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先日は、北朝鮮の飛翔体が日本上空の宇宙空間(300-400km)を通過したが、そもそもミサイルもロケットも飛翔体に違いはない。ペイロード(payload; 搭載荷物)に何が搭載されているかで、その名称が決まる。衛星や探査機であればロケット、そして弾頭であればミサイル。単純明快である。今回は、日本の固体ロケットで打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」の打ち上げ時の小生の手記を紹介する。
「M-V-5号機による探査機 “はやぶさ” の打ち上げ」
宇宙科学研究所・惑星研究系/探査機班、阿部新助
1985年6月29日、「小惑星サンプルリターン小研究会」が開催され、小惑星探査計画が発案された。当時は、M-3SII型ロケットの1号機が、日本初の惑星探査機「さきがけ」を打ち上げ、2号機で「すいせい」をハレー彗星へ向けて打ち上げんとしていた時期であり、深宇宙探査が始まったばかりの未熟期に、20年後の将来を見据えた壮大な発案があったことは驚きである。奇しくもこの時の研究会を主催された鶴田浩一郎先生は、今回のM-V-5号機打ち上げの前日に宇宙科学研究所の所長に着任されている。また、探査機主任の川口淳一郎先生や、現在の私のボスである探査機科学機器主任の藤原顕先生、イオンエンジンの担当責任者である都木恭一郎先生、國中均先生なども時代を先取りした同研究会に参加されていた。小惑星探査計画はその後、小惑星ランデブー計画「NEAR」として米国・NASAに盗られてしまい、1994年にNEAR計画が発表された後、同年にNASAとは異なる計画、小惑星からサンプル物質を採取して持ち帰るサンプルリターン計画「MUSES-C」として提出され、翌1985年に予算要求されて、1996年にプロトタイプモデル(PM)の制作が開始された。「MUSES-C」は、1985年にハレー彗星へ向けて打ち上げられた日本初の人工惑星「さきがけ」、「すいせい」と1998年に打ち上げられ火星へ向かっている「のぞみ」に次ぐ、4番目の惑星間空間を飛翔する国産人工惑星である。386.9kgの月面の岩石や土壌のサンプルが採取されたアポロの月有人探査から30年余りが過ぎたが、「MUSES-C」は、月以外の天体からの物質を人類が初めて手にするミッションとしても期待されている。
2003年5月9日13時29分25秒、鹿児島県内之浦町にある宇宙科学研究所・鹿児島宇宙空間観測所(KSC; Kagoshima Space Center)から、M-V-5号機の打ち上げが行われた。打ち上げは見事に成功し、MUSES-Cは探査機「はやぶさ(隼)」(HAYABUSA) となって惑星間軌道へ投入された。私は射点を間近に見下ろす場所から幸運にも打ち上げを見ることができた(※現在は、JAXA/ISASの管理下、このような危険な場所での見学はできない)。映像記録班の方々が身を隠しながら撮影する防護用の土嚢を積んだ横に、ロケット・ランチャへ向けたデジタルビデオカメラを搭載した三脚をロープで固定設置し、12:55(X-34分;打ち上げ前34分)から無人固定撮影を開始。私は打ち上げの一部始終を眼に焼き付けようと、更に前方へのめりこむようような格好で射点を見つめた。この場所は、ロケット整備棟や地下管制室などがあるM台地以外では目視できた最も近い地点になる。Xマイナスの作業項目が淡々と進む場内放送を聞きながら緊張感が次第に高まる。12時59分、発射30分前にけたたましく鳴り響く打ち上げを知らせるサイレンは、遥か彼方の宮原でたたずをのんで打ち上げを見守る数百人の見物者だけでなく、内之浦の全ての生き物の活動を止まらせる鎮魂歌のように暫く鳴り止まなかった。宇宙への扉が開く感覚に背筋が凍った。
X−15分、海上チェック。
にわかに海側からの風が強まり、白波が目立つようになった。
X−10分、総員退避。
X−6分、探査機電源を内部電源に切り替え。
X−4分、探査機の運命はロケットに完全に委ねられた。
X−3分、打ち上げを知らせる花火打ち上げ。
X−2分、発射準備完了。それまで曇天だった空にぽっかりと青空が広がった。
内之浦の上空に正に宇宙へのウィンドウが開いた。
X−1分、官制班・餅原氏の落ち着き払ったカウントダウンが始まる、
「用ー意。はい、59,58,57,56,55,…」。カウントダウンの声を聞きながら、自分が携った探査機搭載機器(近赤外分光計)のこれまでの苦労や、様々な困難を克服し、ロケット班・探査機班が一丸となって取り組んだ打ち上げまでの準備が走馬灯のように脳裏をよぎる。
無事に宇宙へ旅立って欲しい!
「15,14,13,…」。点火用のロケット着火、黒い煙が噴き出してきた。
「5,4,3,2,1」。次の瞬間オレンジ色の閃光にロケットが包まれた。
MV-5打ち上げ(ISAS/JAXA, 前山氏撮影)。上層大気の流れを考慮し、上下角を持たせて発射する姿は、ミサイルそのもの!
空気を切り裂くような衝撃波の爆音と地響きとともにM-V-5号機は、太平洋へ向かって仰角80.8度・方位角90.2度(ほぼ真東)にセットされたロケット・ランチャーからから、その重厚な巨体を浮かし始めた。ロケットは、眠りから覚めた猛虎のように、第1段モーターから紅蓮の炎を我々の方へ吹き出しながら力強く加速していった。予想を遥かに超える爆音と光と衝撃波に飲み込まれた私は暫く茫然自失した状態で空を見上げた。75秒後に青空の中で鮮やかな第1段目分離、そして、2段目が燃焼終了する147秒後には既に宇宙と呼べる高度100km以上に達した。私は宇宙空間に吸い込まれていく最後の閃光を肉眼ではっきりと確認した。”Good Luck! 2007年に再会しよう!(※当初地球帰還予定より3年遅れて2010年6月に地球帰還予定で、小惑星探査後、現在は惑星間空間を巡航中)”。ノーズ・フェアリング分離、2 段・3 段目分離、キックモーター点火、600秒後の衛星分離のシーケンスが場内放送で次々と流れる。横隔膜が痙攣するような高揚が続きながら私は暫く立ち尽くしていた。
MV-5ロケットは、H-IIAロケットやスペースシャトルよりも断然速く(H-IIAの2倍、スペースシャトルの10倍の加速度)、まさにミサイルの如く宇宙空間へ消えて行った。
気が付くと映像記録班は三脚群だけを残して既に消えている。打ち上げ後は、射点付近は火事になることが多く、消防隊員が待機しているのだが、今回は海側から強風が吹いていたためか山火事は発生していなかった。それでも10数名の消防隊員が、散水されている射点付近の森に火種が残っていないか忙しく調べている。宮原の見学席を双眼鏡で覗くと、既に半数以上の人々が移動していた。速報の配信を終えて映像記録班の前山氏が戻ってきて「どうだった?」と声を掛けられ、ようやく我に返った。X+25分の祝砲の花火を見ながら、34m電波望遠鏡の下にある探査機からのデータが届くテレメータセンタへ戻った。その直後、深宇宙探査局(豪州のゴールドストーン局とキャンベラ局) からの追跡データが届き、テレメトリー(探査機からのデータ)表示画面にHK(House Keeping)データが流れ、大きな拍手と歓声が起こった。MUSES-Cが探査機「はやぶさ」になった瞬間だった。その後、宮原の見学席にいた報道陣や宇宙研の学生さんらが取材や見学に押し掛け歓喜に包まれた。
ロケット班は華麗な一発花火師的であり、探査機を宇宙へ送り出すまでが主な仕事だが、探査機班の本当の仕事は宇宙へ出てから始まる。打ち上げ当日の19時過ぎには、KSCの直径34mアンテナで第1可視(打ち上げ後、初めて探査機が水平線上に見える)の観測を行い、探査機へ向けてコマンドを送信し、探査機からのテレメトリー受信に成功し、打ち上げ時の様々なデータが記録されているデータレコーダーの再生や、探査機に搭載されている各サブシステムの一部のチェック等が行われた。第1可視を確認した後にテレメータセンタから総務へ移動し、宴たけなわの祝賀会に参加した。実験主任の小野田淳次郎先生から「打ち上げ成功!」のお言葉があり、ロケット側と運用を抜けて駆けつけた探査機側、総勢200名ほどでの大宴会が繰り広げられた。そして、恒例の打ち上げ成功の寄せ書きと、MUSES-Cの愛称紹介があった。探査機の愛称は、5月7日締め切りで、我々鹿児島の実験班員と宇宙研職員らによって提案された192種類の名前から決まったものである。最多得票は、手塚治虫ファンのKSC所長・的川泰宣先生ご推薦の「アトム」が13票、「はやぶさ」はそれに次ぐ10名からの提案があったそうだ。「ヤマト」もイオンエンジン・ステッカーを実験班員に配布して布教活動を繰り広げたが、毎回提案される名称とのことで、今回も落選だった。また、7つも投票した私のアイデアはどれも撃沈した。悔しいので、ここでだけ紹介しておく;努根(どごん)、旅人(たびと)、故郷(ふるさと)、未来(みらい)、火球(かきゅう)、塵流護(ゴルゴ)、アベ流(あべる)。
さて、「はやぶさ」は、目標に向かって精確に飛び、ホバリング、サッと獲物を獲る姿が、小惑星に向かって精確に飛び、上空に留まった後タッチ・アンド・ゴーでサンプルを得る様子に似ているという表向きの選定理由以外にも、日本のロケットの生みの親である糸川英夫先生の手がけた戦闘機「隼」や、東京と鹿児島を結ぶ寝台特急「はやぶさ」なども思い浮かぶ名称である。イオン・エンジンを使った我々の探査機は、比推力(推進剤質量流量に対して得られる推力の指標)のアドバンテージを生かして、半年の打ち上げ延期を隼のスピードで挽回する。4月27日の全打では、前回の打ち上げであった3年前のM-V-4号機失敗の雪辱戦を誓い、宇宙科学研究所としての最後のロケット打ち上げを有終の美で飾ろうと心を一つにした。1つの目標に向かって述べ300人以上の宇宙研とメーカーの人々が一致団結し、内之浦町での数ヶ月の生活を共にすることで結束が強まった。今年10月の宇宙科学研究所、宇宙開発事業団、航空宇宙技術研究所の宇宙3機関統合により「宇宙航空研究開発機構・宇宙科学本部(仮称)」となることから、探査機「はやぶさ」は、文部科学省・宇宙科学研究所として打ち上げる最後の科学探査機となったのである。今回の打ち上げ成功で3機関統合でも、将来の深宇宙探査を更に推進するような強い姿勢で臨めることだろう。
今回打ち上げられた探査機「はやぶさ」は、人類が将来行うサンプルリターンを含む小惑星探査などの、太陽系小天体探査等において重要となる技術を実証することを目的とした工学実験探査機である。宇宙研の工学実験機は、純粋に工学技術を実証するという観点ではなく、理学的目的を伴って初めて飛翔意義が生まれるパスファインダー(Path Finder)と呼ぶべきもの、つまり今回のミッション以降に類似の計画があり、その成功確率を高めるために総合技術を実証しておこなおうというものである。
実証される主な技術は次の4つ;
1) イオンエンジンによる惑星間空間の航行
2) 自律的な航法・誘導技術
3) 標本の採取技術
4) 惑星間から地球大気に再突入させ標本を回収するカプセル技術
その他にも、小推力2液推進系、LIDARやレーザレンジングファインダなどのハードや、低推力・高比推力推進エンジンにともなう誘導・航法ソフトなど、多くの新しい技術が導入されている。
探査機は地球を周回するパーキング軌道を経ずに直接地球脱出軌道に投入された。打ち上げ後は、2004年5月に地球スイングバイを行い、2005年6月に小惑星1998SF36に到着(※実際に到着したのは、2005年9月10日)。到着後すぐに合(太陽の影)に入ってしまい、約2ヶ月間は観測不能となる。そして、9月頃から約2ヶ月間、小惑星から高度およそ7kmのホームポジションを、約12時間で自転する小惑星と並走しながら近赤外分光、蛍光X線分光、可視撮像、レーザー測距などの様々な理学観測を行う(※探査は11月末までの3ヶ月弱行われた)。ほとんどのマスメディアでは、サンプル採取だけが、主目的として注目されているが、探査機「はやぶさ」の目的とゴールには様々な段階がある。打ち上げ、惑星間軌道投入、イオンエンジン航行、小惑星軌道投入、小惑星の観測、自律航法、タッチダウン、サンプル採取、地球再突入など、それぞれが独立したゴールを持ち、全てのゴールが達成された時にサンプルリターンが達成されるのである。つまり、サンプルリターンはハードルが最も高いボーナス的なミラクルゴールであり、それ以前にも貴重な様々なゴールが設定されていることを忘れてはならない。例えば、探査機が小惑星に到着すれば、タッチダウンを行う以前に次のような重要な科学観測が複数行われ、大きな科学的成果を出すに至る。可視光のカメラ(ONC)は、小惑星の形状決定、自転周期・自転軸の傾き、最差の有無や多色観測による表面組成の調査を行い、近赤外分光器(NIRS)は小惑星表面の主要鉱物の分布図作成や水の探査を行い、蛍光X線スペクトロメータ(XRS)は、太陽X線によって励起される小惑星表面の主要な元素組成を調べる。また、レーザー高度計(LIDAR)は短周期のパルスレーザを小惑星表面に照射して、反射パルスの伝播時間と強度から、表面までの距離、表面の粗さや傾斜などの地形の3次元情報を得る。小型ロボットランダ(MINERVA)は、微小重力の小惑星表面をホップしながら移動し、搭載された3台のカメラで微小地形を高精細で観測したり、表面の温度計測を行う。このような多様な観測が行われた後に、全世界88万人の名前が搭載されたターゲット・マーカーを投下、ホッピング・ローバ(MINERVA)を放出した後にタッチダウンを最大3箇所で行う。そして、2005年11月に小惑星を離脱。2007年6月に地球に帰還する予定だ(※2回目のタッチダウン後にトラブルに見舞われ、約3年毎の地球帰還のチャンスを遅らせ、2010年6月に地球帰還が変更された)。小惑星で採取した数グラム程度の表層ダストは、直径40cm、重量16kgのカプセル内部に収納され、地球近傍で探査機から離れ、約8時間の単独飛行後に大気圏に直接再突入する(※カプセル切り離しのシーケンスなどはまだ決まっていない)。秒速11.8km で惑星間空間から直接地球大気に飛び込むカプセルは、アブレーター・ヒートシールドが流星発光(アブレーション)して火球となり、上空10kmでパラシュートが開き軟着陸する。着陸ポイントは、オーストラリア・ウーメラの砂漠地帯。高度200kmでのカプセルと太陽との離隔は約100 度で、完全な夜側で地球大気へ再突入することから、カプセルの流星発光の地上観測が可能となり、我々は、地上光学観測を施行することを既に予定している。打ち上げから地球帰還までの探査機の日心距離は 0.86〜1.70天文単位(1天文単位は約1億5千万km)、地心距離は2.33天文単位以下、地球座標系から見た全飛行距離は約7億km。

たかだか500kgの探査機を宇宙空間へ送り込むのに、14トンものロケットを必要とした今回の打ち上げを通して、改めて大気の海の底に住む我々と宇宙の間の壁を実感した。また、宇宙へ羽ばたく優れた技術を持つ日本の宇宙科学のレベルの高さに誇りを感じた。私自身も理学(天文学)で博士号を取得したが、学部までは宇宙工学(エンジニア)を目指し、日本大学航空宇宙工学科で学んだ。今回の経験を通して、大学では習得できない多くのことを現場の経験から得ることができたし、多くの素晴らしい同士にも巡り会えた。ロケット打ち上げに取り憑かれるとよく言うが、我々科学者は一種のノスタルジーだけで打ち上げに携るのではなく、打ち上げの先にある科学的価値を見据えて宇宙へチャレンジしていきたい。それでも打ち上げの圧倒的なパワーを自分の目で観て感じることは、宇宙へチャレンジする情熱や、宇宙へ対する様々なモチベーションが高まることは間違いない。是非、こういった打ち上げに多くの方が参加されることを望む。
打ち上げ直後から、夕刻から翌明け方にかけて探査機の運用が連日行われている。探査機は隼の如く、打ち上げ翌日の第2可視では月の距離40万キロメートルまで達した。鹿児島宇宙空間観測所の34mアンテナの上に浮かぶおぼろ月を見ながら、探査機「はやぶさ」にエールを送った。3日目の第4可視では、100万キロメートル彼方の深宇宙を順調に羽ばたいている。探査機の運用を行うアンテナもKSC34mでは既に力不足で、長野県・臼田の直径64mの日本最大の電波望遠鏡に切り替わった。運用も鹿児島から宇宙科学研究所・相模原キャンパスへ移った。第3・4可視では、私が携る小惑星表層の鉱物の分布図を作成する近赤外分光器・NIRSをはじめ、理学観測機器に次々と火が入れられた。果たして、打ち上げの衝撃に無事耐えて宇宙でも正常に動いてくれるか!私は緊張の一瞬を宇宙科学研究所・相模原キャンパスの管制室で迎えた。自身が開発したクイック・ルック(探査機からのデータをその場で見ることができる画面)を食い入る様に見た。電源がオンされ、様々なパラメータを次々にセットしていく。そして、NIRSからの観測信号が無事に届いた。我々の装置は、地球大気の海の底から完璧な状態で宇宙へ飛び立ったのである。関係者一同ホッと胸を撫で下ろした。いよいよこれから探査機「はやぶさ」の7億キロメートルの長い旅が始まる。
北朝鮮が目指す大陸弾道弾ミサイルは、せいぜい太平洋しか狙えてないが、日本のミサイル(+探査機)は、遥か数億km彼方の小惑星さえピンポイントで狙えるのである。
実は「はやぶさ」の打ち上げの後、小生も宇宙科学研究所から見事に打ち上げられてしまった(職を失った)。タイミング良く、日本学術振興会の海外特別研究員に選抜され、「はやぶさ」の無事を祈りつつ、欧州チェコ共和国の天文台に2年間赴任することになるのである。
小惑星探査機「はやぶさ」の詳細は、こちらをご覧ください。