2009.01.05

【Essay】一年。

一年は短い。そして、長い。
「今年こそは」と思っていたのが最近に思えるし、
「来年は自分はどうしてるのかな」なんて悩みが遠く感じられる気もする。
月日は過去への回想と憐憫と、そして親愛を道連れにする。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 時には昔の話をしようか。

 揺れていた時代の熱い風に吹かれて。
 体中で瞬間を感じた、そうだね。

 嵐のように毎日が燃えていた。
 息が切れるまで走った、そうだね。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
小粋な豚が主人公のジブリ映画で、加藤登紀子が歌っていた。
いつしか、未来よりも過去のことが多くなって、
「思えば遠くへきたもんだ」などと、
輝く日々を懐かしむときがくるのだろうか。
でも、今はまだその時じゃない。
今はまだ、明日からつづく未来にドキドキワクワクしている自分がいる。
それで、多分いい。

 
一年間一年間と、周りの人たちの好意と友情で生かされてきた。
そんな人たちに、「愛をくれてありがとう」と、
そして「これからも愛をよろしくお願いします」と、
さらに「だから私からも愛をあげたい」と。
それが、祈るような新年の願い。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 52万5600分という時間
 あなたはどうやって1年を数えますか?

 陽の光? 夕暮れ?
 真夜中の数? 飲んだコーヒー?
 インチ? マイル?
 笑った数? 喧嘩した数?

 ……“愛”ではどうだろうか。
 “愛”で人生の中の1年を。
 数えてみてはどうだろうか。そうだね。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
大好きなミュージカル映画のテーマソング。
見えない未来に不安を抱きつつ、励ましあいながら夢を追いかけた。
そんな登場人物たちと同じように、明日ではない今日を生きていきたい。
そう、思った。

2008.12.30

【Essay】想像力はカレンダーを横切る。

明治時代まで、日本は旧暦を使用していた。
太陰暦、と呼んでもよい。
月の満ち欠けを基本にしたカレンダーである。

明治5(1872)年の12月3日が、いきなり明治6(1873)年の1月1日ということになった。
社会的混乱は少なからずあったようだ。
その後は今の日本の通り、グレゴリオ暦が使用されていく。
旧暦の存在は、日めくりカレンダーの下側に小さく
「旧暦 ○月○日」
のように記載されるだけの存在になった。
だかもちろん、いろんな伝統にも旧暦の存在は隠れている。

一番大きいのは、月の満ち欠けだ。
「十五夜」と満月の日のことを呼ぶ。
これは旧暦では、満月の日を毎月15日にあてていたことからの由来である。
同じく三日月は、「毎月3日の、新月から少しだけ形が見えてきた月」のこと。
新月は、毎月1日だ。

 
これを考慮すると、旧暦時の歴史的事件の日の、月の様子が想像できる。
例えば、1582年、6月2日。
戦国武将、明智光秀が主君の織田信長に叛旗をひるがえした、通称「本能寺の変」の日。
反乱を誓った彼を包んだのは、きっとほとんど月の光がない闇夜だったのではないだろうか。
そしてその分、星が美しく輝いていたに違いない。
今まで仕えた主君を裏切るとき、彼がどう悩み決断をくだしたか、我々には知る余地はない。
だが、夜空を見上げたときの彼の心境は、少しだけ、分かる気がする。

他にも1598年3月15日。
天下をとった豊臣秀吉は、京都の醍醐寺で盛大な花見を催した。
これが最期となるこの花見で彼はきっと春の美しい桜を楽しみ、そして夜には満月を見たのだろう。
華麗に咲き誇る花、さらには白く光る丸い月。
満開になった桜はあとは散って大地に還るだけで、
満ちきった月もまた、欠けていくことしか許されない。
栄華を極め、そしてきっと自身の残り少ない人生を感じていただろう秀吉は、
この桜と月に何を思ったか。
そんなことを想像したりもする。

 
一年は365日しかなく、季節はただ繰り返す。
「暦」とは、「歴」が過去を記録するものであるのに対して、未来を予測するものであるという。
「こよみ」という読み方も、「一日一日と数える」という意味の「日読み」からきた説が強い。
過去から未来へとつながる一日一日を大切に記録していく。
それが、カレンダーというものである。

2008.12.24

【Interview 1】「DRAMATiC STATiON/劇団」

11月30日 公演後の会場「STAGE+PLUS」にて代表・野間に。

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mixiで人を集めた。

――「DRAMATiC STATiON」コミュニティをmixi内で立ち上げられたのが3月31日ですが、そもそも構想は何月ごろからあったんですか?
野間 
それも3月中だったと思います。昔からおぼろげには考えていたんです。高校から芝居をやっていたこととか、自分の進路に悩んだということがあって、ちゃんとこういう形にしようと思ったのは今年の3月でしたね。
――立ち上げて、みんなが集まってくれる確信はありましたか?
野間 
全然なかったですね……。ただ、今関西で劇をやろうと思っても、小さな劇場はどんどん閉まっていたりするので、どうしても東京にいくしかないという現状があるんですね。それがなんとかならないかと思ったんです。でも私はまだ学生ですのでお金はないし、権力もあるわけでもない。そんな私が今の状況を打破するとしたら「人」だと思ったんです。私一人の力ではなんともならないですけど、私の呼びかけに対して何十もの人が集まってくれて大きくなっていけば、と思いました。
――唯一あるのは行動力、という感じですか。
野間 行動力というか、性格として向こう見ずなところがあるだけです(笑)。
――3月に立ち上げられて、5月に最初のオフ会をしたと聞いたんですが、どうでしたか?
野間 とても面白かったですよ。いろんな人が参加してくれました。映画を撮っている人や撮られる側の人もいましたし、観客としてですけどすごくたくさんの劇を見てきた人もいました。ただ、最初のオフ会でいまの出演者が全員いたわけではなくて、途中から参加していただいた人も多いです。最初の芝居を見て、その後参加してくれた人とか。
――その最初の芝居なんですが、6月に一度、短い芝居を上演されてますね。
野間 
はい。各団体がそれぞれ20分以内で芝居をして、お客様に投票してもらうという企画に参加しました。5団体の中でありがたく1位に選ばれました。5月のオフ会で「すぐ芝居やりましょう」という話をふって、1ヶ月で準備しましたね。

 

関西で演劇をしたい。

――mixiのコミュニティの説明文に「東京一極集中を打破!」と書かれていましたが、やはり現状は東京に集まっちゃっているという問題点がありますか?
野間 そうですね。まあ東京に集まるのは当たり前といえば当たり前だとは思うんです。でも関西にとどまらなければいけない人、例えば学生だったり、結婚した人だったり。そんな人が芝居したいなと思ったときにあきらめるしかないのはどうかな、可能性が縮まるのはどうかな、って思いますね。
――劇中で、全ての登場人物が関西弁でセリフを話していましたが、それもそういう意図で脚本を書かれたんですか?
野間 
まさにそうです。
――最後に出てくるキーパーソンのキャラだけ、固い丁寧語だったので、それがギャップで際立ったイメージがありましたが。
野間 
それでも、標準語にはしないでくれ、っていう話はしていました。関西弁でシリアスな芝居がやりたかったんです。ドラマやアニメでは、“関西弁”ってだけでキャラクターができてしまいがちだと思うんですが、そういうセオリーを無視して、関西弁を普通にしたかったんです。
 そもそもこの話自体を考えはじめたのは高校生だったんですよ。中学・高校が女子高だったんで、どうしても男性を出す芝居をやりたかったんです。思いついたきっかけは覚えてないですが、「国境線が引かれてて、白い服と黒い服に分かれて……」というところから始まりましたね。もちろん高校生だったんでバーではなかったんですが(笑)。でも大人っぽい芝居がやりたいとは思っていましたね。

 

旗揚げ公演が終わって。

――今回149名ものお客さんに来ていただいたとうかがいましたが。
野間 
mixiコミュニティで宣伝したり、知り合いに声かけて来てもらったりで集まってもらえました。当初の目標は100人超えだったんで、大幅に超えることができてありがたかったです。
――お客さんを拝見したところ、いろんな年齢層の方がいたように思ったのですが。
野間 
ご両親がわざわざ来られた人も多いみたいです。私は恥ずかしくて呼べないですけど(笑)。 
――2日間、計4回の上演が終わって、いま実感はありますか?
野間 
実はあんまりないですね……。「ああ、終わったなあー」とは思うんですけど。もうちょっと後になったら実感すると思います。稽古がないことがわかってふと気づいたり、とか。
――第2回の予定はどうですか?
野間 まだ全然固まってないんですが、するとは思います。今回の課題や反省点なども出てきたので、それを活かしていきたいと思いますね。基本的に「DRAMATiC STATiON」の名前というか看板を背負っているのは、今は私一人なんですね。他の方は、その時その時に自分のできる形で参加していただくという考え方なんです。「DRAMATiC STATiON」の活動ももちろんですが、ここを起点に参加したみんながそれぞれ何かやってくれれば、それは意味のあることだと思います。
――拝見した芝居がはねた後の野間さんの喜び方が印象的でした。楽しそうだなあって。
野間 そういうのが伝わったら嬉しいですね。私のやっているような活動は、楽しくやらないとダメだと思います。「楽しそうだな、自分もやってみたいな」って思ってくれればみんな参加してくれますし、そうしたら「DRAMATiC STATiON」はどんどん強くなっていくと思います。今回の脚本を役者に渡すときも、「わたしはこの脚本をまず役者の人に楽しいと思ってほしい」と言ったんですね。
 立ち上げから8ヶ月、ここまでこぎつけたことはとても幸運なことだなと思います。結成から2ヶ月足らずの最初のオフ会で10数人集まってくれたことがまず嬉しかったですし、最初の優勝や、今回の旗揚げ公演でお客様が100人こえたというのもすごくありがたいことだと思っています。

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(【Interview 2】「DRAMATiC STATiON/劇団」に続きます)

2008.12.15

【Introduction】「DRAMATiC STATiON/劇団」

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「マーブル・チョコレート」

「DRAMATiC STATiON」主宰の舞台『マーブル・チョコレート』を観た。
白と黒の国境線が引かれたバーでのお話。
現実でなく、ちょっとだけファンタジー。
そこに集まるのは、真っ白か真っ黒の衣装に身を包んだ、仮想の国の住人。
彼らが約1時間半にわたって繰り広げる物語に、見入った。

  「関係ないよなあ、“白”か“黒”かなんて」
友人の安藤演じる青年がそう語る。
そう、関係ないはずだったのに。
  「だから“白”はイヤなんですよ!」
  「俺が“白”やから、そう決めつけてるんか!?」
仲睦まじかったはずのカップルに入った亀裂。
  「相手の目の中に自分を見つける。その自分の目の中にまた相手を見つける」
  「なんや急に」
  「お前、最近相手の目を見て話してないねん」
全てはそんな、ぎこちなさから始まった。
  「こんなこと、前もしてたよな」
  「そうやったっけ?」
眩しかったあの頃の日々が、繰り返されるように見えて。
  「何かが少しずつ変わってきてる……」
そんな実感が、たゆたう。
  「楽しかったよな」
  「過去形?」
失うことを恐れて、思わず聞きかえさずにはいられない。

  そして、終わりが始まる時が来る-。

 

コミュニティ「DRAMATiC STATiON」

「DRAMATiC STATiON」の立ち上げは、2008年3月31日。
mixiのコミュニティ開設から始まった。
「関西で演劇をしたい。でもする場がない」そんな悩みを出来る限り拾い上げられたら。そういう考えがそもそもの発端だったという。
顔を合わせたことのない人たちがコミュニティに続々と参加し、まず最初にオフ会をすることから始まった。
そしてそのオフ会で、一度目のミニ公演の企画を進めていった。
6月28日。大阪天王寺の劇場兼バーSTAGE+PLUSで、20分程度のミニ舞台を行う。
そして11月29日・30日。正式な旗揚げ公演『マーブル・チョコレート』を上演。

「関西は、受け皿が少ないんです」
代表の野間は、関西の演劇の実情について、そう語った。
「例えば学生で、例えば結婚して、例えば仕事の事情で。東京に行きたくても行けない人って多いと思うんです。でもだから演劇をあきらめるのはもったいない。だったら、大勢の人を巻き込んで、そんな場を提供してやればいい。そう考えたんです」
mixiコミュニティ「DRAMATiC STATiON」の紹介文には、
「関西の舞台芸術活動における、需要⇔供給の一致を目指します。」
とある。舞台を立ちたい人。舞台を演出したい人。脚本を書きたい人。照明や音響でサポートしたい人。フライヤーなどの広報の面でバックアップしたい人。自分が作った音楽を提供したい人。
そんないろんな人たちが、このコミュニティには参加している。
共通するのは「演劇に何らかの形でかかわりたい」という想い。
それが、普段顔を合わすことのないネットという空間の中で結びつき、旗揚げ公演までこぎつくことができた。

1日2回、2日間で計4回の上演。合計149人の観客を動員することができたという話を後で聞いた。
その盛況を祝って、公演後に大入り袋が配られた。
(※演劇や相撲などの興行で千客万来を祝い、関係者に配られるお祝い袋。赤字に白抜きで「大入」と書かれた袋が一般的。)
インタビューのためにその場に居合わせた私は、「小道具を提供した」ということで袋を受け取る光栄にあずかった。
「ありがとうございました!」
私や他の関係者、協力者に大入り袋が手渡されるたびに、メンバーが斉唱するお礼の言葉が、会場の中に心地よく響いた。

 

舞台の温度が残る中で。

私は、11月29日土曜日の、18時30分からの舞台を観た。
いい舞台だと思った。
音楽と照明と、タイミングの演出。
重要なキーワードがリフレインされ、観客の頭にしっかりと残ってくる。
さらり、ではなく、ざらり。
流れて後に何も残らないのではなく、どこかにひっかかって心に残りつづけるような物語。
代表の野間は、きっとそういうのを書きたいんだと、思った。

時間は約1時間半、20時過ぎになって芝居がはね、出演者が舞台に一列に並んで深々と頭を下げた。
一度全員が隠れたあと、代表の野間だけが再び舞台中央に出てきて、もう一度「ありがとうございました」と観衆にお礼を言った。垂れた頭を上げ、両手を顔の前で組み合わせて祈るようなポーズをとる。
その瞬間に、舞台上で先ほどまで見せていた冷ややかな表情とはうってかわった、心からの笑顔を見せた。3月から8ヶ月間、心に描いてきたものを形にした充実感と、そして当日を迎えることのできた安心が混ざっているような、そんな感想を覚えた。
「演劇はフルタイムホビー」
先日の電車の中で聞いた野間のその言葉が、ふたたび思い出された。
フルタイムホビー。思わず口に出してつぶやいてみる。
なかなか悪くない。がむしゃらになって動く情熱を、しかし粘っこくなくからりとした表現で伝えることができる。
「趣味は……演劇です」
そうさらっと語ることのできる人たちを、私は心底かっこいいと思った。

 

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※画像・写真は「マーブル・チョコレート」公演時のパンフレット・フライヤーから引用

 ※劇中のセリフは覚え書きのため、正確かどうかはわかりません。

2008.12.08

【Start】「DRAMATiC STATiON/劇団」

「森田さん。演劇の小道具に使うので、バーグッズやグラスを貸してほしいんですが」
そんなメールが届いたのは、今年の夏が終わる頃だった。年下、確か今年23歳になった友人、安藤からの打診。興味を覚えた私は、すぐに彼に電話をかけた。
「バーが舞台なの?」
「そうです。森田さんはいろいろ持ってるので、貸していただければと」
「いつの舞台?」
「えっと、11月末ですね」
確かに私の家には、酒のボトルやグラスなどが一人暮らしにしては多く備わっている。かつてバーテンダーをやっていたことが高じて、自宅がホームバーと化していた。
たまに遊びに来て酒を飲んでいた安藤は、当然そのことを覚えていた。それで私に聞いてきたのだ。
「具体的にどんなものが必要かは、演出の人と打ち合わせて、また後日連絡します」
「わかった」
私は快く引き受けた。だがその時はまだ「バーが舞台か。見てみようかな」ぐらいにしか、感じていなかった。

 
「演出さんと打ち合わせしました。このリストでお願いします」
後日、安藤からそういう内容のメールがきた。
それに返信する形で、持っているグラスやグッズの写真と、ボトル名の一覧を送った。
足りなかったボトルは、私がかつて勤めていたバーに、「空になった瓶でこのリスト内のものがあれば、とっておいてくれ」と頼んでおくことにして、手元にあるものは彼を含む劇団の人で、私の家に受け取りに来ることになった。その時はじめて私は、彼にどういう劇団かを聞いた。
そもそも彼は劇団に所属していなかったはずだ。高校時代には演劇部で活動していたとは聞いていたが、最近新しく入ったのだろうか。それが気になった。
「劇団名は『DRAMATiC STATiON』。実は、ミクシィのコミュニティで立ち上げた団体です。主宰者は僕と同い年です」
その返事が彼から来たとき、はじめて私の興味が、この団体に対して大きく動き出したことを覚えている。
後日『DRAMATiC STATiON』のコミュニティを見た。
キャッチコピーとして大きく掲げられた、「東京一極集中を自分達の力で打破! 」という文字。
それを目にしたとき、SNSを使うというこの極めて“今風”な立ち上げられ方をしたこの団体を、面白いなと思った。

 
一度、日曜の夜、大阪の梅田駅で待ち合わせて、彼ら『DRAMATiC STATiON』の劇団員に出会った。「今、練習終わったところです」と語った安藤は、「こちらが代表の野間さんです」と主宰者を紹介してくれた。
最初驚いたのは、失礼ながらその代表が女性ということだ。安藤の友人と聞いていたので、どこか男性だという先入観を持っていた自分が、恥ずかしくなった。そんなことに男女の別なんて何もない。男性だけに限られた趣味でもないのだから。
「はじめまして」
挨拶した後、安藤が他の劇団員も紹介してくれた。「今日ここにいる人が、今回の旗揚げ公演の出演者です」と語り、みんなが口々に、グラスを貸してくれることの謝意を述べてくれた。私が自己紹介と挨拶をした後、一人の男性が「三重へ帰る終電がなくなるので……」と帰宅。彼の後姿を見ながら、私は安藤に「遠くから来てる人もいるんだね」と驚きの声をもらした。
あとは私の家に、みんなで道具やグラスを取りに来た。その途中の電車の中で、私は安藤とその代表の野間と三人で話をした。お互い初対面だったためどうしても安藤を挟んだ会話になってしまったが、私の物書きとしての仕事の話をしたとき、野間は「私も書きたいんです」と語ってくれた。
そして「小説より、脚本のほうが今はまだ取り組みやすいんです」と。
なぜかと聞いた私に、野間は「脚本は、遅れてしまうとみんなに迷惑がかかるもの。だから締め切りまでに仕上げようと頑張れるんですよ」と笑いながら答えてくれた。

 
ふと私は、前から気になっていたことを言ってみた。
「演劇って、すごくエネルギー使いますよね」
それに応えてくれた野間の言葉が、印象に残った。
「演劇って、フルタイムホビーなんです」
「フルタイムホビー?」
「劇団の人は、仕事以外の時間をすべて演劇につぎ込んでいるんです。練習や準備、公演とか」
「なるほど、気軽に始められる趣味というよりも、全力を尽くして取り組むことなんですね」
「そうです」
そうやって、自分の時間を捧げて、一つの舞台の完成を目指す。決してビジネスとして儲かるわけではない。利潤など追求せず、むしろ団員自身が自腹をきってでもやりたいこと。そう考える劇団や劇団員が多いと聞く。
就職活動の履歴書や、自己紹介の用紙にはほぼ必ず「趣味」という欄がある。ほとんどの人はその欄に、なんとかひねり出した“好きなもの”を書き込む。映画鑑賞、音楽、読書などだ。私も若い頃は、恥ずかしげもなく「映画鑑賞」と書いたものだ。暇をもてあましていた当時の私は、一年間に百本の映画を見たことを自慢と誇りにしていた。だが、そんなもの、劇団の彼らに比べてどうだというのか。
趣味の欄に“演劇”と書き込むということ。それは明らかに、他の趣味と違う熱量をまとっているように思えた。
ならなぜ、そんな「フルタイムホビー」をみんな選ぶのか。
選びたくて選んでいるのか、選ばざるをえなかったのか。
いつか、その答えを知りたいと思った。

mixiコミュニティ「DRAMATiC STATiON」

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http://mixi.jp/view_community.pl?id=3215220

2008.12.01

【Essay】不思議な空間。

“不思議な空間”というものに関して、自分の思うところを書いておく。

 
恩田陸の『ドミノ』に一人の少女が出てくる。
少女は、いつも母親に、演劇のオーディションを受けさせられている。
何度もチャレンジし、落ちたり受かったりを繰り返しながら、
少女は、自分よりも母親のほうが熱心な様子に少し辟易していた。
そして一つの感想にたどりつく。
「ああ、この不思議な空間を、ママやみんなも味わっていたいんだ」と。
日常から少しだけ離れた空間。
オーディション会場や舞台の上で、普段はできないことを体験する。
そんな“不思議な”空間だ。

少女のこのセリフを読んだ時、大げさに言うと、戦慄した。
それは誰もに当てはまる言葉ではなかったか。
演劇だけではない。世の中の“イベント”と呼ばれるものの大半は、
そんな“不思議な”空間を提供するものではないだろうか。

 

多くの人は、平凡な日常を生きている。
毎朝同じ場所で目覚め、同じ時間に家を出て、同じ場所で働いている。
同じ人と顔を合わせ、同じような内容の仕事をこなしている。
そんな「同じもの」の繰り返しは、人間にとって少し退屈らしい。
だから人は休日に、刺激と変化がほしくなる。

映画や芝居を見る。
テーマパークやミュージアムに行く。
ライブやコンサートを楽しむ。
バーやカフェで休む。
本を読む。
全てが、ちょっとした不思議を提供している。

そして人は、さらなる不思議な場所を求めはじめる。
人によってはそれが文化祭だったり、演劇だったり。
何かのイベントに自分も参加する楽しみを味わおうとする。
さらには、自分が前面に出て、何かを表現しようと考える。
バンドを組んだり、舞台に立ったり、個展を開いたり、本を書いたり。
自分の手で、その不思議な空間を産みだしてみたくなる。

 
そう考えると、平凡な日常も決して悪くはない。
退屈だからこそ、エネルギーを溜め込み、何かを作り出すことができる。
退屈を怖がることは恥ずかしいことではない。
退屈を怖がらなくなることが、おそろしい。

千葉県の売春婦更正施設「かにた婦人の村」の創始者、
深津文雄氏はこう言ったという。
「テレビは強制的に貴重な時間を奪う。
 貴重というのは、その時間にすばらしい事ができるのに、
 というのではない。
 退屈で不安な時を奪うからこそ、テレビは敵なのだ。
 不安で退屈だから、人は考え何かをつくろうとする 」

テレビの功罪の話はひとまず措く。
不安で退屈だからこそ、何かをつくろうとする、
そういう考えを知ったとき、また戦慄を覚えた。
ちょうど自分も、とてつもない退屈を感じていたときだったから。

 
時が止まったような暮らしをしていたあの頃。
なんだか、世界の全てが停止して見えた。
いや、世界は動いていたのだけれど。
そこから置き去りにされたような感覚があって。
必死にもがいて世界につかまろうとして、
何かを作りだす方法を模索した。
たまたま、見つけたのが、ペンだった。
ペンを武器にして、ひとふんばりしてやろうと。
そう思って、退屈な日々に別れを告げた。

そして「どうせなら、不思議な場所を見まくってやろう」と考えた。
いろんな人がその人なりの不思議な場所で戦っている姿を、
ペンで切り取ってみようと。
そう思ったとき、自分にとっての不思議な場所が「取材」になった。

ある人や団体、物事に興味を持つ。
次に、それについての資料を集め、下調べをしておく。
なにかその実際のものを見る。
話を聞く。
そして、それらを文章に書き起こす。
この一連の流れが、なんだかとても好きになった。

 
今、一つの大がかりな取材と、小さないくつかの取材を
平行して取り組んでいる。
どちらも、知らない空間に踏み込んだ感覚を味あわせてくれる。
だが、単に違う世界を出入りするだけではない。
それには責任が伴ってくる。
ペンで記す、という責任が。

だからいつも、深夜に自分の部屋の一角をオフィスにして。
キーボードをカタカタ打っている。
隣にはたくさんのメモ書きしたポストイットと、
冷めてきたブラックのコーヒー。
それが、自分にとっての一番の“不思議空間”だ。

 
「退屈のおかげで、今の自分がある」
そう思えばやっばり、退屈も決して悪くはない。

2008.11.28

【Essay】火傷しそうな空気。

最初に。
最近更新が滞ってしまっていて申し訳ありませんでした。
いろんなことが重なってしまってたのですが、
言い訳をしていても仕方がないので、
これからの奮闘で、期待してくれていた人へのお詫びに代えたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

 
ちなみに。
4月から今まで、週末の多くの時間を、取材に費やしています。
取材対象は、映画の技術を学ぶ専門学生たち。
どれぐらい時間を費やしたかというと、去年までは週末に行っていた散髪がなかなか行けなくて、ボサボサになってきたので、えいやっとばかりに平日の夜に行ってしまったぐらい。

彼らが自分たちの企画を出し、そして脚本を書く。
ロケ地を選定し、俳優を決め、撮影に臨む。
そうした現場を手伝って、たくさんの話を聞いて。
そんな中で彼らの熱気に触れている瞬間が、すごく心地よく感じました。
「空気って、人によって温度が変わるんだ」
って、心底思えるようなほど。

そういうときは、その空間が熱くなります。
油断すれば、火傷しそうになります。
乱暴な言い方をしてしまうと、高校の文化祭前気分がさらに凝縮したような。
その温度を、いつかきっと、文章にして伝えたいと、そう思っています。

この取材は一年越しの予定。
来年の3月、彼らが学校を卒業するまで続けるつもりです。
そしてその後、何かの形で発表したい。
このJunkStage上での連載でも、どんな形でもいい。
かならず、「こんな熱い空間があったこと」を記録にして残したいと、そう思っています。

2008.08.30

【Essay】「音楽を生み出す」ということ。

小さい頃、実は音楽が苦手だった。いや、聞くのは好きだったが、「音楽を自分で奏でる」ことに対して、ずっと苦手意識を抱いていた。その理由の中には、音程というものをあんまり理解できていない生まれつきや、人前で発表することへの緊張感もあったのかもしれない。
ただ、リズムをとることは好きだった。大人になった今、例えばタップダンスなんかをやってみたりもした。
タップは結局、時間の都合で中断したままになってしまっているが、いつかは再開したいことの一つだ。地面との摩擦で鳴り響く乾いた靴音が、好きだったのだ。

 

そんな育ちをしてきた私からすれば、「音楽を自分で奏でる」ことのできる人たちが、とてもまぶしく見えた。自分の中に湧き上がる気持ちを、すぐさまメロディとして世界に放つことのできる、そんな人たちに、私はとても心惹かれていた。
友人にも今、音楽大学でピアノを学んでいる人がいる。バーの片隅を借りて彼が即興でかき鳴らすミュージックを聞いたとき、とても心が震えたのを覚えている。
「音楽の力」を、今という瞬間に、その場所に解き放つ。
音楽家はそんなことのできる魔法使いのように、私には思えた。
いや……今でも思っている。

 
音楽とは、基本はその瞬間瞬間に賭けられた想いではないかと思う。
奏でられた音は、一瞬の後には空気の中に消え去って、聞いた人の耳の置くにひっそりと息づくだけ。
建築や絵画、映画、文学といった、後々まで残るものではない。
かつて、建築・絵画・彫刻は「空間の芸術」と称された。それと対比するように、音楽、舞踏、文学は「時間の芸術」と言われた。その「時間の芸術」の中でも、音楽と舞踏は特に、その時間でしか生命を持たない芸術のように思える。
たしかに技術は発達し、音楽や映像の記録は容易になっている。しかしそれでも、生で音楽を聴いたときの心に伝わるような衝撃は、やはりその瞬間でしか味わえないものだ。
そこまで考えて、思った。
「音楽は、なんてつらい芸術なんだろうか」と。

  

例えば、ストリートでライブをする。その時作られた音楽は、その時だけのものでしかない。すぐに都会の喧騒の中に消えていってしまう音の塊を、少しでも多くの人の耳に届けようと楽器を鳴らし、声を張り上げる。
それは、演奏する側からしてみれば、何百回ものうちの一回だ。だが、聞く側からすれば、その一回限りになるかもしれない。その一回限りの演奏で全てが評価され、気に入られるか気に入られないかの明暗が分かたれる。
音楽家は、そんなぎりぎりに張り詰めた“たった一回の勝負”を、何百回と繰り返している。
その強さには、心底敬服する。

  

多くの人間は、“一回きりの勝負”という場面にはそうそう出くわすことがない。
その数分で全てが決まってしまう、なんてことは起こらない。
だからこそ、わたしたちは、そんな世界に住む人たちの熱をまぶしく感じてしまう。
スポーツ、職人。そして、音楽家。
一瞬が人生を左右するような、こげつきそうなほど熱い世界に、憧れている。
その裏に潜む、辛さやしんどさには目を向けることなく。
ただ、その華やかさに魅かれている。

  

ただひたすら、勝負を繰り返す。
そんな生き方には力強い光があり、そして当然のことながら、同じぐらい深い闇がある。
でもだからこそ、彼らはよりまばゆい光を放つのかもしれない。
そう、思った。

2008.08.25

【Introduction】「protostar/ミュージシャン」

星になる前の、原始の星。

protostarが結成されたのは、2年前、2006年の夏。
ボーカル・鳥越たかこ、ギター・山東潤、ベース・若林大輔、ドラム・吉田一哉の4人で始まった。
8ヶ月後の2007年2月にはファーストアルバム「march」を出した。その後ストリートやライブハウスでの演奏を重ね、2007年12月にはキーボード・星怜那が新加入。現在の5人体制になった。現在は2ndアルバム「Starfish Park」が発売中である。
バンドとしての経歴は、多くの賞賛と受賞暦に包まれている。それは、ストリートライブを見ていれば少し分かる。ただ通り過ぎられていくのではなく、多くの人の足を止めさせ、そして思わず拍手をしてしまうような、そんな魅力に包まれているバンドだった。

バンド名の由来は「原始の星」から。いつか星になることを願って、名付けられた。
夜空に歌う、原始の星。
その星のまぶしさに、強く魅かれた。

 

梅田の路上に響く歌声。

最初に彼らのライブを路上に遭遇したとき、都会の喧騒の中で、その存在が際立って見えた。
5つの音源が発する声が融合して、一つの大きな輝きになって梅田の夜を照らしているように思えた。
それは大げさな表現かもしれない。だが決して、誇張ではないと思う。
毎週火曜日の夜。晴れていれば彼らは、そのいつもの場所に楽器を広げ、軽快なコンサートを始める。会社帰りの人の多くが彼らの前で立ち止まり、駅を向いて歩いていた顔を彼らに向け直す。信号待ちのはずが、二曲三曲と聞き入ってしまい、大きな拍手を送る。そんな風景を見るたびに、彼らのすごさがわかっていった。
あるサラリーマンは、仕事の疲れが癒されたように笑顔になって帰っていった。あるOLは、「これからまだ仕事なんです」といいながら、楽しそうに戻っていった。カップルも老人も親子連れも、自転車で素早く通り過ぎる人さえも、ついつい興味を抱いてしまう。そんな音を、彼らは奏でている。オフィス街と駅をつなぐ場所で、通り過ぎる人を魅了する。
思わず買ったCDには、アップテンポな曲やバラードなどが入っていた。そのうちのいくつかはすでに路上で聞いた曲だったが、自宅でスピーカーを通して聞く曲は、梅田で聞くのとはまた違って聞こえた。

 

ライブの熱気のなかで。

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一度、彼らの音を、室内で聞いた。彼らがよくイベントを行うという「SADE’S CAFE」で開かれたライブだった。ライブが始まる頃になると、店内の椅子は全て埋まった。店内奥に楽器を運び入れた彼らは、挨拶をしながら、音を合わせはじめた。
「音合わせから披露してます。前代未聞なバンドですみません」
そういって笑ったボーカルの鳥越に、軽く拍手が飛んだ。

彼らは、室内でもやはり楽しそうに音楽を生み出した。時折冗談を飛ばしながら、観客を巻き込んで一体になって盛り上がっていこうという想いが伝わってくるようだった。曲順もあらかじめ決めたりせずに、「次はどれにする?」と一曲一曲相談しながら、進めていく。
そんな感じで進めていたら、気づけば終了の時間。少しだけ延長しながら、「最後の曲、聞いてください」と鳥越は頭を下げた。観客は総立ちし、盛り上がっている演奏にあわせて、手を上げて応えた。
曲が進むにつれて、カフェの店内に熱気が充満していく。彼らはお互い目で合図しながら曲をさらにヒートアップさせ、観客の熱に接してくれている。
そして曲の最後のフレーズを鳥越が歌い終わる。他のメンバーが音を盛大にかきならし、観客が拍手しはじめている中で、ドラムが最後のシンバルを鳴らす。
その瞬間、鳥越は軽く飛び上がってこう叫んだ。
「We are “protostar”!!」
ひときわ大きく鳴る拍手の中で、汗だくになりながら笑いあっていたメンバーの姿が、とても印象に残った。

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『protostar』ホームページ
http://protostar.tv/

2008.08.20

【Start】「protostar/ミュージシャン」

出会ったのは、優しく熱い音楽だった。

とある平日の夜。取材帰りに私は、大阪梅田の路上を歩いていた。
その道は、いつもは使っていない道だった。その取材は毎週のその曜日に行っていて、私はその帰りに地下街を通り抜けて駅へ戻っていた。
それがその日、どうして地下ではなく地上を歩いてみようと思ったのか。
その理由ははっきりとは覚えていない。ただ夜風が気持ちよくて、もっと風を浴びていたいという想いは、確かに抱いていたように思える。
そして私は、その音楽に遭遇したのだ。

「みなさん、よければ聞いていってください」
ぺこりと頭を下げたボーカルの女性を含め、メンバーは5人。
キーボードの足元には、バンド名「protostar」の文字と、アルバム発売の告知が記されたポスターが立てかけてあった。
場所は、仕事帰りのサラリーマンがよく通る大きな交差点。周りを梅田の背の高いビル群が包み込んだ空間で、彼らは音楽を奏でていた。
「ちょっと聞いていこうかな」と私が思ったのは、そのメンバーたちの今にも躍りだしそうな楽しい雰囲気に、思わず足を止めたからだった。

 
ポップな曲調にのせて、ジャズのように歌う。
そんな演奏を聴いて、私はこの「protostar」というバンドに興味を持った。
演奏を数曲続けたあと休憩している間に、通行人の中で足を止めて聞いていた人たちがぽつりぽつりと話しかけていく。新作のCDアルバムを買っていく人もいる。中でも、まとめて5枚買い取った人が印象的だった。バンドのメンバーともすでに顔見知りらしいその人は、「また東京の友人に勧めてくるよ」と笑いながら、去っていった。
他にも、もともとは興味なさそうに通り過ぎようとしていたのに、交差点で信号待ちをしている間についつい魅きこまれて聞きいった人もいる。そういった人たちに、彼らメンバーは平等に暖かく接している。私も、最初に聞いた3曲が妙に気に入ってしまい、CDを買って少し話をした。
そして休憩が終わり、新たな曲が始まる。「今日は月は見えないんですが、月のことを綴った『空の鍵穴』という曲を歌うので、聞いてください」とボーカルが微笑んだ。
「今宵も夜空に浮く 寂しがりやの鍵穴……」
そんなフレーズから始まったその曲は、とても心地よいバラードだった。

 
その演奏中、一人の老人が通りかかった。大きな荷物を抱えて横断歩道で信号が変わるのを待っていたその人も、思わず演奏に魅せられて、青信号を二回ほど見逃していたようだった。
その人が他の観客と違ったのは、そのまま近くにいるベーシストの青年に熱心に話しかけていたことだ。彼も笑顔で言葉を返しながら、指はちゃんと音を刻んでいく。そして老人と二人、笑いあいながら、曲を演奏しきった。さらにはその横のギタリストもつられて微笑んでいた。
それを見て、「心底楽しくてライブをしているんだな」ってそう思った。
多くの人が「楽しんでやっています!」と言う。そんな中でも彼らはとくに、本当にそんな気持ちでストリートをしているんだなって確信できた。
そして、私が抱いたそんな想いをいつか文章にしたいと、そう思ったのだ。

 

「早く、歌いたい!」
ボーカルの女性は、曲の合間の休憩中にふと、メンバーにそう言っていた。ドラムの青年がトイレに行って不在だったので少し時間ができていた時だったが、うずうずしながら、もうすでに気持ちは次の曲へと移っていたようだった。
そして歌への気持ちを溜め込んで、吐き出された歌声は、聞いているこちらの耳を心地よく通って、お腹の底に優しく着地する。歌が好きな想いを受け取ったような、そんな感触だった。
周りに立ち並ぶビル群には、まだ明かりが灯っている。雑踏の中で歌いながら、彼女は時折両手を斜め下に伸ばして、空を見上げるしぐさをした。まるで、羽ばたこうとするように。もしくは、星になろうとするように。
そんな祈りにも似た歌声が、ビルの合間で風を巻いて、たちのぼっていった。

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