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2012/09/19

8月末から9月初めに2週間近く北京に滞在した。中国で初めて開催された「国際天文学連合(IAU)総会」に参加するためである。会場は、オリンピック公園の横にある「China National Convention Center (CNCC 国家会议中心) 」であった。小生は、故楼大街という下町にある中華式の安宿に宿泊し、毎日地下鉄を3回も乗り換えて、50分近く掛けて会場に通った。Google Mapに騙されて、オリンピック会場への直通地下鉄が開通していなかったからだが、かえって庶民の暮らしを毎日観察することができた。

前回北京に来た2006年と比べると、街も人も物価も大きく変わったと感じた。地下鉄やビル群などのインフラが大きく整備された他に、地下鉄やバスに乗車する「人々の整然とした列」ができていたのには驚いた。車両が満員に近づくと乗車を止めて次の地下鉄を待ち、地下鉄の中で下車する際には前の人に必ず「下車嗎?」と聞く。オリンピックを間近に控えた2006年の北京は、街の至る所が工事中であり、交差点の交通ルールは無きに等しく、バス停や駅で人々は、我先にと列に割り込んでくる戦争状態だった。オリンピックを経て、人々も社会的に教育されたのだろう。物価も台北で過ごす感覚とほぼ同じで、6年前の数倍の物価になったのではないだろうか。車内で多くの若者がスマホに没頭する光景は、日本や台湾と変わらない。天気は滞在中ほぼ晴れていたが、濃霧かと疑う「スモッグ」が何日も続いた。これは有毒スモッグで、特に降雨には絶対あたらないようにと注意された。学会からの配布物に、立派な折りたたみ傘が入っていたのもうなずける。

滞在中も日本大使館前のデモは行われていたが、街中やレストランで日本人だと分かっても、不快な目に会うことは一度も無く、むしろ地元の中国人らは親切だった。北京天文館プラネタリウムでは、小生は招待講師として「探査機はやぶさ(日本大空舟隼号)」の一般講演を行い(台湾中国語と英語を北京語に逐次通訳)、50名程の北京の聴衆からは歓迎され、天文館館長からは「いつでも北京に来たときは大歓迎で、無料でプラネタリウムにも招待するよ」と握手。(賄賂ではない)お土産もたくさん頂いた。

一方、TVでは終日、反日番組や映画・ドラマが放映されていた。こんな刷り込み番組を子供の時から見ていたら、日本人を嫌いになるのは当然だろう。中国滞在中は、北京在住の日本人の友人Nとも久々に再会し、いろいろと案内して頂いた。彼は小生の所属する台湾國立中央大學から北京大学へ2年前に異動した地球電磁気学専門のポスドク研究者だ。上海で同じくポスドクをしている天文学の後輩Hと同様、現地の安月給で中国人らに混じって粛々と成果を出し続けている「侍・日本人」である。友人Nとは、連絡を取り続けているが、彼のいる北京市内の北西地区では、相変わらず日本人への差別も無く、現地の知識人らはデモを冷やかに見ているようだ。

今回の反日デモは派閥争いが背景にあり、「反日」は利用されているということを、見抜いている中国人も多いのだろう。被害状況だけをクローズアップして「中国人悪」のイメージを植え付けるだけの報道を行う日本のマスコミも、中国での「日本鬼子(日本人悪魔)」の報道と同レベルであり、対立を煽るだけである。水面下にある真相こそ報道すべきだ。デモは、ネットやツイッター(微博)で呼び掛けられて集まったのではなく、バスがチャーターされ、Tシャツや横断幕が配られた組織的な「やらせデモ」なのである。北京・日本大使館前で行われているデモも、日雇いでやらせているという話を、北京在住の複数筋からも聞いた。ちなみに、北京からはTwitter、Facebook、Youtubeなどには接続できない(接続できる時もある)。Google検索も挙動が変で、リンク先が操作されており、天安門事件などで検索を掛けると警告がでた。困ったのは、仕事の調べものでNASA/JPLサイトに繋ぐ必要があったが接続できなかった(これはNASAが接続を制限しているのだろう。結局、VNC台湾経由で対応)。

デモが暴徒化した場所(山東省(青島など)、湖南省、広東省など)は、共産党主義青年団(団派)が牛耳っている。破壊活動は、デモとは関係ない場所で発生しており、放火などの手際が良いことからプロの仕業と言われている。私服警官や私服軍人が暴徒の中心メンバーとして活躍している姿が、複数目撃されている。これらの暴徒化したデモは、団派(胡錦濤・李克強 一派)が上海派(次期総書記・習近平 一派)を揺さぶっている可能性として指摘されている。

日本人暴行事件も報じられていたが、これは公安の仕業である。ラーメンを頭から掛けるなど、わざとらしい事件を起こしている。もちろん、そういう場所に日本人が近づくと危ない。

特筆すべきは、暴徒化しているのは若者が多いということ。「蟻族(アリ族)」や「鼹鼠族(モグラ族)」と呼ばれる大学卒業後も仕事が無い暇な人種や、地方から都市に出稼ぎに出たが仕事がなくなった人種などが、反日デモを「野次馬的」に暴走させている。日本への批判が本音ではなく、共産党への不満が鬱散していると見るべきである。これは、中国で最も不景気である深圳のデモでは、日本の商社ではなく中国人民政府の庁舎が襲われていることに、その真意が伺える。

こういう輩は、政府から絶対悪として標的にすることを許された「日本」へ対するデモを理由に、日頃の鬱憤を晴らすが如く「犯罪行為」を行っている。また、団派がそれを煽動している。人民を尊重した毛沢東の写真を掲げているのは、もはや反日ではなく、政府批判を意味している。

これらの事象は全て「やらせデモ」の想定外の「暴動」だったはずである。今後、反日デモが繰り返されていけば、数年の間にその矛先は共産党へ向けられるだろう。

そもそも中国は多方面で国際紛争を抱えている。

  • 南シナ海では、フィリピン、ベトナムと開戦準備を進めている。
  • 対台湾へのミサイル配備は約2000基だが、台湾とは平衡状態。←今こそ、日本は台湾へ歩み寄る絶好のタイミング
  •  韓国ともめている水面下の島「蘇岩礁(離於島)」は、韓国が今年、軍事基地を作ってしまったら中国は最近になって黙ってしまった。

日本は、今の(反日デモ容認の姿勢を示した胡錦濤政権)中国に対してまともに対応する必要は無い。尖閣諸島には自衛隊を駐屯させれば良い。そうすれば、韓国が実行支配した離於島と同じく大人しくなるだろう。もちろん、軍事的冒険に出る可能性もあるが、そうしないと近いうちに尖閣諸島は中国に実行支配されてしまう。国有化してしまったので、これまで通りの「棚上げ(何もしない)」支配では、尖閣を守れなくなってしまったのだから、これは国の責任だ。日本が尖閣諸島を自力で防衛する姿勢を示さない限り、無人島ごときに米軍が日米安保条約を発動する訳がない。

さて、IAU国際会議中の小生の名札は、「China Taipei」という所属に勝手に書き換えられていた。学術分野でさえ「Taiwan」の名前を認めないのである。もちろん、小生は口頭講演の中では、どうどうと「Taiwan」の名前を使った。小生は、親しくしている素晴らしい中国人研究者らもいるし、彼らとは共同プロジェクトでいっしょに仕事もしている。少なくとも科学者としては、政治的な紛争を越えた付き合いを今後も続けていきたいと思っている。

対中融和路線をとる台湾・国民党が2008年に政権を取って以降、中国共産党は「中華民族」を合い言葉に、台湾との様々な融和政策を進めている。尖閣諸島は「台湾省」の一部だとして、中国は台湾の「釣魚島」運動を支持している。「台湾統一工作」として中国に利用されているということも、台湾国民に広く知らしめるべきだろう。一方、この状況の中、日本への歩み寄りの姿勢を見せる台湾・馬英九総統に、日本政府は真摯に対応し日台友好を加速させるべきだ。政治・経済、文化、科学技術などの幅広い分野での台湾との国際交流が、今後を左右する「鍵=突破口」になる可能性を秘めていると個人的には考えている。

 

日本統治時代の歴史的建築物や日本人が残した文化の多くを、今日でも大切に保護している台湾は、近代史を学ぶのには最高の場所である。全ての修学旅行先も、中韓から中華民国・台湾へ!

 

以下、北京在住の日本人N氏のコメントを、N氏の許可を得て転載します。日系企業に雇われているのではなく、中国の大学研究機関に雇われている「日本人研究者」という特殊な立場からのコメントですので、日系企業で働く駐在員日本人とは異なる視点を有するかもしれません。むしろ、中国国民の目線に近い意見だと思います。


やはり柳条湖事件81周年の日は反日デモの規模がすごかったようですね。

しかしながら、北京大学の周辺は依然として”平然”としていました。僕自身もすっかり忘れていたくらいです。19日以降になってデモは小康状態になっているようですが日本大使館からは”用事がある時以外近づくな”とのメールが頻繁に来ています。

テレビを見て思ったのはデモに参加している人は貧困層の人々や定職に付けていないフリーターやニートっぽい人が多いということです。所謂、共産党政府の政策・政治に批判的な人々のようです。(いわずもがな、中国では公然と政府を批判すれば”国家転覆罪”で刑務所行きなので矛先を日本にしているというところでしょうか。)

また北京に住んでいて思うのは”日本を批判する暇があったら1元でも多く稼ぐために一生懸命働く”人々が大勢いるということです。”デモに参加する暇があったら働く!”という無言のオーラが街を歩いていてとても強く感じるということです。レストラン等の服務員が僕の中国語が変だと感じて”何人?”と聞いて”日本人”と僕が答えても過剰な反応は全くありません。

先週の日曜日に秀水街付近に用事があって行きましたが、あのあたりでさえデモの影響は全く有りませんでした。みなさんあくせく働いていました。北京の人もそんなに暇では有りませんし、日本の報道が”日本批判の嵐=中国全土・全国民がそう考えている”という構図を作り出しているように感じました。もちろん被害に有った日本人もいたようですが、それが全てではないということですね。

 

IAU・国際天文学連合会場、北京国家会議場。とにかくデカイ!

2008年北京五輪のメイン競技場だった北京国家体育場、通称「鳥の巣」

滞在した古風な中華式の宿。スタッフも皆親切だった。


会議のオープニングと総会の決議の様子。

会議の横断幕を掲げる小生の共同研究者ら(フィンランド人と中華/台湾系アメリカ人)。我々3人で3枚の(捨てられていた)ビニール横断幕を頂戴して持ち帰った。次回のIAUは、2015年にハワイ・ホノルルで開催されるので、持ち寄ってピクニック(potluck)のシートにする予定。


北京天文館。地元の高校教師や天文ファンを相手に講演を行った。

北京古観象台。1442年、明の時代に建設された世界で最も古い天文台の一つは、今では北京の高層ビル群に囲まれていた。


天下の北京大学の赤門。前を行く友人Nが通行証を見せて、小生はツレだと言って入校。


この夏から中国月探査プログラムが北京ビールの公式スポンサーになった。月面着陸の際は、きっと月面で北京ビールで祝杯をあげるのだろう。


万里の長城(八達稜)と天壇公園。中国の昔の人々はすごかったのだ。


天安門とセキュリティー・カメラの数々。街中のカメラの数もオリンピック前に比べれば圧倒的に増えた。

北京のタクシーは本当に捕まらない。道が分からないという言い訳?の乗車拒否もあり、昼間に5台捕まえてやっと乗れたりした。この日は、終電を逃してしまい、友人とタクシーを探したが捕まらず、仕方なく三輪タクシーに乗車。値段交渉したが、二人で20元(250円)とややぼられて乗車。シートベルトもないオンボロ三輪タクシー後部の箱の中で、幹線道路にこぼれ落ちそうに激しく揺られているときは、かなり怖かった。

 

追記、

今回は、中国語での会話がなんとかできるレベルだったが、北京語と台湾國語は発音がかなり違い、会話が成り立たなくなることもしばしば。なぜか、日に何度も通りすがりの民に道を聞かれたりもした。何処から来たのかと聞かれたときは「台湾からだ」と答え、台湾に住んでいる日本人じゃないのかと新秀水市場でしつこく聞かれた場面では(値引き交渉中だったので日本人とばれると不利)、「地球人だ」と答えて笑われその場を凌いだ。

 

一応ちゃんと仕事(学会招待講演、学会口頭発表、北京プラネでの招待講演、ビジネス会議など)の方も無事にこなした。

C-22(流星, 隕石, 惑星間空間塵)のプレジデントは、国立天文台・渡部潤一教授からSETI/NASA・P. ジェニスキンズ氏へ、C-20(太陽系小天体,彗星,衛星の位置と運動)のプレジデントは、JAXA/宇宙科学研究所・吉川真教授からNASA/JPLのS. R. チェスリー氏へ引き継がれた。渡部氏、吉川氏の推薦により、2012-2015 期のC-20、C-22のOrganizing Committeeには、小生が選出・承認された。また、C-22の流星群・命名委員会では、新しく観測されて申請された流星群を全て吟味して、承認できる流星群名を我々で決定した(こちらの仕事は、小生は殆ど貢献していないので(実質2名+αで決定されている)、これを期に(一時?)退任させて頂いた)。近年、レーダー観測で昼間流星群が多数発見されたり、自動TV観測による新しい流星群の発見が多数報告されている。流星群と認められるには、基本的に (1) TV観測などで顕著で明白な流星群活動が捉えられること(流星数の制限は無い)。一度だけ、単独観測でも認定する(長周期彗星起源の1回帰ダスト・トレールの場合は1度だけの出現となる可能性があること。また、流星群の突発が、ある時間帯だけに集中する可能性があるから)、 (2) 電波観測の場合は、単独ではなく複数点の観測によるチェックが必要(或は単独&複数年も可? このあたりは P.ブラウン論文の例を参照)。最近、ロシア語で数千個の新流星群を含む電波流星群カタログが密かに出版されている。レフリー付きで内容もかなり信憑性があるが、英語で表記されていないこともあり、新たな論争を生むので暫くは見てみぬふりかも。

2006年 IAUプラハ(チェコ共和国)では、冥王星が惑星から降格し「準惑星」枠ができるという、侃々諤々のエキサイティングな総会であったが、2012年IAU北京の総会決議では、議論も異論もなく(議長が議論をしないでスルーした!)決議が行われてしまい、個人的には大変物足りなかった。太陽系に関する3つの新しい決定決議;

  • 従来のDivision は廃止され、「Division III」は、「Division F “Planetary Systems & Bioastronomy”」に統合。
  •  「International NEO (Near-Earth Objects) early warning systemの構築」。地球に衝突する可能性のある小惑星(PHOs)の早期発見と国際社会へのアナウンスを円滑に行うシステムを構築。NEOのビジネス・セッションで議論したが、NASA/JPLのチェスリーを中心に、我々で詳細をまとめてIAUへ報告文を提出することになった。このあたりは、アメリカ(NASA)とイタリア(Neodys)が主導することになるでしょう。
  • 1天文単位 = 149597870700mとする(従来の±3mの誤差は切り捨て)。すべての時刻系(TCB,TDB,TCG,TT)において適用。天文単位の記号は「AU」から「au」に統一(紛らわしい?)。

 

2012-2015期のIAUプレジデントには、国立天文台元台長・海部宣男名誉教授が選出された。次回IAUは2015年8/3-14にハワイ(ホノルル)で開催される。セッションに出るより、宇宙生命の起源を求めてビーチで過ごす時間の方が長くなりそうな予感….

 

02:23 | , 日本復興 | 反日デモの真相 ~ IAU国際天文学連合・北京総会にて はコメントを受け付けていません
2012/03/13

東日本大震災から一年が経ちました.亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに,被災地が復興へ邁進し,被災された方々に本当の笑顔が戻る事を心より願います.

2012年1月27日,旧正月休みで台湾から帰国した小生は,池袋発の夜行バス「釜石気仙ライナー」に一人乗車した.仙台の阿部一族の元へ帰省する前に,津波被災地をこの目で確かめてみたかったからだ.ただ被災地を訪れるだけの物見遊山にはなりたくなかったので,ボランティア活動に参加することにした.もう一つ,台湾は震災後に200億円を越える世界中で最多の義捐金を集め,震災発生直後から支援物資の支給や現地での支援活動も行っている.東京都(人口1318万人)が約9億円の義援金を集めたのに対し,人口2315万人,平均月収10万円足らずの「国交の無い」台湾からこれだけの支援があったのだ.小生の台湾人・老婆もワールドビジョンで活動を行っており,日々仕事(研究)にばかり没頭している小生も,現地で何か役に立ちたいという気持ちがあった.午後11時発の夜行バスは満員だった.それぞれの人生を乗せたバスは,都会の喧騒から一路北へ向った.この冬一番の寒さだった.

 

午前5時過ぎ,白み始めた車窓のカーテンを引くと,荒野と化した海岸線をバスは進んでいた.凍結した窓からぼんやりと臨む景色は,まったく言葉を失う別世界だった.午前6時に岩手県・陸前高田市役所仮庁舎で下車.津波被害によって市庁舎を含む市の7割以上が被害を受けた陸前高田では,海岸から3kmほど離れた丘の上に昨年5月,仮庁舎が設置された.バスを降りた若い女性グループがいた.彼女らは定期的に陸前高田を訪れているボランティアとのこと.地元の車がお迎えに来ていた.ボランティアセンタを通さずに,個人で活動しているこういう素晴らしい方々も多くいるのだろう.また,車中で小生の隣席にいた東京在住の男性は,津波被災地の見学の為に来たとのことで,海岸目指して丘を下って行った.小生は仮庁舎から更に内陸へ7km離れた陸前高田市災害ボランティアセンタへ向けて,仙台帰省のための荷物を背負い歩みを進めた.温度計は氷点下10℃,まつげも吐息の水蒸気で凍った.気仙川に沿って上流へ向ったが,かなり上流の橋桁なども落ちていて驚いた.ボランティアセンタ付近でも遺体が見つかったと現地の方から聞いた.内陸部にはコンビニや商店なども営業しており,復興作業員らしい人々が大勢いた.午前8時半の受付開始の1時間前には陸前高田ボランティアセンタに到着.眠れなかった夜行バスの疲れも重なり,これからボランティア活動だというのに既に体力を消耗していたが,陸前高田市災害ボランティアセンタ(以下,ボラセン)の熱気で一気にやる気が出てきた.ゴム手袋,軍手,防塵マスク,作業着,安全靴(金属製中敷き長靴),防塵ゴーグル・目薬,帽子,タオル,食料・飲料水,保険証(小生は日本の保険証はない.被災地ボランティア保険に予め加盟),常備薬・救急セット,着替え,雨具などを用意してきたが,ボラセンには,ゴム手袋,軍手,防塵マスク,栄養剤,ホカロンなどが用意されていた.被災地ボランティア保険の加入受付まであった.

 

厳寒の空の下,ボラセンには280名のボランティアが朝会に集まった.そのほとんどが,自治体や企業などで組織されたボランティア軍団で,遠路からのボランティア・バスツアーも複数到着.個人でのボランティア参加は,小生も含めて10名ほどだった.朝会では,新規参加の個人ボランティアの挨拶の時間があったので,「台湾から来たアベです…」と自己紹介した.どうも台湾人だと思われたらしく「日本語うまいですね」と色々な方に話しかけられ,お陰でその日は色々と親切にして頂けた.謝謝台湾.さて,ボラセンでは主に以下の作業項目があり,個人ボランティアは自分の希望で作業内容を選べるシステムであった.

(1) 漁業再開に向けた「カキ養殖イカダ作り」のお手伝い
(2) 津波で流された思い出の品の分別、洗浄のお手伝い
(3) 花畑作りのお手伝い(固くなった土の掘り起しや苗植えなど)
(4) ガレキ撤去
(5) 側溝の泥だし

小生は(2)を選択.熟練ボランティア松浦氏,韓国人ボランティア,東京から車で来た漫画家三人組とチームを組まされた.徒歩で来たので足がないので,松浦氏の車に同乗させて頂いた.韓国から個人ボランティアとして参加しているパクさんも同乗.途中,コンビニで昼食の買い出しをしてから市街地へ下り,初めて津波被害の光景を目の当たりにした.数ヶ月間ボランティア活動を継続している松浦氏の説明を聞きながら市街地を抜け,広田湾を回って広田半島の山の上にある陸前高田オートキャンプ場「モビリア」へ登った.ここは,陸前高田市内の中で残った数少ない施設の一つで,被災直後より避難所として利用されており,現在は仮設住宅地となりキャンプ場としては利用できない.広田湾の「ヒロタ」は,アイヌ語で「美しい砂浜」の意味がある.

 

現地に到着すると,既に先着隊が屋外で作業を開始していた.我々はまず簡単な力仕事を行い,「津波で流された年賀状アルバムの洗浄」作業を開始.泥まみれの年賀状,まだ湿っている年賀状などを一つ一つ丁寧に奇麗にしていく.氷点下の寒空の下での地道な作業.皆殆ど無口に作業を続ける.ついつい年賀状に書かれた文章を読んでしまう.受け取り主がちゃんとこのメッセージを受け取って欲しいと願いながら,丹念に清掃していく.現場の雰囲気をジョークを飛ばしながら和やかにしてくれた隣のおじさんも,年賀状の文章を読みながら時おり感想を漏らしていた.昼食を挟み午後2時過ぎ頃までこの地道な作業に専念した.日が傾くと道路は凍結するので,午後3時までにボラセンに戻るように指示されていた.

 

 

帰路は,漫画家さんらの車に乗車して,陸前高田の海岸の端から端まで走った.瓦礫の多くは撤去され固められていたが,津波で残骸と化した建造物は,まだあちらこちらに残る.その先には,エメラルドグリーンに輝く,恐ろしいほど美しい海が広がっていた.震災後に復活した漁では,漁獲量も魚の大きさも増している.通常は3年はかかる養殖牡蠣も,半年で成長してしまったそうだ.これは,津波で海底がかき混ぜられて,海中の養分が豊富になったからだと考えられている.津波後の海底が美しく生まれ変わっていることは,海底探査からも明らかになった.人々の作った街を破壊した巨大津波は,人々が汚してきた海を蘇らせ,東北の海は豊かになっていたのである.「一本松」も健在だった.長さ2kmに及ぶ遠浅の砂浜に生育する7万本のクロマツとアカマツの砂潮林である「高田松原」は,200年以上前に植えられた.この白砂青松は日本を代表する景勝の一つでもあったが,全て津波で流された,ただこの松一本を残して.

 

ボラセンに戻り,陸前高田市役所仮庁舎まで彼らの車で送って頂けた.バス停では,今朝方浜辺へ向った男性と再会した.多分,彼が見てきた津波被災地と,小生が体験して見てきた津波被災地は異なるだろうなと思った.街は津波で破壊され,その悲惨さだけが光景に映される.これは,テレビのニュース映像で散々見てきた.実際には,壊されたモノや生活を再び取り戻そうと必死に前へ進もうとする陸前高田の人々がそこにいる.ボランティア活動を通して,現地の人々と触れ合い感じた.被災地復興とはいうが,現地の人々は政府の復興対策の遅れに不満を持っている言葉も聞いた.ボランティアは自己満足で終わるのではなく,継続し更にその輪を大きく広げていかなくてはならない.震災から一年が経ち,非被災者達は日々の生活に追われ,被災者達のことを忘れてきているのではないだろうか.

 

 

午後3時56分に仙台へ向うバスに乗り込み海岸線を進むと,津波で破壊された小さな漁村や,いまだに大型船が打ち上げられている気仙沼の町中も通過した.仙台滞在中には,荒浜から仙台港までを一通り訪れた.福島県いわき市の沿岸も訪れた.同じ光景は,数百kmに及ぶ太平洋沿岸各地で見られるのだ.原発問題も含め,2万人近い死者,行方不明者を出した未曾有の災害に見舞われた(見舞われている)日本を復興するためには,日本国民全員が現在進行形で支援を続けていかなくてはならない.

「復興ボランティア=土方作業」と単純に想像していた小生にとって,年賀状の洗浄作業は最初はちょっと気抜けした.しかし,目に見える形だけの復興ならばお金を掛ければできる訳で,「想い出の復興」は現場で手を動かす我々ボランティアにしかできないことだと気付いた.被災地にはそういう義援金だけでは手の届かないニーズがいくらでもあるのだ.支援の形は他にもいろいろとあると思う.被災者以外の人々が支援し耐えなければ,国家の災難を乗り越えた日本復興,日本の将来は無いだろう.

 

台湾に戻った後,小惑星命名のチャンスを頂き「陸前高田」の名を国際天文学連合(IAU)へ申請した.うまく行けば,5月頃には小惑星「Rikuzentakata」が誕生するかもしれない.その時には改めて報告します.

 

Rikuzentakata is a city in Iwate, Japan, which was one of the most affected city by powerful tsunami waves triggered by the 2011 earthquake off the Pacific coast of Tohoku. A part of the shoreline Takata-Matsubara having seventy thousand pine trees which was selected a one of the 100 Landscapes of Japan was also damaged completely except a single pine tree. We would encourage the speedy reconstruction of Rikuzentakata and a place of scenic beauty.

 

震災から一年が経ち,台灣では以下のCMがTVで放映されている.世界中でこんなCMが放送される国は,台湾以外にはないだろう.台湾人が日本人をこんなに心配し支援してくれたことを決して忘れずに,世界で一番の親日国家・隣国「台湾」のことを日本国はもっと考えて頂きたい.

 

台灣!謝謝你! 東日本大震災滿1年

03:08 | 台湾, 日本復興 | 震災から一年 〜陸前高田・被災地ボランティアを通して はコメントを受け付けていません
2011/04/07

東日本大震災で被災された皆様、関係者に心よりお見舞い申し上げます。そして、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

今回の地震は、様々な形で我々日本人に大きな試練とチャンスを与えたと思います。

(1)津波から学ぶ

多くの命を奪った津波被害は、想定を越えていたと聞きますが、過去に同レベルあるいはそれ以上の津波が押し寄せていた記録が残っています。

津波の伝播速度は、重力加速度(g=9.8[m/s])に水深(d[m])を掛けたものの平方根 (sqr(gd))で表せ、大陸棚斜面から急激に海溝へ落ち込む崖っぷちに位置する日本列島の場合、水深はほぼ一定の4000 mとなるので、津波はおよそ秒速200m(時速約700km)もの速さで進むことになります。東北沿岸から震源までの距離は200kmかそれ以下だったので、津波の第一波は20分足らずで到達したはずです。こんな短時間では、少しでも判断に迷っていたら逃げる余裕はなかったでしょう。

また、津波は、湾や地形によって更に高くなり陸地を駆け上がり、その到達高度(標高)は、実際の津波の高さより高くなる場合が多いようです。明治三陸沖地震津波では、38.2mの峠を津波が乗り越えた記録が残っています。岩手県宮古市姉吉地区は、被害の大きかった宮古市にありながら「此処ここより下に家を建てるな」という、海抜60mにある先人の石碑の警告を守り被害は皆無でした。「津波てんでんこ」(自分の責任で(家族などに構わず)早く高台に逃げろ)の言い伝えを防災標語にしていた釜石市の小中学生の殆ども助かっています。

先人達は、浸水や土石流などの被害を地名として残しています。渋谷や四谷などの「谷」のつく地名も、洪水被害を受けているからです。アイヌ語やこうした先人達が残した「災害地名」は、今日においても尊重すべき警告であり、合併などで勝手に地名を変え、かつての貴重な記憶を失うのは愚かな行為です。

また、西暦869年に今回と同じような震源で発生したM8.3クラス以上の貞観(じょうがん)地震に伴う津波が、仙台平野を遡上した痕跡が残っており、掘削結果と津波の計算シミュレーションの調査・研究成果は、産業技術総合研究所から報告されていました。このレポートにより、宮城県から福島県にかけて、海岸線から3〜4kmも内陸まで浸水していたこと、また、地面を掘削した浮遊物の地層の間隔から、過去450〜800年程度の再来間隔で同規模の津波が起きたことまで解明されていたのです。果たしてどれだけの人々がこの事実を知って、そこに暮らしていたのでしょうか。

 

この事実を踏まえ、2009年の経済産業省の審議会において「福島原発の安全性」への指摘があったのですが、東電は科学的根拠に基づく歴史的事実(大津波)への対策を先送りし、「想定外の津波」と白を切った釈明をするに至っています。先人の言い伝えを守った人々と、科学的事実を無視した東電。。。

(続く)

12:57 | 日本復興, 自然科学 | 震災から学ぶ-1 はコメントを受け付けていません