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2012/09/19

8月末から9月初めに2週間近く北京に滞在した。中国で初めて開催された「国際天文学連合(IAU)総会」に参加するためである。会場は、オリンピック公園の横にある「China National Convention Center (CNCC 国家会议中心) 」であった。小生は、故楼大街という下町にある中華式の安宿に宿泊し、毎日地下鉄を3回も乗り換えて、50分近く掛けて会場に通った。Google Mapに騙されて、オリンピック会場への直通地下鉄が開通していなかったからだが、かえって庶民の暮らしを毎日観察することができた。

前回北京に来た2006年と比べると、街も人も物価も大きく変わったと感じた。地下鉄やビル群などのインフラが大きく整備された他に、地下鉄やバスに乗車する「人々の整然とした列」ができていたのには驚いた。車両が満員に近づくと乗車を止めて次の地下鉄を待ち、地下鉄の中で下車する際には前の人に必ず「下車嗎?」と聞く。オリンピックを間近に控えた2006年の北京は、街の至る所が工事中であり、交差点の交通ルールは無きに等しく、バス停や駅で人々は、我先にと列に割り込んでくる戦争状態だった。オリンピックを経て、人々も社会的に教育されたのだろう。物価も台北で過ごす感覚とほぼ同じで、6年前の数倍の物価になったのではないだろうか。車内で多くの若者がスマホに没頭する光景は、日本や台湾と変わらない。天気は滞在中ほぼ晴れていたが、濃霧かと疑う「スモッグ」が何日も続いた。これは有毒スモッグで、特に降雨には絶対あたらないようにと注意された。学会からの配布物に、立派な折りたたみ傘が入っていたのもうなずける。

滞在中も日本大使館前のデモは行われていたが、街中やレストランで日本人だと分かっても、不快な目に会うことは一度も無く、むしろ地元の中国人らは親切だった。北京天文館プラネタリウムでは、小生は招待講師として「探査機はやぶさ(日本大空舟隼号)」の一般講演を行い(台湾中国語と英語を北京語に逐次通訳)、50名程の北京の聴衆からは歓迎され、天文館館長からは「いつでも北京に来たときは大歓迎で、無料でプラネタリウムにも招待するよ」と握手。(賄賂ではない)お土産もたくさん頂いた。

一方、TVでは終日、反日番組や映画・ドラマが放映されていた。こんな刷り込み番組を子供の時から見ていたら、日本人を嫌いになるのは当然だろう。中国滞在中は、北京在住の日本人の友人Nとも久々に再会し、いろいろと案内して頂いた。彼は小生の所属する台湾國立中央大學から北京大学へ2年前に異動した地球電磁気学専門のポスドク研究者だ。上海で同じくポスドクをしている天文学の後輩Hと同様、現地の安月給で中国人らに混じって粛々と成果を出し続けている「侍・日本人」である。友人Nとは、連絡を取り続けているが、彼のいる北京市内の北西地区では、相変わらず日本人への差別も無く、現地の知識人らはデモを冷やかに見ているようだ。

今回の反日デモは派閥争いが背景にあり、「反日」は利用されているということを、見抜いている中国人も多いのだろう。被害状況だけをクローズアップして「中国人悪」のイメージを植え付けるだけの報道を行う日本のマスコミも、中国での「日本鬼子(日本人悪魔)」の報道と同レベルであり、対立を煽るだけである。水面下にある真相こそ報道すべきだ。デモは、ネットやツイッター(微博)で呼び掛けられて集まったのではなく、バスがチャーターされ、Tシャツや横断幕が配られた組織的な「やらせデモ」なのである。北京・日本大使館前で行われているデモも、日雇いでやらせているという話を、北京在住の複数筋からも聞いた。ちなみに、北京からはTwitter、Facebook、Youtubeなどには接続できない(接続できる時もある)。Google検索も挙動が変で、リンク先が操作されており、天安門事件などで検索を掛けると警告がでた。困ったのは、仕事の調べものでNASA/JPLサイトに繋ぐ必要があったが接続できなかった(これはNASAが接続を制限しているのだろう。結局、VNC台湾経由で対応)。

デモが暴徒化した場所(山東省(青島など)、湖南省、広東省など)は、共産党主義青年団(団派)が牛耳っている。破壊活動は、デモとは関係ない場所で発生しており、放火などの手際が良いことからプロの仕業と言われている。私服警官や私服軍人が暴徒の中心メンバーとして活躍している姿が、複数目撃されている。これらの暴徒化したデモは、団派(胡錦濤・李克強 一派)が上海派(次期総書記・習近平 一派)を揺さぶっている可能性として指摘されている。

日本人暴行事件も報じられていたが、これは公安の仕業である。ラーメンを頭から掛けるなど、わざとらしい事件を起こしている。もちろん、そういう場所に日本人が近づくと危ない。

特筆すべきは、暴徒化しているのは若者が多いということ。「蟻族(アリ族)」や「鼹鼠族(モグラ族)」と呼ばれる大学卒業後も仕事が無い暇な人種や、地方から都市に出稼ぎに出たが仕事がなくなった人種などが、反日デモを「野次馬的」に暴走させている。日本への批判が本音ではなく、共産党への不満が鬱散していると見るべきである。これは、中国で最も不景気である深圳のデモでは、日本の商社ではなく中国人民政府の庁舎が襲われていることに、その真意が伺える。

こういう輩は、政府から絶対悪として標的にすることを許された「日本」へ対するデモを理由に、日頃の鬱憤を晴らすが如く「犯罪行為」を行っている。また、団派がそれを煽動している。人民を尊重した毛沢東の写真を掲げているのは、もはや反日ではなく、政府批判を意味している。

これらの事象は全て「やらせデモ」の想定外の「暴動」だったはずである。今後、反日デモが繰り返されていけば、数年の間にその矛先は共産党へ向けられるだろう。

そもそも中国は多方面で国際紛争を抱えている。

  • 南シナ海では、フィリピン、ベトナムと開戦準備を進めている。
  • 対台湾へのミサイル配備は約2000基だが、台湾とは平衡状態。←今こそ、日本は台湾へ歩み寄る絶好のタイミング
  •  韓国ともめている水面下の島「蘇岩礁(離於島)」は、韓国が今年、軍事基地を作ってしまったら中国は最近になって黙ってしまった。

日本は、今の(反日デモ容認の姿勢を示した胡錦濤政権)中国に対してまともに対応する必要は無い。尖閣諸島には自衛隊を駐屯させれば良い。そうすれば、韓国が実行支配した離於島と同じく大人しくなるだろう。もちろん、軍事的冒険に出る可能性もあるが、そうしないと近いうちに尖閣諸島は中国に実行支配されてしまう。国有化してしまったので、これまで通りの「棚上げ(何もしない)」支配では、尖閣を守れなくなってしまったのだから、これは国の責任だ。日本が尖閣諸島を自力で防衛する姿勢を示さない限り、無人島ごときに米軍が日米安保条約を発動する訳がない。

さて、IAU国際会議中の小生の名札は、「China Taipei」という所属に勝手に書き換えられていた。学術分野でさえ「Taiwan」の名前を認めないのである。もちろん、小生は口頭講演の中では、どうどうと「Taiwan」の名前を使った。小生は、親しくしている素晴らしい中国人研究者らもいるし、彼らとは共同プロジェクトでいっしょに仕事もしている。少なくとも科学者としては、政治的な紛争を越えた付き合いを今後も続けていきたいと思っている。

対中融和路線をとる台湾・国民党が2008年に政権を取って以降、中国共産党は「中華民族」を合い言葉に、台湾との様々な融和政策を進めている。尖閣諸島は「台湾省」の一部だとして、中国は台湾の「釣魚島」運動を支持している。「台湾統一工作」として中国に利用されているということも、台湾国民に広く知らしめるべきだろう。一方、この状況の中、日本への歩み寄りの姿勢を見せる台湾・馬英九総統に、日本政府は真摯に対応し日台友好を加速させるべきだ。政治・経済、文化、科学技術などの幅広い分野での台湾との国際交流が、今後を左右する「鍵=突破口」になる可能性を秘めていると個人的には考えている。

 

日本統治時代の歴史的建築物や日本人が残した文化の多くを、今日でも大切に保護している台湾は、近代史を学ぶのには最高の場所である。全ての修学旅行先も、中韓から中華民国・台湾へ!

 

以下、北京在住の日本人N氏のコメントを、N氏の許可を得て転載します。日系企業に雇われているのではなく、中国の大学研究機関に雇われている「日本人研究者」という特殊な立場からのコメントですので、日系企業で働く駐在員日本人とは異なる視点を有するかもしれません。むしろ、中国国民の目線に近い意見だと思います。


やはり柳条湖事件81周年の日は反日デモの規模がすごかったようですね。

しかしながら、北京大学の周辺は依然として”平然”としていました。僕自身もすっかり忘れていたくらいです。19日以降になってデモは小康状態になっているようですが日本大使館からは”用事がある時以外近づくな”とのメールが頻繁に来ています。

テレビを見て思ったのはデモに参加している人は貧困層の人々や定職に付けていないフリーターやニートっぽい人が多いということです。所謂、共産党政府の政策・政治に批判的な人々のようです。(いわずもがな、中国では公然と政府を批判すれば”国家転覆罪”で刑務所行きなので矛先を日本にしているというところでしょうか。)

また北京に住んでいて思うのは”日本を批判する暇があったら1元でも多く稼ぐために一生懸命働く”人々が大勢いるということです。”デモに参加する暇があったら働く!”という無言のオーラが街を歩いていてとても強く感じるということです。レストラン等の服務員が僕の中国語が変だと感じて”何人?”と聞いて”日本人”と僕が答えても過剰な反応は全くありません。

先週の日曜日に秀水街付近に用事があって行きましたが、あのあたりでさえデモの影響は全く有りませんでした。みなさんあくせく働いていました。北京の人もそんなに暇では有りませんし、日本の報道が”日本批判の嵐=中国全土・全国民がそう考えている”という構図を作り出しているように感じました。もちろん被害に有った日本人もいたようですが、それが全てではないということですね。

 

IAU・国際天文学連合会場、北京国家会議場。とにかくデカイ!

2008年北京五輪のメイン競技場だった北京国家体育場、通称「鳥の巣」

滞在した古風な中華式の宿。スタッフも皆親切だった。


会議のオープニングと総会の決議の様子。

会議の横断幕を掲げる小生の共同研究者ら(フィンランド人と中華/台湾系アメリカ人)。我々3人で3枚の(捨てられていた)ビニール横断幕を頂戴して持ち帰った。次回のIAUは、2015年にハワイ・ホノルルで開催されるので、持ち寄ってピクニック(potluck)のシートにする予定。


北京天文館。地元の高校教師や天文ファンを相手に講演を行った。

北京古観象台。1442年、明の時代に建設された世界で最も古い天文台の一つは、今では北京の高層ビル群に囲まれていた。


天下の北京大学の赤門。前を行く友人Nが通行証を見せて、小生はツレだと言って入校。


この夏から中国月探査プログラムが北京ビールの公式スポンサーになった。月面着陸の際は、きっと月面で北京ビールで祝杯をあげるのだろう。


万里の長城(八達稜)と天壇公園。中国の昔の人々はすごかったのだ。


天安門とセキュリティー・カメラの数々。街中のカメラの数もオリンピック前に比べれば圧倒的に増えた。

北京のタクシーは本当に捕まらない。道が分からないという言い訳?の乗車拒否もあり、昼間に5台捕まえてやっと乗れたりした。この日は、終電を逃してしまい、友人とタクシーを探したが捕まらず、仕方なく三輪タクシーに乗車。値段交渉したが、二人で20元(250円)とややぼられて乗車。シートベルトもないオンボロ三輪タクシー後部の箱の中で、幹線道路にこぼれ落ちそうに激しく揺られているときは、かなり怖かった。

 

追記、

今回は、中国語での会話がなんとかできるレベルだったが、北京語と台湾國語は発音がかなり違い、会話が成り立たなくなることもしばしば。なぜか、日に何度も通りすがりの民に道を聞かれたりもした。何処から来たのかと聞かれたときは「台湾からだ」と答え、台湾に住んでいる日本人じゃないのかと新秀水市場でしつこく聞かれた場面では(値引き交渉中だったので日本人とばれると不利)、「地球人だ」と答えて笑われその場を凌いだ。

 

一応ちゃんと仕事(学会招待講演、学会口頭発表、北京プラネでの招待講演、ビジネス会議など)の方も無事にこなした。

C-22(流星, 隕石, 惑星間空間塵)のプレジデントは、国立天文台・渡部潤一教授からSETI/NASA・P. ジェニスキンズ氏へ、C-20(太陽系小天体,彗星,衛星の位置と運動)のプレジデントは、JAXA/宇宙科学研究所・吉川真教授からNASA/JPLのS. R. チェスリー氏へ引き継がれた。渡部氏、吉川氏の推薦により、2012-2015 期のC-20、C-22のOrganizing Committeeには、小生が選出・承認された。また、C-22の流星群・命名委員会では、新しく観測されて申請された流星群を全て吟味して、承認できる流星群名を我々で決定した(こちらの仕事は、小生は殆ど貢献していないので(実質2名+αで決定されている)、これを期に(一時?)退任させて頂いた)。近年、レーダー観測で昼間流星群が多数発見されたり、自動TV観測による新しい流星群の発見が多数報告されている。流星群と認められるには、基本的に (1) TV観測などで顕著で明白な流星群活動が捉えられること(流星数の制限は無い)。一度だけ、単独観測でも認定する(長周期彗星起源の1回帰ダスト・トレールの場合は1度だけの出現となる可能性があること。また、流星群の突発が、ある時間帯だけに集中する可能性があるから)、 (2) 電波観測の場合は、単独ではなく複数点の観測によるチェックが必要(或は単独&複数年も可? このあたりは P.ブラウン論文の例を参照)。最近、ロシア語で数千個の新流星群を含む電波流星群カタログが密かに出版されている。レフリー付きで内容もかなり信憑性があるが、英語で表記されていないこともあり、新たな論争を生むので暫くは見てみぬふりかも。

2006年 IAUプラハ(チェコ共和国)では、冥王星が惑星から降格し「準惑星」枠ができるという、侃々諤々のエキサイティングな総会であったが、2012年IAU北京の総会決議では、議論も異論もなく(議長が議論をしないでスルーした!)決議が行われてしまい、個人的には大変物足りなかった。太陽系に関する3つの新しい決定決議;

  • 従来のDivision は廃止され、「Division III」は、「Division F “Planetary Systems & Bioastronomy”」に統合。
  •  「International NEO (Near-Earth Objects) early warning systemの構築」。地球に衝突する可能性のある小惑星(PHOs)の早期発見と国際社会へのアナウンスを円滑に行うシステムを構築。NEOのビジネス・セッションで議論したが、NASA/JPLのチェスリーを中心に、我々で詳細をまとめてIAUへ報告文を提出することになった。このあたりは、アメリカ(NASA)とイタリア(Neodys)が主導することになるでしょう。
  • 1天文単位 = 149597870700mとする(従来の±3mの誤差は切り捨て)。すべての時刻系(TCB,TDB,TCG,TT)において適用。天文単位の記号は「AU」から「au」に統一(紛らわしい?)。

 

2012-2015期のIAUプレジデントには、国立天文台元台長・海部宣男名誉教授が選出された。次回IAUは2015年8/3-14にハワイ(ホノルル)で開催される。セッションに出るより、宇宙生命の起源を求めてビーチで過ごす時間の方が長くなりそうな予感….

 

2010/11/28

夏威夷のオアフ島には、ダイヤモンドヘッド・クレータ以外にも見事なクレータがあるって知ってますか?

Google Earthで見てみよう。

GoogleEarth
オアフ島の北西から南東へ伸びるコオラウ山脈(Koʻolau Range)は、過去50万年の間に13回程度の噴火をお起こし、ダイヤモンド・ヘッド、ハナウマ・ベイ、ココ・ヘッド、パンチボウルなどの、今日のオアフ島東部地域のクレータが形成された。

Crater(クレータ)とは、地下のマグマや火山ガスによって運ばれた岩塊などが、固体や液体となって地表に噴出する(または過去に噴出した)穴のことを呼ぶ。また、天体が衝突した時にできる孔もクレータと呼ぶ。両者は一見似ているが、成因は中か外と大きく異なってくる。

さて、Google Earthをもう一度良く見ると、コオラウ山脈の中に立派なクレータがあるではないか!それも、現在小生が滞在しているマノアの山の向こうだ。その名は、カアウ・クレータ(Ka’au Crater).

ということで探検に行くことにした。参加者は、ハワイ大学に在籍する院生とポスドク、小生以外は台湾人と中国人で構成され、共通語は英語と中国語である。

ほな出発。
ところが、探せど入り口が無い。それもそのはず、ここは、ハワイのTrail Mapにも掲載されていない穴場だから。
Crater1

発見!

ところが小生が乗り越えた柵には、「あなたの犯した罪により訴えられます」と書いてある。(帰りは、結局ここに出てきた)

Crater2

ようやく、それらしき入り口を藪小木の中に見つけた。看板も何もないよ。

Crater3

このトレールは、滝が見所と聞いていたので期待していると、

第一の滝!ちいせー!
Crater4

常夏の常緑林の中を突き進む。

Crater5
あの山を越えないといけないのかと思うと遠い。

Crater6
第二の滝!お見事!

Crater7

滝の脇を登り、滝の上に出た!
Crater8

続いて第三の滝!お見事!
Crater8

滝の上に再び攀じ登る。

Crater9

続いて第四の滝!これまたお見事!

Crater10
女性陣には、結構きつい登りだったかも。帰路の方が危ないね。

Crater11Crater12Crater13

さて、現れたクレータは、これだー
Crater14

標高750mからは、ダイヤモンドヘッド(標高232m)とワイキキのビル群が眼下に見えた。
Crater16

iPhone4で撮影したパノラマだ!
Crater15

数十万年年前形成されたクレータは、周囲を山に囲まれており、貯水池の役目を果たしているようだ。このクレータこそが、我々が登ってきた数々の滝を織りなす渓流の源であった。水が赤錆色をしているのは、噴火の際に溶岩として噴出された地球内部の鉄が河床を形成しているからなのだろう。

往復5時間の快適なトレッキングだった。ハワイは、海と山、両方とも楽しめます!

07:17 | | No Comments
2010/11/24

2010年11月20日、台北からチャイナエアーの直行便(成田経由)にてハワイ=Hawaii=夏威夷、ホノルルへ到着した。1年振りのハワイである。

今回のハワイ1ヶ月の出張「プロジェクトX」は、3週間ほど前に急遽決まった。世界で最も権威ある論文誌に我々が発見した小惑星に関する研究論文を、小生が筆頭著者になって昨月投稿した。無事に査読が行われ(この段階で7-8割の論文はリジェクトされ不受理になる)、2週間ほどで3名の査読者(レフリー)らのコメントが返って来た。共著者らとレフリーコメントを精査したところ、頑張れば論文が受理される見込みがあると判断。しかし、作業が込み入っていて追加計算なども必要なことから、第二〜第六共著者がいるハワイ大学・天文学研究所で作業することをハワイの共同研究者から強く薦められ、ハワイ大学(Institute for Astronomy)と台湾國立中央大(Institute of Astronomy)のサポートで1ヶ月間のハワイ出張と相成った。

台湾はジメジメした寒い冬を迎えつつあり、耳石症もまだ治っていなくて目眩が取れないので、ハワイは良い気分転換になるだろうとやってきた。研究はもちろんだが、ハワイにはお楽しみが一杯ある。仕事を開始した昨日の夜は、手始めに夜のムーンライトサーフィンをハワイアン天文学者らと楽しんだ。1年振りの波に揉まれながらの超初心者サーファーだが、夏の大三角とオリオン座を背景に、満月に照らされるダイヤモンドヘッドと足下でキラキラと輝く珊瑚礁に抱かれながら波に漂っているだけで、気分爽快だ!

さて、丘にもお楽しみがないかと検索すると、ホノルル・マラソンなる世界の一大イベントが、12月12日に当地で開催されるではないか!

ということで、10kmも走ったことがない初心者だが、マラソンにも挑戦してみることにした。

自戒も込めて、今回の目標を宣言しておこう。

1)論文のリバイズを完了させて、ハワイを経つ前にサブミットする。

2)ホノルル(フル)マラソンを完走する。

12月17日までハワイにいますので、ホノルルへ来る場合はご連絡くださいませ。

Moonlight surfing1

ムーンライトサーフィン。ワイキキビーチの沖合300mほどから、持参した水中カメラで撮影。10名ぐらいのサーファーが波と戯れていた。夜のサーフィンは、丘から恥ずかしい姿を見られなくて良い反面、押し寄せる波が見え難いのでちょっと怖いが、人間の目は感度が良いので、満月で天気が良ければ全く問題ない。前回(昨年)の満月サーフィンは、ドン曇りで波が見えずに怖かった。

Moonlight surfing2

共同研究者で、今回小生をハワイへ招待してくれたカナダ人ロブ。太陽系をリードするハワイ大教授だが、元プロ・フットボールプレーヤーでもある巨漢(~195cm)。我々は、体育会系アステロイド・チームである。ワイキキの夜景と満月の背景には、登りつつある冬の星座であるオリオン座が見える。水温はまるで温室プールのようで、冬なのに不思議な気分。

2010/09/19

7年間の旅を終え、2010年6月に地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」の観測紀行文を2回に渡ってお伝えします。

2001年4月にハヤブサ・チームにポスドク(宇宙科学研究所・プロジェクト研究員)として入隊した博士号取り立ての私は、探査機搭載機器(近赤外線分光器; NIRS)、及び地上ソフトの開発に従事した。宇宙研とメーカーさんの工場で明け暮れた2年間。そして2003年5月9日、紅蓮の炎に包まれながら、鹿児島県内之浦の青空を突き抜け宇宙へ旅立つ君を「いってらっしゃい、再見!」と見送った。打ち上げ成功後間もなく、私も有無を言わさず、見事に宇宙研から打ち上げられてしまった(失職Orz)。運良く日本学術振興会・海外特別研究員に選抜され、小惑星に到着するまでの2年間は、欧州・チェコ、プラハ郊外のオンドジェヨフ天文台の研究員になれた(チェコでは、流星とPivoの研究を行っていた)。チェコ滞在中もハヤブサ・チームと連絡を取りつつ(クルージング中のデータ解析とかしつつ)、小惑星到着を心待ちにした。ハヤブサの小惑星イトカワ到着の目処が立つと、神戸大学・大学院・惑星科学研究科COEプロジェクトからハヤブサ探査機搭載機器LIDAR(レーザー高度計)のデータも扱える人材の公募が出され、採用に至った。2005年8月に神戸大学に赴任し、神戸大がサイエンスを担当するレーザー高度計(LIDAR)と(開発責任者; ISAS・水野貴秀先生)、当初から携わってきた赤外線分光計NIRS(開発責任者; ISAS・安部正真先生)を担当することになった。臼田局を経由して送られて来るハヤブサLIDARからのデータ処理を行うソフトを作り(NIRS-QLをうまく移植した)、12月初旬までの3ヶ月間、特等席で小惑星イトカワ探査に携わった。その間は、引越先も決まっていなかったので、24時間宇宙研に “住んで” いたのである。みなさんがご存知のような数々のトラブルを乗り越え、7年の宇宙の旅路を終えようとする君を迎えるため、2010年6月、私は台湾から日本を経由してオーストラリアの地の果てへと向った。

ハヤブサの地球帰還カプセルは、地球周回軌道に入らずに、惑星間軌道から直接大気圏へ再突入を行うため非常に高速で地球大気に衝突する。これは天然の流星の対地速度(秒速12km〜72km)と比較した場合、小惑星起源の隕石のような、非常に遅い流星(隕石火球)の速度に匹敵する。はやぶさ帰還カプセルが受ける加熱はスペースシャトルの帰還時に受ける加熱のおよそ30倍。過去にこのような高速度での大気圏再突入を行った宇宙ミッションとしては、「ジェネシス」(NASA、2004年9月再突入)と「スターダスト」(NASA、2006年1月再突入)がある。日本の探査機としてはこのような(第二宇宙速度を超える)速度での大気圏再突入は初の例である。ハヤブサの地球帰還カプセルの実験機であった宇宙科学研究所の「DASH」は、2002年にH-IIAロケット2号機を使って打ち上げられ分離される予定であったが、分離に失敗し実験は失敗に終わっている。つまり、ハヤブサの地球帰還カプセルは、検証なしの一発勝負であった。なお、「再突入(re-entry)」という用語の「再」は、突入する物体が、もともと地球から打ち上げられた物体であることを表している。流星や隕石など、もともと地球外にあった物体が地球大気圏に突入する場合は、単に「突入(entry)」という用語を使用する。

実は、私はハヤブサ以前に2度、地球帰還カプセルの観測に参加したことがある。2003年5月末に小笠原沖(グアム沖)に帰還した経済産業省の「USERS」カプセルと、2006年1月中旬に米国ユタ砂漠に帰還したNASA・彗星探査機「スターダスト」のカプセルである。「USERS」の時は、航技研(現JAXA)の藤田和央先生の指示のもと、航技研(現JAXA)の柳沢俊史先生らとともに小笠原諸島・母島担当になり、父島の山田哲哉先生(ISAS)、矢野創先生(ISAS)らと2点観測を行うために、南海の孤島に想定外の半月ものあいだ閉じ込められた。カプセルは無事に回収されたものの、残念ながら観測は悪天に阻まれるという結果に終わった。しかし、高速移動する地球帰還カプセルの地上観測を行う上での数々の議論と準備、そして、僻地でカプセルを待つ忍耐力は、後にハヤブサに生かされることになる。また、イルカとの交流、ウミガメ産卵の手伝い、第二次大戦中の “戦闘壕” 探検などの貴重な経験も積んだ。一方、NASAの彗星探査ミッション「スターダスト」では、国立天文台の渡部潤一先生、理研(現名古屋大)の海老塚昇先生、ISASの矢野先生、神戸大の向井正先生らの協力・支援のもと、高知工科大の山本真行先生とNASA-DC8航空機に搭乗し、紫外線分光と撮像観測を成功させた(NASA機に搭乗するのは、1999, 2002年しし座流星群以来だった)。夜間にどのようにカプセルが地球に突入してくるのかとい う “観測経験” を持っていたので、ハヤブサへのイメージは既にできていた。ただし、ハヤブサの場合、探査機本体も超高速で突入するという未体験大火球が予想された。

流星や隕石、帰還カプセルは大気圏内において、大気との高速衝突によりプラズマを形成し発光する(「大気との摩擦で熱くなって燃えて光る」という表現は比喩的なものであり、科学的には正確な表現ではないが)。 しかしながら流星や隕石火球の発光メカニズムは完全には解明されていない。「分光(光を虹色に分散)」は、突入物質および地球大気分子がプラズマ化する過程の時間変化を調べることを可能にし、発光の物理・化学的なメカニズムを理解する上で重要な観測手段となる。また、「撮影」により大気減速するカプセルの地球大気中での軌跡、および地球大気突入直前の軌道推定を行うことが可能になる。天然の流星や隕石衝突は、いつどこに発生するか予測できないため、このような精密な観測が行える機会はほとんど無い。また、流星や隕石物質は、地球に突入する前の元々の形状、大きさ、質量、化学組成などの不確定要素があるが、ハヤブサの地球帰還カプセルは全てのパラメータが既知のいわば「人工流星(人工隕石)」であり、「予測された地球衝突物体」に見立てることで、流星、隕石や小惑星の科学研究にとって貴重な観測データを取得できることが期待された。

ハヤブサ回収隊は宇宙航空研究開発機構(JAXA)が組織したもので、オーストラリア南部の砂漠地帯において、「はやぶさ」の帰還カプセルの回収と大気圏への再突入の観測を行った。カプセル回収隊には、カプセルの着地した方位を探知するDFS班(Direction Finding Station; 電波方向探査局)、実際にカプセルを捜索し拾いに行く回収班、突入の火球を記録する光学班とこれら全ての班をまとめる本部がある。皆それぞれの役目を担っているが、JAXA・藤田和央氏を中心した16名の「光学班」は、科学的な目的を掲げた各種観測(軌道決定および広報用の撮影、カプセルと探査機の分光、衝撃波に伴うインフラサウンドなど)を実施した。私が率いる地上観測班・分光チームは、阿部新助(台湾 國立中央大學 天文研究所)、飯山青海氏(大阪市立科学館)、柿並義宏氏(台湾 國立中央大學 大空研究所)、鈴木雅晴氏(五藤光学研究所; 国内支援)のメンバー4名で構成され、2地点に分散して立体観測を実施した。プラネタリウム「HAYABUSA Back to the Earth」の総合プロデューサーである飯山氏とは、学部1回生からの悪友(天文同好会の流星観測&酒飲み仲間)でもあり、観測経験と技量を熟知していたので、今春になってから急遽メンバーに加わって頂いた(結果として、ハヤブサ地球帰還観測を成功させ、日本帰国後に関西圏でのハヤブサ広報に大活躍することになる)。

6月1日、15kg分の超過料金4万円をカンタス航空に支払い成田でチェックイン。ハヤブサ関係者が多数を占める機体は、シドニーを経由して、6月2日朝にアデレードに到着。カンガルー避けの立派なバンパーのついたランクル4台で、機材と食料の買い出しを繰り返しながら陸路を300km移動し、すっかり日が暮れてからポートオーガスタに辿り着いた。南十字星と初めて見る南半球の星空に、疲れも忘れ暫し言葉を失い仰ぎ立ち尽くした。6月3日、ポートオーガスタの町を出て、砂漠の景色が何処までも広がる道を快適に進む。ロケットの街ウーメラに到着し、JAXA隊本体と合流。長距離移動したので、日本から輸送してきた機材のチェックを行う。その晩は、地の果てで自炊を余儀なくされる我々タコーラ(Tarcoola)班の料理長に任命した飯山氏による食事(オージービーフ)が振る舞われ、隊員が必要な食材の量と、関西-関東人混合隊による調理の味見がテストされた。

6月4日、全打(全体打合わせ)および、ウーメラ立入り制限区域内内(WPA)での注意事項、野生生物の危険についてのレクチャーを受け、WPA内へ移動。WPAの倉庫に、船便で運ばれて保管されていた機材の開墾を行った。ハヤブサ機材倉庫に営巣していたつがいの「隼(ハヤブサ)」が我々を迎えた。これは何と幸先が良いことか! 出立前の全体晩餐会がウーメラで行われた。6月5日、各地へ向けてそれぞれの隊が移動を開始。藤田氏率いる光学班は、グレンダンボへ移動。夜間走行は野生動物(カンガルーやエミュ、羊、牛などが多数生息)との遭遇・衝突による危険性が増し、また、グレンダンボから先のダートは、車の故障は即生死に関わるので、必ず2台以上の車で昼間に行動しなければならない。分光班(阿部・飯山氏)、軌道決定班(JAXA・黒崎氏、九州大学・シューメーカー氏、日本流星研究会の上田氏)の5名が車2台に分乗して、いよいよ未舗装路へ突入した。途中、アボリジニが住む村(キングーニャ)を過ぎ、恐怖すら覚える地平線まで続くダートを130kmも突っ走った。我々が到着したのは、世界で一番人口の少ない町(ゴーストタウン)である。我々の到着により、人口が2倍に膨れた(つまり人口5人)。お世話になるキャロルさんに挨拶し、住まわせてもらう離れの家を案内してもらった。廃墟となった病院や、町外れには金鉱跡がある。2kmほど離れた丘に登ると、カンガルーが我々を迎えてくれた。「カンガルーの丘」と名付けたその丘から360度の地平線を臨む。人口音、人口灯は皆無である。さあ、ハヤブサ地球帰還を、地上の最果ての地で迎える準備だ!

6月6日から1週間は、本番のタイムラインに沿った観測、データ送受信、画像と映像の速報配信の手順を繰り返しながら、13日の本番を待った。食料の買い出しを見込んで持参した食料には限りがある。しかし、食料調達が想像以上に大変だということを現地に到着してから認識した料理長・飯山氏から振る舞われる食事量は、戦時中のように(戦時中を知らないが)質素だった。しかし、栄養バランスはちゃんと考えられていたようだ。結局、キャロル家からの支援もあり、買い出し無しで食料が足りる見込みがたつと、それなりに満足行く分量に変わって行った。生活水は全て雨水。砂漠の粉末状の赤土が混ざっているためか茶色である。洗濯機で洗濯すると、白いシャツが薄茶に変わった。キャロル家には、娘さん一人、孫のキャメロン(6歳)、ドゥリュー(6歳)、ルーク(2歳)がいた。最寄りの街まで車で3時間もかかる場所に住む彼らは、衛星インターネットを使って授業を受けている。キャメロンとドゥリューが、オーストラリア式のフットボールを教えてくれて、いっしょにプレーした。既に亡くなった祖父は、タコーラの駅長だったそうだ。ここは、西はパース、北はアリススプリングへ向う線路の分岐点になっている。実際、長さが数kmに及ぶ貨物が一日に何度か通過し、2-3日に一度客車が通過して行った(乗降はできない)。

1995年11月21日未明、ウーメラ(WPA)テストレンジから打ち上げられた観測ロケットは、270秒後に高度272kmに達し、搭載機器(NASA Black Brant 36.126 UG)により紫外線領域で銀河系の観測が行われた。そして、打ち上げから811秒後、ペイロードとパラシュートがタコーラ村に落下した。落下の衝撃音を聞いたタコーラ駅長は、翌朝ペイロードとパラシュートを付近で発見し、NASAから表彰を受けた。地面との衝突で凹んだペイロードが入っていたノーズコーンが、庭のオブジェとして飾ってあった。奇麗な状態で回収されたパラシュートも見せて頂いた。ハヤブサよりも前に、宇宙からここタコーラに帰還していた物体があるとは驚いた。そして、この事件がWPAのコーディネーターとの交流のきっかけとなり、今回の我々の滞在先としても快く受け入れて頂けたのである。せっかくの機会なので、タコーラの全住民5名を集めて初等天文学の特別生授業を行った。我々がタコーラへ来た経緯も説明した。子供達からは質問が沢山出た。中でも小学校4年生のキャメロンは、目を輝かせながらとても熱心に聞いていた。「太陽系がどうやって生まれたなんてどうして分かるの?」というキャメロンの質問には驚いた。夜は家の前で、満天の星空にレーザーポインターを差しながら星星の説明をした。中国から伝わった織女-牽牛物語も教えた。南十字星付近の天の川には、どうしても目が奪われ、(ギリシャ神話も無いので)ただただ茫然自失するだけだ。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」では、北十字(白鳥座)から旅が始まり、天の川を下り南十字(南十字座)で終わる。世界一小さな町に暮らすオーストラリアの分岐駅タコーラが、7年間の旅路を終えたハヤブサの終着駅になろうとは、彼らにとっても忘れられない出来事になるだろう。

(つづく)

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片道約700kmの陸路を移動。何処までも続く路は、遠近感を無くし眠気を誘う。山羊、エミュ、カンガルーの突然の出没は緊張する。良い眠気覚まし?

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ハヤブサ機材倉庫に営巣していた「ハヤブサ」。写真は雌。小振りだが、羽を広げると巨大なハヤブサとなる。

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最初は質素だった自炊した夕食メニュー。小生は、ペペロンチーノとブランボラーク(チェコ風お好み焼き)を担当。

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洗濯機内の水も茶色だった!

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私と飯山氏で運用した観測機材群。分光および撮像カメラ3台を同架させてハヤブサを追尾。2人で合計9台のカメラを運用した。

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リハーサル観測風景。

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タコーラの住民に天文学初等レクチャー。

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タコーラに落ちてきたロケット・ノーズコーンは、ウーメラから打ち上げられたものだった。ノーズコーンとパラシュートは、NASA/豪州からもらったそうだ。

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ウーメラで星空案内をする大阪市立科学館・飯山氏と、本職の解説を楽しむJAXAの面々。ウーメラにて。

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タコーラ滞在先の庭先にて。晴れると想像を絶する天の川が広がる。ハヤブサの終着駅には最高の場所である。

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分岐駅「タコーラ」は無人駅。かつては駅長の仕事だったが、現在は衛星電波でポイントが切り替わるようになっていた。

2010/07/31

我々研究者の日常は、研究にだけ没頭している訳ではなく、学生の面倒(授業も含めて)、ビジターの面倒、様々な書類執筆(外部資金調達、観測時間獲得など)、会議・会議・会議、合間にメール処理と、なかなか集中して研究する時間がないものである。かつて文豪は、温泉宿などに籠り集中して筆を走らせた。温泉街は、温泉以外にも食や自然の楽しみもあり、気分転換にもなっただろう。実は、我々もこれを真似て「論文執筆合宿」なるものを時々開催する。昨秋は、台湾の清泉温泉という温泉街のユースホステルを貸し切って論文合宿を開催した。ここは、新竹市から(直線距離では)さほど遠くないので、小生が選んだのだが、実際にはかなりの山奥であった。それもそのはず、到着して知ったのだが、なんと「張學良」が幽閉されていた温泉だったのである。現代においてもそこは隔絶された世界であった。インターネットの無い3泊4日の滞在中は、自炊しながら、温泉と自然の景観を楽しみながら論文執筆に没頭できた。原住民の住む村であったため、我々の滞在が珍しかったのだろう、地元の子供達が集ったので、彼らを招き入れて持参したPCプロジェクターを使って「ロケットの打ち上げ(MV-5号機)」映像を見せてやった。子供達の驚きようは、今でもよく覚えている。

論文合宿

さて、5年に一度の自動車免許更新のため、8月9日の誕生日前後1ヶ月の間に手続きをする必要があり、日本へ一時帰国する計画を練っていたところ、国立天文台の渡部潤一さん(博士課程の時の親方=指導教官)から、論文執筆合宿の案内が届いた。開催場所が「会津大学」ということで、すぐに参加することを決めた。理由 (1) 会津にはまだ行った事がない、(2) 宇宙研や「はやぶさ」でいっしょだった共同研究者が沢山いる、(3) 温泉がある。ところが年度末(台湾では、7月は年度末)だっため、研究費がないので自費で行く事にしたのだが、渡部さんのご好意で、会津のご実家に宿泊することができ、大変助かった。7月25日、東京駅初の高速バス「白虎」に乗車。会津まで2500円ポッキリである。
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会津到着は、土用の丑の日の前日ということで、神戸大の時の同僚の平田成さんの案内で、鰻の老舗「えびや」で久々に蒲焼きを楽しんだ。ちなみに土用の丑の日は、鰻供養のため営業していないので絶好のタイミングであった。スタミナをつけ、いよいよ論文合宿開始である。ホストになってくださったのは、会津大学の浅田智朗先生・出村裕英先生率いる惑星科学の面々である。ネットワーク(寺薗淳也先生担当)、珈琲などが用意された教室を貸し切り、各々の宿題/論文執筆が開始された。開始に先立ち、各自の目標が掲げられた。この目標に日々の達成度を記していくのである。窓の外は、会津磐梯山の頂きが浮かんでいる。

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執筆、執筆、執筆、ひたすら執筆。。。のはずであったが、会津の先生方を交えてのミーティング、国立天文台-神戸大-台湾を繋いだビデオ会議、米国と繋いだSKYPE会議と幾つかの有意義なミーティングもこなした。インターネットは無いと不便だが、あるとやはり執筆効率は落ちる。特に最近は、ツイッターやmixi、Facebookなどなど、全くもってネット無しの生活は考えられない。さらに毎晩、会津の美味と美酒を楽しみ、東山温泉でまったりするなど、すっかり満喫してしまった5日間となった。それにしても、毎晩よく飲んだなぁ。。さて肝心の執筆の方は、(1)「地球の果てでハヤブサを迎える」を惑星地質ニュース巻頭記事として投稿、(2)「潮汐分裂小惑星の発見」をネイチャーに投稿した。記事と筆頭論文を仕上げる事ができたので、一応の目標は達成。特にNature論文は、春先から取り組んでいた国際協力の紆余曲折あった論文なので、ようやく肩の荷がおりた(あとは朗報を待つのみ)。

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最終日は別の〆切の文章作成が終わらず、結局、会津観光をせずに後ろ髪を引かれる思いで帰路に付いた。「集中講義」を頼まれているので、また近々会津を訪れる日があることを期待したい。

さて、今日(7月31日)は、宇宙科学研究所の一般公開に足を運ぶ。Junk Stageの皆さん方を案内する予定である。一般公開初日の昨日は、はやぶさカプセルに2時間待ちの長蛇の列ができたそうで混雑は必至。一日がかりの見学会になるだろう。

2009/06/18

既に猛暑の台湾、今日は34℃とうだる暑さである。さて、そんな台湾で熱いモノの代表と言えば「火鍋」と「温泉」である。世界で最も温泉密度の高い台湾全土には、100以上もの温源が沸々と湧き、その歴史も100年以上である。日本はもとより、チェコ、ハンガリー、ドイツ、(クロアチア)などの温泉街(やヌーディスト・ビーチ)を巡る程の温泉好きである小生にとって、台湾はまさに温泉天国。ほぼ毎週のように温泉地を巡っている。台北周辺では、北投、新北投、陽明山、烏来などの温泉場が有名で、何度か足を運んだ。台湾の温泉文化は、日本統治時代に日本人が温泉を整備して広めたものが多い。我々日本人にとっては、故郷の心地良さを感じる。しかし、こちらでは「裸=野蛮」という概念がある(あった)ため、水着着用の混浴温泉も多い。最近は、ようやく「裸の付き合い」の文化が定着してきて、台湾でも裸で入れる風呂が増えて来たようだ。さすがに、まだ裸の混浴には出会っていないが。

台灣温泉 台湾の温泉風景。水着着用の混浴風呂(北投温泉にの「広告看板」を撮影)。

さて、先週は、現在韓国で働くチェコ時代の友人(旅する物理屋さん)が遊びにきたので、台湾の東部へ1泊2日700kmの男二人旅に出た。

Taiwan East車で移動した行程(往復700km)

まずは、台湾のグランドキャニオン、「太魯閣(タロコ)國家公園」 へ車で向った。太魯閣(タロコ)とは原住民、タイヤル族の首長の名に由来する。入り口では、原住民族の阿美族の子供達に迎えられた。

 

アミ族台湾人口(2300万人)の約2%は原住民である。日本統治時代には高砂族と呼ばれていた。アミ族が18万人と最も多く、タイヤル族の8万人がこれに次ぐ。小生の友人の約10%は原住民で、先日は、彼らの住む山岳の村に滞在した。

台湾島は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの狭間で、年間5.5mmずつ上昇している、世界で最も隆起速度が大きな場所として知られている。南北約38㎞、東西約41㎞の巨大な國立公園は、2000m〜3000m級の山々が、まさに海から切り立った壁の様に連なって形成されており、見事な断層があらわに目の前に聳えたっていた。日本近海では、未だ4000メートルの海底に沈んでいる年代の断層が、ここでは地上遥か上まで龍のごとく出現している。地質屋が喜ぶのもうなづける。切り立った岩壁をえぐって作られた道路が続く。いつ落石があるか、ハラハラのドライブ。前を行く観光バスは、天井の岩壁に接するような状態で進む。
太魯閣1太魯閣3太魯閣4九州ほどの台湾島で、こんな壮大な景観を楽しめるとは意外であった。長野県の乗鞍を思わせるが、その急峻さと自然美は、台湾の方が数段上である。

地球の息吹を思いっきり満喫した我々が向った温泉は、太魯閣の奥にある文山温泉。

1914年、台湾総督府が原住民族のタロコ族を討伐するタロコ討伐の最中、日本兵部隊の深水少佐が発見したことから、深水温泉と呼ばれた。大北投温泉と改称された後に、文山温泉という名称に至った。
大沙(タウサイ)渓のほとりから湧き出すという立地条件のため、大雨の後は川が運んできた土砂が堆積することから、太魯閣国家公園管理所が2001年に改修を行った。安全設備を充実させ、観光客の利便をはかり、天祥晶華酒店が維持補修を行っていた。

まずは、入り口を探すのに一苦労。ガイドブックの写真と照らし合わせながら、トンネンルの横にそれらしき入り口を発見。でも誰もいない。おかしいなぁ。すると、立て看板には、温泉への路が寸断されている為、立ち入り禁止と書いてあった。

文山温泉

しかし、小生は、やる気満々で温泉道具をリュックにつめて向った。立ち入り禁止の立て看板を通り越すと、さっそく土砂崩れで路が塞がっていた。

旅する物理屋さん; 「なんかここに線香がありますよ」
「なんかあったんじゃないすか!! ここ!!」「絶対なんかあったんすよ!!」
と躊躇してなかなかやって来ない。

旅する天文学者; 「そういうのは、気にしない方がいいっすよ」
と土砂崩れ現場を颯爽と乗り越えて行く。

旅する物理屋さんも渋々あとをついてきた。渓谷へ降りて行くと、そこには立派な脱衣場が現れた。しかし、そこからは、ものすご〜く厭な感じが背筋を凍らせた。脱衣場には近づかないようにして通り過ぎると、岩のトンネルがあり、トンネルの中には鉄格子がはめられてあり、そこか先にある吊り橋へは進めなかった。彼はトンネルには入って来なかった。渓谷を覗くと、川の脇に岩で仕切られた温泉場が見えたが、温泉は出ていない様子。さすがに、崖を降りて行くことはできないし、温泉も出ていないようなので、諦めて退散することにした。帰路も、ものすご〜く厭な気を背後に感じながら渓谷から上がってきた。

旅する物理屋さん; 「あべちゃん霊感があるけど、なんか感じなかった?」

旅する天文学者; 「ものすご〜く、イヤな感じがしたね。特にあの脱衣場」

旅する物理屋さん; 「やっぱそうだったんだ。絶対なんかあったんすよここ」「まだ足の震えが止まらないすよ。。。」

彼は、撮影した全ての写真をその場で消去していた。小生も何か写っていると厭なので、脱衣場とトンネルの写真だけは消しておいた。

その夜、ホテルのインターネットで調べると、

2005年4月3日16時半ころ、土砂崩れが発生して多くの観光客が巻き込まれ、2人が死亡5人が負傷した。それ以降、文山温泉は閉鎖され今日に至っている。

とのことだった。何かに引き寄せられるように、危ない場所に行っていた訳である。

通行止めになった生々しい落石現場も通過した。ここ(九曲洞遊歩道)では、つい2週間前に日本人らが怪我をする落石事故が発生していたことを後で知った。

九曲洞遊歩道 通行止めになっていた九曲洞遊歩道

九曲洞遊歩道ではは4月末から5月末にかけての一ヶ月間に落石 による事故が4件起きており、太魯閣國立公園管理處は五月の初めから、九曲洞遊歩道において無料でヘルメットを提供し、安全指導を強化すると同時に、地質 専門の張石角教授に有効な措置の構想を委託するなど積極的に解決策を模索しています。

太魯閣國立公園はその壮麗な高山と峡谷の景観を見ようと多くの 訪問客が訪れますが、常に自然落石のリスクが存在しており、特に地形の嶮しい太魯閣峡谷は落石の危険が高い地域です。みなさんも訪れる時は、以下のウェブの情報を調べてから気をつけて行動してください。http://www.taroko.gov.tw/

その晩は、花蓮市内のChinatrust Hotel(中信大飯店)のSPAで霊気を追い払った。
中信大飯店

翌日は、更に南下して別の温泉へ。

途中、東台湾最大の内陸湖である「鯉魚潭」に寄ったが、偶然にも、カヌーポロの国際大会を観戦。そんな競技があることを初めて知った。昨夜泊まったホテルに大量にいた日本人、体格の良いラテン系、アラブ系、東洋系が戦っていた。なかなかハードなスポーツであった。
鯉魚潭

更に進むと、突如
校長夢工廠(Principals’ Dream Factory) という看板に遭遇。これは、トンデモ系かもしれんが、何かあるなと感じた我々は、迷わず看板の案内にある花蓮県鳳林市に乗り込んだ。そこでは、予想外の貴重な時間を過ごすことができた。校長夢工場は、日本人が遥々来たということで、ちょっとした騒ぎになった。105名の校長先生を排出した台湾で最も校長密度が高いその村で、片言の日本語を話すボランティアガイドの案内で1時間以上を過ごすことになったのであった。。。。。。恐るべし校長パワー。
校長夢工場校長夢工場

校長に捕まってタイムロスをした我々は、北回帰線制覇は諦めて、本日のメインである紅葉温泉と瑞穂温泉へ向った。そこは、貸し切り状態で、最高の露天風呂を楽しむことができ、満足のいく一時を過ごした。

紅葉温泉(120元)。サラサラとした泉質。

紅葉温泉1紅葉温泉

風呂上がりでまったりしていたら、地元の人達が、原住民の酒「小米焼酒」を分けてくれた。「小米酒」は原住民の酒として有名だが、焼酒の方は初めて飲んだ。濁り酒の部類と感じた。

小米焼酒

風呂上がりで飲んだ、椰子ジュース。店のオヤジは車で来るなり、ベンチで昼寝開始。
おっ昼寝に来たのかと思っていたけど、小生らが椰子を満載した車に近づくと突如起き上がって、商売商売。

旅する物理屋さんは「高いからいらねぇ」と言ったけど、小生は3本100元で購入して二人で飲んだ。以前飲んだ椰子ジュースは、ぬるくて不味かったが、ここのは冷やしてあって悪くは無かった。それにしても、あのやる気無しオヤジが超ご機嫌になった、そのギャップが台湾人らしくて面白かった。やれやれだぜ〜(JoJo風に)・・・
瑞穂温泉(150元)。泉質は、神戸の有馬温泉の金泉と同じらしい。

瑞穂温泉瑞穂温泉2

個人的には、紅葉温泉の方が、雰囲気的にも寛げて良かった。一方、瑞穂温泉は、泉質は良いのだが、風呂全体の作りに風情が無い。もっとやり方を帰れば、有馬温泉のように有名になるのではないかと思った。

貸し切りでとても良かったのだが、経営が成り立っているのか疑問でもあったが、こういう田舎の温泉は静かで良いものである。

最近自宅から車で5分の場所に、天然温泉が掘られて温泉・プール・ジム&宿泊施設が誕生した。台湾のアパート住宅では、通常バスタブはなく、シャワーが一般的であるため、湯船につかれる施設が自宅近くに出来たのは幸運である。さっそく会員になって、仕事帰りに温泉でリラックスしている。

02:38 | 台湾, | No Comments
2009/05/19

2006年8月の冥王星降格事件以来、約3年振りにチェコに舞い戻ってきた。今回の滞在は、5月9日から9日間。隕石火球国際会議とプシュブラム隕石50周年記念、そしてチェコのズデネェック・セプレハ(Zdeněk Ceplecha)教授80歳記念を兼ねた会議(Bolides and Meteorite Falls)である。参加者は約60名。国際会議としては最も小規模な部類の学会だが、チェコ、スロバキア、ロシア、カナダ、ポーランド、タジキスタン、イタリア、バチカン、スイス、フランス、スペイン、イギリス、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、アメリカ、チリ、日本、そして台湾から、その道の精鋭達が名を連ねた。

Praha-1ティホブラーエが天体観測していたクレメンティヌ天文塔から望むプラハの町並み。日本人は、小生とアマチュアのNさんのみの参加。先に帰路につくNさんを天文塔へ案内した。

Praha-2 旧市街広場の天文時計。

Praha-3 プラハのプラネタリウム。珍しいチェコ語版の星座早見版を複数枚購入。マニアの先生に献上する予定。
František Linkに師事したCeplechaは、1951年夏によりチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)の2カ所で(f=180mm/F4.5レンズを使った30台のカメラで観測を開始。8年間、2500時間のトータル観測の後、1959年4月7日、歴史に残る火球が撮影された。同年4月20日、Luhy村 で4.48kgの隕石が発見された。6月9日 (800g)、8月15(420g), 24(105g)日にも引き続き発見が続きプシィブラム(Přibram)隕石と命名された。これが、初めて軌道が求まった隕石である。一般的に隕石は小惑星を起源にすると考えられており、流星観測ネットワークから、これまでに約10個の隕石の軌道が求まっているが、軌道の決定精度が悪いこともあり、同じ軌道に当てはまる小惑星は見つかっていない。隕石の故郷を同定する決定的な証拠は、まだ存在しないのである。

Ondrejov-1 Ondrejov天文台の初代ドーム。

Ondrejov-2 Ondrejov天文台の60cm小惑星ライトカーブ観測望遠鏡。

Ondrejov-3 Ondrejov天文台の流星ロボットカメラ。ロボット(robot=robota)はチェコ語。

Ondrejov-4 Ondrejov天文台にある旧ドイツ軍のウルツブルクレーダー。太陽観測に使われていた。

カタリナ・スカイサーベイは、アリゾナ大学・月惑星研究所行っている全天サーベイで、レモン山にある口径1.5mの望遠鏡を用いて、主に地球軌道接近型小天体(NEO)の捜索を行っている。2008年10月6日6時39分(世界時; 以下全て世界時)から7時23分の間に撮影された4枚の画像中を、高速で移動する18等級の小惑星が発見された。観測の1時間後には、ハーバード・スミソニアン宇宙物理学センターのマイナー・プラネット・センター(MPC)を通して、”地球に異常接近する”ことが確認され、8時7分に電子メールやウェブを通して小惑星「2008 TC3」の情報が世界に発信された。

観測データが更に加わり、地球大気突入時刻は10月7日2時46分、場所はアフリカのスーダン北部と分かった。同日22時22分には、カナリア諸島の口径4.2mのウィリアム・ハーシェル望遠鏡を用いて、組成を調べる分光観測も行われた。衝突のわずか20時間に発見されたが、世界中の26箇所の観測所で計570回の観測が行われ、軌道が改善された。小惑星の明るさと、後に回収された隕石の反射率から、その直径は4mと推定された。また、49秒と97秒の2つの周期で、1.02等級の振幅で光度変化しており(位相角17度を補正した振幅は0.76等級)、いびつな形状をした天体であったことが推察された。これまでの解析から長半径7mのUFO形状、体積は28m^2、平均密度は3.1g/ccと推定されている。補正した自転周期からは数千万年のダンピング・タイムが推定された。小惑星は太陽光の反射で光っており、刻々と地球に近づく微小な小惑星は、13等級まで増光したが、地球の影に入った10月7日1時49分以降、小惑星「2008 TC3」の姿を追いかけることは、もはや誰にも出来なかった。地球衝突まで1時間をきっていた。

Ceplecha-Jenniskens 歴史に残る隕石を発見したZdenek CeplechaとPeter Jenniskensと、2008 TC3の破片。

TC3 小惑星2008 TC3 = Almahata Sitta隕石

約1時間の”ダークフライト”の後、「2008 TC3」は、秒速12.4kmの速度で地球大気に突入し、その痕跡を様々な形で残した。2時45分40秒、1400km離れた場所を飛行中のKLMのパイロットが地平線の向こうが、短時間に3〜4回フラッシュするのを目撃。南エジプトの防犯ビデオカメラに火球の爆発で辺りが昼間のように照らし出される様子が記録された。落下地点付近の鉄道の駅の管理人は、眩い光で目を覚まし、エジプト国境付近からは、朝の祈りからの帰路に着く人々が火球を目撃。また、米国のスパイ衛星は、高度65kmからの熱輻射を感知し、欧州の気象衛星も高度37km付近からの発光と、赤外線放射を捉えた。気象衛星の赤外線カラースペクトルからは、10μmのアモルファスのSi-Oバンドが隕石後のダスト雲中から捉えられ、クリスタルSi-Oに変化する様子も分かった。遥か彼方のケニアに設置された核爆発探知用の微小気圧計でも、広島型原爆の約1/10の爆発として探知された。「2008 TC3」の大火球が残したロケット雲のようなダスト雲が、携帯電話のカメラで撮影された。kmと秒の精度で落下地点と時刻が予報され、時と場所を同じくして、これだけ多くの”地球大気に衝突した証拠”が僻地から集められたのである。

2ヶ月後の12月6日、宇宙生物学研究所(SETI)のピーター・ジェニスキンズが主導し、現地の天文学者と大学生45名の協力のもと、隕石落下予想区域のスーダン・ヌビアン砂漠の大捜索が行われ、捜索開始の2時間後に最初の隕石が発見された。2009年3月まで継続された捜索で、最終的に280個、1.5gから283gまで総重量約4kgの隕石群が、差し渡し29kmの範囲で発見されたのである。これらの隕石は、「アルマハータ・シッター(Almahata Sitta)」隕石と名付けられたが、まだ多くの隕石が残っている可能性がある。これまでの分析からは、ユレイライトの特殊なタイプと分類された。ユレイライトは、始原的な石質隕石(コンドライト)が、溶融プロセスを経て生成され分化した隕石であるエコンドライトの一種で、カンラン石と輝石の間を炭素質物質が埋めた組織を持ち、ダイヤモンドも含んでいる。回収された炭素に富む隕石は、反射率が4.6%と”とても黒く”、これまで謎とされてきたFクラスに分類される小惑星と類似していることが突き止められた(現段階では、反射率は0.5%〜0.19%と、破片によって大きくばらついていて鋭意測定中)。また、隕石の平均密度は、2.1〜2.5 g/cc で、典型的なユレイライトの粒子密度を仮定すると、空隙率(体積に対する内部の空隙の割合)は 25〜37% と非常に大きく、もろいことが分かった。このような非常にもろい隕石は、上空で粉々になり燃え尽きてしまうため、今回のように回収されたことはなかった。隕石のさらなる分析結果が楽しみである。

地球に衝突するわずか20時間前に発見された「2008 TC3」は、地球への衝突が事前に探知された初めての小惑星となった。更に「2008 TC3」は、これまで軌道が決定された最も精度の良い隕石の、約10000倍も精度の良い軌道が与えられた隕石として回収され、小惑星の姿で地球から目撃された初めての隕石となったのである。現在、地球軌道接近型小天体(NEO)は、約6千個が見つかっており、そのうち約1千個は、地球衝突危険性天体(PHO)である。現在、我々が取り組んでいる今夏始動のPan-STARRS(パンスターズ)全天サーベイにより、新たに数千個のNEOが発見され、この隕石がやってきた小惑星や分裂した更なる破片天体が見つかる可能性は十分にある。

さて、今回は、学会のエクスカーションとして、プラハからバスで1時間弱のオンドジェヨフ天文台も訪れた。ここは、小生が2003-2005年に住んでいた人口1000人の村にある、チェコ最大の天文台である。チェコ語も全く分からず、よくもこんな田舎に飛び込んで来たなぁと思うとともに、あの頃の素晴らしい日々が懐かしく感じられた。今年から台湾-チェコの交流助成金が設立されたこともあり、再びチェコ人らとの交流が復活する具体的な相談なども行えた。プラハでは、以前からの知り合いであるチェコで戦う日本人侍らとも過ごすことができ、毎日チェコの美味いビールを沢山飲んで、楽しい一時を過ごす事ができた。プラハの春国際音楽祭ということで、スメタナ・ホールでフランス・シャンゼリゼ交響楽団のオーケストラを堪能した。古色蒼然としたプラハを舞台に、研究だけでなく、国籍問わず、多くの友人らとの再会を果たした。台湾に戻ってからも心機一転して研究に取り組みたい。

Smetana-hole プラハの春の音楽祭。スメタナ・ホールにて。

Praha-4 黄昏れる小生。

Praha-5プラハ城,カレル橋とブルタヴァ川

【プラハからの帰路(プラハ-ヘルシンキ-香港-台北)の機内にて】

2008/11/17

お盆過ぎにハワイに来たので、ちょうど3ヶ月が過ぎた。その間、台湾とニューヨークをそれぞれ1往復したが、あっという間にハワイを去る日がやってきた感じである。前回は、今年の5月末から1ヶ月間、ハワイ大学の更に高台に位置するマノアに滞在した。今回は、憧れの地「ワイキキ」のビーチに近いホテル21階のコンドミニアムを借りて滞在。ハワイは世界で一番家賃が高いそうだが、特に半年以内の短期滞在者には、州税(4.712%)の他に7.25%の税金が課せられるので、合計12%の家賃に対する税金を支払う義務がある。ちなみに僕の場合、毎月$1800(約18万円)の家賃を3ヶ月間支払った。滞在費を浮かすため、ワイキキからハワイ大学天文研究所への往復12kmの道のりを、$100で購入した自転車で汗だくになって通い続けた(自転車は、ハワイを去る朝に$50で売却)。最初は30分近く掛かっていた標高差100mの往路も、18分にまで短縮。スコールに打たれることも時々あったが、マノアの山々を眺めながらオフィスへ向うのは気持ち良い。

とにかく、ワイキキやアラモアナ・ショッピング・センター界隈のマジョリティーは、日本人である。ショッピングや観光、シュノーケリングやダイビングなどのビーチ・アクティビティーやゴルフなどで存分に楽しめるハワイは、短期旅行者にとっては「常夏のパラダイス」というのも頷ける。僕も最初の2ヶ月くらいは、毎週末オアフ島の何処かしらのビーチへ繰り出していたが、そのうちに飽きてきてしまい、最後の1ヶ月の週末は「ウクレレ」に没頭していた。ハワイ産のコナの木で作られたセニーザ(Seniza)のスタンダード・ウクレレを購入し、10回ほど無料レッスンにも通い、毎日練習を重ねて、ウクレレ・ソロを人前で演奏できるまでに上達した。更に精進して、講演で弾ける「ウクレレ・天文学者」を目指してみたい。

毎日、常夏の青空が続いていたハワイだが、湿度が低く常に心地よい風があるので、一度も冷房は使わなかった。ところが、9月下旬ころから徐々に気温は下がり、湿度は上がり、天気も曇りがちになって、降雨の回数も増えた。ハワイ島のキラウエア火山からの火山灰で空が霞む、foggy(霧)ならぬvoggy(火山性霧; volcanic foggy)の日は、山々が青く霞んでた。紅葉のような劇的な季節変化こそないが、僅かな季節の移り変わりを肌で感じた。滞在中、本場のハロウィーン(Halloween)も初めて体験することができた。全く準備をしていなかったので、寝巻き代わりにしている龍の絵柄の作務衣を着て、ハワイで入手した日本刀(Made in China)を腰に据えた即席の侍となり、ワイキキのハロウィーン・パレードに参加した。小中高と剣道をやっていたのだが、剣を握ったのは実に久々である。侍仮装は、観光客らに何度も声を掛けられ写真を撮られたので、なかなか好評であったと思う。

さて、前回滞在の最後の週末に、オアフ島西部のナナクリ・ビーチで、ブギーボードごと大波に飲まれた。海底に叩き付けられて腹部を強打し、ほとんど気を失いそうになった。海底で波に揉まれている間、意識を失わないように、必死に心の中で数を数えた。カウント20くらいで、次の波に飲まれる前に幸運にも近くにいた地元の巨漢に救助された。肋骨2本にヒビ、更に膝も痛めた。耳の奥には、1ヶ月間も大量の砂粒が詰まっていた。肋骨が痛くて帰りの飛行機にも乗れずに、ハワイに1週間延長滞在してから台湾へ戻ったのだった。しかし、肋骨よりも重傷だったのは、膝の怪我だった。台湾の接骨院で、中国式吸玉治療法を10回以上も施された。そして、5ヶ月経って、ようやく走れるまでに膝が回復した。ナナクリ(Nanakuli)とは、ハワイ語で「膝を見ろ」という意味を後で知った。

そんな前回の大怪我もあり、トラウマになりかけていた「波」だが、職場の同僚サーファーらの助け(誘い)もあり、サーフィンに初挑戦した。サーフィンの神様、ワイキキのデューク・ハナモク像の前で彼らと待ち合わせ。サーフボードを片手に颯爽とワイキキの浜辺を歩いているだけで、既に一端のサーファー気分だった。常に理論から入る僕の場合、インターネットでのサーフィンに関する知識の事前学習に余念はない。「ネットサーフィン」の甲斐もあり、初サーフィンで見事に波乗りに成功したのである。

ところで、天文学者にとって月は色々な意味で重要だ。月があると、その周辺(拳骨4個分ほど)の夜空は明るくなり、他の天体の観測に適さないし、逆に僕などは月そのものを観測対象にすることもある。一方、サーファーにとっても月は大切。月や太陽による潮汐力によって地球が変形し、特に流体である海は甚だしくその潮位を変化させ、波のコンディションは、周期29.5日の月齢によって大きく変わるからである。潮汐力は、天体の質量に比例し、天体からの距離の3乗に反比例する。月の重さは太陽の約3千万分の一だが、地球からの距離は太陽の400分の一なので、[3千万÷(400x400x400)=0.5] 太陽の潮汐力(太陽潮)は、月の潮汐力(太陰潮)のおよそ半分である。月と地球と太陽が直線方向に並ぶ新月と満月の時に両天体の潮汐力が重なるため、干満が一番大きい大潮となるのである。

先週末は、ハワイを去る前の最後の満月。夜11時、僕はワイキキ・ビーチの沖合300メートルの海上を、サーフボードに乗って漂っていた。満月直前の月が頭上高くに煌煌と照り、水面はキラキラと月の雫を不規則に反射する。ダイアモンド・ヘッドのシルエットが影絵のように聳え立ち、海底の珊瑚礁はスポットライトを浴びたミュージカルの舞台のようにエメラルド色に浮かび上がる。白波が時折通過する神秘的なアクアリウムの中に自分の体がとけ込んでいた。そんな神秘を作り出す38万キロメートル彼方の月では、今まさに探査機による科学合戦が行われている。日本の『かぐや(http://www.kaguya.jaxa.jp/)』、中国の『嫦娥(http://moon.jaxa.jp/ja/history/Chang_e/index.html)』、そして先週月に到着したばかりのインドの『チャンドラヤーン(http://moon.jaxa.jp/ja/topics/chandrayaan/)』らが、月の上空100〜200kmを飛来中だ。45億年前に形成された月の謎が、ようやく今、解き明かされつつある。そんなことを考えながら波に乗り、ハワイの月光浴を楽しんだ。

さて、ハワイを発って7時間近く経ち、日本列島が近づいて来た。日本での束の間の急速の後、明後日には台湾へ戻る。次回のハワイ滞在は、3-4月の2ヶ月間の予定。僕の旅は、まだまだ続く。。

追伸、この記事を機内で執筆し、そのままパソコン(Mac Book Pro)を飛行機の中に置き忘れてきてしまった。幸い、JALの迅速かつ親切な対応により、パソコンが無傷で戻ってきたのでここに記事をアップする。

Yokohama beachYokohama Beach Kakaako parkKakaako Park

Hanauma bayHanauma Bay Chinamans hatChinamans’ Hat

Diamond HeadDiamond Headと4ヶ月間使ったチャリ。

surf-1 surf-2波を克服し、ワイキキで初乗り。

RainbowRainbow-2Rainbow

TurtleTurtle at Northsore DuskDusk

UkuleleUkulele演奏曲は「Over the Rainbow」

Haleakara-1Haleakara-2Haleakala Observatory in Maui

2008/10/26

僕は海外経験年月が浅い。10年前の1998年、博士課程1年目の秋に初めて海外に出た。その後、NASAのミッションで世界各国の米空軍基地に離着陸しながら夜の観測を遂行(パスポートには空軍基地のスタンプばかり)、チェコ・台湾・ハワイに住むなど、一気に世界が広がった。しかし僕の場合、”Travel = Trouble” という方程式が良く成り立つ。9.11テロ後に、エドワーズ空軍基地のゲートを、自分の運転する車で(間違って)突破、更に逃走して、モハベ砂漠でアメリカ軍警察に捕まるなどのエピソードがあるが、今回は、初めての海外旅行記を紹介したい。

回顧録(1998年10月26日〜11月11日)の日記より抜粋。

はじめての海外、はじめての国境突破

11月2〜5日にドイツの Garching のESO(ヨーロッパ南天天文台)で行なわれた太陽系外縁部天体(カイパーベルト、彗星)の国際学会に出席した。初の海外という事もあり、まずは海外に体を慣らせようと、マレーシアとシンガポールで1週間を過ごした。成田空港で初の海外に備えるべく、3時間も前に空港に到着しながら、防犯対策にあくせくしてたら飛行機が出発してしまい、タラップといっしょに車で1km程飛行機を追いかけ搭乗させてもらった。一眠りして到着陸した場所が、マレーシアの首都クアラルンプールと勘違いして颯爽と一番乗りで下車。出国ゲートでもめた挙げ句、この旅で度々お世話になる国境(空港)警察の部屋に飛び込み、「クアラルンプール出口はどこですか?」と尋ね、皆に爆笑されて、はじめてそこが貨物運搬で立ち寄った島(別の国?)であることを知り唖然とした。飛行機は給油中だったので、幸い再度搭乗させてもらえた。既に2つのトラブルをクリアしてようやくマレーシアの首都の玄関口、クアラルンプール国際空港に到着。クアラルンプール市内は国際空港から70kmも離れているので、夜遅くに到着する場合は、空港ホテルに泊まる事をお奨めする。小生は何も考えずに21時頃に空港をうろついており、声を掛けてきたマレー人にのこのこ着いて行き、両替をしてから彼の違法ポンコツ車に乗って(エンジンは三菱だと威張っていたが)、車中で値段交渉し市内まで送ってもらった。運転は荒かったが良い人だったので救われた。空港から市内までのタクシー料金の相場は、70RM[リンギット](2000円程度)、小生の場合は夜遅くであったので80RMであった。空港乗り入れタクシー会社は限定されているので、個人タクシー(シロタク)は違法タクシーなので注意。

マレーシアの首都クアラルンプールは人種の坩堝、訳の分からぬ言葉を叫びながら近づいてくる人々、ヤパーナ? チャイニーズ? と呼びかけて来る人、ふと気が付くとすられていたりと、とてもシュールな町であった。Pudu Rayaバスターミナルで、「俺もシンガポールへ連れていってくれ」 と金をせがむ “手ぶら” のマレー人と30分以上会話を楽しんだ後(その方が、他の輩の相手をしなくていいので安全)、会話のお礼として10RM(リンギット)=300 円 をプレゼントし、握手と軽い包容と「Have a nice journey」の言葉を背にシンガポールへ向かった。

搭乗した中華系バスは、華僑の中国人バスで、たった一人の日本人であった(失敗したと思った)。クアラルンプールからシンガポールへの7時間の陸路の途中、国境審査を受けてバスターミナルへ戻ると、小生の乗ってきたリムジンバスが小生の荷物を全て乗っけたまま去ってしまっていた。中国人らにまんまと騙され手ぶらになって気が動転していた小生は、チケットの裏に書かれたバス会社の連絡先に電話しようと、越えてきたゲートの向うにある電話を使うために逆走。思いっきり “国境” を走り抜けた。挙げ句挙の果てに “国境突破” と勘違いされ「ワラワラ」と訳の分からぬマレー語と自動小銃で警官らに脅されながら国境警察へ連行された。事情を説明して釈放。マレーシアの公衆電話は壊れているものが多く、3台目でようやくバス会社に電話が通ずるも、英語が全く通じない。バス捜索のため、結局、国境を3往復し、顔パスで国境を通過できるまでになった。ジョホールバルというマレーシア側の町で高速バスのチケットを入手し、ようやくローカルバスでシンガポール駅に辿り着いたのは夜9時過ぎ。既に到着予定時刻を2時間もオーバーしていて諦めムード。高速バス乗り場を探すと、なんとそこで小生の荷物と共に待っていた中国人添乗員と奇跡的に再開!

中国人:「君なら来ると思ってたあるよ」(みたいなニュアンスの中国語)
日本人:「じゃあ置いていくなよ」(日本語)

という会話の後、固い握手で結ばれた。お礼に修論テーマであり持参していたヘール・ボップ彗星の写真をプレゼントし、ついでに彗星の尾(ダストテイルとプラズマテイル)の説明もしておいた。いやぁ、それにしても凄い一日だった。

造られたマーライオン

シンガポールでは日大時代の友人宅に3日間厄介になった。シンガポールは “造られた街” というのが印象である。ごみも無いし、治安も良い。取り敢えず名所は大体全て回ったが、シンガポールらしさというのはあまり見えてこなかった。といいつつ、SENTOSA島には2回も行き、巨大なマーライオンにも2度登ってきた。マーライオン・ライターは笑える。ちなみに本物のマーライオンは、河口にあるので注意! 夜、チャイナボートに乗って河口まで行ってもらうのがお奨めコースである。

再びクアラルンプールへ

そして、再度クアラルンプールへ挑戦。今度は陸路を長距離列車で移動。マレーシア-シンガポールの国境通過の常連となっていた小生は、国境審査で戸惑う臨席の乗客に、国境書類の手ほどきをした。2度目のクアラルンプールでは、中華街はこりごりなので、インド街に宿泊(インド人は嘘つかない)。市内をあちこち回った。不浄の左手も経験。プラネタリウムも見学した。女子トイレに間違えて侵入し、女学生らに悲鳴を上げられ、引率の先生に叱られた。平日の昼間でも学生達で超満員。番組終了後には割れんばかりの拍手がありびっくりした。ちなみにプログラムは「KOMET」(マレーシアでは、CではなくKを使うのである)。またこの日は、自動小銃なんかで武装した何百もの警官によって市内が物々しい雰囲気に包まれていた。タバコ屋のおばちゃんに聞くと「いつもの事だよ」と笑っていた。なんでも毎週土曜日はデモの日だそうだ。でもデモがあるって事は国民の不満が募っているので、やっぱり危ない。マレーの物価は、日本の 6/1- 1/3 程度で、日本製のカメラや電気製品も激安である(日本の企業が多数進出している為)。クアラルンプール ←400km:7時間→ シンガポールの長距離バスは500円、ゲーセンも1ゲーム5円程度(但し、リッジレーサーは20倍の値段で10円もする)。日本で買ったら1.5万円はするようなブーツ型のブラウンの革靴を買って、靴ずれのする古い靴と交換した。共通語としてブロークン英語が通じるのでいろいろな人達と接する事もできた。

パスポート偽造容疑

その後、クアラルンプール国際空港で日本から来た国立天文台の仲間3人と合流しミュンヘンへ向かったが、ドイツ入国の際には、小生だけパスポート偽造の容疑でIPA(銭形警部が所属するあのインターポール)に連行され1時間以上も尋問を受けた。国境でのトラブルには既に十分に慣れていたので、尋問の合間には、人権侵害 “question of human right” などの単語を調べ(当時の小生の英語力はボキャ貧)、反撃する余裕さえあった。結局、小生の身元は、VISAカードと大使館によって証明され “釈放” された。拘束された理由を聞いた所、顔写真の上下にある桜印を拡大するとわずかにフォントの荒いようなギザギザがあるという事で、拡大写真も見せてもらった。帰国後にパスポートを拡大して見てみたが、そんなギザギザはないし、どうやら人権侵害で訴えられるのを恐れた言い訳だったようだ。

歴史漂うドイツ、オーストリア

ミュンヘンでは、ESO と MAX-PLANCK のある Garching という静かなで美しい田舎町に滞在し、4日間、ESO(ヨーロッパ南天天文台)まで通った。毎日、旨いビールとソーセージとジャガイモばかり食べていた。太る訳である。また、ミュンヘン市内で必見なのは、IMAXというプラネタリウムとドイツ博物館である。特にドイツ博物館は凄い!屋上で太陽観測をていた職員のおじさんと仲良くなり立ち入り禁止の望遠鏡なども見せてもらった。ここでもお礼にヘール・ボップ彗星の写真もプレゼントした(おじさんは、小生が百武彗星の百武さんだと勘違いしていた)。さて、学会も無事終了し、今度はEC(Euro City)列車を使いオーストリアのウィーンへも足を運んだ。ウィーンでは、13〜16世紀の歴史的建造物の迫力に圧倒されっぱなしで、世界史をしっかり勉強しておけば良かったと痛感した。また、夜中にウィーン南駅前の露店で○○本も同僚への土産として購入した。再びドイツに戻り、MAX-PLANCKで研究をしているハイデルベルクの先輩宅を訪れた。ハイデルベルク城へも登った。また、本家本元の “哲学の道” もここハイデルベルクにあった。

最後の ”かつあげ”

そんなこんなで半月があっという間に過ぎ、帰国する為にフランクフルト空港へ向かったのだが、再びトラブルに巻き込まれた。地下鉄で柄の悪い10代後半かと思われる女グループの “かつあげ” に合い、不覚にも20DM[ドイツ・マルク](1600円相当)を持っていかれてしまった。その手口は巧妙で、まず一人の女が金を札で両替してくれと近寄ってきて、札を出した瞬間、別の女が強引に札をひったくるというものである。頭にきた小生は、その女を追いかけて捕まえ、ホールド・アップさせ身体検査をしたのだが、既に彼女は小生の金を持っていない。代わりにその女が持っていた小銭を全て奪うと、今度は彼女らが金を返せと騒ぐ始末。仲間が複数おり、何だかヤバイ雰囲気になり(ナイフを片手に持っていた)、英語で暫くもめたのだが、時間も無かったのとこれ以上の危険を避け、悪態(Get out of here!!!)をついてからフランクフルト空港へ向かった(駅警察に被害報告だけはした)。結局、小銭に10DMほど回収できたが(10DMは、彼女のボディーチェックの触り賃)、今思えば、かなり危険な行為をしていたと思う。海外では、善人になる事は極力止めた方が良いという教訓であった。

コクピット侵入

帰りのマレーシア航空ボーイング777では、飛行中にコクピットに入れてもらい、20分ほど機長と歓談できた。なんと、副機長が席を外し、操縦席に座りながらの歓談。航空の話しから(小生は航空宇宙出身である) 、1999-2002年に大出現する”しし座流星群” の話しまで盛り上がった。機内から見たカノープスも非常に印象的であった。マレーシア航空は、サービス&スチュアーデスもとても良かったので、機内でマレーシア航空のマイレージのメンバーシップ入会手続きも行なっておいた。

最後に

初の海外はとても新鮮でまた行きたくなる。マレーシアは、とてもいい国である!

成田→クアラルンプール(マレーシア)→シンガポール→クアラルンプール→ミュンヘン(ドイツ)→ウィーン(オーストリア)→ハイデルベルク(ドイツ)→フランクフルト→ 延べ16日の放浪であった。

07:25 | | 3 Comments
2008/10/22

いま僕は、ニューヨーク州イサカからマンハッタンへ向うリムジンバスの中でこの文章を記している。コーネル大学のキャンパス間を約5時間で繋ぐこのバスには、キッチン、トイレ、電源、飲食物が完備され、全て自由。更になんと、ワイアレス・インターネットが使え、車窓を楽しみながら高速ネットサーフィンが可能。さすが、インターネット先進国である。

さて、アメリカ天文学会・惑星科学会(DPS; Division for Planetary Sciences)が、ニューヨーク州イサカのコーネル大学で5日間に渡って開催された。アメリカ天文学会といっても、アメリカ国内だけでなく、世界中から学生を含め天文学者らが集う。その数、約700名。僕ら天文学者の仕事は、未知の天体物理現象を解明するために研究目的を定め、その目的を達成する手段として天体観測や探査を行ったり、或はコンピュータで計算したり、室内実験を行ったりする。このようにして集めたデータを整約し、理論的解釈を与え、それらを論文や学会発表を通して世界へ発表する。物理という共通認識を、英語という共通言語でコミュニケーションを取りながら認識を深め、知見を広げていくのである。

Cornell University Cornell University

宇宙は広いので、銀河から太陽系、宇宙工学まで多枝に渡る。天文・宇宙に関係する国際学会は、それこそ毎週、世界中の何処かで必ず行われている。参加する学会が、自分の分野や興味と合致することも大切だが、風光明媚な観光地開催の場合、参加者も必然的に多くなるし、自分が行ってみたいと思っていた場所で開催される学会には心が揺れる。とはいえ、自分が所有する研究費やスケジュール、持ちネタの兼ね合いもあるので、効率良く計画的に学会に参加・発表していく必要がある。フロリダで開催された昨年に比べ、今年は辺鄙な田舎での開催ということもあり、参加者は若干減ったそうだが、コーネル大学と言えば、アメリカ惑星科学を主導した天文学者でSF作家(コスモス,コンタクトなど)の故カールセーガン(1934-1996)も教鞭を執っており、惑星研究所があることでも有名だ。実は僕は、アメリカ天文学会・惑星科学会は初参加であり、ニューヨーク・シティーにも滞在したことがないので、学会後のニューヨーク観光もしっかりと予定に入れて学会参加のスケジュールを決めた。今回は、現在住んでいるハワイからニューヨーク往復の格安チケットを入手して臨んだ。最近は、研究費を使って学会以外のアクティビティー(観光など)を行うと、大学の事務に睨まれるので、何らかの理由が必要になる世知辛い世の中になった。

学会でもう一つ重要なのがホテルである。外国の場合、シングルで宿泊するとツインと同じ値段なので相当割高になってしまう。そこで、学会に参加する友人を予め見つけて同室を予約するのが常である。また、大都市開催の場合は、ユースホステルを使うこともしばしばあるが、夜更かしする輩が多いユースでは、なかなか学会の疲れが取れないというデメリットもあったりする。僕が学生の頃、旅行気分でどうにかなるだろうと、宿も取らずにアメリカの学会にのこのこやってきて、結局ホテルもユースも見つからず、国立天文台の当時の指導教官(親方)渡部潤一准教授のホテルの部屋に追加ベッドを持ち込んで迷惑を掛けてしまったことがある。そういえば、あの学会も、ここイサカだった。初めて渡米した9年前のことである。あの時は、親方の運転手としても働き、延々と続く一直線の道をしばらく逆走して走り、対向車が向ってきてからここが日本でないことに気づいたりしたものだ。今回は、この秋から自分の学生となった台湾國立中央大學の大学院生といっしょに宿泊。9年前と真逆のシチュエーションである。更に予算を節約するためレンタカーも借りず、毎朝、コーネル大学への山道を徒歩30分で登った。学会がチャーターしたホテル巡回バスもあったのだが、全てのホテルを回る学会バスは、1時間近くも掛かるというので、結局一度も使わなかった。御陰で、毎日変化していく紅葉や銀杏の燃えるような色合いを楽しみながら、清々しい朝の空気を満喫できた。

Cornell University 毎朝通った町からコーネル大学へ続く川沿いの道。標高差200m弱を登る。大学キャンパスの中に渓谷がある。

肝心の学会は、予想以上に質の高い充実したプログラムの目白押しで、いつもなら学会の一部をスキップして観光へ繰り出すのだが、今回はほぼ全ての講演に耳を傾けた。毎日、朝9時から夕方まで、多くのエキサイティングな講演を聞き、彼らと直接議論を交わし、自分の研究への糸口を見つける。ワクワクと興奮の毎日。これが仕事なのだから最高である。アメリカやドイツの大御所先生方に、僕が今春から台湾へ異動し、ハワイ大のプロジェクト(Pan-STARRS)に参加していることを報告。皆、僕の栄転を祝福し、皆が注目するプロジェクトでの活躍を期待してくれた。欧州に住んでいた頃から付き合いのある、チェコ、イタリア、フランスの懐かしい面々とも再会できた。自分の発表も無難にまとめた。今回はポスター発表だったので、2分間の口頭発表はあったものの、かなり気が楽であった。印刷したポスターが飛行機で輸送中に紛失し、イサカの街で$100支払って再度印刷し直すハプニングはあったけど。研究の話は、また別の機会にでも紹介したい。今回の学会は、日本人の参加が極端に少なく、ポスドク(博士号取得者)以上の研究者は6名。日本人は、どうも群れる習性があり、国際学会で日本人が大挙して群れている光景はおぞましい。まあ、海外生活が長くなると、国際学会でしか日本人に会えなくなるので、おぞましい集団に加わってしまいがちなのだが、今回は逆に、海外で奮闘する侍・日本人研究者らと意気投合して、イサカの街で飲んだりできて楽しかった。とにかく、国際学会に参加することで、世界の知の最前線を知ることができるだけでなく、論文でしか知らなかった人物と直接知り合え、更に共同研究やプロジェクト参加に発展することもしばしばである。また、国際会議で顔を売っておくと、将来の自分の就職先や短期滞在先まで見つかる可能性も大いにあり得る(僕の場合もNASAのミッション参加や、海外短期滞在などの機会は国際学会でゲットした)。今回の学会は、悔しいことに、全てのセッションでインターネット中継が行われ、世界中誰でも学会発表を見られるサービスが提供された。しかし、高い参加費と旅費・滞在費を支払ってでも、現地に直接行く価値は非常に高いのである。とにかく、エキサイティングな学会に参加することによって、自分の研究へのモチベーションが一層高まるのは間違いない。(天文)学者がエネルギーを充填する場所が、学会な訳である。

DPS 学会の講演会場。3つのセッションがパラレルで行われている。

ポスター発表風景 ポスター発表の様子。小惑星を模擬したフルーツを片手に熱弁を振るうハワイ大同僚のペドロ。

学会のもう一つのお楽しみは、晩餐会(バンケット)やツアーである。今回の晩餐会は、イサカ郊外の博物館で行われ、恐竜や化石に囲まれながら、立食パーティーとダンスコンサートという趣向を凝らした内容で楽しめた。こういう時に、社交ダンスやピアノができると非常に格好良いのだが、泥酔しないと踊れない僕は、指をくわえて見ているだけだった。最終日のツアーの方はキャンセルした。というのも、旧知のよしみである、学会実行委員会(LOC)のメンバーの女性が、僕と学生をピクニックに連れて行ってくれたからだ。ニューヨーク州イサカは、山や渓谷などの素晴らしい自然に囲まれた長閑な田舎町だ。ニューヨークの雑踏から逃れて、ここに住み着いたという大学生協のおばちゃんが、滔々とイサカの良さを語ってくれた。

博物館晩餐会 博物館での学会の晩餐会とダンスコンサートが行われた。

イサカ郊外イサカ郊外をピクニック。イサカは渓谷に恵まれた坂の多い街だった。

さて、マンハッタンの摩天楼が間近に迫ってきた。ニューヨークの街を存分に楽しむとするかな。僕の旅はまだまだ続く。。。

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