

梅田・中崎町にあった印刷工場の跡地。築80年の建物を、改装費用約5万円で見事に作り変えた。
細い入り口をくぐって奥に行き、180度折り返すと入り口がある。
まず目に入るのはカウンターだ。「天劇キネマトロン」に併設されている「朱夏」では、食事と飲み物、お酒を提供している。そのバーのマスターであり、「天劇キネマトロン」の支配人でもあるのが、吉田という男性だった。
カウンターに向かう途中、右手に上映会場の入り口がある。中にはスクリーン、プロジェクター、音響設備が備え付けられ、椅子とテーブルが並べられている。30人ほどは入るキャパシティがあるという。椅子は「これほど、長時間座るに適した椅子はない」と吉田が太鼓判を押す、もともとはマージャンの雀荘から譲り受けたもの。ここで映像上映だけでなく、ワークショップなども行うことができるそうだ。

外観は隠れ家のような雰囲気。その中で毎晩のように、自主映画の上映会が開かれている。そう思うだけでなんだかワクワクした。廃屋の奥にひっそりと進んでいく。そこでは映画を愛する人たちが、酒を片手に語り合っているのだ。
しかも無料というところが敷居をぐんと下げている。悲しい現実だが、自主映画は商業映画ほどには金銭的価値を認められてはいない。情報誌で特集されるような映画はシネコンに大金を落とす一方で、自主映画のクリエーターには金はほとんど落ちてこない。
「だが、無料なら」
そう、観に行こうという気が起きるかもしれない。
「ふらっと、暇つぶしの感覚で観にきてほしい」
最初会った時、支配人の吉田はそう語ってくれた。  

 

併設のバーで映画談義。

「映画を上映して、そのままこのバーで感想会。そんな風に使っていただく方が多いですよ」
吉田に、隣接するバー「朱夏」のことを聞いたとき、こう言った。たしかに映画を観たあと、お互いに語り合いたくなるもの。しかも自主映画では、上映会にその監督やスタッフも顔を出していたりする。そうした制作側と直接話すことができる。一度上映会場を出て居酒屋に入りなおす間に、火照っていた思いがすこしだけ冷めてしまったりするかもしれないが、朱夏ではそれがない。直行で、酒を手にすることができる。そうして生の感想をぶつけ合い、自主映画をさらに高みへ持っていきたい。吉田をはじめ天人の人たちは、そう考えている。

監督側にとって、観客の生の声というのはとても貴重だ。自主映画の監督たちは、多くは映像系の学校の学生か、卒業生だ。今まで自分たちの作った作品は、普通のお客さんではなく、教師に見られてばかりだったのではないだろうか。もしくは同じような学生たちだけで、“完全に第三者の視点で”観られることは少なかったのではないだろうか。
それは意図せずとも、作り手側の意識にも微妙な影響を与えてしまう。「観客に喜んでもらうように」という意識より、「先生にダメだしされないように」とばかり考えてしまい、結果として理解しづらい作品ばかりが出来上がってしまうのだ。
そんな時、ふっと「観客」を意識することができる場は必要だ。「天劇キネマトロン」は、そんな場として機能する空間なのかもしれない。上映が終わり、酒を片手に、監督が観客に向かっておそるおそる「どうでしたか?」と聞く。それが、監督が成長する瞬間なのである。

 

受信者が発信者に。

「天人」は、基本的に若者の手で運営されている。私が話を聞いた吉田は、私と同い年だったし、最初に「天劇キネマトロン」を紹介してくれた「DRAMATiC STATiON」のメンバーは、ずいぶん年下だった。
それはつまり、中崎町で活躍する若者たちの層に見事に一致する。
中崎町は、作り手と受け取り手の年齢がまったく同じ街である。作品や体験を受け取り金を払う側と、提供し金を受け取る側が、対等の関係を続けていける空気が、街全体に漂っている。
カフェの店主とお互いタメ口で話す。営業中はコーヒーに代金を払い、営業終了後は近くの居酒屋で割り勘する。ギャラリーのオーナーと展示作品について語り合い、「じゃあ今度、私の作品も展示させてください」という話になる。発信者と受信者が、ここではすぐに入れ替わり、交互に作用しながらどんどんと深く高く成長していく。
それは「天劇キネマトロン」とて例外ではない。自主映画のクリエーターは、限りなく観客に近い場所にいる。自主映画を数本集めて同時に上映すれば、ある監督の作品の上映中は、他の監督全てが観客だ。
さらには別の観客にも、感想を求めつつ違う話をすることができる。例えば「今度撮る作品を手伝いませんか?」「エキストラで出ませんか?」「イメージにぴったりなんで、主役をやってくれませんか」……そんな、次につながっていく提案が飛び交う。コラボする監督がそれぞれ出演者を連れて鑑賞に来れば、それはいい役者をスカウトできる絶好の機会なのだ。映画を見に来た人が、気づけば次回のスクリーンの中にいる。そんな不思議さを手軽に作り出すことのできる空気感を、「天劇キネマトロン」はまとっていた。

 

03.jpg

自主映画上映会場「天劇キネマトロン」
http://amanto.jp/tengeki/

2009/02/09

「とうとう天人に踏み込んだ」
そう思った。

梅田の中崎町といえば、関西の若者に一番ホットな街、と言ってしまっても言い過ぎではないだろう。
10代の少年少女が増えすぎたアメリカ村から飛び出した20代の若者は、堀江、船場をさまよい歩き、最後に中崎町にたどりついた。そこで、下町然の落ち着いた雰囲気と、そしてその街で自然体で過ごす先輩たちの様子をまのあたりにし、彼らは一発でその魅力にとりこまれてしまった。
もちろん都会という意味では、梅田や難波、心斎橋に勝るものは大阪にはない。
だが、都会に飽きた時、中崎町はそんな彼らを優しく迎え入れてくれる場所だったのだ。

その中崎町で、「カフェといえば?」と街角インタビューを行ったとする。
きっと「天人」の名を上げる人が圧倒的だろう。
誤解を覚悟の上で言えば、今の中崎町の沸騰は、この伝説的にもなったカフェから始まった。
それまでは、ありきたりな下町だった。長屋が立ち並び、当地の住民たちが日常を生きていた中に、本当に突然といった形で出現したのだ。しかもそれが、古い民家をそのまま再利用し、周囲との調和をくずさぬまま生まれ変わったことで、地域の理解を得た。「若者が入ってきて迷惑だ」との声は、中崎町においてはほとんど聞かれない。それは、最初のスタートを切った天人が、きめこまかい心遣いを周囲の人に対して行っていた努力のたまものなのだ。
そんな天人を扱うことは、中崎町という存在全体に対して触れることとほぼイコールだ。そして中崎町というエリア自体が、関西の若者の中で大きな存在になっているということは、天人は言ってしまえば、一番影響力を持つカフェなのかもしれない。
それの一端に、とうとう触れてしまった、という感覚が今の私にはある。
もちろん、避けていたわけではない。個人的に嫌っているわけでもなく、むしろその店舗のダイナミック性には非常に感銘を受けている。だが、だからこそと言うべきか、これほどまでに大きな存在を私の手で削りだしていいのだろうかと言う感覚が、天人の存在を知って驚愕して以来、ずっとあった。

どんな人間だろうと、どんな組織や会社であろうと、少ない言葉で語りきれるほど単純なものではない。だが、ルポする以上は、ある程度の字数でそのものを語らなければならない。
つまりルポとは、その取材対象者の一部分に過ぎない箇所を削り取ることなのではないだろうか。その時その時に私が感じたことや目にしたものだけを頼りに、一側面でしかない性格を描く。だがそれはきっと氷山の一角で、いつも取材が終わった後も知りきれていない自分に、もどかしい感覚を味わう。その繰り返しだ。
そして天人はその存在が、私にとってあまりに大きすぎたのだ。巨大すぎる氷山の前で、私は小さな果物ナイフを手にたたずんでいる。どう削っても、ただの飛沫にすぎない氷しか手に入れられないのではないだろうかと恐れているのだ。

だが、もう削り始めてしまったものは仕方ない。
願わくばその飛沫を集めて、少しでも見栄えのする彫刻が作れればいい。
その彫刻が、遠めに見てみれば本来の氷山に形が似ていなくもないと、
そういう感想を抱いてもらえるようになれば、ありがたい。

2009/02/05

大阪の梅田から少し東に入った場所に、中崎町という土地がある。ここは近年、関西の若者の間で脚光を浴び始めた場所だ。
もともとは、長屋や町屋が多く立ち並ぶ下町だった。2000年頃からここに若者たちが集まりはじめた。アートや演劇、舞踏、映像、写真、音楽、建築、文章。何かを作りたくて、そしてそれを発表する場を持ちたくて、そんなウズウズした衝動を抱えた人たちが集っていった。
そうして今、この中崎町は、昔ながらの下町と、それをアレンジした若者たちの店や空間が絶妙に混ざったエリアになっている。

この街を見て、少しだけ懐かしい感覚がした。それは、同じく大阪のアメリカ村を思い出したからだ。
1969年に日限萬里子が、それまでは倉庫街だった場所に一軒の喫茶店「LOOP」を始めた。それがきっかけで、アメリカ村は大阪の若者文化を代表するスポットにまで成長した。彼女はその後、アメリカ村に隣接する堀江にもその事業を広げ、同じく“堀江”というエリアブランドを浸透させた。
私は、今の中崎町に、当時のアメリカ村に似た変化の香りを感じている。
もちろん、一律に同じとは言い切れない。それぞれにはそれぞれの特徴や抱えている問題があり、同じひとくくりにしてしまうのは問題があるかもしれない。
だがそれでも、それまでは若者に縁がなかったような町に、一つの革命が起こり、人が集っていく様は、やはり類似の気配を感じさせた。
それでは、アメリカ村の「LOOP」に相当するものが、中崎町にはあるのだろうか。
ある、と思っている。
「天人(あまんと)」というカフェがそれだと、勝手に思っている。

「Salon de AManTO 天人(あまんと)」というのが、その正式名称だ。
8年前、一人の男が中崎町で、カフェを作り始めた。
廃材を利用し、自分で自分の作業工程を録画した。この“空家再生パフォーマンス”は1000人を超える人の協力を集めることができ、そしてカフェ「天人」は完成した。
その後、同じように中崎町の魅力を知り、集まってきた若者たちが店を作り始めた。長屋を大学建築学科の卒業制作でカフェに改装し、そのまま営業を始めた「R Cafe」など、たくさんの個性を持つ人たちがこの町に集いはじめる。
そんな中、天人もこの中崎町で店舗を拡大していく。本屋を作り、ラジオ局を作り、ついには演芸場も作ってしまった。
「天劇キネマトロン」もまた、天人の人たちが作り出したそんな空間の一つだった。

 

その時私は、カフェ「天人」にいた。そこで、映像の専門学生たちの映画製作の打ち合わせに顔を出していた。
格安のコーヒーをすすりながら、熱い打ち合わせに耳を傾ける。そしてふと店頭でもらったチラシに目を通した。その地図に「天劇キネマトロン」と書かれていたのに気づいた私は、思わず店のスタッフにたずねていた。
「この天劇キネマトロンというのは、映画の上映会場ですか?」
「そうです。うちの天人が経営しているんですよ」
私は以前、この「天劇キネマトロン」という名前を聞いたことがあった。前回インタビューした劇団「DRAMATiC STATiON」のメンバーからだ。
もと彼らが私の家にバー用品を受け取りに来たとき、出演者の一人が教えてくれた。その人は、自分がその天劇キネマトロンを手伝っていると語った。そして、映像の専門学生を取材していると話した私に、「ぜひここで上映してあげてほしい」と言ってくれたのだ。
そんなやり取りを思い出しながら、私は天人のスタッフに、「天劇キネマトロン」への道筋を聞いた。
テーブル席では、学生たちがロケ地の選定やスケジュールの調整、演出の考察などで会議にふけっている。そこに、
「ちょっと見に行ってきます」
と一声かけて、私は一旦「天人」を出た。

  

「天劇キネマトロン」は、「天人」からほど近い場所にあった。
外観は、すごく古びた長屋だった。太平洋戦争の空襲を免れた中崎町には、こうした家屋が無数に残っていた。「天劇キネマトロン」もそうした古屋を改造した店舗の一つなのだろう。“空家再生”をうたった「天人」ができてから、そんな店舗がこの街には多くできつつあった。
しかし、入り口がわからない。「天劇キネマトロン」と書かれた案内板は見つけたが、奥にはただ長細い通路が続いているだけだ。勇気を出して入ってみると、左手に窓があって、その奥から明かりが漏れていた。ちらっと目に入ったのはたくさんの酒瓶のシルエット。ここは上映会場ではなく、バーがメインなのだろうか。そう思った。
さらに奥に行くと左手に180度折れて、そこに
「自主映画上映会場 天劇キネマトロン 店内にございます」
と書かれていた。バーの店内に会場があるのだな、と気づいた。少し、ゾクゾクした。隠れ家や秘密基地に迷い込んだような、そんな感覚になった。
「いらっしゃい」
店内では、自分と同じような年頃の男性が迎えてくれた。彼に会い、このバーと「天劇キネマトロン」について、いくつか話を聞いた。

011.jpg

自主映画上映会場「天劇キネマトロン」
http://amanto.jp/tengeki/

2009/01/19

「すべての人には、取材に応じる義務なんてないのだ」
ということを、取材しているまさにその間に思うことがある。別に相手に嫌がられたからだとか、そんなわけではない。
ふとこう思ってしまうのだ。
「ああ、この今の時間は、相手の人にとって有意義なんだろうか」と。

私は、どちらかといえば広告記事の方が本業ということになっている。
広告の世界では、記事にも料金が発生する。取材記事を書き、取材対象者からお金をもらう。
その代わり、記事はどうしても、宣伝にならざるを得ない。広告主の都合の悪い話は絶対に書けない。

もちろんマスコミの業界では、取材された人が、その人の望むように描かれるとは限らない。例えば週刊誌やテレビのワイドショーなどの世界においては、むしろ批判する姿勢を常にくずさない。
その場合は「インタビュー」なんて穏やかなものではなく、「突撃取材」などという戦いにでもいくかのような物々しい表現になる。週刊誌の張り班や芸能記者、テレビのレポーターは、毎昼夜、対象者との戦いの場に臨むのである。

 
そんなたくさん存在する「取材」の中で、私は“優しい”取材をしたい。
このJunkStageで取材させていただいた人、そして今後もさせていただく人は、基本的に無償だ。
本当に、相手のご好意に支えられて、話を聞かせてもらい、記事を書かせてもらっている。
それはすごくありがたいことだ。
できればその時に、同じ目線に立ってみたい。それが、取材を許してくれた相手に対する礼儀でもあるだろうが、それ以上に、私の知りたいことはそうして初めて手に入れることができると考えているからだ。上からの目線で取り組んでいては見えてこないものが多すぎる。
そして、相手が時間を割いて話を聞かせてくれた以上、せめてその人の言いたいことがちゃんとくみとれるような、そんな記事を書いてあげたい。それが相手の親切に応える方法だ。
さらに可能ならば、私が質問したことに答えてくれるときに、「ああ、私はこういうことを考えていたんだなあ」と自分の秘めた思いに気づいてもらえるような、そんな質問をしていきたいと思っている。

アメリカの有名なコラムニスト、ボブ・グリーンは言った。
「割り当てられたスペースを埋めるために、苦しむべきことなどなにもしていない人間をわざわざ苦しめる価値など、ごく限られたケースを除いては、ない」と。
彼の代表作「アメリカン・ビート」はそのような優しい姿勢に満ちている。
私も、そんな目線を持った取材者でありつづけたい。

 
「ペンは剣よりも強し」という言葉がある。
それは“剣に勝てる”という意味だけではない。
むしろ、“剣よりもさらに、多くの人を傷つけることができる”と考えたほうがよい。
それほど、言葉や文字には、強い武力の可能性が秘められている。
だから言葉を扱う人間は、細心の注意力と、そして書いたものへの責任を持たなければならない。

以上、自戒の意味をこめて、ここに記しておく。

2009/01/19 12:09 | <エッセイ> | No Comments
2009/01/12

【インタビュー 前半】「DRAMATiC STATiON/劇団」からの続きです)

 53.jpg

脚本を書きたい。

――今回、脚本・演出・出演と三役こなされましたが、どうですか?
野間 
ほんとは出演するつもりはなかったんですけどね……女優を探していたんですけど、どうしても見つからなくて。でも演出もしなければいけないので、自分自身の役作りをするよりは、誰かに代役してもらったりして、自分はずっと場の全体を見ていました。カウンターの中にいて動き回ったりしない役柄だったので、そういう意味ではこの役しかできなかったと思います。
――やはり脚本・演出がやりたいですか。
野間 
そうです、物語を描いていたいんですね。
――先日「小説よりは脚本のほうがいい」と言っておられましたが……。
野間 私が書いた脚本は幸いなことに、すべて舞台にかかっているんですよ。お蔵入りしたことがなくて、逆に言うと、お蔵入りしちゃダメな状況で書き上げないといけないんです。代替のきくストックもないですし。「コンクールが○○日までだからそれまでに」って感じで〆切が設定されますし、自分以外の人も巻き込んで動いているので、もう必死で書き上げる感じですね。
――高校から演劇をされていたと聞いたのですが、脚本の書き方はその時に身についたんですか?
野間 身についたかどうかは分からないですけど(苦笑)。いろんな脚本を読んで自分なりに勉強しました。私の書き方は、あんまり演出は書き込まずにセリフだけなんです。
 (ここで脚本を見せてもらう)
――あ、でも最後のシーンの野間さんの役の行動が、ここに書かれているのと違っていますね。
野間 
あれは、いきなり決まりました。最後どうしようという話になって、たくさんの案が出たんですけど、最終的に、あの行動を勝手に(笑)やっちゃいました。

 

“同じ言葉”を話して考える。

――脚本と演出を別々の人が担当するなら、やはり意思疎通というか、同じ空気を了解していないとダメですか?
野間 チームの中でお互いどういうものが作りたいのかを分かっていないと厳しいと思います。“同じ言葉”を話せる人でないと。
――それは、脚本と演出だけじゃなくて、役者にも当てはまると思うんですが、最初にそういう感覚を共有できる場を設けたりはしたんですか?
野間 
「私はこういう脚本の書き方をします」だったり「私はこういう演出をします」という話はしました。あとは、1ページ分ぐらいの短い話を書いて、それを実際に演じてもらいました。その際に「ここはこういう間やタイミングでやってほしい」ということを伝えました。
――野間さんの脚本や演出の個性を分かってもらう場ですね。
野間 
そうですね。自分の方向性を見てもらう場としてやりました。mixiが最初なので、そういうすり合わせをしておかないと難しいと思ったので。
――役者さんからも「ここはこういう演出の方がいいんじゃないか」という提案などはありました?
野間 
ありましたけど、そこはまず話し合いですよね。「そこはそういうことではなくて、こういう方向でお願いします」って修正したり、「あ、じゃあその方向でいいですよ」って認めたりしました。キャラを壊さなければ。かなり認めますね。私はキャラ作りより、まず世界観を作っていくことを大事にするんです。
――今回だと、白と黒の国境線にあるバー、というところからですか?
野間 
あとは場面ですね。「こういう場面を決めたい」というところから考えます。ビジュアル重視な人間なので……(笑)。世界観、そしてストーリーがあって、それに合うキャラを放り込む感じです。その空間さえ決まれば、後はどんな形でも話は作っていけると思っています。

 

演劇という、表現方法。

――演劇って、その一瞬一瞬で勝負なところがあると考えているんですが、それについてはどう思われます?
野間 
人ってそもそもそういうものだと思うんです。同じことは繰り返さないし、変わっていくものではないかなって。パンフレットの挨拶文でも書いたことなんですけど、「残るのは感情と思いだけだ」と考えています。
――公演の2日の間でも、変化がありました?
野間 
全然違いましたね。最後の千秋楽が一番、みんなも納得している出来だと思います。 
――そういう変化が演劇の魅力ですか?
野間 
魅力と言うか、そういう風に人は生きていくのかなあって思っています。私は人間に重きを置きたいんです。「DRAMATiC STATiON」を作ったのも、人のつながりの力を生み出したかったというのもありますし。たとえば演劇と違って、変化がない絵画のような芸術でも、見る人が年をとれば受け取り方が変わると思うんです。最初は分からなかったけど後で見たらすごく感動するかもしれないし。その中で私は、一番変化していく演劇というものを、表現方法として選んでいると思っています。
――全てが一発勝負で決まる怖さもありますか?
野間 めちゃくちゃ怖いですよ(苦笑)。「なんで、こんなしち面倒くさい表現をやらなきゃいけないんだ!」と思う瞬間もあるんです(笑)。でも、私はきっと、しち面倒くさいことを言いたいんですよ。「命は大切だ」「友情は大切だ」とか簡単なテーマじゃなくて、もっとややこしいことを主張したいんです。そうしたら、しち面倒くさい表現方法を採るしかなかったんです。
――じゃあ、その舞台がどういうものか、一言で決め付けられるのは嫌ですか?
野間 嫌ではないです。そういう意見が多ければ、その舞台の最大公約数というか、一番受け取られることが分かるので、勉強になりますね。
 でも私がいつも思うのは「なにか伝えたいことがはっきりあるのなら、演説すればいい」ってことなんです。そっちの方がよっぽど伝わりやすい。でも私はそういうのがしたいんじゃなくて、「考えさせられました」といった感想のように、ちょっとだけ何かが伝わればいいかなって。例えば「半年後に夢に見ました」といったような、そんな残り方が理想ですね。
――単純明快で、するっと流れていくような物よりは、心にひっかかかってほしいということですね。
野間 まあ、私が単純明快なものが書けないだけなのかもしれませんが(笑)。人はどんな方法を選んでも、自分が出てしまうんです。自分の考え方から逃れれることはできないと思います。そんな自分にとらわれながらも、どれだけ高く飛べるか、それが勝負ですね。

6.jpg

野間さん、「DRAMATiC STATiON」の皆さん、ありがとうございました!

mixiコミュニティ「DRAMATiC STATiON」

3215220_161.jpg

http://mixi.jp/view_community.pl?id=3215220

Next »