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2006年8月の冥王星降格事件以来、約3年振りにチェコに舞い戻ってきた。今回の滞在は、5月9日から9日間。隕石火球国際会議とプシュブラム隕石50周年記念、そしてチェコのズデネェック・セプレハ(Zdeněk Ceplecha)教授80歳記念を兼ねた会議(Bolides and Meteorite Falls)である。参加者は約60名。国際会議としては最も小規模な部類の学会だが、チェコ、スロバキア、ロシア、カナダ、ポーランド、タジキスタン、イタリア、バチカン、スイス、フランス、スペイン、イギリス、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、アメリカ、チリ、日本、そして台湾から、その道の精鋭達が名を連ねた。
ティホブラーエが天体観測していたクレメンティヌ天文塔から望むプラハの町並み。日本人は、小生とアマチュアのNさんのみの参加。先に帰路につくNさんを天文塔へ案内した。
プラハのプラネタリウム。珍しいチェコ語版の星座早見版を複数枚購入。マニアの先生に献上する予定。
František Linkに師事したCeplechaは、1951年夏によりチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)の2カ所で(f=180mm/F4.5レンズを使った30台のカメラで観測を開始。8年間、2500時間のトータル観測の後、1959年4月7日、歴史に残る火球が撮影された。同年4月20日、Luhy村 で4.48kgの隕石が発見された。6月9日 (800g)、8月15(420g), 24(105g)日にも引き続き発見が続きプシィブラム(Přibram)隕石と命名された。これが、初めて軌道が求まった隕石である。一般的に隕石は小惑星を起源にすると考えられており、流星観測ネットワークから、これまでに約10個の隕石の軌道が求まっているが、軌道の決定精度が悪いこともあり、同じ軌道に当てはまる小惑星は見つかっていない。隕石の故郷を同定する決定的な証拠は、まだ存在しないのである。
Ondrejov天文台の60cm小惑星ライトカーブ観測望遠鏡。
Ondrejov天文台の流星ロボットカメラ。ロボット(robot=robota)はチェコ語。
Ondrejov天文台にある旧ドイツ軍のウルツブルクレーダー。太陽観測に使われていた。
カタリナ・スカイサーベイは、アリゾナ大学・月惑星研究所行っている全天サーベイで、レモン山にある口径1.5mの望遠鏡を用いて、主に地球軌道接近型小天体(NEO)の捜索を行っている。2008年10月6日6時39分(世界時; 以下全て世界時)から7時23分の間に撮影された4枚の画像中を、高速で移動する18等級の小惑星が発見された。観測の1時間後には、ハーバード・スミソニアン宇宙物理学センターのマイナー・プラネット・センター(MPC)を通して、”地球に異常接近する”ことが確認され、8時7分に電子メールやウェブを通して小惑星「2008 TC3」の情報が世界に発信された。
観測データが更に加わり、地球大気突入時刻は10月7日2時46分、場所はアフリカのスーダン北部と分かった。同日22時22分には、カナリア諸島の口径4.2mのウィリアム・ハーシェル望遠鏡を用いて、組成を調べる分光観測も行われた。衝突のわずか20時間に発見されたが、世界中の26箇所の観測所で計570回の観測が行われ、軌道が改善された。小惑星の明るさと、後に回収された隕石の反射率から、その直径は4mと推定された。また、49秒と97秒の2つの周期で、1.02等級の振幅で光度変化しており(位相角17度を補正した振幅は0.76等級)、いびつな形状をした天体であったことが推察された。これまでの解析から長半径7mのUFO形状、体積は28m^2、平均密度は3.1g/ccと推定されている。補正した自転周期からは数千万年のダンピング・タイムが推定された。小惑星は太陽光の反射で光っており、刻々と地球に近づく微小な小惑星は、13等級まで増光したが、地球の影に入った10月7日1時49分以降、小惑星「2008 TC3」の姿を追いかけることは、もはや誰にも出来なかった。地球衝突まで1時間をきっていた。
歴史に残る隕石を発見したZdenek CeplechaとPeter Jenniskensと、2008 TC3の破片。
小惑星2008 TC3 = Almahata Sitta隕石
約1時間の”ダークフライト”の後、「2008 TC3」は、秒速12.4kmの速度で地球大気に突入し、その痕跡を様々な形で残した。2時45分40秒、1400km離れた場所を飛行中のKLMのパイロットが地平線の向こうが、短時間に3〜4回フラッシュするのを目撃。南エジプトの防犯ビデオカメラに火球の爆発で辺りが昼間のように照らし出される様子が記録された。落下地点付近の鉄道の駅の管理人は、眩い光で目を覚まし、エジプト国境付近からは、朝の祈りからの帰路に着く人々が火球を目撃。また、米国のスパイ衛星は、高度65kmからの熱輻射を感知し、欧州の気象衛星も高度37km付近からの発光と、赤外線放射を捉えた。気象衛星の赤外線カラースペクトルからは、10μmのアモルファスのSi-Oバンドが隕石後のダスト雲中から捉えられ、クリスタルSi-Oに変化する様子も分かった。遥か彼方のケニアに設置された核爆発探知用の微小気圧計でも、広島型原爆の約1/10の爆発として探知された。「2008 TC3」の大火球が残したロケット雲のようなダスト雲が、携帯電話のカメラで撮影された。kmと秒の精度で落下地点と時刻が予報され、時と場所を同じくして、これだけ多くの”地球大気に衝突した証拠”が僻地から集められたのである。
2ヶ月後の12月6日、宇宙生物学研究所(SETI)のピーター・ジェニスキンズが主導し、現地の天文学者と大学生45名の協力のもと、隕石落下予想区域のスーダン・ヌビアン砂漠の大捜索が行われ、捜索開始の2時間後に最初の隕石が発見された。2009年3月まで継続された捜索で、最終的に280個、1.5gから283gまで総重量約4kgの隕石群が、差し渡し29kmの範囲で発見されたのである。これらの隕石は、「アルマハータ・シッター(Almahata Sitta)」隕石と名付けられたが、まだ多くの隕石が残っている可能性がある。これまでの分析からは、ユレイライトの特殊なタイプと分類された。ユレイライトは、始原的な石質隕石(コンドライト)が、溶融プロセスを経て生成され分化した隕石であるエコンドライトの一種で、カンラン石と輝石の間を炭素質物質が埋めた組織を持ち、ダイヤモンドも含んでいる。回収された炭素に富む隕石は、反射率が4.6%と”とても黒く”、これまで謎とされてきたFクラスに分類される小惑星と類似していることが突き止められた(現段階では、反射率は0.5%〜0.19%と、破片によって大きくばらついていて鋭意測定中)。また、隕石の平均密度は、2.1〜2.5 g/cc で、典型的なユレイライトの粒子密度を仮定すると、空隙率(体積に対する内部の空隙の割合)は 25〜37% と非常に大きく、もろいことが分かった。このような非常にもろい隕石は、上空で粉々になり燃え尽きてしまうため、今回のように回収されたことはなかった。隕石のさらなる分析結果が楽しみである。
地球に衝突するわずか20時間前に発見された「2008 TC3」は、地球への衝突が事前に探知された初めての小惑星となった。更に「2008 TC3」は、これまで軌道が決定された最も精度の良い隕石の、約10000倍も精度の良い軌道が与えられた隕石として回収され、小惑星の姿で地球から目撃された初めての隕石となったのである。現在、地球軌道接近型小天体(NEO)は、約6千個が見つかっており、そのうち約1千個は、地球衝突危険性天体(PHO)である。現在、我々が取り組んでいる今夏始動のPan-STARRS(パンスターズ)全天サーベイにより、新たに数千個のNEOが発見され、この隕石がやってきた小惑星や分裂した更なる破片天体が見つかる可能性は十分にある。
さて、今回は、学会のエクスカーションとして、プラハからバスで1時間弱のオンドジェヨフ天文台も訪れた。ここは、小生が2003-2005年に住んでいた人口1000人の村にある、チェコ最大の天文台である。チェコ語も全く分からず、よくもこんな田舎に飛び込んで来たなぁと思うとともに、あの頃の素晴らしい日々が懐かしく感じられた。今年から台湾-チェコの交流助成金が設立されたこともあり、再びチェコ人らとの交流が復活する具体的な相談なども行えた。プラハでは、以前からの知り合いであるチェコで戦う日本人侍らとも過ごすことができ、毎日チェコの美味いビールを沢山飲んで、楽しい一時を過ごす事ができた。プラハの春国際音楽祭ということで、スメタナ・ホールでフランス・シャンゼリゼ交響楽団のオーケストラを堪能した。古色蒼然としたプラハを舞台に、研究だけでなく、国籍問わず、多くの友人らとの再会を果たした。台湾に戻ってからも心機一転して研究に取り組みたい。
【プラハからの帰路(プラハ-ヘルシンキ-香港-台北)の機内にて】
先日は、北朝鮮の飛翔体が日本上空の宇宙空間(300-400km)を通過したが、そもそもミサイルもロケットも飛翔体に違いはない。ペイロード(payload; 搭載荷物)に何が搭載されているかで、その名称が決まる。衛星や探査機であればロケット、そして弾頭であればミサイル。単純明快である。今回は、日本の固体ロケットで打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ」の打ち上げ時の小生の手記を紹介する。
「M-V-5号機による探査機 “はやぶさ” の打ち上げ」
宇宙科学研究所・惑星研究系/探査機班、阿部新助
1985年6月29日、「小惑星サンプルリターン小研究会」が開催され、小惑星探査計画が発案された。当時は、M-3SII型ロケットの1号機が、日本初の惑星探査機「さきがけ」を打ち上げ、2号機で「すいせい」をハレー彗星へ向けて打ち上げんとしていた時期であり、深宇宙探査が始まったばかりの未熟期に、20年後の将来を見据えた壮大な発案があったことは驚きである。奇しくもこの時の研究会を主催された鶴田浩一郎先生は、今回のM-V-5号機打ち上げの前日に宇宙科学研究所の所長に着任されている。また、探査機主任の川口淳一郎先生や、現在の私のボスである探査機科学機器主任の藤原顕先生、イオンエンジンの担当責任者である都木恭一郎先生、國中均先生なども時代を先取りした同研究会に参加されていた。小惑星探査計画はその後、小惑星ランデブー計画「NEAR」として米国・NASAに盗られてしまい、1994年にNEAR計画が発表された後、同年にNASAとは異なる計画、小惑星からサンプル物質を採取して持ち帰るサンプルリターン計画「MUSES-C」として提出され、翌1985年に予算要求されて、1996年にプロトタイプモデル(PM)の制作が開始された。「MUSES-C」は、1985年にハレー彗星へ向けて打ち上げられた日本初の人工惑星「さきがけ」、「すいせい」と1998年に打ち上げられ火星へ向かっている「のぞみ」に次ぐ、4番目の惑星間空間を飛翔する国産人工惑星である。386.9kgの月面の岩石や土壌のサンプルが採取されたアポロの月有人探査から30年余りが過ぎたが、「MUSES-C」は、月以外の天体からの物質を人類が初めて手にするミッションとしても期待されている。
2003年5月9日13時29分25秒、鹿児島県内之浦町にある宇宙科学研究所・鹿児島宇宙空間観測所(KSC; Kagoshima Space Center)から、M-V-5号機の打ち上げが行われた。打ち上げは見事に成功し、MUSES-Cは探査機「はやぶさ(隼)」(HAYABUSA) となって惑星間軌道へ投入された。私は射点を間近に見下ろす場所から幸運にも打ち上げを見ることができた(※現在は、JAXA/ISASの管理下、このような危険な場所での見学はできない)。映像記録班の方々が身を隠しながら撮影する防護用の土嚢を積んだ横に、ロケット・ランチャへ向けたデジタルビデオカメラを搭載した三脚をロープで固定設置し、12:55(X-34分;打ち上げ前34分)から無人固定撮影を開始。私は打ち上げの一部始終を眼に焼き付けようと、更に前方へのめりこむようような格好で射点を見つめた。この場所は、ロケット整備棟や地下管制室などがあるM台地以外では目視できた最も近い地点になる。Xマイナスの作業項目が淡々と進む場内放送を聞きながら緊張感が次第に高まる。12時59分、発射30分前にけたたましく鳴り響く打ち上げを知らせるサイレンは、遥か彼方の宮原でたたずをのんで打ち上げを見守る数百人の見物者だけでなく、内之浦の全ての生き物の活動を止まらせる鎮魂歌のように暫く鳴り止まなかった。宇宙への扉が開く感覚に背筋が凍った。
X−15分、海上チェック。
にわかに海側からの風が強まり、白波が目立つようになった。
X−10分、総員退避。
X−6分、探査機電源を内部電源に切り替え。
X−4分、探査機の運命はロケットに完全に委ねられた。
X−3分、打ち上げを知らせる花火打ち上げ。
X−2分、発射準備完了。それまで曇天だった空にぽっかりと青空が広がった。
内之浦の上空に正に宇宙へのウィンドウが開いた。
X−1分、官制班・餅原氏の落ち着き払ったカウントダウンが始まる、
「用ー意。はい、59,58,57,56,55,…」。カウントダウンの声を聞きながら、自分が携った探査機搭載機器(近赤外分光計)のこれまでの苦労や、様々な困難を克服し、ロケット班・探査機班が一丸となって取り組んだ打ち上げまでの準備が走馬灯のように脳裏をよぎる。
無事に宇宙へ旅立って欲しい!
「15,14,13,…」。点火用のロケット着火、黒い煙が噴き出してきた。
「5,4,3,2,1」。次の瞬間オレンジ色の閃光にロケットが包まれた。
MV-5打ち上げ(ISAS/JAXA, 前山氏撮影)。上層大気の流れを考慮し、上下角を持たせて発射する姿は、ミサイルそのもの!
空気を切り裂くような衝撃波の爆音と地響きとともにM-V-5号機は、太平洋へ向かって仰角80.8度・方位角90.2度(ほぼ真東)にセットされたロケット・ランチャーからから、その重厚な巨体を浮かし始めた。ロケットは、眠りから覚めた猛虎のように、第1段モーターから紅蓮の炎を我々の方へ吹き出しながら力強く加速していった。予想を遥かに超える爆音と光と衝撃波に飲み込まれた私は暫く茫然自失した状態で空を見上げた。75秒後に青空の中で鮮やかな第1段目分離、そして、2段目が燃焼終了する147秒後には既に宇宙と呼べる高度100km以上に達した。私は宇宙空間に吸い込まれていく最後の閃光を肉眼ではっきりと確認した。”Good Luck! 2007年に再会しよう!(※当初地球帰還予定より3年遅れて2010年6月に地球帰還予定で、小惑星探査後、現在は惑星間空間を巡航中)”。ノーズ・フェアリング分離、2 段・3 段目分離、キックモーター点火、600秒後の衛星分離のシーケンスが場内放送で次々と流れる。横隔膜が痙攣するような高揚が続きながら私は暫く立ち尽くしていた。
MV-5ロケットは、H-IIAロケットやスペースシャトルよりも断然速く(H-IIAの2倍、スペースシャトルの10倍の加速度)、まさにミサイルの如く宇宙空間へ消えて行った。
気が付くと映像記録班は三脚群だけを残して既に消えている。打ち上げ後は、射点付近は火事になることが多く、消防隊員が待機しているのだが、今回は海側から強風が吹いていたためか山火事は発生していなかった。それでも10数名の消防隊員が、散水されている射点付近の森に火種が残っていないか忙しく調べている。宮原の見学席を双眼鏡で覗くと、既に半数以上の人々が移動していた。速報の配信を終えて映像記録班の前山氏が戻ってきて「どうだった?」と声を掛けられ、ようやく我に返った。X+25分の祝砲の花火を見ながら、34m電波望遠鏡の下にある探査機からのデータが届くテレメータセンタへ戻った。その直後、深宇宙探査局(豪州のゴールドストーン局とキャンベラ局) からの追跡データが届き、テレメトリー(探査機からのデータ)表示画面にHK(House Keeping)データが流れ、大きな拍手と歓声が起こった。MUSES-Cが探査機「はやぶさ」になった瞬間だった。その後、宮原の見学席にいた報道陣や宇宙研の学生さんらが取材や見学に押し掛け歓喜に包まれた。
ロケット班は華麗な一発花火師的であり、探査機を宇宙へ送り出すまでが主な仕事だが、探査機班の本当の仕事は宇宙へ出てから始まる。打ち上げ当日の19時過ぎには、KSCの直径34mアンテナで第1可視(打ち上げ後、初めて探査機が水平線上に見える)の観測を行い、探査機へ向けてコマンドを送信し、探査機からのテレメトリー受信に成功し、打ち上げ時の様々なデータが記録されているデータレコーダーの再生や、探査機に搭載されている各サブシステムの一部のチェック等が行われた。第1可視を確認した後にテレメータセンタから総務へ移動し、宴たけなわの祝賀会に参加した。実験主任の小野田淳次郎先生から「打ち上げ成功!」のお言葉があり、ロケット側と運用を抜けて駆けつけた探査機側、総勢200名ほどでの大宴会が繰り広げられた。そして、恒例の打ち上げ成功の寄せ書きと、MUSES-Cの愛称紹介があった。探査機の愛称は、5月7日締め切りで、我々鹿児島の実験班員と宇宙研職員らによって提案された192種類の名前から決まったものである。最多得票は、手塚治虫ファンのKSC所長・的川泰宣先生ご推薦の「アトム」が13票、「はやぶさ」はそれに次ぐ10名からの提案があったそうだ。「ヤマト」もイオンエンジン・ステッカーを実験班員に配布して布教活動を繰り広げたが、毎回提案される名称とのことで、今回も落選だった。また、7つも投票した私のアイデアはどれも撃沈した。悔しいので、ここでだけ紹介しておく;努根(どごん)、旅人(たびと)、故郷(ふるさと)、未来(みらい)、火球(かきゅう)、塵流護(ゴルゴ)、アベ流(あべる)。
さて、「はやぶさ」は、目標に向かって精確に飛び、ホバリング、サッと獲物を獲る姿が、小惑星に向かって精確に飛び、上空に留まった後タッチ・アンド・ゴーでサンプルを得る様子に似ているという表向きの選定理由以外にも、日本のロケットの生みの親である糸川英夫先生の手がけた戦闘機「隼」や、東京と鹿児島を結ぶ寝台特急「はやぶさ」なども思い浮かぶ名称である。イオン・エンジンを使った我々の探査機は、比推力(推進剤質量流量に対して得られる推力の指標)のアドバンテージを生かして、半年の打ち上げ延期を隼のスピードで挽回する。4月27日の全打では、前回の打ち上げであった3年前のM-V-4号機失敗の雪辱戦を誓い、宇宙科学研究所としての最後のロケット打ち上げを有終の美で飾ろうと心を一つにした。1つの目標に向かって述べ300人以上の宇宙研とメーカーの人々が一致団結し、内之浦町での数ヶ月の生活を共にすることで結束が強まった。今年10月の宇宙科学研究所、宇宙開発事業団、航空宇宙技術研究所の宇宙3機関統合により「宇宙航空研究開発機構・宇宙科学本部(仮称)」となることから、探査機「はやぶさ」は、文部科学省・宇宙科学研究所として打ち上げる最後の科学探査機となったのである。今回の打ち上げ成功で3機関統合でも、将来の深宇宙探査を更に推進するような強い姿勢で臨めることだろう。
今回打ち上げられた探査機「はやぶさ」は、人類が将来行うサンプルリターンを含む小惑星探査などの、太陽系小天体探査等において重要となる技術を実証することを目的とした工学実験探査機である。宇宙研の工学実験機は、純粋に工学技術を実証するという観点ではなく、理学的目的を伴って初めて飛翔意義が生まれるパスファインダー(Path Finder)と呼ぶべきもの、つまり今回のミッション以降に類似の計画があり、その成功確率を高めるために総合技術を実証しておこなおうというものである。
実証される主な技術は次の4つ;
1) イオンエンジンによる惑星間空間の航行
2) 自律的な航法・誘導技術
3) 標本の採取技術
4) 惑星間から地球大気に再突入させ標本を回収するカプセル技術
その他にも、小推力2液推進系、LIDARやレーザレンジングファインダなどのハードや、低推力・高比推力推進エンジンにともなう誘導・航法ソフトなど、多くの新しい技術が導入されている。
探査機は地球を周回するパーキング軌道を経ずに直接地球脱出軌道に投入された。打ち上げ後は、2004年5月に地球スイングバイを行い、2005年6月に小惑星1998SF36に到着(※実際に到着したのは、2005年9月10日)。到着後すぐに合(太陽の影)に入ってしまい、約2ヶ月間は観測不能となる。そして、9月頃から約2ヶ月間、小惑星から高度およそ7kmのホームポジションを、約12時間で自転する小惑星と並走しながら近赤外分光、蛍光X線分光、可視撮像、レーザー測距などの様々な理学観測を行う(※探査は11月末までの3ヶ月弱行われた)。ほとんどのマスメディアでは、サンプル採取だけが、主目的として注目されているが、探査機「はやぶさ」の目的とゴールには様々な段階がある。打ち上げ、惑星間軌道投入、イオンエンジン航行、小惑星軌道投入、小惑星の観測、自律航法、タッチダウン、サンプル採取、地球再突入など、それぞれが独立したゴールを持ち、全てのゴールが達成された時にサンプルリターンが達成されるのである。つまり、サンプルリターンはハードルが最も高いボーナス的なミラクルゴールであり、それ以前にも貴重な様々なゴールが設定されていることを忘れてはならない。例えば、探査機が小惑星に到着すれば、タッチダウンを行う以前に次のような重要な科学観測が複数行われ、大きな科学的成果を出すに至る。可視光のカメラ(ONC)は、小惑星の形状決定、自転周期・自転軸の傾き、最差の有無や多色観測による表面組成の調査を行い、近赤外分光器(NIRS)は小惑星表面の主要鉱物の分布図作成や水の探査を行い、蛍光X線スペクトロメータ(XRS)は、太陽X線によって励起される小惑星表面の主要な元素組成を調べる。また、レーザー高度計(LIDAR)は短周期のパルスレーザを小惑星表面に照射して、反射パルスの伝播時間と強度から、表面までの距離、表面の粗さや傾斜などの地形の3次元情報を得る。小型ロボットランダ(MINERVA)は、微小重力の小惑星表面をホップしながら移動し、搭載された3台のカメラで微小地形を高精細で観測したり、表面の温度計測を行う。このような多様な観測が行われた後に、全世界88万人の名前が搭載されたターゲット・マーカーを投下、ホッピング・ローバ(MINERVA)を放出した後にタッチダウンを最大3箇所で行う。そして、2005年11月に小惑星を離脱。2007年6月に地球に帰還する予定だ(※2回目のタッチダウン後にトラブルに見舞われ、約3年毎の地球帰還のチャンスを遅らせ、2010年6月に地球帰還が変更された)。小惑星で採取した数グラム程度の表層ダストは、直径40cm、重量16kgのカプセル内部に収納され、地球近傍で探査機から離れ、約8時間の単独飛行後に大気圏に直接再突入する(※カプセル切り離しのシーケンスなどはまだ決まっていない)。秒速11.8km で惑星間空間から直接地球大気に飛び込むカプセルは、アブレーター・ヒートシールドが流星発光(アブレーション)して火球となり、上空10kmでパラシュートが開き軟着陸する。着陸ポイントは、オーストラリア・ウーメラの砂漠地帯。高度200kmでのカプセルと太陽との離隔は約100 度で、完全な夜側で地球大気へ再突入することから、カプセルの流星発光の地上観測が可能となり、我々は、地上光学観測を施行することを既に予定している。打ち上げから地球帰還までの探査機の日心距離は 0.86〜1.70天文単位(1天文単位は約1億5千万km)、地心距離は2.33天文単位以下、地球座標系から見た全飛行距離は約7億km。

たかだか500kgの探査機を宇宙空間へ送り込むのに、14トンものロケットを必要とした今回の打ち上げを通して、改めて大気の海の底に住む我々と宇宙の間の壁を実感した。また、宇宙へ羽ばたく優れた技術を持つ日本の宇宙科学のレベルの高さに誇りを感じた。私自身も理学(天文学)で博士号を取得したが、学部までは宇宙工学(エンジニア)を目指し、日本大学航空宇宙工学科で学んだ。今回の経験を通して、大学では習得できない多くのことを現場の経験から得ることができたし、多くの素晴らしい同士にも巡り会えた。ロケット打ち上げに取り憑かれるとよく言うが、我々科学者は一種のノスタルジーだけで打ち上げに携るのではなく、打ち上げの先にある科学的価値を見据えて宇宙へチャレンジしていきたい。それでも打ち上げの圧倒的なパワーを自分の目で観て感じることは、宇宙へチャレンジする情熱や、宇宙へ対する様々なモチベーションが高まることは間違いない。是非、こういった打ち上げに多くの方が参加されることを望む。
打ち上げ直後から、夕刻から翌明け方にかけて探査機の運用が連日行われている。探査機は隼の如く、打ち上げ翌日の第2可視では月の距離40万キロメートルまで達した。鹿児島宇宙空間観測所の34mアンテナの上に浮かぶおぼろ月を見ながら、探査機「はやぶさ」にエールを送った。3日目の第4可視では、100万キロメートル彼方の深宇宙を順調に羽ばたいている。探査機の運用を行うアンテナもKSC34mでは既に力不足で、長野県・臼田の直径64mの日本最大の電波望遠鏡に切り替わった。運用も鹿児島から宇宙科学研究所・相模原キャンパスへ移った。第3・4可視では、私が携る小惑星表層の鉱物の分布図を作成する近赤外分光器・NIRSをはじめ、理学観測機器に次々と火が入れられた。果たして、打ち上げの衝撃に無事耐えて宇宙でも正常に動いてくれるか!私は緊張の一瞬を宇宙科学研究所・相模原キャンパスの管制室で迎えた。自身が開発したクイック・ルック(探査機からのデータをその場で見ることができる画面)を食い入る様に見た。電源がオンされ、様々なパラメータを次々にセットしていく。そして、NIRSからの観測信号が無事に届いた。我々の装置は、地球大気の海の底から完璧な状態で宇宙へ飛び立ったのである。関係者一同ホッと胸を撫で下ろした。いよいよこれから探査機「はやぶさ」の7億キロメートルの長い旅が始まる。
北朝鮮が目指す大陸弾道弾ミサイルは、せいぜい太平洋しか狙えてないが、日本のミサイル(+探査機)は、遥か数億km彼方の小惑星さえピンポイントで狙えるのである。
実は「はやぶさ」の打ち上げの後、小生も宇宙科学研究所から見事に打ち上げられてしまった(職を失った)。タイミング良く、日本学術振興会の海外特別研究員に選抜され、「はやぶさ」の無事を祈りつつ、欧州チェコ共和国の天文台に2年間赴任することになるのである。
小惑星探査機「はやぶさ」の詳細は、こちらをご覧ください。
「はやぶさ Back to the Earth」上映中 !
新年快楽!! 台湾では1月26日に旧正月を迎え、今週まで正月休みであった。多くの店は閉まるので、台湾に在留している外国人にとっては災難でしかないのだが、知り合いの台湾人らの実家にお邪魔して、台湾流の正月料理などを味わってきた。実は、元旦に日本に一時帰国しており、関東と関西を10日間ほど巡り、酷い風邪を煩いつつも日本の正月を楽しんだ。台湾への帰国前日の1月10日に、Junk Stag代表の須藤優さんの提案で、須藤さんも含め、スタッフ4名と都内でお会いすることができた。
2009年は、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を夜空に向けた1609年から、ちょうど400年目にあたる。国際連合、ユネスコ、国際天文学連合は、今年を「世界天文年(International Year of Astronomy:略称 IYA)」と定めた。世界天文年を通じて、多くの人々が夜空を見上げ、宇宙に存在するかけがえの無い地球、地球上に存在するかけがえの無い命を見つめ直すなど、宇宙を通じて新たな発見をしてもらうのが目的である。
世界天文年のロゴ(日本版と台湾版) http://www.astronomy2009.jp/
ということで、小生が希望した会合場所は、東京・池袋。待ち合わせたのは、サンシャイン・プラネタリウム「満天」。Junk Stageの須藤さん、水野さん、酒井さん、荒井さんが寒空のもと集合。自己紹介もそこそこに、まずは皆さんとプラネタリウム観賞 (小生にとっては、これが自己紹介代わり)。池袋には、色々な思い出がある。中学・高校と新宿にある「海城学園」に通っていたので、埼玉の田舎への下校途中は、いつも池袋の本屋かゲーセンで塒を巻いているか、閑散としたプラネタリウムで宇宙の神秘に触れていた。浪人時代の予備校も池袋だったし、デートではサンシャイン・プラネもよく利用した。そんな懐かしい思い出の詰まったサンシャイン・プランタリウムで、我々が楽しんだのは、「柴咲コウの星空Love Song」。20年前では考えられないようなトレンディーでロマンティック、かつ教育的な番組だった。こんな番組だったら、デートも絶対に成功するだろうなぁと感心。2003年に経営難で一度は閉鎖されたサンシャイン・プラネは、小生も参加した著名運動により「満天」として復活し、今では池袋のデートでも欠かせない存在。2時間前にはチケットが売り切れるという毎回満席状態である。
現代のプラネタリウムを満喫した我々が、茶をしばく為に入店したのは、(須藤さん紹介による)「パフェテラス・ミルキーウェイ」。各々の星座に因んだ星座パフェを楽しみつつ、様々な話に花が咲いた。この店の面白いのは、12星座ではなくて、13星座のパフェが揃っているところ。占星術師でない我々天文学者は、「この店は学術的で良い」と好感を持つに違いない! 今から約2千年前のギリシャ時代に、太陽の通り道(黄道)をほぼ12等分することで作り上げたのが黄道12星座。占星術では、自分の誕生日に太陽がいる星座が、自分の生まれた星座になる。太陽が輝いている真っ昼間の空に自分の星座があるのだから、誕生日から約半年すると真夜中に夜空に自分の星座が輝く。さて、そんな星座も、時代や国によってまちまちだったため、1930年に国際天文学連合(IAU)が88の星座とその境界を定義・決定した。その結果、それまで12星座でなかった「へびつかい座」が、黄道を通過することになり、天文学では黄道には13星座あることになった。
小生が食べた「しし座」パフェ。
星座が定義された1930年以来、国際天文学連合(IAU)が行った教科書が書き変わるような大きな決議と言えば、記憶に新しい2006年チェコ・プラハで開催された国際天文学連合での「冥王星の惑星降格」を引き起こした「惑星の定義」である。実は、冥王星は、歴史的背景から惑星に認めていたに過ぎず、「冥王星は惑星ではない」という認識は、我々太陽系天文学者には一般的だった。曖昧だった境界を顕在化させたのが、2003年に発見されたエッジワース・カイパーベルト天体「エリス」が、冥王星よりも大きいと分かった2005年であった。2006年の国際天文連合に参加中だった小生は、冥王星が第9惑星の権利を剥奪されていく、1週間に渡る議論の過程全てに参加し、100年に一度の一大イベントの渦中に幸運にもいた。プラハの春ならぬ、プラハの夏である。突如沸いた大事件に、日本の報道各社は、欧州滞在中の科学担当でない支局長レベルの記者達を急遽プラハへ送り込んできた。惑星定義委員会の委員であった小生の元ボスの渡部潤一氏のもとには、記者や報道各局が殺到。とても一人では対応できないとのことで、記者レクを任された。科学記事を書くに必要な基礎的な知識を、噛み砕いてレクチャーするのである。相手が科学記者でないので、中学教科書レベルからの説明であった。チェコで2年間を過ごし、若干のチェコ語とプラハの町を知り尽くしていた小生は、アインシュタインやカフカが通った由緒あるカフェに記者達を集めて、記者レクを行った。冥王星が無くなったという誤報もあったが(これは、現地に記者を派遣しなかった報道局による)、文系記者さん達が、短時間の間に正しい新聞記事を発信していたのには驚いた。冥王星は、もはや惑星ではあり得ないが、新しい基準となる「準惑星」の親分的存在として永遠に「冥王星」という名は失われないのでご心配なく。
[追記]
2006年8月に行われた総会でIAUは、冥王星のような惑星に準 じない大型の天体のことを「Dwarf Planet(ドワルフ・プラネット)」(和名は「準惑星」と日本国内で決定され教科書も改訂された)と呼ぶことを決めたが、「Dwarf Planet」というのは一般的ではないことから、今回、新ため て「Plutoid(プルトイド)」と分類することを決定した 。ErisもPlutoidに分類される。
※ リツ(丸太作家)さんの「天文学者阿部さんに会う」、柳楽正人さんの「最後の惑星」で冥王星ネタを取り上げて頂き、ありがとうございます。ホルストは、僕らにとってもバイブル的存在ですが、ホルストの「惑星」は、結果的に正しかった訳ですね。今年は、あれ以来初めてになるプラハに、春の音楽祭の季節に訪問する予定です。須藤さん、マニアな会合にお付き合いして頂きありがとうございました。
太陽系の惑星定義議決;「冥王星が惑星じゃないと思う人、手を挙げて!」の瞬間。(撮影、阿部新助)
そして、ガリレオが望遠鏡で宇宙を観測して400年目の今年は、世界中の天文学者が注目する我々のプロジェクト(Pan-STARRS)がいよいよ観測をスタートさせる。ガリレオは肉眼で宇宙を覗いたが、僕たちはハワイ大学が開発した世界最大40cm角、14億ピクセルのCCDカメラを1.8m望遠鏡に付けて夜空を撮りまくる。最新のデジカメは、5mm角(1000万画素)程度なので、ざっと6千倍の大きさである。更に、次世代の(縦横方向電荷転送方式)手振れ防止機能が14億全てのピクセルに装備され、星の瞬きや望遠鏡の振動をキャンセルする。1枚の画像は、7ギガバイトもあり、とてもマニュアルで操作できないので、特別なソフトウェアーも開発した。画像を処理して、星の位置や明るさを計測するソフトや、複数の画像中から小惑星や彗星などの移動する天体のペアを同定して、複数のペアから軌道を決定するソフトなどである。次世代CCDと、ソフトウェアーの組み合わせにより、人類が200年掛けて発見した小惑星の数(約50万個)をおよそ半年で更新し、3年間で数百万個の新たな小惑星や彗星、太陽系の果ての冥王星よりも大きな天体などを次々に発見する見通しである。その中には、将来地球に衝突する可能性のある天体も含まれている。ガリレオさんも真っ青だろう。我々の研究成果によって、もしかしたら、いつか再び惑星の定義が書き変わるかもしれない。科学の進歩は常識さえも変え得る。僕たちは、まだまだ世間知らずの非常識な世界に住んでいるのである。
次世代手振防止機能搭載、世界最大14億ピクセル・デジカメ2009年始動
世界天文年の今年、みなさんも是非、夜空を見上げたり、科学館やプラネタリウムに足を運んで、自分と自分達が住む地球を見つめ直してみては如何ですか?
1月24日に明石市立天文科学館 のプラネタリウムを使って一般人を対象に「世界天文年2009イベント」が行われた。SKYPEを使って、小生が台湾から天文学のレクチャーを行った。半数以上の参加者が聴覚障害者だったため、手話の方々に協力して頂き、無事に「台湾-日本」を繋いだ初の世界天文年イベントを成功させることができた。
こんにちは! Dobry den! 你好! Aloha!
このたび「Junk Stage」須藤優代表のお目に留り綴らせて頂くことになりました、宇宙人・Earthkindの阿部新助(あべ しんすけ)と申します。
さて、いま僕は、直径が1万2千800km、円周約4万kmの地球(テラ)という惑星にいる。この地球は、直径140万kmの太陽という恒星から1億5千万km離れたところを、時速10万kmで回っていて、1年(365.25日)で太陽の回りを一周している。同じように太陽を回る8つの惑星(水金地火木土天海)で構成される太陽系は、直径が10万光年(光の速さで10万年)の銀河系の中心から約3万光年のところを、時速80万kmで回っていて、約2億年で一周している。宇宙は137億歳、銀河系は136億歳、そして太陽や地球は46億年前に誕生した。およそ400万年の歴史しか持たないホモサピエンスは、時間的にも空間的にも、宇宙には全くかなわない、本当にちっぽけな存在である。宇宙の誕生から今日までを1年間のカレンダーにすると、ホモサピエンスが誕生したのは、ちょうど紅白歌合戦が始まった、大晦日も終盤の頃なのである。
そんなちっぽけな宇宙の赤子であるホモサピエンスの中に、自分たちを遥かに超越した宇宙の生い立ちを探ろうとする人種がいる。そんな探求の世界で職を得て暮らしている人種を「天文学者(astronomer)」と呼ぶ。昔は、人々の生活を支える暦を作ることや、星占いも天文学者の仕事だったが、暦を作る公の機関はもはや存在しないし(日本の国立天文台は、サービスで暦を提供している)、そもそも星占いは疑似科学であって、現代の天文学とは切り離されている(個人的には、ネットや雑誌で見かける星占いがついつい気になって、一喜一憂しているけれど)。
さて、僕は天文学者(astronomer)である。どうして、どうやって天文学者になったのかという話は、またの機会に紹介するとして、僕はどうにか天文学で博士号(Doctor)を取り、宇宙を舞台にした仕事で飯を食っている。日本の宇宙機関(ISAS/JAXA)、チェコの天文台、神戸大学・地球惑星科学専攻などで期限付きの常勤・非常勤職を2年毎に転々とし(その間、NASA/SETIのミッションなどにも参加しながら)、2008年春に台湾・國立中央大學・天文学研究所の教員として赴任した。教員といっても、現地語(台湾は繁体中国語と台湾語が共通語)はまだ話せないので、大学院生に英語での指導は行うが、当分は授業を持たない研究・教授職(Assistant Research Professor)である。
[1999-2002 NASA国際航空機しし座流星群観測ミッション発射@エドワーズ空軍基地にて]
人口1000人のチェコ・プラハ郊外で過ごした2年間の後(この村ではチェコ語しか通じなかった)、150万都市の神戸・六甲山麓で2年間暮らした。余りにも便利でモノに溢れる日本。日々の生活に溢れる無駄を痛切に感じた。日本帰国中は、JAXA宇宙科学研究本部(ISAS)主導の小惑星探査機「はやぶさ」の臨場感溢れる特等席に座る幸運に恵まれ、地球から3億km彼方に浮かぶ「小惑星イトカワ」を通じて、数々の貴重な成果と経験を得る事ができた。
[世界初の小惑星サンプルリターンミッション・HAYABUSA, ISAS/JAXA]
「二番煎じではなく、いつも最前線でパイオニアとして宇宙と向き合いたい」という思念と共に、2008年春、僕は再び日本を飛び出していた。台北から40km、鉄道とバスで1時間余りの桃園縣中歴市に國立中央大學はある。中国語はまだ少ししか分からないが、親日台湾の田舎町で、日々激安で美味い飯を食って元気に頑張(戦)っている。スノッブな神戸も良かったが、整然とした都会より、生活感溢れる田舎町の方が生きている感じがして楽しい。生活の刺激以上に、ここはサイエンスの刺激にも溢れている。5年500億元(1700億円)プログラムに採択されている國立中央大學で、天文・物理分野は中核を担っており、海外からの研究者も頻繁に訪れる。
「こんにちは! Dobry den! 你好! Aloha!」、これらは、僕がこれまで住んできた(住んでいる)場所での一般的な挨拶である。日本語、チェコ語、中国語、ハワイ語。Aloha!?、そう僕は今、ハワイ・ワイキキの常夏の青空の下でこの文章をしたためている。ハワイ大学・天文研究所(IfA; Institute for Astronomy, University of Hawaii)は、ハワイ島マウナケア山頂(標高4200m)やマウイ島ハレアカラ山頂(標高3300m)に世界最大の望遠鏡群を有し、様々な宇宙プロジェクトが進行し、世界の頭脳が集う天文学のメッカとして知られる。そして今、世界中の天文学者が注目しているのが、「Pan-STARRS(パンスターズ)」という全宇宙サーベイ・プロジェクトである。このプロジェクトは、国際共同プロジェクトであり、台湾・國立中央大學は、米・英・独・台の4ヶ国からなるコンソーシア(consortium)メンバーに参画している。残念ながら日本はこのプロジェクトに参加していない。僕が台湾を選んだ大きな理由の一つでもある。台湾へ来てまだ半年だが、既にその1/3をハワイで過ごしている。そして、時々古巣のチェコ&欧州を訪れて、天文学と音楽や芸術を楽しんだりしている。
さて、改まって簡単に自己紹介をしましたが、今後は、世界の空を追い続け旅する天文学者の、宇宙と地球を行き来する日常(読者にとっては非日常?)を紹介する予定です。宇宙の話やマニアな話も出てきますが、回顧録を含め、多方面の四方山話が飛び出すと思います。
ほな、よろしく! Mahalo!