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2010/07/31

我々研究者の日常は、研究にだけ没頭している訳ではなく、学生の面倒(授業も含めて)、ビジターの面倒、様々な書類執筆(外部資金調達、観測時間獲得など)、会議・会議・会議、合間にメール処理と、なかなか集中して研究する時間がないものである。かつて文豪は、温泉宿などに籠り集中して筆を走らせた。温泉街は、温泉以外にも食や自然の楽しみもあり、気分転換にもなっただろう。実は、我々もこれを真似て「論文執筆合宿」なるものを時々開催する。昨秋は、台湾の清泉温泉という温泉街のユースホステルを貸し切って論文合宿を開催した。ここは、新竹市から(直線距離では)さほど遠くないので、小生が選んだのだが、実際にはかなりの山奥であった。それもそのはず、到着して知ったのだが、なんと「張學良」が幽閉されていた温泉だったのである。現代においてもそこは隔絶された世界であった。インターネットの無い3泊4日の滞在中は、自炊しながら、温泉と自然の景観を楽しみながら論文執筆に没頭できた。原住民の住む村であったため、我々の滞在が珍しかったのだろう、地元の子供達が集ったので、彼らを招き入れて持参したPCプロジェクターを使って「ロケットの打ち上げ(MV-5号機)」映像を見せてやった。子供達の驚きようは、今でもよく覚えている。

論文合宿

さて、5年に一度の自動車免許更新のため、8月9日の誕生日前後1ヶ月の間に手続きをする必要があり、日本へ一時帰国する計画を練っていたところ、国立天文台の渡部潤一さん(博士課程の時の親方=指導教官)から、論文執筆合宿の案内が届いた。開催場所が「会津大学」ということで、すぐに参加することを決めた。理由 (1) 会津にはまだ行った事がない、(2) 宇宙研や「はやぶさ」でいっしょだった共同研究者が沢山いる、(3) 温泉がある。ところが年度末(台湾では、7月は年度末)だっため、研究費がないので自費で行く事にしたのだが、渡部さんのご好意で、会津のご実家に宿泊することができ、大変助かった。7月25日、東京駅初の高速バス「白虎」に乗車。会津まで2500円ポッキリである。
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会津到着は、土用の丑の日の前日ということで、神戸大の時の同僚の平田成さんの案内で、鰻の老舗「えびや」で久々に蒲焼きを楽しんだ。ちなみに土用の丑の日は、鰻供養のため営業していないので絶好のタイミングであった。スタミナをつけ、いよいよ論文合宿開始である。ホストになってくださったのは、会津大学の浅田智朗先生・出村裕英先生率いる惑星科学の面々である。ネットワーク(寺薗淳也先生担当)、珈琲などが用意された教室を貸し切り、各々の宿題/論文執筆が開始された。開始に先立ち、各自の目標が掲げられた。この目標に日々の達成度を記していくのである。窓の外は、会津磐梯山の頂きが浮かんでいる。

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執筆、執筆、執筆、ひたすら執筆。。。のはずであったが、会津の先生方を交えてのミーティング、国立天文台-神戸大-台湾を繋いだビデオ会議、米国と繋いだSKYPE会議と幾つかの有意義なミーティングもこなした。インターネットは無いと不便だが、あるとやはり執筆効率は落ちる。特に最近は、ツイッターやmixi、Facebookなどなど、全くもってネット無しの生活は考えられない。さらに毎晩、会津の美味と美酒を楽しみ、東山温泉でまったりするなど、すっかり満喫してしまった5日間となった。それにしても、毎晩よく飲んだなぁ。。さて肝心の執筆の方は、(1)「地球の果てでハヤブサを迎える」を惑星地質ニュース巻頭記事として投稿、(2)「潮汐分裂小惑星の発見」をネイチャーに投稿した。記事と筆頭論文を仕上げる事ができたので、一応の目標は達成。特にNature論文は、春先から取り組んでいた国際協力の紆余曲折あった論文なので、ようやく肩の荷がおりた(あとは朗報を待つのみ)。

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最終日は別の〆切の文章作成が終わらず、結局、会津観光をせずに後ろ髪を引かれる思いで帰路に付いた。「集中講義」を頼まれているので、また近々会津を訪れる日があることを期待したい。

さて、今日(7月31日)は、宇宙科学研究所の一般公開に足を運ぶ。Junk Stageの皆さん方を案内する予定である。一般公開初日の昨日は、はやぶさカプセルに2時間待ちの長蛇の列ができたそうで混雑は必至。一日がかりの見学会になるだろう。

2009/06/18

既に猛暑の台湾、今日は34℃とうだる暑さである。さて、そんな台湾で熱いモノの代表と言えば「火鍋」と「温泉」である。世界で最も温泉密度の高い台湾全土には、100以上もの温源が沸々と湧き、その歴史も100年以上である。日本はもとより、チェコ、ハンガリー、ドイツ、(クロアチア)などの温泉街(やヌーディスト・ビーチ)を巡る程の温泉好きである小生にとって、台湾はまさに温泉天国。ほぼ毎週のように温泉地を巡っている。台北周辺では、北投、新北投、陽明山、烏来などの温泉場が有名で、何度か足を運んだ。台湾の温泉文化は、日本統治時代に日本人が温泉を整備して広めたものが多い。我々日本人にとっては、故郷の心地良さを感じる。しかし、こちらでは「裸=野蛮」という概念がある(あった)ため、水着着用の混浴温泉も多い。最近は、ようやく「裸の付き合い」の文化が定着してきて、台湾でも裸で入れる風呂が増えて来たようだ。さすがに、まだ裸の混浴には出会っていないが。

台灣温泉 台湾の温泉風景。水着着用の混浴風呂(北投温泉にて撮影)。

さて、先週は、現在韓国で働くチェコ時代の友人(旅する物理屋さん)が遊びにきたので、台湾の東部へ1泊2日700kmの男二人旅に出た。

Taiwan East車で移動した行程(往復700km)

まずは、台湾のグランドキャニオン、「太魯閣(タロコ)國家公園」 へ車で向った。太魯閣(タロコ)とは原住民、タイヤル族の首長の名に由来する。入り口では、原住民族の阿美族の子供達に迎えられた。

 

 アミ族台湾人口(2300万人)の約2%は原住民である。日本統治時代には高砂族と呼ばれていた。アミ族が18万人と最も多く、タイヤル族の8万人がこれに次ぐ。小生の友人の約10%は原住民で、先日は、彼らの住む山岳の村に滞在した。

台湾島は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの狭間で、年間5.5mmずつ上昇している、世界で最も隆起速度が大きな場所として知られている。南北約38㎞、東西約41㎞の巨大な國立公園は、2000m〜3000m級の山々が、まさに海から切り立った壁の様に連なって形成されており、見事な断層があらわに目の前に聳えたっていた。日本近海では、未だ4000メートルの海底に沈んでいる年代の断層が、ここでは地上遥か上まで龍のごとく出現している。地質屋が喜ぶのもうなづける。切り立った岩壁をえぐって作られた道路が続く。いつ落石があるか、ハラハラのドライブ。前を行く観光バスは、天井の岩壁に接するような状態で進む。
太魯閣1太魯閣3太魯閣4九州ほどの台湾島で、こんな壮大な景観を楽しめるとは意外であった。長野県の乗鞍を思わせるが、その急峻さと自然美は、台湾の方が数段上である。

地球の息吹を思いっきり満喫した我々が向った温泉は、太魯閣の奥にある文山温泉。

1914年、台湾総督府が原住民族のタロコ族を討伐するタロコ討伐の最中、日本兵部隊の深水少佐が発見したことから、深水温泉と呼ばれた。大北投温泉と改称された後に、文山温泉という名称に至った。
大沙(タウサイ)渓のほとりから湧き出すという立地条件のため、大雨の後は川が運んできた土砂が堆積することから、太魯閣国家公園管理所が2001年に改修を行った。安全設備を充実させ、観光客の利便をはかり、天祥晶華酒店が維持補修を行っていた。

まずは、入り口を探すのに一苦労。ガイドブックの写真と照らし合わせながら、トンネンルの横にそれらしき入り口を発見。でも誰もいない。おかしいなぁ。すると、立て看板には、温泉への路が寸断されている為、立ち入り禁止と書いてあった。

文山温泉

しかし、小生は、やる気満々で温泉道具をリュックにつめて向った。立ち入り禁止の立て看板を通り越すと、さっそく土砂崩れで路が塞がっていた。

旅する物理屋さん; 「なんかここに線香がありますよ」
「なんかあったんじゃないすか!! ここ!!」「絶対なんかあったんすよ!!」
と躊躇してなかなかやって来ない。

旅する天文学者; 「そういうのは、気にしない方がいいっすよ」
と土砂崩れ現場を颯爽と乗り越えて行く。

旅する物理屋さんも渋々あとをついてきた。渓谷へ降りて行くと、そこには立派な脱衣場が現れた。しかし、そこからは、ものすご〜く厭な感じが背筋を凍らせた。脱衣場には近づかないようにして通り過ぎると、岩のトンネルがあり、トンネルの中には鉄格子がはめられてあり、そこか先にある吊り橋へは進めなかった。彼はトンネルには入って来なかった。渓谷を覗くと、川の脇に岩で仕切られた温泉場が見えたが、温泉は出ていない様子。さすがに、崖を降りて行くことはできないし、温泉も出ていないようなので、諦めて退散することにした。帰路も、ものすご〜く厭な気を背後に感じながら渓谷から上がってきた。

旅する物理屋さん; 「あべちゃん霊感があるけど、なんか感じなかった?」

旅する天文学者; 「ものすご〜く、イヤな感じがしたね。特にあの脱衣場」

旅する物理屋さん; 「やっぱそうだったんだ。絶対なんかあったんすよここ」「まだ足の震えが止まらないすよ。。。」

彼は、撮影した全ての写真をその場で消去していた。小生も何か写っていると厭なので、脱衣場とトンネルの写真だけは消しておいた。

その夜、ホテルのインターネットで調べると、

2005年4月3日16時半ころ、土砂崩れが発生して多くの観光客が巻き込まれ、2人が死亡5人が負傷した。それ以降、文山温泉は閉鎖され今日に至っている。

とのことだった。何かに引き寄せられるように、危ない場所に行っていた訳である。

通行止めになった生々しい落石現場も通過した。ここ(九曲洞遊歩道)では、つい2週間前に日本人らが怪我をする落石事故が発生していたことを後で知った。

九曲洞遊歩道 通行止めになっていた九曲洞遊歩道

九曲洞遊歩道ではは4月末から5月末にかけての一ヶ月間に落石 による事故が4件起きており、太魯閣國立公園管理處は五月の初めから、九曲洞遊歩道において無料でヘルメットを提供し、安全指導を強化すると同時に、地質 専門の張石角教授に有効な措置の構想を委託するなど積極的に解決策を模索しています。

太魯閣國立公園はその壮麗な高山と峡谷の景観を見ようと多くの 訪問客が訪れますが、常に自然落石のリスクが存在しており、特に地形の嶮しい太魯閣峡谷は落石の危険が高い地域です。みなさんも訪れる時は、以下のウェブの情報を調べてから気をつけて行動してください。http://www.taroko.gov.tw/

その晩は、花蓮市内のChinatrust Hotel(中信大飯店)のSPAで霊気を追い払った。
中信大飯店

翌日は、更に南下して別の温泉へ。

途中、東台湾最大の内陸湖である「鯉魚潭」に寄ったが、偶然にも、カヌーポロの国際大会を観戦。そんな競技があることを初めて知った。昨夜泊まったホテルに大量にいた日本人、体格の良いラテン系、アラブ系、東洋系が戦っていた。なかなかハードなスポーツであった。
鯉魚潭

更に進むと、突如
校長夢工廠(Principals’ Dream Factory) という看板に遭遇。これは、トンデモ系かもしれんが、何かあるなと感じた我々は、迷わず看板の案内にある花蓮県鳳林市に乗り込んだ。そこでは、予想外の貴重な時間を過ごすことができた。校長夢工場は、日本人が遥々来たということで、ちょっとした騒ぎになった。105名の校長先生を排出した台湾で最も校長密度が高いその村で、片言の日本語を話すボランティアガイドの案内で1時間以上を過ごすことになったのであった。。。。。。恐るべし校長パワー。
校長夢工場校長夢工場

校長に捕まってタイムロスをした我々は、北回帰線制覇は諦めて、本日のメインである紅葉温泉と瑞穂温泉へ向った。そこは、貸し切り状態で、最高の露天風呂を楽しむことができ、満足のいく一時を過ごした。

紅葉温泉(120元)。サラサラとした泉質。

紅葉温泉1紅葉温泉

風呂上がりでまったりしていたら、地元の人達が、原住民の酒「小米焼酒」を分けてくれた。「小米酒」は原住民の酒として有名だが、焼酒の方は初めて飲んだ。濁り酒の部類と感じた。

小米焼酒

風呂上がりで飲んだ、椰子ジュース。店のオヤジは車で来るなり、ベンチで昼寝開始。
おっ昼寝に来たのかと思っていたけど、小生らが椰子を満載した車に近づくと突如起き上がって、商売商売。

旅する物理屋さんは「高いからいらねぇ」と言ったけど、小生は3本100元で購入して二人で飲んだ。以前飲んだ椰子ジュースは、ぬるくて不味かったが、ここのは冷やしてあって悪くは無かった。それにしても、あのやる気無しオヤジが超ご機嫌になった、そのギャップが台湾人らしくて面白かった。やれやれだぜ〜(JoJo風に)・・・
瑞穂温泉(150元)。泉質は、神戸の有馬温泉の金泉と同じらしい。

瑞穂温泉瑞穂温泉2

個人的には、紅葉温泉の方が、雰囲気的にも寛げて良かった。一方、瑞穂温泉は、泉質は良いのだが、風呂全体の作りに風情が無い。もっとやり方を帰れば、有馬温泉のように有名になるのではないかと思った。

貸し切りでとても良かったのだが、経営が成り立っているのか疑問でもあったが、こういう田舎の温泉は静かで良いものである。

最近自宅から車で5分の場所に、天然温泉が掘られて温泉・プール・ジム&宿泊施設が誕生した。台湾のアパート住宅では、通常バスタブはなく、シャワーが一般的であるため、湯船につかれる施設が自宅近くに出来たのは幸運である。さっそく会員になって、仕事帰りに温泉でリラックスしている。

02:38 | 台湾, | No Comments
2009/05/19

2006年8月の冥王星降格事件以来、約3年振りにチェコに舞い戻ってきた。今回の滞在は、5月9日から9日間。隕石火球国際会議とプシュブラム隕石50周年記念、そしてチェコのズデネェック・セプレハ(Zdeněk Ceplecha)教授80歳記念を兼ねた会議(Bolides and Meteorite Falls)である。参加者は約60名。国際会議としては最も小規模な部類の学会だが、チェコ、スロバキア、ロシア、カナダ、ポーランド、タジキスタン、イタリア、バチカン、スイス、フランス、スペイン、イギリス、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、アメリカ、チリ、日本、そして台湾から、その道の精鋭達が名を連ねた。

Praha-1ティホブラーエが天体観測していたクレメンティヌ天文塔から望むプラハの町並み。日本人は、小生とアマチュアのNさんのみの参加。先に帰路につくNさんを天文塔へ案内した。

Praha-2 旧市街広場の天文時計。

Praha-3 プラハのプラネタリウム。珍しいチェコ語版の星座早見版を複数枚購入。マニアの先生に献上する予定。
František Linkに師事したCeplechaは、1951年夏によりチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)の2カ所で(f=180mm/F4.5レンズを使った30台のカメラで観測を開始。8年間、2500時間のトータル観測の後、1959年4月7日、歴史に残る火球が撮影された。同年4月20日、Luhy村 で4.48kgの隕石が発見された。6月9日 (800g)、8月15(420g), 24(105g)日にも引き続き発見が続きプシィブラム(Přibram)隕石と命名された。これが、初めて軌道が求まった隕石である。一般的に隕石は小惑星を起源にすると考えられており、流星観測ネットワークから、これまでに約10個の隕石の軌道が求まっているが、軌道の決定精度が悪いこともあり、同じ軌道に当てはまる小惑星は見つかっていない。隕石の故郷を同定する決定的な証拠は、まだ存在しないのである。

Ondrejov-1 Ondrejov天文台の初代ドーム。

Ondrejov-2 Ondrejov天文台の60cm小惑星ライトカーブ観測望遠鏡。

Ondrejov-3 Ondrejov天文台の流星ロボットカメラ。ロボット(robot=robota)はチェコ語。

Ondrejov-4 Ondrejov天文台にある旧ドイツ軍のウルツブルクレーダー。太陽観測に使われていた。

カタリナ・スカイサーベイは、アリゾナ大学・月惑星研究所行っている全天サーベイで、レモン山にある口径1.5mの望遠鏡を用いて、主に地球軌道接近型小天体(NEO)の捜索を行っている。2008年10月6日6時39分(世界時; 以下全て世界時)から7時23分の間に撮影された4枚の画像中を、高速で移動する18等級の小惑星が発見された。観測の1時間後には、ハーバード・スミソニアン宇宙物理学センターのマイナー・プラネット・センター(MPC)を通して、”地球に異常接近する”ことが確認され、8時7分に電子メールやウェブを通して小惑星「2008 TC3」の情報が世界に発信された。

観測データが更に加わり、地球大気突入時刻は10月7日2時46分、場所はアフリカのスーダン北部と分かった。同日22時22分には、カナリア諸島の口径4.2mのウィリアム・ハーシェル望遠鏡を用いて、組成を調べる分光観測も行われた。衝突のわずか20時間に発見されたが、世界中の26箇所の観測所で計570回の観測が行われ、軌道が改善された。小惑星の明るさと、後に回収された隕石の反射率から、その直径は4mと推定された。また、49秒と97秒の2つの周期で、1.02等級の振幅で光度変化しており(位相角17度を補正した振幅は0.76等級)、いびつな形状をした天体であったことが推察された。これまでの解析から長半径7mのUFO形状、体積は28m^2、平均密度は3.1g/ccと推定されている。補正した自転周期からは数千万年のダンピング・タイムが推定された。小惑星は太陽光の反射で光っており、刻々と地球に近づく微小な小惑星は、13等級まで増光したが、地球の影に入った10月7日1時49分以降、小惑星「2008 TC3」の姿を追いかけることは、もはや誰にも出来なかった。地球衝突まで1時間をきっていた。

Ceplecha-Jenniskens 歴史に残る隕石を発見したZdenek CeplechaとPeter Jenniskensと、2008 TC3の破片。

TC3 小惑星2008 TC3 = Almahata Sitta隕石

約1時間の”ダークフライト”の後、「2008 TC3」は、秒速12.4kmの速度で地球大気に突入し、その痕跡を様々な形で残した。2時45分40秒、1400km離れた場所を飛行中のKLMのパイロットが地平線の向こうが、短時間に3〜4回フラッシュするのを目撃。南エジプトの防犯ビデオカメラに火球の爆発で辺りが昼間のように照らし出される様子が記録された。落下地点付近の鉄道の駅の管理人は、眩い光で目を覚まし、エジプト国境付近からは、朝の祈りからの帰路に着く人々が火球を目撃。また、米国のスパイ衛星は、高度65kmからの熱輻射を感知し、欧州の気象衛星も高度37km付近からの発光と、赤外線放射を捉えた。気象衛星の赤外線カラースペクトルからは、10μmのアモルファスのSi-Oバンドが隕石後のダスト雲中から捉えられ、クリスタルSi-Oに変化する様子も分かった。遥か彼方のケニアに設置された核爆発探知用の微小気圧計でも、広島型原爆の約1/10の爆発として探知された。「2008 TC3」の大火球が残したロケット雲のようなダスト雲が、携帯電話のカメラで撮影された。kmと秒の精度で落下地点と時刻が予報され、時と場所を同じくして、これだけ多くの”地球大気に衝突した証拠”が僻地から集められたのである。

2ヶ月後の12月6日、宇宙生物学研究所(SETI)のピーター・ジェニスキンズが主導し、現地の天文学者と大学生45名の協力のもと、隕石落下予想区域のスーダン・ヌビアン砂漠の大捜索が行われ、捜索開始の2時間後に最初の隕石が発見された。2009年3月まで継続された捜索で、最終的に280個、1.5gから283gまで総重量約4kgの隕石群が、差し渡し29kmの範囲で発見されたのである。これらの隕石は、「アルマハータ・シッター(Almahata Sitta)」隕石と名付けられたが、まだ多くの隕石が残っている可能性がある。これまでの分析からは、ユレイライトの特殊なタイプと分類された。ユレイライトは、始原的な石質隕石(コンドライト)が、溶融プロセスを経て生成され分化した隕石であるエコンドライトの一種で、カンラン石と輝石の間を炭素質物質が埋めた組織を持ち、ダイヤモンドも含んでいる。回収された炭素に富む隕石は、反射率が4.6%と”とても黒く”、これまで謎とされてきたFクラスに分類される小惑星と類似していることが突き止められた(現段階では、反射率は0.5%〜0.19%と、破片によって大きくばらついていて鋭意測定中)。また、隕石の平均密度は、2.1〜2.5 g/cc で、典型的なユレイライトの粒子密度を仮定すると、空隙率(体積に対する内部の空隙の割合)は 25〜37% と非常に大きく、もろいことが分かった。このような非常にもろい隕石は、上空で粉々になり燃え尽きてしまうため、今回のように回収されたことはなかった。隕石のさらなる分析結果が楽しみである。

地球に衝突するわずか20時間前に発見された「2008 TC3」は、地球への衝突が事前に探知された初めての小惑星となった。更に「2008 TC3」は、これまで軌道が決定された最も精度の良い隕石の、約10000倍も精度の良い軌道が与えられた隕石として回収され、小惑星の姿で地球から目撃された初めての隕石となったのである。現在、地球軌道接近型小天体(NEO)は、約6千個が見つかっており、そのうち約1千個は、地球衝突危険性天体(PHO)である。現在、我々が取り組んでいる今夏始動のPan-STARRS(パンスターズ)全天サーベイにより、新たに数千個のNEOが発見され、この隕石がやってきた小惑星や分裂した更なる破片天体が見つかる可能性は十分にある。

さて、今回は、学会のエクスカーションとして、プラハからバスで1時間弱のオンドジェヨフ天文台も訪れた。ここは、小生が2003-2005年に住んでいた人口1000人の村にある、チェコ最大の天文台である。チェコ語も全く分からず、よくもこんな田舎に飛び込んで来たなぁと思うとともに、あの頃の素晴らしい日々が懐かしく感じられた。今年から台湾-チェコの交流助成金が設立されたこともあり、再びチェコ人らとの交流が復活する具体的な相談なども行えた。プラハでは、以前からの知り合いであるチェコで戦う日本人侍らとも過ごすことができ、毎日チェコの美味いビールを沢山飲んで、楽しい一時を過ごす事ができた。プラハの春国際音楽祭ということで、スメタナ・ホールでフランス・シャンゼリゼ交響楽団のオーケストラを堪能した。古色蒼然としたプラハを舞台に、研究だけでなく、国籍問わず、多くの友人らとの再会を果たした。台湾に戻ってからも心機一転して研究に取り組みたい。

Smetana-hole プラハの春の音楽祭。スメタナ・ホールにて。

Praha-4 黄昏れる小生。

Praha-5プラハ城,カレル橋とブルタヴァ川

【プラハからの帰路(プラハ-ヘルシンキ-香港-台北)の機内にて】

2008/11/17

お盆過ぎにハワイに来たので、ちょうど3ヶ月が過ぎた。その間、台湾とニューヨークをそれぞれ1往復したが、あっという間にハワイを去る日がやってきた感じである。前回は、今年の5月末から1ヶ月間、ハワイ大学の更に高台に位置するマノアに滞在した。今回は、憧れの地「ワイキキ」のビーチに近いホテル21階のコンドミニアムを借りて滞在。ハワイは世界で一番家賃が高いそうだが、特に半年以内の短期滞在者には、州税(4.712%)の他に7.25%の税金が課せられるので、合計12%の家賃に対する税金を支払う義務がある。ちなみに僕の場合、毎月$1800(約18万円)の家賃を3ヶ月間支払った。滞在費を浮かすため、ワイキキからハワイ大学天文研究所への往復12kmの道のりを、$100で購入した自転車で汗だくになって通い続けた(自転車は、ハワイを去る朝に$50で売却)。最初は30分近く掛かっていた標高差100mの往路も、18分にまで短縮。スコールに打たれることも時々あったが、マノアの山々を眺めながらオフィスへ向うのは気持ち良い。

とにかく、ワイキキやアラモアナ・ショッピング・センター界隈のマジョリティーは、日本人である。ショッピングや観光、シュノーケリングやダイビングなどのビーチ・アクティビティーやゴルフなどで存分に楽しめるハワイは、短期旅行者にとっては「常夏のパラダイス」というのも頷ける。僕も最初の2ヶ月くらいは、毎週末オアフ島の何処かしらのビーチへ繰り出していたが、そのうちに飽きてきてしまい、最後の1ヶ月の週末は「ウクレレ」に没頭していた。ハワイ産のコナの木で作られたセニーザ(Seniza)のスタンダード・ウクレレを購入し、10回ほど無料レッスンにも通い、毎日練習を重ねて、ウクレレ・ソロを人前で演奏できるまでに上達した。更に精進して、講演で弾ける「ウクレレ・天文学者」を目指してみたい。

毎日、常夏の青空が続いていたハワイだが、湿度が低く常に心地よい風があるので、一度も冷房は使わなかった。ところが、9月下旬ころから徐々に気温は下がり、湿度は上がり、天気も曇りがちになって、降雨の回数も増えた。ハワイ島のキラウエア火山からの火山灰で空が霞む、foggy(霧)ならぬvoggy(火山性霧; volcanic foggy)の日は、山々が青く霞んでた。紅葉のような劇的な季節変化こそないが、僅かな季節の移り変わりを肌で感じた。滞在中、本場のハロウィーン(Halloween)も初めて体験することができた。全く準備をしていなかったので、寝巻き代わりにしている龍の絵柄の作務衣を着て、ハワイで入手した日本刀(Made in China)を腰に据えた即席の侍となり、ワイキキのハロウィーン・パレードに参加した。小中高と剣道をやっていたのだが、剣を握ったのは実に久々である。侍仮装は、観光客らに何度も声を掛けられ写真を撮られたので、なかなか好評であったと思う。

さて、前回滞在の最後の週末に、オアフ島西部のナナクリ・ビーチで、ブギーボードごと大波に飲まれた。海底に叩き付けられて腹部を強打し、ほとんど気を失いそうになった。海底で波に揉まれている間、意識を失わないように、必死に心の中で数を数えた。カウント20くらいで、次の波に飲まれる前に幸運にも近くにいた地元の巨漢に救助された。肋骨2本にヒビ、更に膝も痛めた。耳の奥には、1ヶ月間も大量の砂粒が詰まっていた。肋骨が痛くて帰りの飛行機にも乗れずに、ハワイに1週間延長滞在してから台湾へ戻ったのだった。しかし、肋骨よりも重傷だったのは、膝の怪我だった。台湾の接骨院で、中国式吸玉治療法を10回以上も施された。そして、5ヶ月経って、ようやく走れるまでに膝が回復した。ナナクリ(Nanakuli)とは、ハワイ語で「膝を見ろ」という意味を後で知った。

そんな前回の大怪我もあり、トラウマになりかけていた「波」だが、職場の同僚サーファーらの助け(誘い)もあり、サーフィンに初挑戦した。サーフィンの神様、ワイキキのデューク・ハナモク像の前で彼らと待ち合わせ。サーフボードを片手に颯爽とワイキキの浜辺を歩いているだけで、既に一端のサーファー気分だった。常に理論から入る僕の場合、インターネットでのサーフィンに関する知識の事前学習に余念はない。「ネットサーフィン」の甲斐もあり、初サーフィンで見事に波乗りに成功したのである。

ところで、天文学者にとって月は色々な意味で重要だ。月があると、その周辺(拳骨4個分ほど)の夜空は明るくなり、他の天体の観測に適さないし、逆に僕などは月そのものを観測対象にすることもある。一方、サーファーにとっても月は大切。月や太陽による潮汐力によって地球が変形し、特に流体である海は甚だしくその潮位を変化させ、波のコンディションは、周期29.5日の月齢によって大きく変わるからである。潮汐力は、天体の質量に比例し、天体からの距離の3乗に反比例する。月の重さは太陽の約3千万分の一だが、地球からの距離は太陽の400分の一なので、[3千万÷(400×400x400)=0.5] 太陽の潮汐力(太陽潮)は、月の潮汐力(太陰潮)のおよそ半分である。月と地球と太陽が直線方向に並ぶ新月と満月の時に両天体の潮汐力が重なるため、干満が一番大きい大潮となるのである。

先週末は、ハワイを去る前の最後の満月。夜11時、僕はワイキキ・ビーチの沖合300メートルの海上を、サーフボードに乗って漂っていた。満月直前の月が頭上高くに煌煌と照り、水面はキラキラと月の雫を不規則に反射する。ダイアモンド・ヘッドのシルエットが影絵のように聳え立ち、海底の珊瑚礁はスポットライトを浴びたミュージカルの舞台のようにエメラルド色に浮かび上がる。白波が時折通過する神秘的なアクアリウムの中に自分の体がとけ込んでいた。そんな神秘を作り出す38万キロメートル彼方の月では、今まさに探査機による科学合戦が行われている。日本の『かぐや(http://www.kaguya.jaxa.jp/)』、中国の『嫦娥(http://moon.jaxa.jp/ja/history/Chang_e/index.html)』、そして先週月に到着したばかりのインドの『チャンドラヤーン(http://moon.jaxa.jp/ja/topics/chandrayaan/)』らが、月の上空100〜200kmを飛来中だ。45億年前に形成された月の謎が、ようやく今、解き明かされつつある。そんなことを考えながら波に乗り、ハワイの月光浴を楽しんだ。

さて、ハワイを発って7時間近く経ち、日本列島が近づいて来た。日本での束の間の急速の後、明後日には台湾へ戻る。次回のハワイ滞在は、3-4月の2ヶ月間の予定。僕の旅は、まだまだ続く。。

追伸、この記事を機内で執筆し、そのままパソコン(Mac Book Pro)を飛行機の中に置き忘れてきてしまった。幸い、JALの迅速かつ親切な対応により、パソコンが無傷で戻ってきたのでここに記事をアップする。

Yokohama beachYokohama Beach Kakaako parkKakaako Park

Hanauma bayHanauma Bay Chinamans hatChinamans’ Hat

Diamond HeadDiamond Headと4ヶ月間使ったチャリ。

surf-1 surf-2波を克服し、ワイキキで初乗り。

RainbowRainbow-2Rainbow

TurtleTurtle at Northsore DuskDusk

UkuleleUkulele演奏曲は「Over the Rainbow」

Haleakara-1Haleakara-2Haleakala Observatory in Maui

2008/10/26

僕は海外経験年月が浅い。10年前の1998年、博士課程1年目の秋に初めて海外に出た。その後、NASAのミッションで世界各国の米空軍基地に離着陸しながら夜の観測を遂行(パスポートには空軍基地のスタンプばかり)、チェコ・台湾・ハワイに住むなど、一気に世界が広がった。しかし僕の場合、”Travel = Trouble” という方程式が良く成り立つ。9.11テロ後に、エドワーズ空軍基地のゲートを、自分の運転する車で(間違って)突破、更に逃走して、モハベ砂漠でアメリカ軍警察に捕まるなどのエピソードがあるが、今回は、初めての海外旅行記を紹介したい。

回顧録(1998年10月26日〜11月11日)の日記より抜粋。

はじめての海外、はじめての国境突破

11月2〜5日にドイツの Garching のESO(ヨーロッパ南天天文台)で行なわれた太陽系外縁部天体(カイパーベルト、彗星)の国際学会に出席した。初の海外という事もあり、まずは海外に体を慣らせようと、マレーシアとシンガポールで1週間を過ごした。成田空港で初の海外に備えるべく、3時間も前に空港に到着しながら、防犯対策にあくせくしてたら飛行機が出発してしまい、タラップといっしょに車で1km程飛行機を追いかけ搭乗させてもらった。一眠りして到着陸した場所が、マレーシアの首都クアラルンプールと勘違いして颯爽と一番乗りで下車。出国ゲートでもめた挙げ句、この旅で度々お世話になる国境(空港)警察の部屋に飛び込み、「クアラルンプール出口はどこですか?」と尋ね、皆に爆笑されて、はじめてそこが貨物運搬で立ち寄った島(別の国?)であることを知り唖然とした。飛行機は給油中だったので、幸い再度搭乗させてもらえた。既に2つのトラブルをクリアしてようやくマレーシアの首都の玄関口、クアラルンプール国際空港に到着。クアラルンプール市内は国際空港から70kmも離れているので、夜遅くに到着する場合は、空港ホテルに泊まる事をお奨めする。小生は何も考えずに21時頃に空港をうろついており、声を掛けてきたマレー人にのこのこ着いて行き、両替をしてから彼の違法ポンコツ車に乗って(エンジンは三菱だと威張っていたが)、車中で値段交渉し市内まで送ってもらった。運転は荒かったが良い人だったので救われた。空港から市内までのタクシー料金の相場は、70RM[リンギット](2000円程度)、小生の場合は夜遅くであったので80RMであった。空港乗り入れタクシー会社は限定されているので、個人タクシー(シロタク)は違法タクシーなので注意。

マレーシアの首都クアラルンプールは人種の坩堝、訳の分からぬ言葉を叫びながら近づいてくる人々、ヤパーナ? チャイニーズ? と呼びかけて来る人、ふと気が付くとすられていたりと、とてもシュールな町であった。Pudu Rayaバスターミナルで、「俺もシンガポールへ連れていってくれ」 と金をせがむ “手ぶら” のマレー人と30分以上会話を楽しんだ後(その方が、他の輩の相手をしなくていいので安全)、会話のお礼として10RM(リンギット)=300 円 をプレゼントし、握手と軽い包容と「Have a nice journey」の言葉を背にシンガポールへ向かった。

搭乗した中華系バスは、華僑の中国人バスで、たった一人の日本人であった(失敗したと思った)。クアラルンプールからシンガポールへの7時間の陸路の途中、国境審査を受けてバスターミナルへ戻ると、小生の乗ってきたリムジンバスが小生の荷物を全て乗っけたまま去ってしまっていた。中国人らにまんまと騙され手ぶらになって気が動転していた小生は、チケットの裏に書かれたバス会社の連絡先に電話しようと、越えてきたゲートの向うにある電話を使うために逆走。思いっきり “国境” を走り抜けた。挙げ句挙の果てに “国境突破” と勘違いされ「ワラワラ」と訳の分からぬマレー語と自動小銃で警官らに脅されながら国境警察へ連行された。事情を説明して釈放。マレーシアの公衆電話は壊れているものが多く、3台目でようやくバス会社に電話が通ずるも、英語が全く通じない。バス捜索のため、結局、国境を3往復し、顔パスで国境を通過できるまでになった。ジョホールバルというマレーシア側の町で高速バスのチケットを入手し、ようやくローカルバスでシンガポール駅に辿り着いたのは夜9時過ぎ。既に到着予定時刻を2時間もオーバーしていて諦めムード。高速バス乗り場を探すと、なんとそこで小生の荷物と共に待っていた中国人添乗員と奇跡的に再開!

中国人:「君なら来ると思ってたあるよ」(みたいなニュアンスの中国語)
日本人:「じゃあ置いていくなよ」(日本語)

という会話の後、固い握手で結ばれた。お礼に修論テーマであり持参していたヘール・ボップ彗星の写真をプレゼントし、ついでに彗星の尾(ダストテイルとプラズマテイル)の説明もしておいた。いやぁ、それにしても凄い一日だった。

造られたマーライオン

シンガポールでは日大時代の友人宅に3日間厄介になった。シンガポールは “造られた街” というのが印象である。ごみも無いし、治安も良い。取り敢えず名所は大体全て回ったが、シンガポールらしさというのはあまり見えてこなかった。といいつつ、SENTOSA島には2回も行き、巨大なマーライオンにも2度登ってきた。マーライオン・ライターは笑える。ちなみに本物のマーライオンは、河口にあるので注意! 夜、チャイナボートに乗って河口まで行ってもらうのがお奨めコースである。

再びクアラルンプールへ

そして、再度クアラルンプールへ挑戦。今度は陸路を長距離列車で移動。マレーシア-シンガポールの国境通過の常連となっていた小生は、国境審査で戸惑う臨席の乗客に、国境書類の手ほどきをした。2度目のクアラルンプールでは、中華街はこりごりなので、インド街に宿泊(インド人は嘘つかない)。市内をあちこち回った。不浄の左手も経験。プラネタリウムも見学した。女子トイレに間違えて侵入し、女学生らに悲鳴を上げられ、引率の先生に叱られた。平日の昼間でも学生達で超満員。番組終了後には割れんばかりの拍手がありびっくりした。ちなみにプログラムは「KOMET」(マレーシアでは、CではなくKを使うのである)。またこの日は、自動小銃なんかで武装した何百もの警官によって市内が物々しい雰囲気に包まれていた。タバコ屋のおばちゃんに聞くと「いつもの事だよ」と笑っていた。なんでも毎週土曜日はデモの日だそうだ。でもデモがあるって事は国民の不満が募っているので、やっぱり危ない。マレーの物価は、日本の 6/1- 1/3 程度で、日本製のカメラや電気製品も激安である(日本の企業が多数進出している為)。クアラルンプール ←400km:7時間→ シンガポールの長距離バスは500円、ゲーセンも1ゲーム5円程度(但し、リッジレーサーは20倍の値段で10円もする)。日本で買ったら1.5万円はするようなブーツ型のブラウンの革靴を買って、靴ずれのする古い靴と交換した。共通語としてブロークン英語が通じるのでいろいろな人達と接する事もできた。

パスポート偽造容疑

その後、クアラルンプール国際空港で日本から来た国立天文台の仲間3人と合流しミュンヘンへ向かったが、ドイツ入国の際には、小生だけパスポート偽造の容疑でIPA(銭形警部が所属するあのインターポール)に連行され1時間以上も尋問を受けた。国境でのトラブルには既に十分に慣れていたので、尋問の合間には、人権侵害 “question of human right” などの単語を調べ(当時の小生の英語力はボキャ貧)、反撃する余裕さえあった。結局、小生の身元は、VISAカードと大使館によって証明され “釈放” された。拘束された理由を聞いた所、顔写真の上下にある桜印を拡大するとわずかにフォントの荒いようなギザギザがあるという事で、拡大写真も見せてもらった。帰国後にパスポートを拡大して見てみたが、そんなギザギザはないし、どうやら人権侵害で訴えられるのを恐れた言い訳だったようだ。

歴史漂うドイツ、オーストリア

ミュンヘンでは、ESO と MAX-PLANCK のある Garching という静かなで美しい田舎町に滞在し、4日間、ESO(ヨーロッパ南天天文台)まで通った。毎日、旨いビールとソーセージとジャガイモばかり食べていた。太る訳である。また、ミュンヘン市内で必見なのは、IMAXというプラネタリウムとドイツ博物館である。特にドイツ博物館は凄い!屋上で太陽観測をていた職員のおじさんと仲良くなり立ち入り禁止の望遠鏡なども見せてもらった。ここでもお礼にヘール・ボップ彗星の写真もプレゼントした(おじさんは、小生が百武彗星の百武さんだと勘違いしていた)。さて、学会も無事終了し、今度はEC(Euro City)列車を使いオーストリアのウィーンへも足を運んだ。ウィーンでは、13〜16世紀の歴史的建造物の迫力に圧倒されっぱなしで、世界史をしっかり勉強しておけば良かったと痛感した。また、夜中にウィーン南駅前の露店で○○本も同僚への土産として購入した。再びドイツに戻り、MAX-PLANCKで研究をしているハイデルベルクの先輩宅を訪れた。ハイデルベルク城へも登った。また、本家本元の “哲学の道” もここハイデルベルクにあった。

最後の ”かつあげ”

そんなこんなで半月があっという間に過ぎ、帰国する為にフランクフルト空港へ向かったのだが、再びトラブルに巻き込まれた。地下鉄で柄の悪い10代後半かと思われる女グループの “かつあげ” に合い、不覚にも20DM[ドイツ・マルク](1600円相当)を持っていかれてしまった。その手口は巧妙で、まず一人の女が金を札で両替してくれと近寄ってきて、札を出した瞬間、別の女が強引に札をひったくるというものである。頭にきた小生は、その女を追いかけて捕まえ、ホールド・アップさせ身体検査をしたのだが、既に彼女は小生の金を持っていない。代わりにその女が持っていた小銭を全て奪うと、今度は彼女らが金を返せと騒ぐ始末。仲間が複数おり、何だかヤバイ雰囲気になり(ナイフを片手に持っていた)、英語で暫くもめたのだが、時間も無かったのとこれ以上の危険を避け、悪態(Get out of here!!!)をついてからフランクフルト空港へ向かった(駅警察に被害報告だけはした)。結局、小銭に10DMほど回収できたが(10DMは、彼女のボディーチェックの触り賃)、今思えば、かなり危険な行為をしていたと思う。海外では、善人になる事は極力止めた方が良いという教訓であった。

コクピット侵入

帰りのマレーシア航空ボーイング777では、飛行中にコクピットに入れてもらい、20分ほど機長と歓談できた。なんと、副機長が席を外し、操縦席に座りながらの歓談。航空の話しから(小生は航空宇宙出身である) 、1999-2002年に大出現する”しし座流星群” の話しまで盛り上がった。機内から見たカノープスも非常に印象的であった。マレーシア航空は、サービス&スチュアーデスもとても良かったので、機内でマレーシア航空のマイレージのメンバーシップ入会手続きも行なっておいた。

最後に

初の海外はとても新鮮でまた行きたくなる。マレーシアは、とてもいい国である!

成田→クアラルンプール(マレーシア)→シンガポール→クアラルンプール→ミュンヘン(ドイツ)→ウィーン(オーストリア)→ハイデルベルク(ドイツ)→フランクフルト→ 延べ16日の放浪であった。

07:25 | | 3 Comments
2008/10/22

いま僕は、ニューヨーク州イサカからマンハッタンへ向うリムジンバスの中でこの文章を記している。コーネル大学のキャンパス間を約5時間で繋ぐこのバスには、キッチン、トイレ、電源、飲食物が完備され、全て自由。更になんと、ワイアレス・インターネットが使え、車窓を楽しみながら高速ネットサーフィンが可能。さすが、インターネット先進国である。

さて、アメリカ天文学会・惑星科学会(DPS; Division for Planetary Sciences)が、ニューヨーク州イサカのコーネル大学で5日間に渡って開催された。アメリカ天文学会といっても、アメリカ国内だけでなく、世界中から学生を含め天文学者らが集う。その数、約700名。僕ら天文学者の仕事は、未知の天体物理現象を解明するために研究目的を定め、その目的を達成する手段として天体観測や探査を行ったり、或はコンピュータで計算したり、室内実験を行ったりする。このようにして集めたデータを整約し、理論的解釈を与え、それらを論文や学会発表を通して世界へ発表する。物理という共通認識を、英語という共通言語でコミュニケーションを取りながら認識を深め、知見を広げていくのである。

Cornell University Cornell University

宇宙は広いので、銀河から太陽系、宇宙工学まで多枝に渡る。天文・宇宙に関係する国際学会は、それこそ毎週、世界中の何処かで必ず行われている。参加する学会が、自分の分野や興味と合致することも大切だが、風光明媚な観光地開催の場合、参加者も必然的に多くなるし、自分が行ってみたいと思っていた場所で開催される学会には心が揺れる。とはいえ、自分が所有する研究費やスケジュール、持ちネタの兼ね合いもあるので、効率良く計画的に学会に参加・発表していく必要がある。フロリダで開催された昨年に比べ、今年は辺鄙な田舎での開催ということもあり、参加者は若干減ったそうだが、コーネル大学と言えば、アメリカ惑星科学を主導した天文学者でSF作家(コスモス,コンタクトなど)の故カールセーガン(1934-1996)も教鞭を執っており、惑星研究所があることでも有名だ。実は僕は、アメリカ天文学会・惑星科学会は初参加であり、ニューヨーク・シティーにも滞在したことがないので、学会後のニューヨーク観光もしっかりと予定に入れて学会参加のスケジュールを決めた。今回は、現在住んでいるハワイからニューヨーク往復の格安チケットを入手して臨んだ。最近は、研究費を使って学会以外のアクティビティー(観光など)を行うと、大学の事務に睨まれるので、何らかの理由が必要になる世知辛い世の中になった。

学会でもう一つ重要なのがホテルである。外国の場合、シングルで宿泊するとツインと同じ値段なので相当割高になってしまう。そこで、学会に参加する友人を予め見つけて同室を予約するのが常である。また、大都市開催の場合は、ユースホステルを使うこともしばしばあるが、夜更かしする輩が多いユースでは、なかなか学会の疲れが取れないというデメリットもあったりする。僕が学生の頃、旅行気分でどうにかなるだろうと、宿も取らずにアメリカの学会にのこのこやってきて、結局ホテルもユースも見つからず、国立天文台の当時の指導教官(親方)渡部潤一准教授のホテルの部屋に追加ベッドを持ち込んで迷惑を掛けてしまったことがある。そういえば、あの学会も、ここイサカだった。初めて渡米した9年前のことである。あの時は、親方の運転手としても働き、延々と続く一直線の道をしばらく逆走して走り、対向車が向ってきてからここが日本でないことに気づいたりしたものだ。今回は、この秋から自分の学生となった台湾國立中央大學の大学院生といっしょに宿泊。9年前と真逆のシチュエーションである。更に予算を節約するためレンタカーも借りず、毎朝、コーネル大学への山道を徒歩30分で登った。学会がチャーターしたホテル巡回バスもあったのだが、全てのホテルを回る学会バスは、1時間近くも掛かるというので、結局一度も使わなかった。御陰で、毎日変化していく紅葉や銀杏の燃えるような色合いを楽しみながら、清々しい朝の空気を満喫できた。

Cornell University 毎朝通った町からコーネル大学へ続く川沿いの道。標高差200m弱を登る。大学キャンパスの中に渓谷がある。

肝心の学会は、予想以上に質の高い充実したプログラムの目白押しで、いつもなら学会の一部をスキップして観光へ繰り出すのだが、今回はほぼ全ての講演に耳を傾けた。毎日、朝9時から夕方まで、多くのエキサイティングな講演を聞き、彼らと直接議論を交わし、自分の研究への糸口を見つける。ワクワクと興奮の毎日。これが仕事なのだから最高である。アメリカやドイツの大御所先生方に、僕が今春から台湾へ異動し、ハワイ大のプロジェクト(Pan-STARRS)に参加していることを報告。皆、僕の栄転を祝福し、皆が注目するプロジェクトでの活躍を期待してくれた。欧州に住んでいた頃から付き合いのある、チェコ、イタリア、フランスの懐かしい面々とも再会できた。自分の発表も無難にまとめた。今回はポスター発表だったので、2分間の口頭発表はあったものの、かなり気が楽であった。印刷したポスターが飛行機で輸送中に紛失し、イサカの街で$100支払って再度印刷し直すハプニングはあったけど。研究の話は、また別の機会にでも紹介したい。今回の学会は、日本人の参加が極端に少なく、ポスドク(博士号取得者)以上の研究者は6名。日本人は、どうも群れる習性があり、国際学会で日本人が大挙して群れている光景はおぞましい。まあ、海外生活が長くなると、国際学会でしか日本人に会えなくなるので、おぞましい集団に加わってしまいがちなのだが、今回は逆に、海外で奮闘する侍・日本人研究者らと意気投合して、イサカの街で飲んだりできて楽しかった。とにかく、国際学会に参加することで、世界の知の最前線を知ることができるだけでなく、論文でしか知らなかった人物と直接知り合え、更に共同研究やプロジェクト参加に発展することもしばしばである。また、国際会議で顔を売っておくと、将来の自分の就職先や短期滞在先まで見つかる可能性も大いにあり得る(僕の場合もNASAのミッション参加や、海外短期滞在などの機会は国際学会でゲットした)。今回の学会は、悔しいことに、全てのセッションでインターネット中継が行われ、世界中誰でも学会発表を見られるサービスが提供された。しかし、高い参加費と旅費・滞在費を支払ってでも、現地に直接行く価値は非常に高いのである。とにかく、エキサイティングな学会に参加することによって、自分の研究へのモチベーションが一層高まるのは間違いない。(天文)学者がエネルギーを充填する場所が、学会な訳である。

DPS 学会の講演会場。3つのセッションがパラレルで行われている。

ポスター発表風景 ポスター発表の様子。小惑星を模擬したフルーツを片手に熱弁を振るうハワイ大同僚のペドロ。

学会のもう一つのお楽しみは、晩餐会(バンケット)やツアーである。今回の晩餐会は、イサカ郊外の博物館で行われ、恐竜や化石に囲まれながら、立食パーティーとダンスコンサートという趣向を凝らした内容で楽しめた。こういう時に、社交ダンスやピアノができると非常に格好良いのだが、泥酔しないと踊れない僕は、指をくわえて見ているだけだった。最終日のツアーの方はキャンセルした。というのも、旧知のよしみである、学会実行委員会(LOC)のメンバーの女性が、僕と学生をピクニックに連れて行ってくれたからだ。ニューヨーク州イサカは、山や渓谷などの素晴らしい自然に囲まれた長閑な田舎町だ。ニューヨークの雑踏から逃れて、ここに住み着いたという大学生協のおばちゃんが、滔々とイサカの良さを語ってくれた。

博物館晩餐会 博物館での学会の晩餐会とダンスコンサートが行われた。

イサカ郊外イサカ郊外をピクニック。イサカは渓谷に恵まれた坂の多い街だった。

さて、マンハッタンの摩天楼が間近に迫ってきた。ニューヨークの街を存分に楽しむとするかな。僕の旅はまだまだ続く。。。

2008/09/26

こんにちは! Dobry den! 你好! Aloha!

このたび「Junk Stage」須藤優代表のお目に留り綴らせて頂くことになりました、宇宙人・Earthkindの阿部新助(あべ しんすけ)と申します。

さて、いま僕は、直径が1万2千800km、円周約4万kmの地球(テラ)という惑星にいる。この地球は、直径140万kmの太陽という恒星から1億5千万km離れたところを、時速10万kmで回っていて、1年(365.25日)で太陽の回りを一周している。同じように太陽を回る8つの惑星(水金地火木土天海)で構成される太陽系は、直径が10万光年(光の速さで10万年)の銀河系の中心から約3万光年のところを、時速80万kmで回っていて、約2億年で一周している。宇宙は137億歳、銀河系は136億歳、そして太陽や地球は46億年前に誕生した。およそ400万年の歴史しか持たないホモサピエンスは、時間的にも空間的にも、宇宙には全くかなわない、本当にちっぽけな存在である。宇宙の誕生から今日までを1年間のカレンダーにすると、ホモサピエンスが誕生したのは、ちょうど紅白歌合戦が始まった、大晦日も終盤の頃なのである。

そんなちっぽけな宇宙の赤子であるホモサピエンスの中に、自分たちを遥かに超越した宇宙の生い立ちを探ろうとする人種がいる。そんな探求の世界で職を得て暮らしている人種を「天文学者(astronomer)」と呼ぶ。昔は、人々の生活を支える暦を作ることや、星占いも天文学者の仕事だったが、暦を作る公の機関はもはや存在しないし(日本の国立天文台は、サービスで暦を提供している)、そもそも星占いは疑似科学であって、現代の天文学とは切り離されている(個人的には、ネットや雑誌で見かける星占いがついつい気になって、一喜一憂しているけれど)。

さて、僕は天文学者(astronomer)である。どうして、どうやって天文学者になったのかという話は、またの機会に紹介するとして、僕はどうにか天文学で博士号(Doctor)を取り、宇宙を舞台にした仕事で飯を食っている。日本の宇宙機関(ISAS/JAXA)、チェコの天文台、神戸大学・地球惑星科学専攻などで期限付きの常勤・非常勤職を2年毎に転々とし(その間、NASA/SETIのミッションなどにも参加しながら)、2008年春に台湾・國立中央大學・天文学研究所の教員として赴任した。教員といっても、現地語(台湾は繁体中国語と台湾語が共通語)はまだ話せないので、大学院生に英語での指導は行うが、当分は授業を持たない研究・教授職(Assistant Research Professor)である。

NASA/USAF at Edwards Air Force Base

[1999-2002 NASA国際航空機しし座流星群観測ミッション発射@エドワーズ空軍基地にて]

人口1000人のチェコ・プラハ郊外で過ごした2年間の後(この村ではチェコ語しか通じなかった)、150万都市の神戸・六甲山麓で2年間暮らした。余りにも便利でモノに溢れる日本。日々の生活に溢れる無駄を痛切に感じた。日本帰国中は、JAXA宇宙科学研究本部(ISAS)主導の小惑星探査機「はやぶさ」の臨場感溢れる特等席に座る幸運に恵まれ、地球から3億km彼方に浮かぶ「小惑星イトカワ」を通じて、数々の貴重な成果と経験を得る事ができた。

Hayabusa mission

 [世界初の小惑星サンプルリターンミッション・HAYABUSA, ISAS/JAXA]

「二番煎じではなく、いつも最前線でパイオニアとして宇宙と向き合いたい」という思念と共に、2008年3月3日ひな祭りの日に、僕は再び日本を飛び出していた。台北から40km、鉄道とバスで1時間余りの桃園縣中歴市に國立中央大學はある。中国語はまだ少ししか分からないが、親日台湾の田舎町で、日々激安で美味い飯を食って元気に頑張(戦)っている。スノッブな神戸も良かったが、整然とした都会より、生活感溢れる田舎町の方が生きている感じがして楽しい。生活の刺激以上に、ここはサイエンスの刺激にも溢れている。5年500億元(1700億円)プログラムに採択されている國立中央大學で、天文・物理分野は中核を担っており、海外からの研究者も頻繁に訪れる。

Lulin observatory, NCU, Taiwan

[台湾・鹿林天文台で観た天ノ川(ミルキーウェイー)]

こんにちは! Dobry den! 你好! Aloha!」、これらは、僕がこれまで住んできた(住んでいる)場所での一般的な挨拶である。日本語、チェコ語、中国語、ハワイ語。Aloha!?、そう僕は今、ハワイ・ワイキキの常夏の青空の下でこの文章をしたためている。ハワイ大学・天文研究所(IfA; Institute for Astronomy, University of Hawaii)は、ハワイ島マウナケア山頂(標高4200m)やマウイ島ハレアカラ山頂(標高3300m)に世界最大の望遠鏡群を有し、様々な宇宙プロジェクトが進行し、世界の頭脳が集う天文学のメッカとして知られる。そして今、世界中の天文学者が注目しているのが、「Pan-STARRS(パンスターズ)」という全宇宙サーベイ・プロジェクトである。このプロジェクトは、国際共同プロジェクトであり、台湾・國立中央大學は、米・英・独・台の4ヶ国からなるコンソーシア(consortium)メンバーに参画している。残念ながら日本はこのプロジェクトに参加していない。僕が台湾を選んだ大きな理由の一つでもある。台湾へ来てまだ半年だが、既にその1/3をハワイで過ごしている。そして、時々古巣のチェコ&欧州を訪れて、天文学と音楽や芸術を楽しんだりしている。

さて、改まって簡単に自己紹介をしましたが、今後は、世界の空を追い続け旅する天文学者の、宇宙と地球を行き来する日常(読者にとっては非日常?)を紹介する予定です。宇宙の話やマニアな話も出てきますが、回顧録を含め、多方面の四方山話が飛び出すと思います。

ほな、よろしく!  Mahalo!

Pan-STARRS
[来春始動の全天高速サーベイ・ミッション「Pan-STARRS(PS1) パンスターズ」]